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13話 ハマナス

 梅雨が明け、本格的に夏がやってきた。授業中は引き戸が閉められ、風通しの悪くなった教室にはサウナのような高湿度の空気が充満している。窓を開けても入ってくるのは温風で、ただ熱い空気が入れ替わるだけだった。

 夏休みを目前にしてやってくるのは期末テスト。三年生にとってとても大事なテストになる。金曜日の六時間目。今日のこの時間は自習ということになった。一人で集中して勉強する生徒、得意科目を教え合う生徒。思い思いに勉強する中、明日香たちはいつも通り、机をくっつけて集まっている。

 進学組の明日香と満里奈は特に熱心に勉強している。希美は教科書とノートを開いてはいるが隅のほうに落書きして遊んでいる。流奈にいたっては教科書を開くこともせずにぼうっと希美の落書きが完成していく様子を見ていた。

「ぜんっぜんわかんない!」

 満里奈がぼふっと音がしそうな勢いで開いた教科書に顔を突っ込む。ポニーテールが重力に負けてうなじを無防備にさらす。程よく焼けたその肌にはじっとりと汗が光っている。

「いくらスポーツ推薦狙いでもあんまり成績悪いのはダメでしょ。がんばれー」

 希美がにやにやしながら満里奈に声援を送る。ノートの端には頭を抱えて目を回し、ぷすぷすと音を出すキャラクターが描かれている。その顔は満里奈によく似ている。

「それにしても、進学認めてもらえてよかったねえ」
「説得するの大変だったんだよ! パパもママも約束が違う! って怒りだしちゃって。でもお兄ちゃんが味方になってくれてさ、なんとか認めてもらえたよ」

 明日香の言葉にバッと顔を上げて勢いよく話す満里奈。その顔はだんだん兄への親愛と感謝でいっぱいの表情に変わっていく。

 決勝戦敗退後、帰宅した満里奈は両親と兄を集めて家族会議を開いたらしい。そこで自分にはやっぱり陸上しかないことを伝え体育大進学を認めてくれるようにお願いした。両親の強い反対とは裏腹に兄、俊介が味方に付いてくれた。

「満里奈がどうしてもやりたいならいいんじゃないのかな」

 その言葉に、長男に対して少し甘いところのある両親は半ば押し切られる形で納得した。今はテスト期間のためすべての部活が活動禁止だが、大会後も練習に参加していた。部長の席は後輩に引き継いだものの、スポーツ推薦狙いのため引退はまだしていない。

「ていうか就職組だって成績悪かったらダメじゃん! そんな遊んでていいの?」
「テスト前に焦らないといけないほど普段から勉強してないわけじゃないからねー。上位は無理だけど問題ないくらいは取れるよ。ねえ流奈?」

 相変わらずぼうっとしている流奈は希美の呼びかけに一瞬反応が遅れてうんと返事をした。この暑さの中1人だけ冬服を着ている流奈。さすがに暑いのだろう。

 少しでも涼しくなるようにと長い黒髪を後ろでまとめている。おでこの生え際やうなじには満里奈と同じように汗が浮かんでいる。ただ満里奈とは違い、汗の浮かぶ肌は青い血管が透けて見えるほど白い。

「流奈は頭いいじゃん! るなぁー、自分の勉強しないならここ教えて!」

 満里奈が数学の教科書を手に向かい側にいる流奈に泣きつく。流奈だけが頼りだとでも言わんばかりの勢いだ。

「え、いいけど、わたし人に教えたことないからうまく教えられるかわかんないよ」
「それでもいいから!」

 流奈は指さされた問題を確認する。図形の証明問題だ。ここがこうなって……と順に教えていくと満里奈は授業中のような真剣な顔で聞いている。

「え、あ、そういうことだったんだ! すごいよ流奈! ほんとに初めて人に教えたの? 先生よりわかりやすい!」

 人に教えるのは初めて、もちろんその言葉に嘘はない。しかし教科書を暗記するほど読んでいる流奈は教えるのが本当に上手だった。いろいろと書いてある教科書の要点を自分なりにまとめて解釈する。それを無意識のうちに頭の中で繰り返していたので人に教える時もするするとわかりやすい言葉が出てくる。

 あまり褒められたことのない流奈は照れくさそうにうつむいてセーラー服の袖をもてあそんでいる。

「ねえ、よかったら明日うちで勉強会しない?」

 生物の問題集をときながら満里奈と流奈のやり取りを見ていた明日香がふと思いついたように提案する。

「いいね!しよ!」

 いい教師を見つけた満里奈は目をキラキラと輝かせて真っ先に同意した。ちょうどそのとき、一日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。


 *


 黒崎流奈は帰宅して部屋着に着替えるとハンガーにかけた汗だらけのセーラー服に消臭スプレーをかけた。さすがに三十度を超える真夏日に長袖はきつい。暑さで頭がぼうっとしてしまう。自宅では父、英司が帰ってくるまではTシャツにジャージ姿で過ごしている。だが英司が帰宅するころにはジャージの上着を羽織ることにしている。あざだらけの腕を晒して過ごしていると嫌味か、と殴られるからだ。夏なのに半そでを着ることもできずに汗だくになる毎日に惨めさが募る。最近、いままでなんの疑問も持ってこなかったことに惨めさを感じるようになった。

 惨めさは自己否定に変わり、明日の勉強会に自分が行く意味はあるのだろうかと思ってしまう。流奈の進路は就職となっているが実際には「就職」はしない。希美のように入社試験をうけたり、警察官を目指している男の子のように公務員試験を受けたりはしない。成績が良くても悪くても流奈の将来には関係がないのだ。

 学校には英司の知り合いの会社で事務として雇ってもらうことが決まった、と伝えている。もちろんのそんなのは嘘で、卒業後は体を売ることになる。さっさと体を売れる歳になって稼げと何年も前から言われてきた。英司は自分の仕事を辞め、文字通り流奈が身を削って稼いだ金で酒浸りの日々を送るのだろう。

 将来だけでなく、自分で働いて得た金まで搾取される。その時は着々と近づいている。やるせなさがこみあげてきて持っていたスプレーをボンッと投げ捨てた。スプレーは落ちた勢いで床を滑り、壁にぶつかって動きを止めた。その様子を見ながら立ち尽くしていた体をベッドに投げ出し、染みのついた天井を見上げる。

 燃える炎のような夕陽が殺風景な部屋をオレンジ色に染め上げる。いっそこのまま燃えてしまえばいいのに。そんなことを考えたら、涙ぐみたくなってしまった。そのくせ、瞼を開けても涙が流れることはなかった。

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