白の女王・2
ICカードをタッチする軽やかな電子音を背に、私は東京メトロ千代田線の二重橋前駅の改札を抜けた。ここは一つ隣の大手町駅や周辺のビルへも地下で繋がっている。改めて思うに丸の内という場所は、とにかく特殊な土地柄だ。歴史と伝統ある東京駅直下とその周辺にある広大な地下空間は、まるで地上に幾つも出入口がある巨大な迷路の一部を思わせる。
腕時計で時刻を確認すると9時21分だった。友人達との約束の時間にはまだまだ余裕があるとはいえ、ここは道に迷わないように一旦、地上に出る必要があるだろう。私は地上へと繋がる階段へと足を向けた。
普段は通勤で利用するからよく知っているのだが、地下鉄駅の中でも迷路のように広大で深く、五つの路線を有することからマンモス駅とも評される大手町駅と違い、この二重橋前駅は皇居のお堀の傍に出られるということもあってか、狭苦しいほど人同士で混雑する地下を行くよりも地上に出た方がはるかにストレスは少なく道行きが楽だ。
地上のロケーションは立派なビルが幾つも建っていて行幸通りが東京駅へと真っ直ぐに続いている分、至ってシンプルな構造をしている。行幸通りは#御幸__みゆき__#通りとも呼ばれ、もちろん皇居の大切な方々を送り迎えする貴賓御輸送に使われることに由来する。かつては立派な馬車が行き交っていたという東京駅がそうした意味でも特別な場所であるというのは、昔も今も変わらないのだろう。
超高層タワービルにインテリジェントビル、センタービルやターミナルビル、複合商業ビルにファッションビルに雑居ビル。首都圏の都市構造を考える上で、ビルの発展や進化というものは欠かすことの出来ない要素だが、それと同時にこうした地下鉄や首都高速道路網という交通インフラのネットワークと共に成長、発展してきた首都圏大都市の地下という複雑な構造もまた、その広がり方や奥行きや進化の仕方、歩んできた歴史は正に巨大なラビリンスを歩いているような感覚で目眩を覚えるほどだ。十年近くも首都圏近郊に住んでいながら、地下の複雑な構造は未だに慣れない。
さながらマルセル・デュシャンの大ガラスを幾つも重ねたような風景とでも例えるべきだろうか。地下の構内から地上へと続く吹き抜けの空間や長いエスカレーター。最近ではデジタルサイネージなどもめずらしくはなくなった膨大な数の柱や広告。初見で利用者が迷ってしまう複数の路線へ繋がる地下鉄の改札。地上へ続く複数の導線や階段。ビル同士をいつの間にか通り抜けている立体的かつ複雑な多重構造。時に暴力的とも思えるような、通路を行き交う圧倒的な数の人々の波。それら全てがもたらす主観や錯視や死角。
五感から否応なくもたらされる膨大な情報量は、相対するだけでも大きなストレスとなる。無限大に肥大化する都市とその構造という巨大な怪物を丸ごと理解しながら、都会というその胎内で人の群れとして生きるということは、既にして自然の営みや人間の能力の限界を大きく越えてしまっているようにさえ思う。
昨今とみにマナーやモラルを窘められるスマホ歩きにイヤホン歩きをする人々が当たり前になっている背景も、満更理解できないではない。意図的に視覚や聴覚という感覚器官を自ら閉ざすか、複数の視覚によって重ねて見る能力や人間以上の頭脳を持つ化け物でもなければ、総体など理解できないに違いない。しかもレイヤーは何十何百も重なっている。小説と同じで多重かつ多次元なプロットを総括的に理解し、それを言葉にして説明するのが些かも難解で無駄な作業なのと同じで、これは諦めるよりないだろう。
物書きにプロットを求める人々はよくいるが、あらすじというならともかく、標識や記号が一切存在しない首都圏の地図をプロジェクションマッピングのように示して作品の構造から途中経過やら結末までを説明しろと言われたら、終わりのない迷路を永劫にさまようかのような圧迫感と恐怖を与え、物語を作る作者を発狂させてしまうに違いない。
階段を上がって地上に出ると、春先の穏やかな日差しが私を出迎えた。再び腕時計を見ると、時刻はまだ九時半を少し回ったくらいのものだった。スマートフォンで一応、一通り電車の遅延情報や友人達からのメッセージを確かめてみたが、首都圏の新幹線や在来線、地下鉄東京メトロや都営地下鉄のどの路線も、今のところ目立った遅れは出ていないようだった。
今日の三人での待ち合わせ場所は、いつぞやの事件で私と西園寺が待ち合わせた、東京駅の丸の内の地下南口にある動輪の広場にしていた。奇しくも前回の事件で、実はどちらも吉祥寺住まいだったと判明した友人の片桐美波と西園寺和也の二人は、今日はJR線を使って共に連れ立ってやって来ると言っていた。
これは実に驚くべきことであり、明日は吹雪や嵐が吹き荒れるのではないかというくらいの珍しい出来事である。というよりも、これは何か恐ろしい出来事が訪れる前兆ではないのかと疑いたくなるほどには、滅多にない出来事だろう。犬猿の仲という訳ではないのだが、賑やかで社交的な性格のあの二人は往々にしてその個性やアクの強さ故にしょっちゅう衝突しているイメージがある。
あの二人の難儀な性格からして、待ち合わせ場所に来る前に一騒動なり一悶着なりを起こして、他の旅客に多大な迷惑をかけていなければいいのだがと、私は要らぬ心配までしている。ややマイナス思考型な慎重派で世にいう草食系男子を自認する私が、ここまで心配するのには、それ相応の理由がある。普段の二人の顔や表情、その言動やその他諸々を知っているだけに不安は増すばかりである。
丸の内警察署強行班一係の警部補でキャリアである刑事の西園寺和也32才。大企業が幾つも入った巨大なオフィスビルに務めるビジネスパーソンの片桐美波26才。小学生でもあるまいに、そこは二人ともいい歳をした大人であり、さすがにそこまで大人げなく、はしたない真似などしていないはずだ。私は無理矢理にも己にそう言い聞かせることにした。自宅のマンションのある亀有駅からやって来た私だが、休日の日曜日の午前中ともなると普段とは客層も雰囲気もガラリと違うせいか、かなり気が楽なのは確かだ。
