8話 ニゲラ
黒崎流奈はチャイムの音で目を覚ます。頭はまだ少し熱を持っていたが、温かい湯船につかっているようで不快、というほどではなかった。まだふわふわとする意識の中、消毒液の匂いが鼻につんとくる。
周囲に人の気配はなく、秒針が時を刻む音だけが響く。パリッとした真っ白のシーツがかかるベッド。その周りは薄いベージュのカーテンで仕切られ、たった一人だけの世界にいるような錯覚に陥る。ずいぶん長く眠っていたような気がする。どうしてここにいるのか一瞬わからなくなって明日香に体育の時に保健室に連れてきてもらったんだと思い出す。
自分の体温で温まった布団の中は心地よく、もうひと眠りしようかと布団の中に顔を潜らせたとき急に意識が跳ね上がった。眠ろうとしていた頭が冴え渡りばさっと掛布団をめくって飛び起きる。時間を確認しようとしたが腕時計やスマートフォンを持っていない流奈は保健室の時計を見るしか方法がない。誰も起こしてくれず、もう夕方になってしまっているのではないかと不安になった。心地よかったはずの秒針の音が焦り増幅させる。靴を履いてベッドから降りようと、掛布団から片足を抜いた。その時、薄ベージュのカーテンが開いた。蛍光灯は消され、窓からの光も遮断されていたため薄暗かった視界が一気に明るくなる。
「あ、起きてる。おはよ」
ベッドの反対側だけつけられた蛍光灯。その白い光の中から明日香が顔を出して声をかける。その後ろに満里奈と希美がいた。カーテンが開いたことで隔絶されていた「保健室のベッド」という世界が消えてなくなる。
明日香が邪魔にならないようにベッドの下に収納された小さな丸椅子を取り出す。流奈が寝ているベッドの下に丸椅子は一つしかなく、足りない分を二つ満里奈が隣の誰もいないベッドから持ってきた。三人が流奈のベッドの横に椅子を並べて座る。
「少しは良くなった?いまホームルーム終わってみんなで様子見に来たんだ」
希美が状況を説明して体温計を差し出す。熱を測れ、ということだと理解して受け取った体温計を脇に挟む。そっかチャイムが鳴って目が覚めたんだった。目が覚めた時に聞いたチャイムはホームルームの終わりを知らせるものだったんだと納得した。いまホームルームが終わったばかり、ということはまだ十五時ぐらいだ。うるさかった心臓が静かになる。放課後また来ると明日香が言っていたことを思い出した。
「教室からカバン持ってきたけど、これで全部?保健の先生は職員会議があるらしいんだけどあと一時間くらいならゆっくりしてていいって言ってたよ」
明日香が右手にぼろぼろのスクールバッグ、左手に黒無地のトートバッグを持ってこちらに見せる。ジャージを入れるのに使っているトートバッグに今は制服が入っている。紫のスカーフが覗くトートバッグを見てまだジャージ姿だったことに気が付いた。
「それで全部、ありがとう」
お礼を言うと明日香はベッド近くの床に並べて置いた。十七時までに帰れば十分夕飯の支度は間に合う。保健室にまだいていいならそんなに急いで家に帰る必要は無い。出したままだった片足を掛布団の中にしまい、足湯につかっているような心地よさに包まれる。体温計が鳴る。液晶画面には三十七度二分と表示されている。まだ微熱はあるがだいぶ下がった。体の調子もさっきよりはだいぶいい。
「大丈夫そうだね。じゃ、あたし部活行くね!流奈も早く元気になりなよ~!」
体温計を覗き込んだ満里奈が流奈の肩をぽんっと叩いてそう言う。流奈は名前を呼ばれたことに驚いてなにも反応できず、口をぽかんと半開きにして固まっている。満里奈は固まっている流奈を見てにやにやと笑った。でもその表情は決して流奈を馬鹿にしているようなものではなく、むしろ流奈が変な顔をしているのがおかしくてたまらない、というようだった。
「体温計、戻しておくよ」
差し出された満里奈の右手に持ったままだった体温計を渡す。満里奈は体温計を受け取ると、床に置いた白いスポーツバッグを斜めに背負ってまた明日、と手を振ってベッドに背を向けた。途中で体温計を元の場所に戻して保健室を出て行った。
流奈は満里奈の背中を見送りながらいまだに上の空でいた。父親ですら自分の名前を呼ぶことはほとんどない。家には二人しかいないのでわざわざ呼ぶ必要がないからだ。黒崎さん、と呼ばれることはあるが流奈と呼ばれたのはいつ以来だろう。心の奥がむずかゆく、満里奈が触れた肩がじんわりと温かい。
「相変わらず元気だねぇ」
希美がふふっと力なく笑って言う。流奈はなんとなく希美の言葉に気が抜けてぐぅとおなかが鳴った。そういえばお昼ご飯は何も食べていないことを思い出す。それまではなんとも思っていなかったが胃の音を聞いたことで「おなかがすいた」という感覚を急に思い出してしまった。いつもはコンビニでお昼ご飯を調達していたが今日は寄らなかった。今朝は歩くのもしんどくてなるべく早く学校について座りたかったからだ。食べる物がないなら仕方がない、夕飯まであと数時間だし我慢しよう。そう思ったところで、明日香が床に置かれた自分のスクールバッグを膝の上に乗せ、そこからチョコレートの箱を出した。
「ねぇ、チョコ食べる?」
赤に白い文字で商品名が書かれた箱を開けると紙製のトレーの上に十二個のチョコレートがきれいに並んでいる。はい、と差し出されたトレーからは甘いカカオの香りが漂ってくる。流奈はこんな風に人からものをもらったことがなく、本当にもらっていいのか戸惑った。すると明日香がチョコレートを一つ指先でつまんで流奈の口の前に持ってきた。そこまでしてもらったら食べるしかない。
ゆっくりと小さく開けた口にチョコレートを含んだ。爪を長めに切りそろえた明日香の指先が流奈の唇に少しだけ触れる。甘いカカオの香りが口の中に溶けて、空っぽの胃に染み渡る。チョコレートなんて人生で数え切れるほどしか食べたことのない流奈はそのくちどけに感動した。
明日香が希美にもトレーを差し出した。希美はありがとう、と一言いって自分の指でチョコレートを口に運ぶ。友達と仲睦まじくお菓子を分け合って食べる。そんなごくありふれた光景が流奈にとってはどこか非現実的で、映画のワンシーンを見ているようだった。
「ねぇ黒崎さん、わたしたちも流奈って呼んでいい?」
膝の上にチョコレートのトレーを乗せた明日香がすっとこちらを見て言う。明日香の切れ長の涼やかな瞳と、流奈の大きな暗い瞳が交差する。
「うん……いいよ」
そう口をついて出てきたことに流奈自身が一番驚いた。
「ありがとう。わたしのことも明日香って呼んでね」
「私も希美でいいよ。満里奈のことも全然呼び捨てでおっけーでしょ」
ついさっきまで人の心を読めるのかと思うほどの眼差しをしていた明日香は女子高生らしい笑顔を浮かべた。隣で様子をうかがっていた希美も声が弾んでいる。
いままで誰かのことを名字ではなく下の名前で呼んだことがあっただろうか。あすかとのぞみとまりな。流奈は口の中で三人の名前を呼ぶ。これが友達っていうやつなのかな。流奈は急についさっきまで、現実味のなかった世界の住人になった気がした。
淡い水色の水彩絵の具が真っ白の画用紙に滲んでいくように、友達という言葉が流奈の心に滲んでいく。高校三年生の春、人生で初めての友達ができた。