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12話 クレマチス

 低く垂れこめていた雨雲が夏の日差しに吹き飛ばされるように消えていた。燦燦と輝く太陽はまだ南に近いところにあり、日の長さを思わせる。辰野満里奈は黒いガラス玉のような瞳でグラウンドの入り口に立ち尽くしている。その瞳とは相反して、グラウンドを囲む雑草は雫を滴らせて緑を濃くし、水たまりは空を反射して輝いていた。

 満里奈は全国大会に進むことはできなかった。これで引退、約束通り大学は体育大ではないところへ進学する。閉会式を終えた後のミーティングでは顧問の先生がよく頑張った、この経験は一生ものになるだろうと滔々と話していた。三年生は今までの陸上人生を思い起こして感慨に沈み、下級生は引退する三年生のために涙を流してくれた。満里奈はこの時まだ現状を受け入れられず、耳に届くすすり泣きの声は雨音ぐらいにしか聞こえなかった。

 部活は会場で解散。部員はそれぞれ帰路に就いた。満里奈は自然と学校に足が向いていた。部活が盛んなはずの土曜日なのに、グラウンドに誰もいないのは野球部もサッカー部も敗退して休養日、ということだからなのか。校舎の中からは吹奏楽部の華やかな演奏が聞こえてくる。グラウンドに一歩足を入れると水分を存分に吸った土がほんの少しだけ沈んだ。その感触が自分の望んでいた未来を押し付けてくる。感情が堰を切ったようにあふれ出し、黒いガラス玉の瞳が涙に濡れていく。





 黒崎流奈と明日香、希美の三人は応援が終わった後、近くの百貨店で買い物をしていた。会場で満里奈に声をかけようと三人で探したが部活のみんなといるのだろうか、見つけることができなかった。そのうちに片づけが始まり、会場から出ていかなと行けない雰囲気になってしまったのだ。希美が満里奈のスマートフォンに連絡を入れてみたが返信はなく、その返信待ちもかねてまだ三人でいる。

 買い物を済ませながら店内をぶらつく三人。明日香は本を買い、希美はB4の鉛筆を買う。流奈は何を買うでもなく二人の後ろをついて歩いている。普段近所のスーパーマーケットくらいしか行かない流奈は百貨店なんて母と下着を買いにいった時以来だった。休日とはいえ昼間に制服を着てうろついているといけないことをしているような気持ちになる。

 たくさんの買い物客でひしめき合う店内。その雑踏の中から父が出てきて、このあばずれが、と罵られる妄想はもう三回はした。今仕事中の父がこんなところにいるわけがないことはわかっていたが、流奈にはいつでも父親の影が付きまとってしまう。それでも流奈の目にはハンガーにかかる洋服は色とりどりな友禅染のように、ケーキの並んだショーケースは日に浴びて輝くステンドグラスのように見えた。

「買い物終わっちゃったね。このあとどうしようか」

 本屋の名前が印刷された紙袋を振り子のように揺らしながら明日香が二人に尋ねる。本心では、歩き疲れた二人はきっと喫茶店に入って一息つきたいのだろう。流奈に自由に使えるお金がほとんどないことを察してそういった類の提案はしないでくれている。実際、喫茶店に入ったとしても流奈は何も注文することができないだろう。店員さんが持ってきてくれたお冷をゆっくり飲みながら二人がパフェを食べたり、コーヒーを飲んでいるところを見ている。そんなに惨めなことはない。

「そういえば私、スケッチブックを取りに行きたかったんだった。昨日机の中に入れて帰っちゃったからさ。まだ時間大丈夫ならついてきてくれない?」

 流奈はうん、と頷いてからどうしてわたしの友達はこんなに優しいのだろうと素直に思った。百貨店から学校までは二十分ほど歩かないといけない。一人なら長い道のりでも友達と話をしながら歩く二十分はあっという間だ。