この地下鉄千代田線に限らず、首都圏の普段の朝夕の通勤ラッシュの時間帯といえば、あらゆる路線が会社員の乗客達で埋め尽くされ、ギュウギュウの寿司詰め状態となる。時間帯や路線の遅延状況や車内の位置取りその他によっては、乗車率は100%を軽く越える満員電車になることもあり、正直言って息苦しくなるほど殺伐とした雰囲気の中に置かれることもしばしばあるのだが、今日は休日でもあり、比較的乗客の数は少なく、客層も日曜日を楽しむ年輩の人々や子供を連れた家族連れや友達同士、カップル連れや大きなキャリーバッグを手にした外国人旅行客達などがほとんどだ。
おまけに私自身の服装も今日は堅苦しいスーツではなく、ブラウンのレザージャケットに下はデニムのブルージーンズにスニーカーで来ていた。座席に座れた上に手荷物も持たない軽装であることも手伝って、今日は気分的にも随分と穏やかなものである。
大手町駅で降りてもよかったのだが、今日はいつもと違って二重橋前駅で降りた私は、皇居の広大なお堀を背に散歩がてら、行幸通りからゆっくりのんびりと東京駅の方を目指して歩いていくことにした。
#燦々__さんさん__#と降り注ぐ春の陽射しが目に眩しい。風も暖かで春の訪れを実感する。私や西園寺の意に反して、絶好のデート日和というべきだろうか。幸いにも本日の天気は雲一つない快晴である。私は困った友人のあっけらかんとした姿をそこに重ね、深く溜め息をついた。人生とは実に皮肉なもので、こちらの思いや葛藤などは平気で呆気なく裏切られ、一瞬で瓦解する運命にあるようだ。我らが女王様曰く今日は特別な日であり、男二人に女性一人の“デート”なのだそうである。改めて思うに滅茶苦茶な名目である。
…いや、デートという表現や名目自体、これは根本的なところでおかしい。いや、設定やら大前提やら何から何まですっ飛ばしてデートというのだから色々とおかしいだろう。立派なのは周囲のロケーションだけである。私はこうして待ち合わせ場所に足を運んでいる現在でも、未だに納得などしていなかった。絶賛困惑中の身の上である。何せ昨日の今日の出来事であり、いきなり決まったことなのである。恐らく今頃、彼女と行動を共にしているであろう西園寺も同様で、まだ頭が真っ白な状況だろう。
困った友人曰く、我々は既に#艶__あで__#やかで麗しく美しい女王陛下を守る頼もしきロイヤルガードの騎士達であり、気高き探偵の女王から片時も離れず、おまけにか弱い女王陛下を命を賭して守る義務と責任まであるらしい。これはもう無茶というより、無茶苦茶である。いや、それすら通り越してもう滅茶苦茶というより他に表現しようがない。世の中の男性諸氏は往々にして、この種の女性の懇願だの命令だのには#抗__あらが__#えない宿命や立場にあるのだろうが、それにしても設定や状況その他が色々と本当に酷い。酷すぎて頭が痛くなる。
たんに友人同士が休日を共に過ごすことや、ついテンションに任せて言ってしまった我々の口約束を守らせる為に、強引な手段で有無を言わせず、選択肢の全く存在しない状況下に置かせ、訳も分からず一方的に誘って強引に食事だのショッピングだのに引き摺り回すことが果たしてデートと呼べるのだろうか。こう見えて西園寺も私も多忙なのだ。家族サービスをする身の上ではないのだが、休日くらいはゆっくりしていたいのだ。そこに我々の自由意志などないのか? 女王の命令は絶対で当たり前だとでもいうのだろうか? 私はもはや毒食わば皿までの心境で、深く考えることを完全に放棄した。
色々と突っ込みどころが満載な今日のデートではあるのだが、雲のない澄みきった春先の青空は本当に気持ちよく、思わず伸びをして深呼吸したくなるような心地の良さだった。今朝の天気予報では西東京の山間の方では、この時期にはめずらしいくらいの低気圧で冷え込んでくるような天気らしかったが、都心の方は一日中穏やかな晴天が続くだろうということだった。春一番がまだ残っているように周囲の風は少し強かったが、日差しは暖かく穏やかで、もうコートやダウンジャケットなど必要なくなりそうな陽気だった。
私は改めて周囲を見渡した。広大な皇居のお堀の周辺は緑も多く、抜群の広さとロケーションとあってか、周回するとちょうど約5キロメートルの距離にもなり、お堀の外周を走っている皇居ランナーと呼ばれる人々も今日はかなり多く見かける。
行幸通りの方から見ると、東京駅の丸の内側には工事用の囲いや重機がたくさん見えた。日曜日の朝ということもあってか、まだそれほど人通りは多くない。これは東京駅の大規模な工事が影響しているせいもあるのだろう。東京駅を象徴するような赤レンガの瀟洒で美しい丸の内駅舎の全景を期待して訪れる旅客達にとっては、まだまだ気が早いといったところで、残念ながら工事用の白い覆いの間から、赤レンガの外観が僅か覗く程度である。
明治41年(1908年)3月に着工し、大正3年(1914年)12月に開業したこの日本の玄関口である東京駅。赤レンガの瀟洒にして雄壮な姿が美しい丸の内駅舎は、日本の近代化を担う首都東京に誕生した中央駅として、数々の歴史の場面を眺めながら、丸の内という日本を代表するビジネス街とともに発展してきた。
丸の内駅舎は、平成24年に国指定の重要文化財として登録された。その両端にあたる北口と南口の二ヶ所にある、天井の高い吹き抜けのドームもまた、今年の10月には創建当時の姿に完全に復原されるのだと聞く。歴史を重ねてこれからの未来、これからの日本と世界が対話する街、Tokyo Station City(トーキョーステーションシティー)のシンボル部分として、この辺り一帯のロケーションは、未来への遺産として改めて歴史の一ページに刻まれる風景になるのだろう。
その完成した姿を想像すると、年甲斐もなく今からワクワクしてくるものである。赤レンガ造りのレトロモダンな建物が大変に魅力的な、あの東京駅が100年ぶりに完全に復活するのである。東京駅はJR東日本とJR東海の二つが共存する起点駅であり、駅長も二人いる。JR鉄道の東西を繋ぎ、地方から訪れる旅客はもちろん、海外からの旅行客も足繁く利用する。日本を代表するターミナル駅となる為に改装しているのであるから、丸の内近郊で働く私にとっても、その期待はひとしおというものである。
