バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

 夕餉も無事に終わり、鉄之助は茶を持って土方の部屋へ向かった。
 既に時刻は戌の刻、夜回り組の隊士が出掛けていった頃である。空には月が浮かび、屯所の中は意外にも静かだ。
 障子を開けると、もわぁと鉄之助の顔に煙草の煙が迫ってくる。
「副長……、煙草を吸うときは障子を閉め切らないで頂けませんか?」
「ふん。俺に意見なんざ、早すぎる。開けっ放しじゃ寒いだろうが」
 土方はそう言っては「ふぅ」と煙を噴かしている。
「それはそうですが……」
「お前も大人になりゃあ、煙草(こいつ)の味が理解るだろうよ。それより――、また鼠が入ったようだな」
「鼠ですか?」
 何の事かと鉄之助が首を傾げると、土方が煙草の煙を天井に向かって吐いた。
 外に逃れられない煙は天井に広がり、これまでの煙と合わさって天井が霞んで見えた。
「げほっ、ごほっ……もうだめ――……、げほっ」
 天井から聞こえてくる咳に、土方が「やっぱりいやがった」と呟く。
「総司、出て来い。一緒にいるのは山崎だろう。全く、そいつの悪巧みに加担しやがって!」
暫くして天井の板が外され、男が申し訳なさそうに顔を出す。
「……副長、すみません。沖田さんの頼みでは断り切れず……」
 いったい何処から天井裏に侵入したのか、鉄之助が驚いていると「ああっ、山崎さんの裏切り者~」という沖田の声が天井から聞こえて来た。
「裏切り者じゃねぇ! 総司、さっさと降りて盗んだものを出しやがれっ。いつまでも天井裏(そこ)にいると、原田に槍で突かせるが?」
「怖いなぁ。槍の使い方が間違ってますよ? 土方さん。原田さんまで巻き込まないでください」
 よっと降り立った沖田は悪びれる事なく、更に土方を刺激する。
「うるせぇ! てめぇが撒いた種だろうが!!」
 どうやら土方が部屋を閉め切って煙草を吸い始めたのは、天井裏にいる沖田を出すためだったらしい。
 沖田といた山崎という男は、諸士調役兼監察という職に就いている山崎丞だという。
「沖田さん、どうして天井裏なんかにいたんです?」
「かくれんぼ。というより、かくれんぼになっちゃったんだけどね。ここにいたら思ったりも早く土方さんが帰って来た。でもここって隠れるには隠れる場所がないし、困っていたらちょうど、山崎さんを見つけてね」
その山崎は、(しき)りに恐縮している。
 いったい沖田は、隠れなければならないほどに土方の部屋で何をしていたのか。
「お前の悪事に、うちの監察を使うんじゃねぇ。山崎、お前もお前だ。本来なら処罰ものだ」
「大変申し訳ございません」
「そう山崎さんを責めたら可哀想ですよ、土方さん」
「お前なぁ、誰の所為でこうなったか理解ってるのか?」
 まったく反省していない青年は、「ああ、私の所為でしたね」と笑っている。
「総司!」
「理解ましたよ。しかし、相変わらずのミミズ……、じゃなく達筆でいらっしゃる」
沖田はそう言って、鶯色の表紙を纏った冊子を出す。
「……全く油断も隙もねぇ」
 土方は沖田から冊子を奪うと、そそくさと仕舞った。
「でも副長、どうして沖田さんたちが隠れていると理解ったんですか?」
 鉄之助の問いに、土方は「煎餅の食べかすが部屋に落ちていた」という。
 沖田を見れば、懐に煎餅の入った紙袋がある。
沖田総司――、新選組副長助勤・一番隊組長。
 両長(※局長と副長)が認める剣の剣才で、普段は陽気な天邪鬼。
 彼も、人を斬った事があるのだろうか。

 それから間もなく慶応二年十二月五日――、十四代将軍・徳川家茂の死去により空位だった将軍職に一橋慶喜が就いた。しかし新選組の任務は、将軍が代替わりしようと変わらない。
 町を騒がす人間が潜んでいないか探索に出掛け、何かあれば捕縛に向かう。
 そんな新選組の屯所に、夕方一人の男が訪ねてきた。
「ごめんやす。わては輪違屋(わちがいや)から来た佐吉というモンでおます。大至急、新選組にお願いしたい事がおまして」
 応対に出た鉄之助に、佐吉と名乗るその男はそう告げた。

