11話 ツユクサ
予選を勝ち抜き、満里奈は決勝進出が決定した。決勝戦は保護者も応援しやすいようにと土曜日に行われる。決勝戦を明日に控えた満里奈は今日も部活へ行った。先週はいろんな部活の大会があり、一次予選敗退の部活もあったため、トレニングルームを優先的に使わせてもらっていると喜んでいた。
外はひどい土砂降りで少し弱くなるのを待ってから帰ろうという話になり、明日香、希美、流奈の三人は誰もいない教室でだべっていた。いつもの窓際に集まり他愛もないお喋りをする。結局はそんな時間が一番の思い出になるなんてその時間を過ごしているときには気づけない。大人になって久しぶりに思い出の宝箱を開けた時に気づけるのだ。
昼休みのように机をくっつけることはせずに、窓際の一番後ろの席に希美、その前に明日香。通路を挟んで希美の隣の席に流奈が座っている。通路側を向いている明日香と流奈とは違い、希美は正面を向いて椅子にきちんと座り、スケッチブックを開いて絵を描いている。
「明日の決勝、みんなで応援に行かないとね。希美バイトは?」
「あるけど夕方からだから大丈夫だよ」
「わたしも土曜なら大丈夫」
横向きに椅子に座っている明日香が希美と流奈に聞く。流奈の父、英司は日曜日が休み。父が休みの日に外出なんてどんな逆鱗に触れるかわからない。それは今まで休日に友達と遊んだことのない流奈でも容易に想像がついた。土曜日は英司も仕事があるので夕飯に間に合えば自由に外出ができる。決勝戦が土曜日でよかった。でももし、決勝戦が日曜日だったとしても、傷だらけになってでも応援に行ったのかもしれないとも思った。
「でも土曜なのに制服でいかないといけないのはめんどくさいよねえ」
希美がはあ、と小さくため息をつく。休日とはいえ応援に行く生徒は制服で行くように指導されている。その理由を担任の先生が自覚がどうのこうのと説明してくれたが、聞いている生徒は一人もいなかった。
明日香は椅子の後ろ足を軸にゆりかごのように動かして希美のスケッチブックを覗き込んだ。
「それ、満里奈?」
その声につられて流奈も体を乗り出してスケッチブックを覗き込む。紙の中には走っている女性の絵が描いてある。
「なんで満里奈だってわかるの?」
その絵はまだ顔は書かれていなく、誰かは明確にはわからない状態だ。希美が不思議そうに小首をかしげるとミディアムヘアがふわっと揺れた。
「髪型がポニーテールだし、走ってるし、満里奈かなって」
「ねえ、三人ってどうやって仲良くなったの?」
そういえば、というように流奈が尋ねる。
「話したことなかったけ。わたしと希美が中学からの友達で、希美と満里奈が高一の時に同じクラス。二年の時に三人同じクラスになって、希美を通して仲良くなったって感じかな」
希美はスケッチブックの中の満里奈の輪郭を整えながら二人の話を聞いている。4Bの鉛筆をシャッシャッと走らせる音が心地よく響く。
「自然と仲良くなったの?」
「うーん、そうなんじゃないかな。特に満里奈なんて明るい性格だし誰にでも話しかけるような子だから」
流奈はそうなんだと返事をして希美の向こうにある窓の外に目が行った。ザアザアと窓に打ち付ける雨が世界の輪郭をゆがめている。窓ガラスが割れてゆがんだ世界に自分たちが飲み込まれてしまうかもうしれない、そんな子供じみた空想が浮かんだ。そこまで考えてふと、ゆがんでいない世界とは何だろうと思う。「歪み」の反対語とは。近いところだと「正常」になるのだろうか。
「正常な世界って何なんだろう」
気が付かないうちに声に出ていた。希美はぴたりと鉛筆を動かす手を止め、明日香は流奈と目を合わせる。合わせた明日香の視線に嘲りの色はない。ふっと視線を落として明日香が独り言のように言う。