「満里奈、大丈夫かなぁ。全然返信もしてくれないし」
「相当へこんでるだろうね。引退決まっちゃたし。満里奈が真面目に受験勉強しているところなんて想像できないなぁ」

 明日香が言うように流奈も満里奈が受験勉強をしているところは想像できなかった。どうしても白いスポーツバッグをかけて、じゃあまた明日ね、と元気に部活に行くところしか想像できない。

「あったあった。ありがとー、ついてきてくれて」

 希美が自分の机の中を漁りスケッチブックを取り出す。部活をしていない三人は土曜日に学校に来るとこなどほとんどない。それでも校内がやけに静かだと感じた。流奈が不思議に思って窓の外をのぞくと誰もいないグラウンドで一人の女子生徒が走っている。この光景を見たことがある。

「ねえ、あれ満里奈じゃない?」

 流奈が教室の窓からグラウンドを指さす。明日香と希美がえ、と短く声を出して窓の外を見た。

「ほんとだ。あれ絶対満里奈だよ! グラウンド行こ!」

 希美の声には満里奈を見つけた喜びと、少しの焦りの色が混ざっていた。満里奈が落ち込んでいるのではと一番心配していたのは希美だった。速足で階段を駆け下り、室内履きの運動靴を玄関に脱ぎ散らかしまま外に出る。そのままグラウンドに行くと湿気を吸った土のにおいが立ち込めていた。その中で白いジャージ姿の満里奈が走っている。パタパタとローファーを鳴らして駆け寄る三人に満里奈が気づいた。

「ちょっと! 心配したんだよ! 連絡したのに返信もないし!」
「なんだ、案外元気そうでじゃん」

 希美が怒ったような声で、明日香はほっとした声で言う。

「あ、スマホ全然見てなかったや。返信しなくてごめん、応援してくれありがとうね」

 へへ、と頭をかく満里奈。いつものようにじゃれ合う三人を一歩後ろから見ていた流奈はどうしても理解できないことがあった。負けたら引退。そう聞いていた。そして満里奈の引退はほんの数時間前にきまったはずなのに、なぜ学校に戻ってきて練習をしているのか。

「どうして走ってたの? 負けちゃったのに」

 明日香と希美が少し咎めるような視線を流奈に送る。満里奈が少し困ったような顔で流奈と視線を絡ませた。

「ほんとはさ、部室のロッカーを片付けようと思って来たんだ。考える時間があった無駄にうじうじしちゃうかと思って。でも気が付いたら部室じゃなくてグラウンドに来てた。閉会式もミーティングの時もあーあたしの夏終わったなぁって思ってたけど、グラウンドに来たら夏はこれからなんだって気づいちゃってさ」

 満里奈は意味がわからない、と言いたげな流奈に近づいてその細い腕を引いて駆け出した。

「流奈も走ろ!」

 突然のことに驚いた流奈は走り方を覚えばかりの子供みたいに足を前に出す。

「ほら、ひさしぶりに晴れたんだ! こんなに天気のいい日に走らないなんて損してるよ! 人生は短いんだから見たい景色がたくさんあるなら走らないと間に合わないよ!」

 流奈の心臓はばくばくと激しく鼓動する。今までの人生でこんなにも体が熱くなったことはあっただろうか。自分の心臓がこんなにも激しく動くなんて知らなかった。冷えた青色だった血液が赤い色を取り戻して全身を駆け巡る感覚。

 いつのまにか二人の手は離れ、流奈は一人で走っていた。紫色のスカーフと紺色のスカートが風になびく。明日香と希美の歓声がどんどん遠くなっていく。満里奈との距離は少しずつ開いていくがなぜか隣を走っているような気がした。

「あー! 親の言うことがなんだってんだ! あたしの人生はあたしのものだー!」

 風の中を駆け抜ける満里奈の声は高い夏空に吸い込まれて消えていく。それに答えるように夏の訪れを知らせる光が四人に降り注ぐ。

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