私は北口の方から、未だ工事中の覆いがかけられた赤レンガ駅舎の左右のドーム部分の通路を迂回して、真新しくも白いKITTE(キッテ)ビルのある地上の丸の内南改札口の方へと足を向けた。右手に目を転じれば、行幸通りを挟む丸ビルと新丸ビルの巨大な二対の高層ビルの姿に圧倒される。ちょうど東京駅の真正面を北側から南側へ横切っている形である。東京駅を中心として、それを囲むように周囲は近代的で立派なビル群が居並ぶ独特の光景が広がる場所である。
日本列島の東西を繋ぐ起点駅でもあるから、東京駅には東口と西口という改札口は存在しない。線路を隔てて八重洲側と丸の内側に分かれていて、それぞれに北口、中央口、南口と呼ぶ。丸の内で働く私のような勤め人達にとっては丸の内中央口だの八重洲中央口だのというのは呼び慣れた呼称でも、地方から高速バスや新幹線などで訪れる初見の人々にとっては同じ駅でありながら、八重洲口と丸ノ内口で地上だけで合計6ヵ所もある改札と、外に出たら出たで外観とてまるで顔の違う東京駅の姿形とその周辺の道行きの煩雑さには面食らうことになるだろう。
地方や海外から来たとおぼしき大型のキャリーバッグを転がす旅客達と何組もすれ違い、工事用の通路を通るにもかなり気を遣う。地上の丸の内北口、中央口、南口へと続く、この歩行者用の連絡通路も現在は工事用の高い囲いや覆いだのが左右を塞いでいる為に酷く狭いのである。ここから線路の向こう側にある八重洲側に行こうとすると、北側の連絡通路を通るか改札を通り抜ける以外に手っ取り早い方法がないのだ。電車に乗る訳でないのなら、改札を通り抜けるにも切符売り場で入場券というものを購入する必要がある。ICカードを使って入場自体は出来るだろうが、改札を出ようとすれば止められてしまうことだろう。
私は改めて工事中の広場を見渡した。タクシー乗り場やバスターミナルを含む、周辺の道路や東京ステーションホテルの地下の駐車場へと繋がるスロープ部分も含め、赤レンガ駅舎の正面にあたる広場を全面的に改修している。あちこちが工事中である為か、駅の正面側は工事用の資材と大型の重機などの諸々が年季の入ったパーテーションと骨組みの奥に丸ごと閉じ込められている状態である。私は周囲の巨大にして立派なビル群というロケーションも手伝ってか、かの名工ダイダロスが作ったミノス迷宮が現代に甦り、あたかも建造中であるかのような妙な感覚を覚えた。
日々移り変わり、目まぐるしい変化を遂げる大都会東京の丸の内。その赤レンガ駅舎は、未だに深くフード付きのコートを纏っているような状態である。この駅の王様、とりわけ私のいるこの丸の内側は、今年2014年の12月20日に創業100周年を迎えるのだそうだ。雄壮にして華麗な赤レンガが美しいその駅舎は、戦争当時に受けた爆撃の傷を物ともせず、最新の耐震技術や免震構造という最先端の建築技術の補強を経て、往時の姿へと生まれ変わろうとしている。
駅の王はまだ眠っている。覚醒の折りには、きっとこの上もなく立派な姿となって、数多くの人々に迎えられることになるのだろう。旅立つ人々の全てを受け入れる巨大で懐の深い駅は、ますます威風堂々とした姿となる。この場所は多くの人々にとって未知の新しい出会いや旅の始まりを予感させる、そんな未来へ続く場所へと今まさに生まれ変わろうとしているのだ。
東京駅の赤レンガ駅舎。緑豊かな皇居へと続く行幸通りを望む立派な広場。立派なビル群に高い空。実に絵になる構図である。いずれこの場所は丸の内広場と呼ばれ、たくさんの外国人旅行客や家族連れやカップルたちが訪れ、立派な丸の内駅舎の正門をバックに多くの人々がスマートフォンで写真を撮り、異国の子供たちまでが駆け回り、昼下がりのランチタイムには外で昼食を楽しむビジネスマン達もたくさんいるような賑やかな場所になるのだろうな、などと私は想像を逞しくした。
人混みでごった返す中で働くのは都会暮らしの大きなストレス要因だが、行幸通りから東京駅を一望できる眺めの中で通勤できるというのも、それはそれで考えてみれば、なかなかに贅沢な話である。帰りには東京駅から行幸通りを通って自宅へと帰る、このルートがこれから私は楽しみであり、これまた年甲斐もなくワクワクしてしまうのである。
私はいつか写真で見たベルリンのジャンダルメンマルクト(近衛騎兵広場)や、ペルーはクスコのアルマス広場のようになるのであろう、丸の内広場の雄大な景色を夢想した。東京駅周辺の高層ビルは、低層部を約百尺(31メートル)の高さで統一した、実に均整のとれた立派な景観なのである。いつか西園寺がたとえていた舞踏会デビューを待つお姫様ではないが、東京駅を王様とするならば、周囲のビル群は立派な甲冑を着て脇を固める騎士達や色とりどりの華麗なドレスを纏った侍女達にたとえても、けして言い過ぎな表現ではなかろうと思う。荘厳で美しい周囲の丸の内の立派なビル群を眺めつつ、ようやくにして私は丸の内の南改札口の方へとやって来た。
この東京駅は私にとって特別な場所である。私が初めてこの東京駅を利用したのは、まだ5才の時だ。なぜ、そんな幼い日の遠い昔のことを覚えているのかといえば、生まれて初めて迷子になったのが、何を隠そうこの東京駅だったからなのである。
東京駅に着いて早々、私は膨大な数の人混みに流されて迷子になってしまった。手を繋いでいたはずの母から離れ、一緒にいた父や兄ともはぐれて一人ぼっちでポツンと取り残され、絶望と孤独が全身を包み込んで、私は俯いていた。その時だった。
「どうしたの?」と目の前から優しげな声がした。顔を上げると、そこには一人の駅員さんがにこやかな顔で立っていた。子供の目線に合わせて目の前で話しかけてくれた、その優しくも明るい笑顔と白くて立派な制服姿にどっと安心感が込み上げ、私はその時になって始めて大泣きに泣いてしまった。心細かったのだ。