                   ***

 輪違屋は、島原にある置屋である。
 島原は江戸の吉原に並ぶ花街で、鉄之助にはいちいちよく理解らない世界である。
「馬鹿どもが幕臣相手に暴れてる……?」
 輪違屋の使い・佐吉の前で、腕を組んだ土方が眉間に新たな皺を刻み始める。
 馬鹿どもとは、どうやら不逞浪士の事らしい。
 この日、置屋・輪違屋に梅乃という芸妓が呼ぶよう客からの依頼があった。その客から以前にも梅乃が呼ばれ、梅乃とその客はすっかり深い仲らしく、梅乃は輪違屋女将に「女将(おかぁ)はん。うちな、(だん)さん(※旦那さん)がでけましたえ」と頬を赤らめて話しているという。
 佐吉は話を続けた。
「身分違いやと女将はんも言うてますのですけど、梅乃は「夢を見るだけならかまへんやろ」と」
 事件はそれから一刻経って後に起きたという。
「副長、深い仲って何ですか?」
「…………」
 鉄之助の問いに、土方が何とも言えない顔で視線を天井に泳がせた。
 近くに座っていた沖田が代わりに、耳打ちで囁く。
「ええええええええええ!?」
 ――男と女が×××……。
 経験が全くない鉄之助だが、頭では理解っていた。遊郭は芸妓を呼んで酒宴を開く事もあるが、色事の場でもある事は。
 鉄之助が驚いたのは、土方にも馴染みの妓がいるらしいという事だ。
「うるせぇ! 総司、こいつに妙な事を吹き込むんじゃねぇ」
「いいじゃありませんか。遅かれ早かれ、鉄之助くんは大人の遊びを知る事になります」
 沖田の言葉に、土方は何か言いたそうに口を開けたがやめた。
「実は梅乃が角屋に呼ばれたあと、目つきの悪そうなお侍はんが輪違屋に来はりまして、梅乃を呼べと言うんですわ。梅乃は他のお客はんとこやと言うと、それは何処の誰だとえろう剣幕で」
 佐吉の言葉が言い終わるのを待って、土方は茶を口に運んだ。
「言っちまったというわけか……」
「まさかそこで、斬り合いになるとは思ってまへんよって」
「馬鹿どもにお前の常識は通用しねぇよ」
 鉄之助は島原がどういう所か行った事がないのでわからないが、こうしている間にも死人など出て大変な事になっているのではないかと思う。京を取り締まっているのは新選組だけではないのだ。普通は何かあれば、十手持ちが詰める番所か奉行所に行く。
「副長……」
「大丈夫だよ。鉄之助くん」
「沖田さん……」
「輪違屋さんが直接ここに連絡を寄越して来たという事は、乱闘騒ぎになっても任せておけるほど、梅乃さんのお相手はなかなかの剣豪らしいね。要するに新選組(うち)は火消しって事……ですか?」
 沖田最後の「要するに新選組は火消しって事……ですか?」という言葉は、佐吉に向けられていた。
「梅乃の相手の客、何者なんだ?」
「伊庭はん――、と梅乃は言うてました」
「土方さん、何処かで聞いたような名前なのですが……」
 沖田の言葉に、土方が溜め息をついた。
「……あいつしかいねぇだろうな」
「お知り合いですか?」
「伊庭八郎さんって言ってね。江戸にいた頃は、自分の道場よりよくうちの道場によくやって来ていたんだ。京にいるとは思わなかったなぁ。どおりで、新選組(うち)に報せが来た筈だよ。彼なら私たちがぞろぞろ出て行かなくても、お馬鹿な浪士たちを倒しちゃってるよ」
沖田曰く伊庭八郎は、江戸四大道場と言われる剣術道場『練武館』の跡取りで、跡取りだけに心形刀流の使い手だという。
 ついた渾名が小天狗、それほど強いというのだろう。何でも後に、殿中の宿衛・各所の警衛などの勤番をした大番士となったという。要は、直参である。
「凄い方とお知り合いなんですね?」
 お目見え以上の直参(※将軍に直接拝謁できる旗本)とは、大出世である。
 確かに芸妓と直参では、身分が違う。
「凄かねぇよ……。奴がらみの事件となると、面倒を起こす場所が決まって(くるわ)だって事だ。まったく懲りねぇ野郎だな」
「どうします?土方さん。もし本当に伊庭さんなら助けないまでも本当に相手を倒していますよ」
「それは困ります! これは君菊太夫の頼みでもおますのや」
 君菊と聞いて、沖田がにっと笑う。
「なぁんだ。新選組(うち)への依頼は土方さんのお馴染みさんでしたか」
 土方に睨まれる沖田だが、相変わらずなんのそのだ。
「どんな人なんですか?」
「お前は知らなくていい! 鉄之助」
「綺麗な人です。ねぇ? 土方さん」
 鉄之助には、君菊という女性がどんな人か気になった。

しおり