一
京、
木屋町通りは京の通りの一つであり、北は二条通から南は七条通まで、全長約22
通りの近くには鴨川と共に京を流れる高瀬川、道沿いには
慶応二年、十一月下旬――。
その日、市村鉄之助は木屋町通りの橋のたもとで「う~ん……」と唸っていた。
京に来て一月近くになるが、橋を渡れば団子に饅頭などの菓子処、更に飴屋が否応なく視界に入る。
どれも嫌いではないだけに、困りものである。目的地である飛脚屋『伊勢屋』まで寄り道せずに辿り着くか、はっきり言って自信はなかった。なんだかんだと云っても、鉄之助はまだ十四歳の少年である。
甘いものは嫌いではないし、寧ろ大好物である。これが頼まれごとではなく私的な散歩なら店に寄りたいが、寄り道をして帰れば、飛び上がるほどの雷が落ちる事が容易に推測できた。
といっても雷を落とすのは人間で、この京で泣く子も黙るという新選組副長・土方歳三なのだが。
「おや、今日はお一人でどないしはりました? あの怖そうなお侍はんは一緒ではないのどすか? 葛餅でもどうえ?」
菓子処の前を通れば女将が出てきて、声を掛けてくる。
女将とは一度しか会った事はないのだが、その時一緒にいたのが土方だったため、鉄之助の存在は彼女にしっかり記憶されていたようだ。
(怖そうなお侍……、ねぇ……)
まさかその《怖そうなお侍》が、新選組副長・土方歳三だとは
人相は悪くはないのだが、道を歩いていても眉間に小さな
侍が眉を寄せながら歩いてくれば、町人なら道を変えたくなるのは当然の反応だ。
迂闊に刺激して面倒に巻き込まれたりすれば、無礼打ちという事になりかねないからだ。
何せこの京には、その《怖そうなお侍》がたくさんいた。
商家などに押し入り、無理難題を言っては金を出させたりしているという不逞浪士たちである。
この頃には新選組の名はかなり町に知れ渡っていたようで、会った事がなくても新選組はと聞けば「人をぎょうさん斬ってはるという、えろう物騒な集団でっしゃろ」と答えが返ってくる。
その副長となれば、どんな答えが返ってくるか鉄之助は想像しただけで怖い。
この町の人にとっては町を荒らす不逞浪士も、彼らを取り締まっている新選組も怖い存在のようだ。
鉄之助がなぜその土方と一緒だったのかと言えば、彼も新選組の人間で「つきあえ」と引っ張り出されたからだ。
その時寄った店が、この女将の菓子処だったのである。
葛餅に興味は大いに惹かれるも、鉄之助は「また今度」と言って菓子処の女将に別れを告げた。
鉄之助は、何処にでもいそうな普通の少年である。
質素な着物袴に髪は一つに括り、たったったっと早足で歩けば仔犬の尾のように髷が揺れる。
武士の子として生まれたが性格はのんびりとしていて、少し抜けているのが玉に
*
鉄之助が
鉄之助の生まれは美濃大垣藩(※現・岐阜県大垣市)だが、訳あって近江・国友村で暮らすようになり、それから十年たった頃である。鉄之助は思い詰めたような表情の兄・辰之助から、告げられたのだ。
――京へ行き、新選組に入る!