私の頭を撫でて、近くの改札で構内に迷子の放送を流してもらい、ほどなくして私は母達と再会して、また泣いた。今にして思えば、その人は駅長か助役クラスの人か、新幹線の乗務員だったのだろう。涙で霞む景色の中で、雑踏の中へ颯爽と去っていくその白くて立派な後ろ姿が眩しかった。子供の頃の私にとって、今でも忘れられないヒーローを思い出す場所なのだ。
初めて一人で東京を訪れたのは、高校生の時だった。新幹線の窓から覗く夕暮れ時の東京。東京駅へと近づくにつれ、キラキラする街並み。暖かで宝石のような灯りに照らされる中、道を行き交う仕事終わりのスーツ姿の人々。ファッション雑誌から抜け出てきたような容姿端麗な人々や最先端の流行やグルメ。時はバブルもはじけた就職難の氷河期真っ只中の時代だったが、その光景全てに憧れた。あれから十余年経った今、私はその東京で働いている。東京駅を通る度に、その当時のきらびやかな気持ちが甦る。
街は人そのものを映す鏡だ。立派な建造物に囲まれて暮らしていると、ただそれだけで誇らしい気持ちにだってなるものだ。誰が言ったかは忘れたが、崇高な物はそこに関わるだけでも幸福なことなのだ。そこで働く人々、そこに暮らす人々、道行く人々全てがその街を作っていく。私は美波や西園寺や多くの同僚や友人知人と共に働いている、この丸の内という場所が多分、好きなのだろう。丸の内と呼ばれる場所は、私をいつだって誇らしい気持ちにさせてくれる。そんな場所なのだ。
私がそんな無駄で愚にもつかぬ夢想に耽っていたその時、騒々しいその気配は前触れもなく、いきなり私の感覚に飛び込んできた。
…ああ、来た。
既にして私の五感はその気配を敏感に察知していた。空気が躁になっている状態、とでもいえばいいだろうか。祭りであれ、友人知人同士の集まりであれ、賑やかな場に特有の雰囲気というのはあるもので、そうした空気というのは伝わってくるものだ。あの二人の何が凄いのかといえば、まだ私が地下に降りきっていない階段の途中辺りから騒々しい雰囲気が気配として伝わってきているというのは、もはや普通ではないと思う。どうやら先に待ち合わせ場所に来ていた様子の美波と西園寺の二人は、動輪の近くの改札付近にいるようである。
「そんな風に強引な言い方しなくてもいいじゃありませんかッ! ちゃんと東城さんにも聞いてほしい大事なことなんですよッ!」
「東城は関係ねぇだろうが! アイツとは確かにダチで相棒みたいなもんだがな、こればっかりは譲れねぇ! いや、絶対にこれだけはアイツにだって譲らねぇぞ! 俺は好きなんだ! 心の底から愛してるんだ!」
私は衝撃を受けていた。普通どころか、既に会話の内容が只事ではない。
あの西園寺と美波が? 私は関係ない? 何の話だ? どういうことだ? まさか…。
「そ、そんな…! いきなり…そんなこと言われたって困ってしまいますわ。
…ああ、でも…でも、それをいうなら私だって好きです! 大好きなんです! 海よりも深く、山よりも大きく愛しているのです! 私だって譲れませんわ!」
「それは絶対に選べねぇってことなのか? どうなんだ? 今、お前が決めろ。男の仕事の七割は決断だ。後はおまけみてぇなもんだ。お前の覚悟を聞かせろ」
「そんな…酷いですわ…。いくらなんでも話が急すぎます!」
私は思わず足を止め、動輪の裏側にいる二人の声に聞き耳を立てていた。
「何を迷うことがあるってんだよ! 俺がお前を抱えていけばいい。このまま二人で、あの改札を抜けて、誰もいない暗がりの向こうで確かめ合えばいいだけのことだろうが!」
美波を抱える? 誰もいない? 暗がりの向こうで? 確かめ合えばいいだけ?
「そんな…! 東城さんがいないのに、そんなことが許される訳がないでしょう! 西園寺さん… 狡いですわ!
こんなの卑怯です! 今までそんな大事なこと、一言も私に言ってくれなかったのに…!
私、いつだって殿方の望みを受け入れる心の準備はしてきましたわ…。ああ、でも…でも、これだけは駄目です! 東城さんのいない場所で…そんな…。そんな、はしたないこと出来ません! 」
殿方の望みを受け入れる? 東城さんのいない場所では出来ない? そんなこと? はしたないこと?
「いいや、駄目だ。これは今、この場で二人で片をつけるべき問題だ! 好きなものは好きなんだ!」
好きなものは好き?
「だからって…だからって私だって選べません! 私も愛しているからです!」
私も愛している?
私は眩暈のする首を勢いよく振って、思わず茫然自失していた己の心に容赦なく鞭をくれた。壊れかけた己の精神を立て直し、自分を奮い起たせた。そんなことは許さない。それは絶対に許されない! 西園寺は抜け駆けか? 美波はどっち付かずという話なのか? 男女間に友情なんて存在しないというのか? いいや、そんな理由なんか、今はどうでもいい!
たとえ二人が既に男と女としてただならぬ関係なのだとしても、友人として…いや、二人の親友だからこそ今、この場で、あの二人のあられもない姿をこの目に、この耳にするわけにはいかない。そんな背徳的な業を背負う訳にはいかない。そうだ、今この二人を、この私が止めなくてどうするんだ!
私は今だかつてない大声で、かつての昭和の人気テレビ番組のようなセリフを、今だかつていない不埒千万でふしだらな、この二人に向かって言わなければならない! 今だ!
「ちょっと待ったあぁっ! 二人とも…!」
「焼き肉だっ!」
「お寿司です!」
「はぁああぁっ!?」
その時、二人の視線が、思わずすっとんきょうな大声を上げてしまった私の方へと向いた。ふと辺りを見渡せば、水を打ったような地下の沈黙の中で、動輪の広場に集まり出していた中学生達の好奇の視線が、私の方へと一斉に向いていた。
あ、不味い…。今のはヤバい! これはよくない! 非常によくない!
学生達が興味津々といった様子で引っ込みのつかなくなった私を見ている。担任の先生がこちらを訝しげに見ている。その私はといえば、掌を精一杯前に突きだしたまま硬直までしている。そんな間抜けな私に、西園寺の威勢のいい声が助け船に入ってくれた。
「あっ! やっと来やがったな、東城!
