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プロローグ

プロローグ

 慶応四年八月二十一日――、江戸から北上した新選組と旧・徳川幕府軍は会津・母成峠(ぼなりとうげ)(※現・福島県郡山市・猪苗代町)で、薩長新政府・討伐軍と衝突した。世に言う、会津戦争の始まりである。
 この頃、新選組は会津で会津残留組と北上組の二隊に分かれ、北上組は米沢に向かっていた。目的は米沢藩に会津への援軍嘆願だったがその途上、新選組副長・土方歳三は空を見上げ呟いた。
「これで――、誰もいなくなっちまったな……」
 仲間を次々失い、会津でもまたしても一人、土方たちの元を離れた。
 新選組幹部として残った副長助勤最後の一人、斉藤一が会津で最後まで戦うべきだと主張し、北上するという土方と意見が分かれた為である。
「斉藤さんなら、大丈夫ですよ。副長」
「お前に励まされるようじゃ、俺も落ちたな」
 鉄之助の言葉に「ふんっ」と鼻を鳴らす彼は、鉄之助の知っているいつも土方だった。
 既に徳川の世は終わりを告げて、朝廷を中心とした薩長新政府の世である。しかし戦いの火は消えず、嘗て京都守護職であった会津藩は朝敵の烙印を押され、新政府軍に挑もうとする旧幕府軍は賊軍とされた。
 戦火は東北の地を飲み、米沢藩では援軍どころではなかったらしい。
 土方率いる新選組は、斉藤がいる会津に戻ることはなく仙台を目指した。
 市村鉄之助は、新選組隊士としてはまだ十五歳の少年であった。
 彼の所属は副長附き・両長召抱人(りょうちょうめしかかえにん)といい、土方の身の回りに於ける雑務を担う。土方の側についてまだ二年、まさか戦いに巻き込まれるとは思っていなかったが、鉄之助に悔いはなかった。
 顔を上げれば、土方の背がある。
 この二年間、鉄之助がずっと見続けてきた土方の背である。
 戦いの怖さも、仲間を失う悲しさや寂しさも、彼の背を見れば再びやる気が漲ってくる。まるで空に翻る、新選組の《誠》の隊旗のように。
 それからしばらくして慶応から明治に改元、秋風が吹き始めた九月八日の事であった。

                         ***

仙台は伊達政宗を藩祖とし、嘗ては伊達藩と呼ばれていたという。
 仙台青葉城下では、東北・北越諸藩(ほくえつしょはん)からなる奥羽越列藩同盟軍も、臨戦態勢が整いつつあった。奥羽列藩同盟軍とは、会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための結成だったしい。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟となったという。
(そのうち仙台(ここ)も、戦場になるんだろうな……)
 空は快晴とは言い難いが、清々しい秋の空である。
 鉄之助は宿営地から出ると「うんっ」と力んで、背伸びをした。
 視線を前へ向ければ、半マンテル(※士官以下が来ていた軍服)にその上から陣羽織、頭には陣笠を被った幕兵が、ゲベール銃を肩から下げて鉄之助の前を駆けて行く。
 新選組が仙台に入ったのはこの仙台青葉城で新政府軍を迎え撃つためだったが、。仙台青葉城での奥羽越列藩同盟軍の軍議に参加し戻って来た土方は、もの凄く不機嫌だった。
 土方と擦れ違った幕兵が、飛び退いたほどである。
 腰から和泉守兼定を抜くと、土方はどかっと椅子に身体を沈めた。
(う~ん……、今日は一段と怖いな……)
 鉄之助は茶を手に土方の部屋に入ったものの、近づけば凍死しそうな冷気を放っている土方にたじろいだ。
 君子危うきに近寄らず――ということわざがあるが、鉄之助の場合はそうはいかない。茶が冷めてしまうし、ここでの仕事もあるのだ。それなのに土方の第一声は「何か、用か?」ときた。
「――茶を……」
 土方は、男でも惚れ惚れとする美丈夫だ。既に背に流していた髷は落とし、髪は肩までしかない。時折顔に落ちてくる髪を煩そうに掻き上げている。
 着ているものも黒羅紗のフロックコートに下はズボンと長靴(ブーツ)、コートの下は白のシャツにベスト、首にはクラバット(※スカーフ状のタイ)と洋装も様になっている。ただ眉を寄せ、仏頂面で睨んで来る癖は京にいる頃から変わっていない。
 茶を持って来いと命じて「何か用か」はないだろう――と思う鉄之助だが、相手は副長の土方である。反応が遅れるのは今に始まった事ではないため、鉄之助も慣れたものだ。にこっと笑って机に茶を置いた。 
 鉄之助に出来るのは宿営に帰ってくる土方を待ち、こうして茶を煎れる事しかできない。
 そんな土方が、おもむろに口を開く。
「新選組は、蝦夷に向かう事にする」
「蝦夷――、ですか?」
 何でも仙台には榎本武揚という旧幕臣が、幕府艦八隻を奪ってやって来ているという。
 本来ならば、幕府艦は新政府に徴収されるはずだったらしく、お陰で榎本自身も新政府に睨まれる事になったようだ。
「榎本さんは、蝦夷に行くそうだ。もはや、何処の藩領(※藩が治める土地)に行っても結果は同じだ。本気で新政府軍と戦うと云う藩は、会津だけだろうよ」
 奥羽列藩同盟軍は、瓦解が始まっているらしい。
 相手は朝廷の正規軍で、彼らと戦う事は賊軍となる事を覚悟しなければならない。兵力も英国・仏国など最新鋭の軍備を揃えて進軍してくるだろう。傷は浅いうちに――、会議では降伏という言葉は出なかったものの尻込みし始めた藩がいたらしい。
「俺は副長の行かれる所ならお供します」 
「帰って来られる保証はねぇぞ。お前にはお前の道がある。無理をして俺たちに付き合う事はねぇんだぞ」
「俺はもう逃げないって決めたんです。己の心に偽りなく――、でしょう?」