一瞬何を言われているのか、鉄之助には
鉄之助が生まれた時には既に、尊皇攘夷の嵐真っ只中である。
開国によって
――
尊皇攘夷という嵐は、その帝が座す京で激化した。町では天誅が横行し、百鬼夜行ならがらの光景が展開されたという。
攘夷の火は下火になったと云うが、町には悪行を働く不逞浪士もいる。そんな不逞浪士を日夜取り締まっているという新選組に、鉄之助は入隊した。兄・辰之助のように「共に幕府の為に働きたい」という立派な志ではなく、行く所がなく着いてきただけだったが、早くも不安になってきた。
何しろまだ元服もしておらず、何かやろかしそうで自分が怖い。
(大丈夫か……? 俺)
高瀬川の淵で空を見上げ、鉄之助は己に問う。
空は薄曇りで、今にも雪が舞いそうだ。
大丈夫という確信は何処にもなく、今更おめおめと近江にも生まれ故郷・美濃大垣にも帰るわけにはいかない。
鉄之助にとっては生まれてから五年間しか暮らした事しかない故郷であったが、養老山(※現在も養老町と大垣市にまたがる標高859mの山)に沈む夕日は現在でも心に焼き付いている。
鉄之助の父・市村右衛門は、美濃大垣藩士として藩の財政を担当する蔵奉行に就いていた。
もしそのまま美濃大垣藩にいれば鉄之助兄弟の人生は変わっていたかも知れないが、事件は突然襲ってきた。
大垣城から戻った父の一言は「藩内から出よとの、殿の仰せである」だった。
大垣藩主と父・市村右衛門との間に何があったのか、鉄之助は知らない。その後に親類を頼って移り住んだ近江国・国友村で長々と浪人暮らしが始まった。その間に帰参の許しもな他藩への士官口もなく、焦る兄・辰之助に反して鉄之助は気楽に育ちすぎた。
鉄之助にとってはそこでの生活は結構楽しかったが、既に二十歳を過ぎていた辰之助は違ったようだ。
武士たるもの主君に仕え忠義を尽くす――、と思っている。仕官する手立ては最低三つ、一は評判を聞きつけた大名家からの誘いに応じる。二は、他家に仕官している友人や遠縁に口添えを頼む。そして最後は、大名家の重臣に頼みに行くらしい。
しかし兄・辰之助は特に剣の腕がいいというわけでもないため、評判を聞きつけた大名家からの誘いに応じるというこの手はない。次に他家に仕官している友人や遠縁に口添えを頼むという手は、そんな者はいない。最後に大名家の重臣に頼みに行くという手は、門前払いにあいそうだ。しかも美濃大垣藩から放逐されて十年、そんな手があればとっくに仕官している筈である。
鉄之助は方は諦めに入っていたが、辰之助は諦めてはいなかった。漸く見つけたという。
それが、新選組入隊である。十にも満たぬ子供は別として、入隊資格に年齢も身分も問わぬと云う。
仕官の道から新選組入隊を決意した兄に、鉄之助はよくわからないままついていくことにした。
国友の親類といてもしばらくはいいだろうが、いずれ独り立ちしなければならない。
仕官口を探して浪人脱却を狙うか、それともこのまま浪人として近くの子供たちに読み書きを教えながら暮らすか、あるいは刀を捨てて農民として暮らすか。選択肢は様々だが、母を亡くし父も亡くし、今度は兄と別れたら二度とは会えない。
侍として生きていくとしても、鉄之助は世の厳しさも武士の心構えも父から学ぶ事は出来なかった。
そんな鉄之助が新選組で就いた、
平隊士のように市中巡察や捕縛等は出来ないが、局長・副長の身の回りなど雑務をするその
「へっ……、くしょんっ」
慣れぬ冬の京、
鼻の下を擦り進行方向へ視線を運べば、
(いかん、いかんっ! 寄り道なんぞして帰れば間違いなく副長に怒鳴られる……)
鉄之助の脳裏には、彼を使いに出した副長・土方の顔が再び浮かんでいた。
土方は目鼻立ちが引き締まり、鉄之助の目から見ても頗る美丈夫である。
総髪に結った髷は背に流し、局長・近藤勇のようにがっしりとした体躯でないものの逞しい体躯だ。
新選組隊士からも鬼と噂される副長・土方――、無言で腕を組んでいても怖かったが、怒鳴り声も怖かった。
ある日、土方が茶を煎れろと云うので鉄之助は茶を煎れる事になった。
まさか新選組入隊早々茶を煎れさせられるとは思っていなかったが、取り敢えず茶葉を入れてみた。
やけにこんもりとしていたが「ま、いっかぁ」と思ったのがいけなかったようだ。
一口飲んだ土方が眉を寄せて「これは何だ……?」と聞いてくる。
「お茶ですが……?」
「ちゃんと茶葉を計ったんだろうな……?」
「茶葉って計るんですか?」
鉄之助は、馬鹿ではない。知らないだけである。
鉄之助の煎れた初めての茶は、相当渋かったらしい。「馬鹿野郎!」と怒鳴られた。
「まったく、なんでお前みたいのが新選組に……」
前髪を掻き上げながらぼやく土方に、鉄之助も是非その理由を知りたいと思う。
この十日で何とか茶は煎れられるようになったが、今度は町へ使いに行けと言われた。郷里に、文を送るのだという。