…なぁ、聞いてくれよ、このスットコドッコイのイカれニャンコが改札の中にある寿司屋か牛タン料理のお店でお昼ご飯を決めたいですわぁ、なんて訳のわからねぇことをぬかしやが…ぐぇっ! ギャハハハッ!」
西園寺の声が中途で遮られ、彼の派手で大きな笑い声が辺り一帯に響き渡った。見ると美波の杖がピンポイントに西園寺の脇腹の辺りを小突いている。小学生並みの悪ふざけだ。
「あ、東城さん! 待っていましたのよ。聞いてくださいな! このトンチンカンプンのド腐れ犬畜生野郎が、せっかくのデートだというのに、こんなか弱い女子の、ささやかなお願いすら聞いてくれな…ンひゃんッ!」
今度は美波が尻尾を踏まれた猫のような甲高い声を上げると、彼女の座った車椅子が私の視界から僅かに遠退いて広場の傾斜を滑っていく。見ると、西園寺が彼女の座る車椅子を絶妙な角度と強さで弧を描くように回転させて押していた。回転椅子で遊ぶ子供でもあるまいに、こちらもやっていることが小学生並みの悪ふざけである。私は思わず片手で顔をおおって天井を見上げた。
私の不安の種は、やはり的中した。嫌な予感ほど中るものなのだ。もはや様式美といった大人げない犬と猫の熾烈な(しょうもない)争いは、上品でシックな夜のショットバーという狭いリングでは飽きたらず、既に場外乱闘という最もあってはならない舞台へと移行しているのである。これはもう巻き込まれる方は堪ったものではない。
即座に体勢を立て直した二人は鼻先数センチまで顔を寄せあって相対した。速い。無論のこと、この見ようによっては美男美女の(いい年をした)二人の男女にこれから愛の囁きが交わされる訳は当然なく、二人の目の前には目に見えない火花が散っているのである。
「テメー口が悪ぃぞ、美波! 誰がド腐れ犬畜生野郎だ! あと頓珍漢と珍紛漢紛を混ぜんじゃねぇ。酷ぇのはオメーの日本語の方だ! 昼飯は焼き肉に決まってんだろうが! 俺は大好きなんだ! 心の底から愛してるんだよ! この肉への愛だけは譲れねぇ!」
「お昼はお寿司に決まっているでしょう! 私だって魚介を使った料理を心の底から愛しているのです。こればっかりは譲れませんし、すぐに選べるものではありませんわ!」
私はいきなりこの日、最初にして最大級の脱力感を覚えた。見れば、丸の内の地下南口の改札は何と見事に無人改札であり、美波の車椅子が通ろうにも改札口が狭い。辺りは工事中のせいか暗がりの向こうに東京駅の地下のグランスタの増床エリアと思われる工事中のシャッターが幾つか閉まった暗がりが広がっている。要は、あの暗がりの向こう側のショッピングエリアにある店に行って確かめたかったのだろう。二人にとってはちょうどいい判定材料だったのだろう。それで揉めていたのだろう。
今日のランチをどうするのかで。
主語すら見当たらない会話を勝手に誤解したのは確かに私だが、それにしてもまぎらわしいにも程がある! 見れば周囲にいた学生達や日曜日の家族連れの旅客達がクスクスと私達の方を見て笑っている。私達の背には三連の立派な動輪まである。うん、実に立派なステージだ。完全にコントである。日曜朝のゲリラライブ、武者修行中の売れない芸人達くらいには思われたかもしれない。
春先だというのに、私はしばし怒りと恥ずかしさとやるせなさで赤面の体であった。そもそも、この二人に限って男女間での愛だの恋だの私を含めて三角関係だのといった、そうした艶めいた話題など、まずあり得ないというのは、私自身が一番よく知っているのである。初っぱなから訳も分からず、予期せぬ先制攻撃にあって究極にうんざりした私は、もはや何から何までどうでもいい気分になっていた。
「あぁ…うん。いいんじゃないかな? ってか、ランチなんかどうだっていいよ…まったくもう…」
「何ということを仰るのです! 恋人同士で和気バイバイ! ランチこそがデートのガタガタ! 共に飲み、共に食べ、歌い、祝うことで互いの絆を深めるのです! そんなことはメーメーパクパクですわ!」
「バイバイ? ガタガタ? メーメー? 相変わらず分からねぇな。東城、この異世界語を訳してくれ」
「和気藹々とデートの花形ね。あと明々白々かな。要するにランチの時間を大切にするのはデートなら当たり前だって言いたいんだよね?」
「そうです! ランチはちゃんと今、ざっくりと方向性だけでも決めておかないと、東京駅周辺の日曜日などどうせ混雑するに決まっているのですから駄目なのです! 」
「そうだ、駄目だ! いいか、東城。どうせ、この女に地獄の果てまで相乗りする羽目になったからにはな、最初の決め事ってのは大事にするべきだぜ」
決め事の前に揉め事は勘弁してほしい。普段は散々いがみ合っていながら、こういう時には協調して私を責め立ててくるのだから、この二人も難儀な性格である。欲望こそが人生の原動力であるという格言は、この二人の為にあるといっていい。いい大人同士が獣並みに素直に食欲に従うというのもどうなんだろう。
ランチは八重洲側の東京駅一番街にある東京ラーメンストリート辺りがいいだろうなくらいに軽く考えていた私の密かな願望は甘い認識だった。それと同時に今回はまず叶いそうにないだろう。肉料理と魚料理の争いだけでここまで拗れるのに、麺料理好きの私まで介入したら、泥沼の戦場になりかねない。くだらない出来事と一蹴するわけにもいかないだろう。往々にしてこうした些細な諍いやすれ違いの堆積が余計な深さを持ってギスギスするのだ。
よし、と景気よく西園寺が仕切るように言った。粗野な言動が目立つが、それはあくまでプライベートの話で刑事でキャリアという職業柄、こうしたチームをまとめるのには、この男は一番頼りになる男である。
「この際だから、チームとしてお前らに一つルールを提案するぜ! こんなことになるだろうと思ってな。
…驚けよ、お前ら。今日は揉め事をスマートに決める為の魔法のアイテムを用意してきたんだ! 二人とも、有り難くコイツを見やがりやがれ!」
「ンもう…一体、何なんですの? 聞いてやるから、さっさと仰りやがれ」