 ――武士たるもの、己の心に偽りなく、人として正しいと思うのなら迷わずその道を貫け。

 以前、鉄之助が土方から言われた言葉である。
「ふん。口だけは達者になりやがって」
 そう言う土方の声に怒気はなく、土方はいつもよりゆっくりと茶を味わうのだった。
そしてそれから数日後――。

 榎本武揚率いる幕府艦、開陽丸(かいようまる)回天丸(かいてんまる)蟠竜丸(ばんりゅうまる)千代田形(ちよだがた)神速丸(しんそくまる)長鯨丸(ちょうげいまる)の六隻と更に仙台から太江丸・鳳凰丸の八隻は蝦夷へ向けて出航した。いくらまだ秋とは云え、北の海に吹く風は既に冷たい。
 鉄之助たちは大江丸に乗艦し、離れていく本州を見送った。 
 既に世は、朝廷を中心とする薩長新政府の世である。その新政府の横暴に堪えかねて開戦となったが、土方の予想通り新政府軍に対抗し続けていた奥羽列藩同盟軍は次々と降伏したらしい。
 見上げる空は、生憎(あいにく)の曇り空である。
(斉藤さん、無事かな……)
 鉄之助の脳裏には、会津への恩を最後まで貫くと言って別れた、新選組三番隊組長・斎藤一の顔が浮かぶ。
 斉藤曰く、会津が拾ってくれなかったら新選組はなかったと言う。
 仙台で桑名藩主・松平定敬と共に蝦夷行きを決断した桑名藩兵によれば、会津若松城(※鶴ヶ城)も陥落したという。
 この桑名藩、嘗ては京都所司代にあった為に会津藩と並んで新政府に朝敵され、松平定敬と会津藩主・松平肥後守容保は実の兄弟でもあるという。
 会津藩降伏後、斎藤が会津でどうなったのか鉄之助に知る術はない。
 幸い追ってくる敵艦の姿はなく、旧幕府軍を乗せた八隻は宮古湾を過ぎて津軽海峡に差し掛かろうとしていた。
「おっと……!」
 海は時化(しけ)て、鉄鋼製の(ふね)だろうが荒波は軽々と船底を持ち上げてくる。その度に、鉄之助は艦の上で何度か蹌踉(よろ)めいた。 一昔前の木造船なら、鉄之助の身体など海に放り出されて鮫の餌だろう。と言っても鉄之助が船に乗ろうという時には既に蒸気機関の艦が主流で、木造船には乗った事はないのだが。
 鉄之助が最初に艦に乗ったのは、伏見の地で新選組を含む幕府側が新政府軍に大敗し、江戸へ向かう時だ。その時は初めてだった所為か船酔いに悩まされ、青い顔で立っていれば「吐くなよ」と土方に睨まれた。
 あの頃は多くの仲間が鉄之助の周りにいて、寂しいと思うことはなかった。
 