畳には書き損じの紙が散乱し、拾ってみたが文字とは疑わしい造形物に鉄之助は首を傾げた。
「……なんだ……?」
文机に座していた土方は、この日も仏頂面で睨んで来た。
お陰で「何て字ですか?」とは聞けない。まさか正直に「このミミズの這ったような字は」とも言えず、鉄之助は取り敢えず褒めることにした。
「い、いやぁ……、達筆過ぎて、俺にはとても……」
だが鉄之助の褒め言葉は、通じなかった。土方は眉間にもう一本皺を増やし「嘘が下手だな」と返す。
「え……」
「そっくり同じ言葉を、総司の奴に言われたんだよ。しかも、笑いながら」
「そ、そうなんですか?」
「総司め、俺の字をミミズだとほざきやがった……!」
この土方にはっきりとミミズのような字といえるのも凄いが、彼を相手に軽口を言えるのは大所帯の新選組でも唯一、副長助勤・一番隊組長の沖田総司だという。
鉄之助は「ミミズ」とは言わなかったが、思った事は顔に正直に出るらしい。土方に「てめぇもか……」と、睨まれた。
こうしてして鉄之助は木屋町に来る事になったのだが、いくら以前より平穏になったとは言っても不逞浪士や反幕府派の過激な人間はまだいるわけで。
沖田の弁に寄れば新選組というだけで、斬りかかってくる者もいたらしい。
鉄之助にとっては不慣れな京の町、不逞浪士に因縁をつけられたら一目散に逃げるしかない。
「はぁ……」
鉄之助の溜め息が、京洛に鳴り渡る
幸い恐れていた不逞浪士と遭遇する事はなく、鉄之助は『伊勢屋』の
***
四条木屋町に店を構える飛脚屋『伊勢屋』は、飛脚屋としては
鉄之助がこの『伊勢屋』に来るのはこれが二度目、一人で来るのは初めてである。だから、伊勢屋の主・
「では頼んだぞ。伊勢屋」
「畏まりました。お殿様にはよろしゅう」
「脇坂……」
鉄之助は思わず、男の名前を口にしていた。
まずいと鉄之助は思ったが遅かった。脇坂と呼ばれた男は眉を寄せ、鉄之助を睨んでいる。
確かに鉄之助のような子供に突然呼び捨てされれば、無礼と思われて当然だろう。
「そなた――、なにゆえ某の名を知っている……?」
「脇坂さま、この方は怪しい者ではございません。土方せんせのお小姓はんでございます」
伊勢屋清兵衛が割って入ると脇坂が「あの男の?」と表情は怖いままだ。
「初耳だな。あの男とは何度も会っているが、小姓がいるなど聞いてはおらん」
「一月前に入隊されはった――、そうどしたなぁ? 市村はん」
「え、ええ……」
伊勢屋清兵衛の説明に脇坂は「ほう……」と納得したような事を発しながらも、その目はまだ訝しげである。
飛脚屋『伊勢屋』の主・伊勢屋清兵衛は齢五十七、会津藩出入りの飛脚屋とあって店は繁盛しているらしい。
本来大名家は大名飛脚(※江戸と国元との連絡に従事した飛脚)を使うらしいが、費用がすべて大名自身にかかるために衰微していったという。
新選組は、その会津藩と深い関係にある。
会津藩主・松平肥後守容保はこの京に於いて京都守護職の地位にあり、新選組はその傘下にあったからだ。そんな両者の連絡役が会津藩公用方で、脇坂はその公用方の名前だ。
鉄之助が脇坂の名前を知っていたのは、局長の近藤勇と土方の会話で脇坂の名が出て来たからだ。
小姓という仕事がら二人の会話中に出くわす事はよくある事で、二人は重要な会話ではない限り鉄之助が側にいようが構わず話している。ただ、鉄之助はこの時小さな失敗をした。
脇坂の名を呟いた時点で、両長の会話を聞きましたと外に漏らした事になるからだ。
これでは寄り道をしなくても、雷が落ちるのは確定かも知れない。
脇坂を見送って、伊勢屋清兵衛が鉄之助の応対を始める。
「市村はん。今日はどないしはりました? 国元へ文どすか?」
「副長の使いです」
「土方せんせの? それはそれは。まずはお上がりください。ちょうど《下鴨のみたらし》がおますよって」
下鴨のみたらしとは、下鴨神社の境内で売られている醤油の味が香ばしい串団子である。(※現代では醤油と黒砂糖を使ったたれ)
みたらし団子に興味はもの凄く惹かれる鉄之助だが、返ったらその『土方せんせ』に何を言われるか理解らない。
想像しただけで、怖い鉄之助である。
「いえ、これを届けたら帰ります」
「そないな事いわんと。わてからあんじょう言っておきますさかい、新選組のお人には感謝しとるんですわ」
伊勢屋清兵衛は何でも、以前に長州藩の人間に斬られそうになった事があるという。
長州藩は尊皇攘夷勢力の急先鋒と言われ、伊勢屋はそんな彼らを取り締まる京都守護職・会津藩出入りの店である。幕府に味方する店主とあって襲われたらしい。
そんな伊勢屋を救ったのが巡察中の、土方だったという。
「ほんに、土方せんせには助けられましたわ」
飛脚屋『伊勢屋』の座敷で、伊勢屋清兵衛はにこにこと笑っている。
(お、俺は絶対、みたらし団子につられたんじゃないからな……!)