「見やがれと仰いね。二人とも、日本語が雑。汚い日本語は駄目。国語なら0点だ。西園寺、美波さんの日本語が#変梃__へんてこ__#なのは多分、君のせいなんだ。物凄い悪影響を及ぼして、毎回僕の方に飛んでくるんだ。そろそろ、その凶悪なブーメランの存在を自覚してよ」
「だからこそのルールと決めごとだろうが。これはもう血の絆だ! 鉄の掟だ! 四の五の言わずにご覧あれ、だ」
見れば西園寺が取り出したのは、五百円玉サイズの一枚のコインのようである。鳥打ち帽にパイプを咥えた、かの名探偵が横向きになった特徴的なデザインである。受け取って試しにひっくり返してみると、どうやら裏側には何もデザインされていないもののようだ。こんなものがあるのか。美波が匂いでも嗅ぐようにして、やたらと私に近づいてそれを見ようとしてくる。こういうところが人懐っこい猫っぽい。私はコインをつまんで彼女に手渡した。
「まさか…このコインの裏表で決めるって訳かい?」
「おおよ、これだけ個性剥き出しの三人が集まる時には全会一致って訳にはいかねぇだろ? 時には方針を決めなければ物事は動かねぇ時だってあらぁな。俺だって揉め事はゴメンだからな」
「揉め事の大半はクッソやかましい、どこかの犬野郎のせいなんですけどねぇ」
「まずは、ところ構わず浮かれるのもイカレるのも禁止ってルールはどうだ?」
「エレガントにお願いね」
私は先ほどの騒動をいち早く察して二人に釘を刺した。このチームにとっての私の主な役割は突っ込み役と仲裁役である。私という緩衝材がなければ、この個性の強いトライアングルチームは即座に支離滅裂なことになりかねない。いつの間にか私に振られていた一番大事な役割といっていい。美波はふふん、と鼻を鳴らすと急に構内放送でも流すようなワンオクターブ高い声音と上品な口調で流暢に話し出した。
「いつもJR東京駅をご利用下さいまして、誠にありがとうございます。お客様にお知らせ致します。当施設では人に噛みつく凶悪な犬が確認されております。くれぐれもご注意下さい。地域の安全と平和の為に狂犬の駆除に何卒、皆様のご協力をお願い致します。
…首輪とリードでも用意しましょうか? 頑張れば少しはかわいい犬になれましてよ。せいぜい人様に噛みつかないで下さいね!」
美波が顎を突き出して盛大に西園寺を煽ると西園寺は当然のように、ニヤリと微笑んでふふんと鼻を鳴らした。
「いつもJR東京駅をご利用下さいまして誠にありがとうございます。お客様にお知らせ致します。
当施設では介助犬以外のペットなどの入場は固くお断りさせて頂いております。好奇心旺盛な子猫などは予めケージなどに入れ、けっして目を離したりなさいませんよう、皆様のご協力をお願い致します。
…頭のイカレた猫が迷子にならなきゃいいけどな。発情期のイカレた猫はうるさくてかなわねぇからな。せいぜい人様に迷惑だけはかけんなよな。猫の糞の始末は大変だからなぁ!」
美波の煽りに西園寺もワンオクターブ高い上品な男性の声で応じた。こうした無駄にレベルの高いモノマネやスキルを小学生レベルの煽り合いの応酬に使う辺り、この二人も相当にたちが悪いと毎度思う。中には伏せ字にするレベルの掛け合いまで飛び出すこともある。例によって私は二人に突っ込みを入れる。格闘技のレフェリーのような心境なのは、これも毎度のことである。
「ケンカは禁止! 煽り合いも禁止だよ」
「昼飯時になったら白黒つけてやるからな。必ず最後に肉は勝つ!」
「望むところですわ。顔を洗って待っていなさい!」
「首。洗うのは首だよ、美波さん」
私は再び大きくため息をついた。何はともあれ、ようやく三人、いつものような雰囲気で揃った。探偵女王を自認する美波と私達の悪夢のデートがいよいよ始まったのだ。この二人といると、とにかく疲労感が普通ではない。エネルギッシュな二人の間に入る突っ込み役というものは、なかなかにしんどいポジションなのだ。退屈だけはしないのだが。
私と西園寺と車椅子生活者の美波。私達は今年の1月に起こった事件で知り合った。世間でもそれなりに騒がれた事件であり、詳細は省くが私達にとっては生涯忘れることができない悲しい事件だった。
私と西園寺がまったく解けなかった複雑怪奇な事件の謎を、あっという間に解いてみせたのが誰あろう美波だったのだ。それ以来、私達は何か不可解な事件や出来事が起きる度に美波行きつけのショットバーに通うようになって、風変わりな友人にアドバイスを求めるようになった。彼女はいつもとあるオフィスビルの地階にあるショットバー『Huster』(ハスター)の隅の席にいるのである。
美波は時代錯誤な眉目麗しいお嬢様言葉を使う。その躁病気質で明るすぎる性格を除けば、けっして友人として付き合いにくい訳ではないし、テンションが高くなると普段の話し言葉や語彙まで怪しくなる難儀で変梃な部分を除けば、至って健全で普通だ。単純に美人のカテゴリーには入るし、私達を時にハッとさせるような鋭い指摘に考えさせられることも多い。謎に対するその独特のアプローチの仕方は常に彼女独自の方法論で合わさり、組み上がり、いつだって最後は謎を謎でなくしてくれる。私達が及びもつかないような発想をすることも多く、自分より年下だというのに私や西園寺などは半ば推理小説に出てくる名探偵の友人のような感覚で彼女のもとに訪れているのである。
考えてみれば三人とも丸の内で働くビジネスパーソンという共通点以外は全くない上に、お互いにそれなりに忙しい身の上ではあるはずなのだが、三人ともハスターを訪れて隅の席につけば、それが三日ぶりでも一週間ぶりでも昨日会ったかのように軽口を叩いている。互いに好きな酒やフードを頼んで好き勝手なことを喋りながら、好き勝手に過ごしている。今や腐れ縁に近い雰囲気の中で過ごしているように思う。
時には殺人事件のような非日常的で濃密な話をする間柄というのは、必然的に濃い関係になってしまうものなのだろうか。こう言うと本人は大いに気分を害するかもしれないが、美波は我々にとって、それこそ物語に出てくる名探偵と過ごしているような非日常や刺激を味わえる、世間ではあまりいないタイプの希少な変人であり、数少ない異性の友人でもあるのだ。