 ――意地っ張り。

 誰かの声がして振り向けば、そこには誰もいない。
 ――本当は怖いンだろ? だったら帰ろう。昔のように逃げちゃえ。
 海鳴りに混じって、その声は更に鉄之助を誘惑してくる。
 確かに以前の鉄之助は怖がりで、直ぐに逃げ出していた。今だって正直、鉄之助は怖かった。
「逃げないよ。俺は」
 ――どうして? もう海の上だから?
「逃げないって決めたんだ。もう俺は、あの頃の俺じゃない」
 顔を上げれば少年が一人、足をぶらぶらさせながら積み上げられた荷の上に座っていた。
 こんな奴、この艦にいたっけかなと鉄之助は首を傾げてみたが、少年は揺れる艦をものともせずに座っている。
 しかも質素な着物袴と素足に藁草履(わらぞうり)、結った総髪もぼさぼさだ。
「そう……」
 少年がそれ以上鉄之助に聞いてくる事はなく、再び艦が揺れて鉄之助は尻餅(しりもち)をついた。
「痛ぁ……」
 打った尻を(さす)りながら立ち上がれば、あの少年はもうそこにはいなかった。まさかと、鉄之助は慌てて海面を覗き込む。
「落ちちゃったんじゃないだろうな……?」
 どうしようと思っていると「吐くんじゃねぇぞ」という声に、鉄之助は振り向いた。
「副長……」
 鉄之助の背後にいたのは、土方である。
 腕を組んで眉を寄せ、呆れたような声を発した。
「船酔いではありません」
「最初の頃のお前は、艦が揺れる度にぎゃあぎゃあ騒いでたな」
「……よく覚えてますね……、そんなこと」
「当たり前だ。目の前で吐かれそうになってみろ」
 頼むからその記憶は消して欲しいと、鉄之助は己が情けなくなった。
「それより子供が海に落ちたかも知れないんです」
「お前も子供じゃねぇか」
 土方によればこの艦に、着物袴の奴は乗っていないらしい。
 では、鉄之助が出会った少年は誰だったのか。
 
「副長、斉藤さんは大丈夫ですよね……?」
 鉄之助の言葉に、土方は額に掛かる髪を掻き上げて言った。
「あいつは、新選組(うち)じゃ三本の指に入る剣の腕だったんだ。鉛玉をくらってくたばる奴じゃねぇよ」
 この戦いの結末がどうなるのか、誰にも理解らない。
 でも鉄之助は思う。
生きていれば、またみんなに会える。
 希望を捨てなければ、きっと。
 正直言って自分に何が出来るか、鉄之助には理解(わか)らない。
 新選組隊士と言っても十五の子供で、両長召抱人である。
(でも俺は――)
 鉄之助が幻の少年に言った言葉は、嘘ではない。
(俺は、逃げない)
 自分に出来るのは、些細(ささい)な事ぐらいだけかも知れない。それでも前だけを見続ける土方の背を、鉄之助はずっと見て来たのである。それは、これからも変わる事はない。
 未知の地、蝦夷・箱館――。季節は晩秋、最北の地は冬ともなれば極寒だろう。
「鉄之助」
「え……」
「――今更云っても仕方ねぇが、本当にいいんだな?」
 着いて行くといた鉄之助を、土方の鋭い目が見つめてくる。
 覚悟を問う土方の言葉に、鉄之助は顔をぐっと上げた。
「逃げません。俺も新選組隊士ですから」
「まだまだガキだと思っていたが――、新選組の人間らしくなったじゃねぇか」
「皆さんに(きた)えられましたから」
 そう答えると再度荒波に艦は揺れ、受け身を取る間もなく鉄之助は転ぶ。
「……副長……、痛いですぅ……」
 心も痛かった鉄之助だが、強打した鼻がもっと痛かった。
「そりゃあ、痛ぇだろうよ……」
「副長~っ」
「鼻血を拭け! そんな顔で俺に迫るんじゃねぇ」
 これからも、この人の背を追っていこう。
 いつしか雲の間から太陽が覗き、潮も穏やかになった。
 前方は、津軽海峡である。
 ――これが、最後の戦い。
 鉄之助には、そんな予感がした。
「副長、この戦いが終わったらお花見をしましょう。みんなで」
 土方からの返事はない。理解っている。無謀な願いだとは。
 土方から返ってきた言葉は――。
「だったら、死ぬんじゃねぇ」
 背を向ける土方がどんな顔をしていたのか、鉄之助は理解らない。
「はい――。死にません」
 鉄之助は力強く、土方の背に誓った。
 

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