一章の一 東山動物園で遭遇。
外から、子供の賑やかな声が漏れ聞こえる。さっき、幼児の一行が正門前で整列していた。急がないと、と思う反面、あの中に紛れたいという気持ちも捨てがたく、どうしようかと、よぎった。
洗面所の鏡の前では、自然と笑顔になる。めったにかけない眼鏡も、どこかしら様になっていた。ただ、まだ三月下旬なのに、体が火照っている。せっかくの化粧直しも、あまり意味がないように思えた。
少々汗ばんだ首元にハンカチを持っていく。左右にパンパンとはたいて、笑顔の最終確認をした。
なんだろうか。鏡の一華の背後に、どうしたって、目の行く姿が映る。
場違いな物体だ。ファッション雑誌でも、なかなかお目に掛かれない八等身か九等身の類で、真っ白なワンピースが、パッと見でも、別次元の美しいフォルムを強調させている。
自然の流れで、顔に焦点を当てた。整い過ぎている。どこから見ても、ケチのつけようがない顔立ちだ。ただ一華にとって、見覚えがある。
(なんで、ここに
一華は固まった。気が付いたら、トイレから走って出ていた。
(早く逃げなければ!)
外に待たせていた公季の手を取り、引っ張って遠ざかろうとする。
「いっちゃん、いったい、どうしたの?」
公季の声など、耳を傾けてはいられない。何度か、疑問の声を聞いてから、やっと進める足を緩めた。
「ちょっと、走りたかっただけ……」
一華自身も、理由になっているとは思えなかった。
さっき鏡越しに見た女は、間違いなく蔦文花だ。今、手を取っている公季は、学生時代に蔦文花に振られていた。一部始終を見て知っている一華にとっては、絶対に会わせたくない。
園内を、とにかく進んでいく。本来ならば、噴水を横切ったすぐのインドサイを楽しむ。だが一華は、公季を引っ張って通り過ぎようとした。
「あれ、インドサイ、好きだったよね?」
なんにも知らない公季は、
「嫌いになったの」
一華は、適当に取り
「後で、じっくり見たいの!」
公季に説明しているというよりは、ブンタに釈明していた。とにかく、それどころではない。
どう考えても、ここまでの行動は不自然だった。インドサイの次に、左手側にアジアゾウ、右手側にアクシスジカがスタンバっている。さすがにアジアゾウは、スルーできない。
「俺、ゾウさん好きなんだよね」
なんにも知らない公季は、やっぱり暢気にする。下手をすると、十分、二十分は、居座る勢いだ。いつもであれば一華だって、二十分、三十分は、くつろぐ。
「ここは、五分で!」
一華は、公季にタイム・スケジュールを提示した。
「別に、いいけどさ……」
公季は不思議がりながらも、従ってくれた。
公季をアジアゾウに釘づけにさせている間、後方ばかりが気になる。
「来るなよ、来るなよ」と心の中で唱えてもいた。だけれども、遠くから見てもすぐそれとわかる白いフォルムが見えてきた。これまた、ファッション誌の表紙を飾れるような、長身の男と腕を組んでいる。
「次、行くよ」
一華は、公季の手を引っ張り、先へ、先へと前進する。
「まだ、三分も経ってないし、次は、向いのアクシスジカなんだけど……」
公季の意見など、聞き入れるはずがなかった。とにかく一華は、できるだけ文花から離れるしか術はない。
後方をちらりと見る度に、文花の周辺の様子があからさまだ。男女を問わず、皆が、文花に視線を向けている。半径二十メートルぐらいの範囲に入れば、文花の存在を感じずにはいられないようだ。
そうこうしていると、文花独りが、一華側に走り出してきた。
(なんで、こっちに走ってくる?)
一華は恐怖した。歩幅を広くして、ただひたすら、引き離しに懸かった。
まだ幸いにも、手を引っ張られる公季は、「何? 何?」と状況を呑み込んでいない。
しかしながら、いつまでも逃げている場合でもないと悟った。やって来ていたソマリノロバの敷地がアールがかってきた辺りで、歩みを止める。
「この先の、ライオンのところで待ってて。私は、さっきのアクシスジカ近くのトイレに戻るから」
一華は公季の手を放すと、今度は背後に回って背中を押した。
「何、何が?」
状況把握が全然できていない公季に対し、一華は、私の屍を越えてゆけ、的な意気込みで睨んだ。
「わかったよ……」
後方の様子は、ソマリノロバの敷地がアールがかっているため、見えない。一華は、公季の後姿を見送ると、すっと振り返って、文花迎撃に向かう。
アールがかった道は、すぐに取り払われ、直線の道がパッと開けた。十メートル先に、文花の姿が見える。
(何の用だ)
文花に一歩二歩と近づく度に、文花の目的を確定させようとした。
(さては、今の姿を、公季に見せつける
一華は、バッグを鷲掴みし、綺麗な文花の顔面に、お見舞いしてやろうと構えた。
「やっと追いついた。すぐ走っていっちゃったから……」
文花が、右手でハンカチを差し出した。
「トイレで落としたでしょ?」
文花は、少し息を切らしていたが、同性から見ても、たまらなく清潔感がある。
一華はハンカチを受け取ると、俯いて、小さく「ありがとう」とお礼した。返答はなかった。次に、文花を見たときには、すでに去っていく後ろ姿だった。