鉄之助の前には、串に刺さったみたらし団子が置かれている。「このまま帰すのは、わての義理が立ちまへん」という清兵衛に、この座敷まで導かれてしまったのだ。
結局なんだかんだと付き合わされ、鉄之助が新選組の屯所がある西本願寺山門を潜ったのは未の刻であった。
使いに出てから一刻以上は経っているため、鉄之助は副長・土方歳三の部屋には行きたくはなかった。
といって行かない訳にはいかない。
「ただいま、戻りました」
入れという土方の声で障子を開けると、案の定土方に睨まれた。
「――随分と、
「い、伊勢屋さんが話してくれなくて……」
「あの伊勢屋がお前を引き留める理由は……?」
「鉄之助くん――、みたらし団子を食べたね?」
「え……」
何故か土方の部屋には、沖田もいた。
土方と沖田の前には茶があり、鉄之助が帰っていない為に土方の茶は他の隊士が煎れたようだ。
しかし何故沖田には、鉄之助がみたらし団子を馳走になったのが理解ったのか。
「いいなぁ。私が伊勢屋さんに行った時はお茶しか出なかったのに」
「くだらん……」
「くだらんといいますけどね、土方さん。下鴨のみたらしは絶品なんですよ。何処かの誰かさんは、ご馳走する気は全くないケチだし、こうしていも茶菓子もでないし」
そう言って沖田は、茶をズッと啜る。
「総司、お前はいったい何をしに来た? まさか、茶だけ飲みに来た――、ンじゃねぇだろうな」
「やっぱり、宇治の最高茶葉は違いますねぇ。永倉さんが言ってたんですが、隊士部屋で飲む茶は馬の――……」
「総司、それ以上は言うな。第一、
二人の会話は明らかに脱線しかけ、鉄之助が説教される事はなかった。
そうしている間に、当の永倉新八がやって来た。
「俺がどうかしましたか? 土方さん」
話のネタにされたとは知らない永倉は、巡察を終えて帰ってきたばかりで首を傾げるだけだ。
新選組には副長の下に、計十名の副長助勤がいる。彼らは一番から十番の隊を率いる組長として、新選組では精鋭である。そのうち一番隊組長が沖田総司で、次の二番隊組長がこの永倉新八であった。
「ところで土方さん、長州の藩邸前で《あの人》に会いましたぜ? あの政変で長州人は減りましたけど、《あの人》自ら監視とは思えませんね」
「他に誰か一緒だったか?」
「いいや、一人でしたよ。こっちはまだ巡察中だったんで、そのまま巡察を続けましたけどねぇ」
鉄之助が首を傾げていると、
慶応二年は、あと一月で終わりである。来年はいい年になるになるだろうか。いや、なって欲しい。
濡れ縁に腰かけて空を見上げれば、
「やはり、奴は危険だな」
「でもそれだけじゃあ、何の証拠にもならねぇぜ? 土方さん」
座敷から漏れてくる会話に、鉄之助の心も曇った。ここは、鉄之助が育った山村ではない。新選組の屯所であり、何かあれば出かけていかねばならない。普段は冗談を言っている彼らでも、町を守る為には刀を抜く。
時には、人を斬ることも――。
「私には《あの人》は間者には見えませんけどねぇ」
「とりあえず近藤さんへの報告はまだだ。長州人と会っていたからと《奴》が間者とは限らねぇ。《奴》の監視は他の者にやらせる。永倉、手をひけ」
「俺じゃ役不足ですかい? 土方さん」
「そうは言っていねぇ。お前の力を借りる時は遠慮なく言うさ。探りは《本職》にやらせる」
三人が誰の事を話しているのか、鉄之助には
暮れ六つ(※午後6時)――、この時刻になると屯所で忙しくなるのが台所である。
巡察担当組は、午と夜中の交代制。午は辰の刻(※午前8時)に屯所を出て、暮れ六つに帰ってくる。夜中の組は戌の刻(※午後20時)に屯所を出て、丑の刻(※午前2時)に戻ってくるらしい。
つまり、これからは夕餉となる。
「おや、鉄之助くん」
そう鉄之助に声を掛けてきたのは壮年の隊士で、着物袴にたすき掛けをしていた。
「……六番隊組長なのに、夕餉の支度ですか? 井上さん」
「好きでしているんだよ。何せここは大所帯だからね。賄い方だけでは可哀想でねぇ」
