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9話 クルクマ

 梅雨の季節がやってきた。しとしとと降りしきる雨が葉桜の緑を濃くしていく。久保明日香は満里奈、希美、流奈の四人で机をくっつけ、お昼ご飯を食べている。窓際に明日香と流奈。流奈の向かいに満里奈、その隣で明日香の向かいに希美。それが4人の定位置だ。締め切った窓には鈍色の雲から落ちてきた細やかな雨粒が当たる。

 六月から夏服が解禁になり、白い半そでのセーラー服の女子やワイシャツ姿の男子がほとんどになった。そのなかで流奈だけは冬服のまま過ごしている。流奈は夏服を持っていない。夏服の購入は自由なため買ってもらえなかった。流奈自身もあざだらけの腕を見られたくないのもあり、どんなに暑くても一年中長袖で過ごしている。

 保健室の日以来、三人と流奈は仲良くなった。次の日にはすっかり熱が下がって登校してきた流奈は自ら三人が集まる窓際に行き、おはようと昨日はありがとうを小さな声で言った。そこから、気が付いたら四人で集まり、笑い合う日々が始まった。流奈は相変わらず体育の着替えはトイレでしているが、そのあとに四人で合流してからグラウンドか体育館に向かうようになった。流奈がずっと冬服の紺色のセーラー服を着ている理由も誰も尋ねない。

「あーもう! じめじめしてる! 大会が近いのに全然走れないじゃん!」

 教室は湿気を吸ったホコリの、雨の日特有の匂いで満ちている。クラスメイトの楽しそうな話声と雨の音が心地よく混ざり合う。あと十日ほどで大会が始まる満里奈は練習がしっかりできないことに少しいらだっていた。たまたま晴れてもグラウンドはびちゃびちゃで整備から始まってしまうので練習の時間は少なくなってしまう。スポンジで水たまりの水分を吸い取り、乾いている土をかけて、トンボで平らにならす。このトンボという木でできた土を平らに整えるための道具がまあ重たい。こんなことを延々と繰り返してやっと練習が始まるころにはみんなぐったりしてしまっている。

 雨の日は学校のトレーニングルームを使っている。ジムにあるような器具がいくつか置かれて、体の基礎作りには役立つ部屋だ。だがどの部活も考えることは同じ。大会前に休むことなどできないと野外で行う部活は雨の日はトレーニングルームに集まるので交代で使うしかない。一人が器具を使える時間はかなり限られてしまう。

「なんで雨なんて降るんだろう。降らないほうがいいよね? 流奈」
「え、わたしはどっちでもいい」

 満里奈が机を乗り出して向かいに座る流奈に同意を求めるも冷たくあしらわれる。流奈はコッペパンにイチゴジャムとマーガリンが挟まった菓子パンを小さくちぎって口に放り込んでいる。もちろん流奈に冷たくしているつもりは一切ない。

「私もー。雨の音って気持ちいじゃん」

 流奈に便乗して希美が満里奈をからかう。満里奈がえぇ、と文句を言って口を尖らせる。希美はよく満里奈をからかって遊んでいる。はたから見れば姉にかまってほしい妹のようにも見える。明日香が二人を見守り、時になだめる。流奈が冷静に三人の様子を見ている。そんな関係図が出来上がっていた。

「あたしの将来が決まる大事な試合なのに、やんなっちゃう」

 満里奈はまだ空模様に文句を言っている。今回の大会で全国大会に行けたら体育大を目指す。家族とも話し合って納得してもらえたらしい。

「そういえばさ、流奈は進路どうするの?」
「わたしは就職だよ」

 希美がふと思い出したように流奈に聞く。流奈は食べ終えた菓子パンの袋をきれいにたたんで小さな三角形を作っていた。長いまつげが流奈の大きな瞳に陰りを落とす。手元に視線を落としたまま希美の質問に答える。なんの感情もこもっていない、自分の将来に興味がないとでも言うようない方だった。明日香はほんの一瞬、流奈がそう言うようにプログラミングされたロボットのように見えた。

「流奈、唐揚げ食べる?」

 なんでもいいから話題を変えたくて明日香は自分のお弁当箱から唐揚げをつまんで流奈に差し出す。流奈は突然のことに少し驚いていたが、ありがとうと一言言って顔を近づける。右分けに流した長い前髪を右手で抑えて小さな口を開ける。ピンク色の薄い唇から覗く赤い舌は厚く、不思議な生き物のようにうごめいていた。流奈の唇が箸に触れ、唐揚げは口の中にすっぽりと納まった。

 時々お菓子を持ってくることがあったがこんなふうに食べさせるのは保健室のあの日以来だった。保健室で流奈の唇にすこしだけふれた指先の感覚が生々しく蘇る。

 流奈は十分に咀嚼してから喉を動かして唐揚げを飲み込む。喉仏のない平らな喉元が上する。その様子が美しすぎる夢のようで見てはいけないものを見てしまった気がした。それでも目が離せない。その一瞬の出来事が、時が止まってしまったかのように長く、雨の音がやけに大きく耳に響く。

「ん、おいしい」

 その声に弾かれて明日香の時間が動き出した。満里奈と希美はいまだにきゃいきゃいとじゃれ合っている。流奈は口の端についた油を指で拭う。

「どうしたの?明日香?」

 流奈と目が合い勝手に決まづい気持ちを抱えて、何でもないよとほほ笑んだ。自分の様子がおかしいことを悟れらないように自分のお弁当を再び食べる。流奈の唇が触れたその箸で。





 学校が終わり家に帰ってきた明日香。相変わらず色のない部屋で、色のない部屋着に着替える。本棚から始業式の次の日に買った本を取り出す。この本は一章目の途中でなんか違うなと思って読むのをやめてしまっていた。全然違う小説を読んでいる途中だったがふいに読みたくなった。最初のページを開いて読み始める。また「雷が落ちるように恋に落ちた」その文言と出会った。そんなことあるわけないだろう。堂々と嘘なんか書いて。以前読んだときはそう思った。でも今は嘘ではなかったんだと思った。生まれて初めて感じる胸の高鳴りをどう納めればいいのかわからない。受験勉強を忘れて一気読みしてしまう。物語の中盤。恋した女の子に告白をするか悩むシーンがあった。その物語の中の少女も本に答えを求めて一冊の小説を手に取る。その中に少女に告白を断念させる言葉が書かれていた。

『少女は時として、友情と恋情を間違える』

 明日香は、それ以上先は読まなかった。

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