「変な話していい? わたしたちって今それぞれのビニールハウスで栽培されている状態なんだと思うんだよね。まだビニールハウスの中の世界しか知らない。でもそのハウスのなかは必ずしも快適とは言えなくて、暑くてろくに水を与えてもらえないから自分でうまく工夫して生き延びないといけないハウスもあれば、空調管理は完ぺきで黙ってそこにいるだけできちんと水がもらえるハウスもある。でもそのハウスはある時何かのきっかけで崩れちゃうの。そこで初めて外の世界にでる。外に出てみたら涼しい風が吹いて適度に雨が降って、案外快適かもしれない。もしかしたら外は日がカンカン照りで、ものすごく過酷な環境かもしれない。それは出てみないとわからない。もちろん、ビニールハウスのパイプに押しつぶされてしまう人もいるし、ハウスの中で終わりたいと願う人もいる。そしてわたしたちはきっとまだ外の世界を知らない。見たこともない世界を憂いても押しつぶされてしまうだけだと思うんだ」
明日香はそこまで話すと自分のスクールバッグから単行本を取り出して読書を始めた。希美は再び鉛筆を動かし始める。明日香の言葉には誰も答えない。
それぞれが別のことをしているのに教室は不思議一体感に包まれる。流奈はずっと窓の外を眺めていた。大粒の雨を降らす鈍色の雲にはうっすらと太陽の光が見える。ビニールハウスでも上を見上げれば、太陽は見えることに気がついた。
結局夕方になっても雨が優しくなることはなかった。3人はほとんど意味のない傘を差しながら、制服を濡らして帰った。
*
決勝戦の日、今日も雨。昨日とは違い傘がいるかいらないかの微妙な雨だった。小雨だからと大会は雨天中止になることなく通常どおり進む。午前中のうちにすべての試合が終わり、午後から閉会式が行われる予定だ。会場は保護者らしき人や制服を着た生徒たちで埋め尽くされている。辰野満里奈は今までにないくらい緊張していた。決勝戦に進んだことは今までにもあったがそれとは比べ物にならなかった。そろそろ満里奈の命運がかかった試合が始まる。いつもの白いジャージを脱ぐと学校名がプリントされたノースリーブのランニングシャツに丈の短いランニングパンツが現れる。ゼッケンの番号は7番。ラッキーセブンだ。
気持ちを落ち着かせるために深呼吸をしてからトラックに向かって歩き始めた。むき出しの腕や足に冷たい雨が当たる。良いとはいえない天候とは裏腹に優しい雨の匂いが会場を包んでいる。トラックにたどり着く直前、名前を呼ばれた気がして観客席のほうを向く。客席で三人が手を振っているのが見えた。応援に来てくれたんだ。
そのときなぜか走馬灯のように明日香と希美、三人が仲良くなった日のことを思い出した。高校二年生の春、クラス替えが発表され、希美と同じクラスなことを喜んだ。希美に話しかけようと近づくと隣には知らない子がいた。それが明日香だ。人見知りをする満里奈ではないが、なぜか明日香に話しかけるのが緊張した。両方希美と仲がいいこともあって三人で過ごすようにはなった。しかし満里奈は明日香のミステリアスな雰囲気に委縮してしまっていたのか、何とも言えない距離があるような気がしていた。それがある日、放課後に三人でクレープを食べに行ったとき、口の周りにクリームをつけて食べる明日香を見た。希美にからかわれて頬を赤らめる明日香に、ああなんだ、同い年の女の子だ、と当たり前のことに気がついた。たったそれだけのこと。たったそれだけの、なんでもない日常が蘇る。
これから始まる10数秒ののためにできる限りのことはした。大好きな友達も応援に来てくれた。満里奈はスターティングブロックに足をかける。
スタートの号砲が鳴り響き満里奈は雨の中走りだした。