かつて軍医を経て開業医となり、後に稀代の作家にもなったジョン・H・ワトスン医師は、自分の生涯の生き方に多大な影響を与えたであろう風変わりな友人であり名探偵とも詠われたシャーロック・ホームズの性格を、何とか紙とペンで綴って大真面目に分析したようだ。それに倣ってという訳ではないのだが、片桐美波という風変わりな女性を事件記者である私が身も蓋もなく分析してみるに、彼女もまた探偵としては非常に興味深い人物であろうと思う。
片桐美波。年令は26才。スリーサイズはいつだってトップシークレットだそうである。二ヶ月前に起こった、ある事件を境に私や西園寺とは友人付き合いが始まった。ショートボブのよく似合う、透けるように色白の純日本人風の整った面差しと切れ長で目鼻立ちがはっきりとした特徴的な顔立ちは、友人としての贔屓目や天然呆け気質で故事成語や諺をそれは見事に間違うという彼女の難儀な性格を抜きにしても、世間一般でいうところの美人の条件を充分に満たしていると思う。明るい性格でよく笑うし、よく食べ、これまたよく喋る。天然ボケか、わざとかは分からないが話術の技巧にも長けているし、動き出したら止まらない騒がしい性格の割には、比較的普段の動作の一つ一つは細やかで品がある。なんというべきか静と動がきわめて極端に表出するタイプなのだ。
これは彼女自身が言っていたことだが、幼少期にピアノやバレエ、日本舞踊といった習い事を一通り習っていた影響もあるのだろうか。言動にやや落ち着きがない子供っぽさがあるのは確かだが、まともに静かにしていれば良家のお嬢様然とした物腰と人に命令することに馴れている毅然とした態度はよく見せるのだ。
ショートカットのよく似合う小顔で驚くほど色白で細面の彼女の整った容姿を、初対面の人間に特に印象づけているのは、そのクルクルと猫のようによく動く大きな目に特徴が現れている。好奇心旺盛で一つところにじっとしていないタイプの、悪くいえば落ち着きのない性格で、考え込んでいたかと思えば、こちらが気がついた時には既にその場にいないなどという事は美波の場合しょっちゅうである。
美波は普段は東京駅近郊の大きなオフィスビルに勤め、身障者の社会復帰や人材派遣に携わる仕事をしている。いわゆる丸の内のOLである。彼女自身も身障者で車椅子生活者だ。車椅子バスケットの経験者で、その好奇心旺盛な性格のせいか、やたらとアクティブでよく動くし、あまり身障者であることを感じさせないという点では、美波は非常にめずらしいタイプの女性である。
本人の談によれば、美波はギランバレー症候群なのだそうだ。どのくらいの期間、彼女が車椅子での生活を送っているのかは過分にして私は知らない。たまに脚の痺れが止まらなくなるだけだ、と本人は割とあっけらかんとした口調で話すのみで、あまり多くは語りたがらないのである。
友人の肉体的なハンディキャップについてきちんと理解しようとしないのは友人として薄情だと言われそうだが、本人が説明したがらないものを無理に突っ込むというのは、野暮を通り越して不粋でもあるし、こうしたことは何にせよ、女性には聞きにくいものである。
発症した経緯や過去の思い出したくない記憶や経験があって本人が語りたがらない場合もあるわけで、無理強いするわけにはいかない。これは彼女としょっちゅう口喧嘩をしている西園寺も共通の認識のようで、実際に接するようになって解ったことだが、彼女は3倍速のパラパラ漫画を地で行くような表情の豊かさと、その落ち着きのない言動からもよく解るように、行動や反応や思考や動作の何から何までがいちいち素早く、他人の助けなど、そもそも必要としないのだ。
普段の彼女が書斎派だというのは私と西園寺はよく知っているのだが、物を作るということに関しては、美波は人一倍妥協しないタイプだ。人の話を聞きながらアクセサリー作りや和裁や洋裁のデザインをするくらい手先も器用で、こちらが話しかけても手先だけは常に忙しそうに何かを作っているものだから、西園寺にはそれでしょっちゅう咎められているほどだ。
語学も相当に堪能で流暢だし、知識欲も旺盛で読書家でもある。おまけに美波はあらゆる本や書籍をかなり不埒な読み方で読むことを常としている。動作のいちいちが早いというのは、彼女の場合は速読術というスキルで遺憾なく発揮されている。ハスターの隅の席はだいたい美波の読む洋書や専門書や美術誌に科学雑誌などが漫画喫茶の個室であるかのようにカウンターに平積みされている異様な光景など日常茶飯事である。実際に漫画が平積みされていたこともある。
ハスターの隅の席にいる以外では車椅子に常に座っているイメージだが、美波は日本人女性にしては高身長な方である。恐らく176cmの私より頭一つ小さいくらいのものだろう。車椅子に座っていても一目で長身だと解るのは、彼女は人一倍オシャレであり、露出の多いミニスカートやタイトスカート、胸元や肩口が大きく開いたセクシーな衣装やシックで落ち着いたドレス姿まで目にしたことがあるからで、彼女の脚線美や艶めかしいボディーラインはいいだけ知っているのである。これは友人の私としてもかなり目のやり場に困る上に、会う度に違う服装なので、彼女が相当な着道楽で身嗜みに気を遣う人間であることは窺える。
健康的な色気を振り撒く、テンションが異様に高い車椅子生活者というものを私は美波以外に出会ったことがなく、それがやはり彼女が身障者とは感じさせない魅力とバイタリティー溢れた人物として印象づけているように思う。そもそも美波の座っている車椅子自体が非常に特殊な車椅子なのである。その名をゴモラといって、名前までついている。イスバスで知られる車椅子バスケット競技に使われる車椅子を、彼女自身がカスタマイズした特注の電動車椅子である。見ためは正面から見ると八の字形をした競技用のタイヤが付いている以外では普通の車椅子のように、介助者用のハンドルが背中側に付いていて、転倒防止や小回りを利かせる二対の小型の補助輪がついている。
