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7話 ライラック

 黒崎流奈は三時間目の数学の授業中、ずっと寒くて仕方がなかった。開いたノートに落書きをする余裕すらなく、自分の二の腕を抱いてさする。摩擦で少しでも温かくなればとやってみたが微々たる変化しかなかった。体は冷えているのに頭は熱を持っている。熱を持った頭に女性数学教師の高い声が響いて痛んだ。

 昨夜、父である英司に風呂場で頭から冷水をかけられた。そのあと服を着ることも長い髪を乾かすことも許されず薄い布団にくるまって眠った。まだ夜は肌寒い春、そんな恰好で寝たら風邪をひいてもおかしくない。しかし何度も似たようなことを経験した流奈は真冬じゃないだけましだとさえ思っていた。案の定、目が覚めると体が重たかった。朝は体が重たい、くらいで済んでいたが時間が経つにつれてどんどん症状は悪化していく。

 三時間目が終わったあとの十分だけの休み時間。次の授業は体育だった。クラスメイトがそれぞれジャージを持って更衣室に向かう中、流奈だけが女子トイレに向かう。ジャージを持って個室に入り、狭い中で器用に着替える。体のあざを誰にも見られたくなくていつもそうしている。体側にそってオレンジのラインが入った紺色のジャージに着替える。今日の体育はサッカーだったはず。すみっこで動かないようにしよう。もぞもぞと着替えながらなるべく動かずに時間が過ぎるのを待つ算段をした。

 女子と男子に分かれて行われる体育。女子はグラウンドでの授業だった。流奈は自分の制服を教室においてからグラウンドに向かった。一旦教室に戻る手間がある分、時間がかかってしまう。授業にいつも遅れそうになってしまうのでトイレで着替えて制服だけ更衣室に置く、ということをしてみたことがある。少しは時間短縮になるかと思ったが結局着替えにかかる時間は変わらない。それに着替えを取りに更衣室に入った時に向けられた好奇の目のようなものが怖かったのでやめた。

 急いでグラウンドに行くとクラスメイトたちはもうきれいに並んで先生が来るのを待っていた。その列にはいってジャージの袖を引っ張って手を隠し、腕を抱えて寒さに耐えた。


 *


 久保明日香は満里奈と希美とともにグラウンドに向かう。流奈に一緒に行こうと誘おうと思ったがなぜか更衣室にいなかった。トイレで着替えているのは本当だったんだ。

「今日のサッカーって試合するのかな。するんなら満里奈と一緒がいいなぁー」

 運動靴に履き替え外に出る。グラウンドに行く道を歩きながら希美がつぶやいた。このクラスで一番運動神経がいいのは間違いなく満里奈だろう。満里奈がチームにいたら自分はあまり動かないですむ。おそらくクラスのほとんどの人が満里奈と同じチームになりたいと思っているだろう。

「どうせあたしにばっかりボール回すつもりなんでしょ。去年のバスケの時なんか一人だけすっごい動かされたんだけど」

 満里奈が希美の脇をつついてじゃれあう。外は風が少なく太陽も出ていてぽかぽかと温かい。明日香は更衣室で着替えるついでに日焼け止めを塗っておいてよかったと思った。グラウンドについて出席番号順に並び先生が来るのを待つ。チャイムが鳴る直前に流奈がやってきて明日香の隣に座った。外は十分温かいのに寒そうに体をさすっていた。

「黒崎さん、さむい?大丈夫?」

 話しかけると流奈はこくん、とうなずく。その時、チャイムが鳴ってジャージの上着までズボンにしまい込んだ体育教師がやってきた。最初はパスの練習をしてから二組に分かれて試合をすることになった。パスの練習は出席番号順なので流奈と明日香がペアになる。明日香も流奈も運動は苦手だった。先生に突っ込まれない程度の近い距離でボールを蹴り合う。パスの練習が終わると先生が適当にチームを振り分ける。明日香と満里奈。希美と流奈はそれぞれ同じチームになった。

 試合が始まると流奈はすぐにコートの端のほうによる。明日香もできればコートの端のほうにいたいタイプだ。満里奈がいるからまあいいか、と思い流奈の近くに行く。声をかけようとしたとき流奈は下を向いてしゃがみこんでしまった。

「ちょっと、大丈夫? 具合悪いの? 保健室いく?」
「…だいじょうぶ。いかない」

 流奈の背中に手を当て、のぞき込んで話しかけると少しだけ顔をあげた流奈と目が合う。その瞳は潤んで頬は赤くなり、少し呼吸も荒かった。流奈は小学生の頃に熱が出て保健室で休んでいたことがある。心配した先生が勝手に英司に連絡してしまった。世間体だけはいい英司は仕事を早上がりして学校まで迎えに来た。もちろんその日の夜はひどい目にあった。それから保健室はきらいだった。

 斜めに分けられた長い前髪の隙間から明日香が流奈のおでこに手を当てる。

「あっつ! だめだよ、保健室行こう。立てる?」
「おとうさんにはれんらくしないでくれる……?」
「うん。大丈夫、しないよ。先生にも言っておくから」

 いまにも泣き出しそうな顔でそう言う流奈を立たせて体育教師のところへ連れていく。

「せんせーい。黒崎さん、具合悪いみたいなので保健室連れて行ってもいいですか」

 先生の了承をとり、一緒に保健室へ向かった。引き戸がほとんどの学校では数少ないドアノブをつかんで保健室の扉を開ける。五十歳近い歳の養護教諭が白衣を着てパソコンに向かって何かの作業をしていた。

「あら、ふらふらじゃない。ここ座って。熱測ってね」

 こちらに気づくと穏やかな笑みを浮かべて、てきぱきと指示をだす。流奈が熱を測っている間に保健室の利用カードを明日香が代わりに書いた。書きながら親への連絡は不要なことを先生に伝えた。高校生にもなれば体調不良で学校から親へ連絡することはほぼない。先生はなんでわざわざそんなことをいうのかわからない。というような顔をしていた。体温計がピピっと鳴る。液晶画面には三十九度一分と表示されている。こんな高熱でサッカーなんてできるわけない。

「あらら、結構高いわね。ベッドで休んでいきなさい。五、六限目も無理しないで。久保さん、授業の時先生に保健室にいるって伝えてあげてね」

 はい、と返事をして書き終わった利用カードを先生に渡す。帰りのホームルームが終わったらまた来ると流奈に伝えて明日香は保健室をでた。ちょうど四時間目が終わり昼休みの始まりを知らせるチャイムが鳴る。明日香はとりあえず女子更衣室向かった。もうみんな着替え終わったのか誰もいない更衣室で制服に着替えて教室に戻った。

「おかえり、黒崎さん大丈夫だった?」

 希美がお弁当を広げながら聞いてくる。

「三十九度一分。放課後まで寝てていいよって先生も言ってた」
「うわ、そんな熱出たら体育なんてでれないよ」

 明日香も自分の席からお弁当を持ってきて座る。机は四つ、くっつけられていた。もしも流奈が戻ってきたときのために席を用意しておいてくれたのだろう。満里奈と希美も流奈のことを気にかけていたことに知って少しだけ体が熱くなった。

「ホームルームが終わったらみんなで様子見に行こうよ。あたし今日部活だけど保健室に顔出すぐらいできるし」
「私もバイト十六時からだからいけるよ」

 放課後三人で保健室に行くことが決まる。三人で一緒に行動していたグループは、きっと今年は四人になる。明日香は確信に似たものを感じた。同時に満里奈と希美と友達でいることが急にとてもうれしくなった。

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