沖田や永倉と同等の副長助勤である井上源三郎は「トシにはやらなくていいと言われているんだけどね」と言いながら、鍋の木蓋を開けて中身をかき混ぜ始めた。
井上源三郎は副長・土方と同じ武州多摩・日野(※現在の東京都日野市)の出身で、土方が鉄之助ぐらいの年から知っているという。昔の土方を聞いてみたい気もするが、今は夕餉の支度中だ。
「俺に出来る事があれは、お手伝いしましょうか? 井上さん」
「トシの方はいいのかい?」
「ええ。自由にしててもいいと言われてますので」
井上が「なら、大根を洗って欲しい」と言うので、鉄之助は井戸端へ向かった。
外へ出れば、巡察組とは別に山門を潜ってくる隊士が数人いた。
先頭を歩く男はなかなかの美丈夫で、来ている羽織袴も上質そうである。
「確か……あの人――」
「参謀の伊東甲子太郎だ」
「うわぁ……っ」
まさか背後に人がいるとは思っていなかったため、鉄之助は飛び退いた。
「は、原田さん……?」
「何も驚く事はねぇだろう?」
背は恐らく土方よりあるかも知れない。槍を肩に担ぎ、はだけた袷からは腹に巻かれた晒が覗いている。
「どうしてここに……?」
「あのなぁ……、俺も
原田はそう言って、頭を掻く。
この男もまた副長助勤で、十番隊組長・原田左之助である。屯所の近くに家を構え、まさという妻と茂という男児がいるという。
そんな原田と鉄之助に、伊東と歩く小柄な隊士が気づいた。
「左之助さん! なんだ、テツも一緒か」
「平助、伊東と何処に行ってたんだ?」
「島原に行った事がないというからさー」
「なんで俺を誘わねぇ」
「左之助さんには《おまさ》さんがいるじゃねぇか。まさか近藤さんのように妾を作る気かよ」
「俺が言っているのは、なぜお前のようなガキに島原へ案内しろと伊東が言うかだ。お前にそっちの経験があるようには見えねぇのによ。なぁ? テツ」
「え……」
なぁと話を振られても、鉄之助は困るというものだ。
原田と話していたのは副長助勤の一人、八番隊組長の藤堂平助である。
幹部の中では最年少で、鉄之助はよく藤堂と並べらる。雰囲気が似ているそうだ。
「左之助さん! 俺はこいつよりガキじゃないぜ。元服だってとっくにすんでるし!」
「そうキャンキャン吠えるな……。俺ンちの隣にいる犬ころ(※仔犬)を思い出す。お陰で寝不足だ……」
原田が目尻に涙を浮かべて大欠伸をすれば、犬に例えられた藤堂がぷくっと頬を膨らませた。
「あ、大根」
鉄之助は井上の手伝いをしていた事を思いだし、急いで井戸端へ向かった。
恐らく大根は夕餉の一部、洗うのが遅くなれば夕餉も遅くなり、その原因となったのは誰かとなれば隊士全員の視線が鉄之助に突き刺さる事になる。
いくら常に土方の鋭い視線を浴びているからと、百は超す隊士全員の視線を受け止める度胸は鉄之助にはない。
「大変だねぇ……」
頭から降ってくる声に見上げれば、伊東甲子太郎が開いた扇子を口に立てていた。
伊東甲子太郎は藤堂平助の仲介により、参謀兼文学師範として新選組に加盟したという。容姿端麗で文武に秀で、弁舌にも長け、彼の開く講義はあっという間に人気になったらしい。
「仕事ですし……」
「君の仕事は、土方くんの小姓じゃなかったのかい? それともこれは彼の命令かい?」
「違いますが……」
「そもそも――、武士が台所に立つなど……。これだから幕府は……」
「え……」
伊東は新選組では副長助勤より上、局長・副長に並ぶ最高幹部の参謀職である。
鉄之助は、どうもこの伊東が苦手だった。伊東を人以外に例えるのなら蛇――、じっと見られると白いものも黒といいそうになる気がしてならない。そんな鉄之助の苦手意識が顔に出ていたのか、伊東が表情を緩めた。
「いや何でもない。確か市村くんだったか。今度私の講義に参加をするといい。学ぶ事は良いことだよ。これからの時代は特にね」
伊東を見送って、鉄之助はやれやれと大根を洗い始めるのであった。