一章の二 食堂内での会話。
昼休憩の食堂で、美味くも不味くもない仕出し弁当を食い終えていた。
今日は、仕事で昼休憩が遅くなった。すでに食堂は、人が疎まばらでひっそりとしている。
陶磁器工場としては珍しく、有線と契約していた。
今、ちょうど流行りの唄『
一華は、不機嫌になっていた。流れている唄が、好きではなかった。
「姉ちゃん、これ尾藤公季の『文子』じゃん」
一華同様に、仕事が遅れた
「その、姉ちゃんっていうの、やめろって言ってるだろう」
流れている唄には触れずに、片肘を突き、次朗を横目にする。
「姉ちゃんは、姉ちゃんなんだから、いいじゃないかよ」
駄々を捏こねて接してきた。弟がいたら、こんな感じなのか? と思えてくる。まあ、一華にとっては、話題を変えられたからよかった。
「この季節、ややこしくなるだろう。毎年、新入社員から、似てませんね、似てませんね、って言われているだろうが」
前日も、同じようなやりとりをした。もっといえば、去年も同じようなくだりがあったはずだ。
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」
今までで、初めてではなかろうか。提案を求められた。
「そりゃあ普通に、谷脇さん、でいいんじゃないの……」
一華自身も、今更「谷脇さん」はないだろう、と思う。それでも無難な意味で、候補に挙げる。
「谷脇さんって」
次朗が鼻で笑う。一華は、すかさず左手に拳を作り、次朗の右脇腹に持って行った。
「肋は、やめてよ……」
次朗は上半身を、左側に
「なんだよ。親しい間柄にも礼儀ありだぞ……」
次朗の懇願にも、一華は「ケッ」と、悪ぶった表情で顎を突き出した。
「姉ちゃん」のやりとりを終える頃には、別のBGMが流れていた。
次朗が右脇腹を
今日は、食堂のテレビが
一華と次朗の間には、会話がなかった。沈黙に耐えられない、といった、初期の人間関係の遠慮などは、いつの頃からか意識しなくてよくなっている。
「谷脇さん。今度また、尾藤公季に会わせてよ」
後ろに体重を掛けて、パイプ椅子をぐらぐらさせていた次朗が、沈黙を破る。半笑いで、早速「谷脇さん」と言いかえていた。しかし、呼び名のぎこちなさだけが、半笑いの原因ではない。
「あんた、一度、会ったでしょうが」
一華は、ぶっきらぼうに返す。
「だって、あのときは、まだ誰も知らない無名だった頃でしょう。今の、有名になった尾藤公季を見たいんだよ」
どうも次朗には、ミーハー的な浅はかさがある。ただ、そう言いたい気持ちも分からなくはない。
「私はマネージャーじゃないんだから、自由に会わせる段取りなんか、できるわけないよ」
一華は自分でも、面白味のない受け答えをしていると感じた。
「姉ちゃんは、ファンクラブができる前から、支えてきた古参のファンでしょ。なんか、冷たいよね。売れたら、ポイっみたいで。俺だって、姉ちゃんに無理やり、尾藤のチケット十枚も買わされたんだよ」
やっぱり、十枚も買わされた話を差し込んできた。さすがに一華も、あのときの次朗には、ごり押しし過ぎたと反省している。
「でもさあ。本当に売れて、よかったよね」
次朗自らが、「チケット十枚も買わされた」話から遠ざかってくれた。
「それでも、よく売れたよね。俺は、今だから言っちゃうけど、絶対に、売れないと思ったんだけどね」
一華は、横目で睨む。
「だってさあ。姉ちゃんには悪いけど。あの当時の尾藤の唄って、なまちょろくってさあ」
一華は睨みながら、次朗に目を合わせようとした。次朗は、一華の睨みに気づいておらず、過去の記憶を掘り起こして、好き勝手に喋りつくす。
「なによりも、ミュージシャンの雰囲気じゃ、なかったよね。なんか、そこら辺にいる隣の兄ちゃんみたいな、純朴っていったら聞こえはいいけどさ。なんだろ、ちょっと前までオタクだった人が、一般の格好をしだした、みたいなさ」
一華は、次朗の右脇腹に、拳を持って行った。
「痛ったい。何すんの、ホントにぃ……」
眉を「八」の字にさせた次朗が、やっと視線を合わせる。一華は思いっきり眉の中心に皺を寄せ、顎を
無条件で次朗は、「すいません、すいません」と視線を落とす。
次朗の暴言に、一華のカミナリが落ちた辺りで、呼び出し音が鳴る。この今の時代に、今なおガラケ―の、一華の携帯電話だ。
「今、大丈夫?」
電話の向こう側から、弱弱しいながらも、相手を気遣う公季の声が聞こえた。
「そっちは仕事中でしょ? 駄目だよ、こんなところに架けてきちゃあ」
「来週の土曜日、空いたからさ。すぐにでも報しらせとこうと思ってさ」
「うん、分かった。じゃあ、切るよ」
一華は席を立つと、少し右側に場所を移し、結局は、すぐに電話を切った。
「彼氏、でしょ?」
次朗が冷やかす。一華は無言で席に戻り、すぐに拳を、次朗の右脇腹にもっていく。
「本当に、肋はやめてよ……」
次朗の声が、