電動車椅子は縦に長い印象だが、ゴモラは少し横幅が大きな印象で肘掛けの部分やその他もゆったりしている。シックな見た目で女社長や重役の座るような椅子に近い。音も静かで私と西園寺はその恐ろしさをよく知っているのだが、彼女が名付けたこの車椅子のゴモラ、高齢者用のシニアカーや電動車椅子といった一般的に流通しているものとは一線を画す非常識な構造を持っている。わざわざこの場で説明しないが、あまり道路交通法上、良くない仕掛けとしかいえない。
その車椅子の操り方も彼女は単純に上手く、あらゆる雑踏やちょっとした坂道でもスイスイと進む。友人として彼女と一緒にする行動は手助けや支援という一般的にはセンシティブに扱われるところがまったく気にならないし、気にしなくていい部分なのだ。この心理的な負担というのは正直、大きい。ノーマライゼーションやバリアフリーとはよく言われるが、あまり気を遣われるのは、やはり身障者本人が一番やりにくいだろう。互いの距離感というのは大切でアレコレと甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる思いやりの精神は凄く有り難いらしいが、身障者本人が助けを乞う場合以外は、別に普通にしてくれるのがいいのだそうだ。これはあらゆる言葉の上でもそうらしい。
美波に限らず、身障者本人が自分を称して一般的にいわれるところの差別的と感じる用語を平気で口にしたりすることもあるのだし、偏見やタブーというのは往々にして当事者当人よりも周囲が過剰に気を遣い過ぎるあまり、却って拗れてしまっているケースが多いようなのである。
しかし、犯罪事件の記者である私や刑事の西園寺はよく知っているのだが、片桐美波の類い稀な才能は、特に犯罪事件のような非日常的な出来事や話題で最も色濃く現れる。片桐美波は現場に行かずに新聞や情報その他から事件を解決してみせる、いわゆる安楽椅子探偵としては恐ろしいほどに有能で天才肌な人物だということを。彼女の最大の長所は行動や思考、判断、分析力その他諸々があらゆる面で速すぎるということだ。
生まれつき脳性麻痺を患った患者が健常者と同じスピードとリズムで生活を刻んでいないことはよく知られているところだが、それとは逆だ。恐ろしく速い。病的なほどに速い。批判を承知で敢えてたとえるなら美波の場合、その特異な才能は知的障害者や発達障害者のサヴァン症候群に見られる右脳が司る分野に特化した才能に近い。サヴァン症候群自体が“賢い白痴”というやや差別的な仏語によるものらしいが、これは美波の才能を表すのに非常に近いのだ。膨大な素数と約数を瞬時に判断したり、航空写真を少し見ただけで、細部に渡るまで描き起こしたり、書籍の文言を寸分たがわず諳じてみたり、初見の場所を訪れても構造や階層を即座に書き起こしたりといった能力である。
本人は割と無頓着で適当で不埒な性格なものだから書籍や電話帳、円周率や周期表などを内容の理解を伴わないまま鼻歌混じりに暗唱してみせたり、音楽では一度曲を聴いただけでアルトサックスやピアノで再現してアレンジまで加えてみせたり、数カ国語を自由に操るなど、こと記憶や数字の扱いに関しては美波は私達とは比較にならないほど多才で応用力がある。その異様な才能に関して私は彼女本人に訊ねたことがあるのだが、その時はやや驚いたような反応を見せただけで、うまく誤魔化された。
脚の痺れが止まらなくなるだけの普通の人間です、と本人はいつものように語るのみで、それ以上は明るく受け流されるだけなのだ。沈黙は女にとっての美徳の一つですわ、とは本人の談である。
改めてプライベートでの彼女の姿を間近で目にした私は、思わず心中で感嘆の声を上げていた。有り体にいえば、見とれてしまったのだ。今日の美波は白いベレー帽に同じくショルダーレスの白いワンピースと揃いのミニスカートという今風のセクシーでフェミニンなファッションで、指なしの白いレザーグローブまで嵌めている。白一色のコーディネートできめてきたようである。
ティアドロップ型のイヤリングに人差し指と中指には凝ったデザインリング。メイクも普段より気合いが入っているようで明るいチークに淡い桃色のルージュが白いコーディネートに映える。アクティブかつ今風なファッションで車椅子生活者とはあまり感じない。ファッションセンスがいい上に、大抵のものをそつなく着こなせるというのも彼女の才能だと思う。そこで私はあることに気づいた。
「そういえば美波さん、今日の車椅子はいつもと違うんだね。ゴモラだっけ?」
後方に介助者用のハンドルが付いていない。代わりに背凭れには高級そうな白いファーのついた真っ白なロングコートが掛かっていた。ブレーキが片側だけに付いているスポーティーなタイプの車椅子である。
「ゴモラは家に置いてきましたわ。ゴモラは電動型で静かで便利なのですけれど、地下だと車輪の幅が広くて他のお客様の迷惑になりますし」
「あんな変なもんで暴走されても困るしな。
…ンッギャハハハハハハハッ!」
西園寺が再び盛大な笑い声を上げた。見ると、またも美波の銀色の杖が彼の脇腹の絶妙な位置を小突いていた。速い。止める暇もなかった。この伸縮式の銀色の杖はソドムという名前だったか。車椅子に専用のホルダーまでついていて、ゴモラと対になっている彼女の私物だ。こちらは持ってきたようである。持ち手に蔦が絡まった奇妙なデザインの杖で、ネジ状の突起が先端についた金属製の杖である。さすがに声が大きかったので私は西園寺を嗜めた。
「ちょっと西園寺、静かにしてよ。他のお客さん達がビックリするよ。さすがに迷惑だよ」
「そうそう。東城さんの言うトォり! はしたないですわよ、西園寺さん。刑事の癖にお下品ですわ。自分の同僚や部下もたくさんいるような自分の管轄で、あまり盛大にはしゃがない方が宜しくてよ」
「テメェ美波! その杖で人様の脇腹を小突くのは下品じゃねぇのかよ! 小学生かテメェは!」
「まぁまぁ。それでさ、行き先なんだけど最初は八重洲側でいいの?」
「イエス! まずは東京駅の外周を通って高架下を潜って八重洲側にレッツラドンです。まずはグランルーフで記念撮影といきましょう! 近くで働いていてもプライベートでは八重洲側にはあんまり行かないものですから、楽しみなのですわ!」
既に我らが女王様は、我々が気づいた時には視界から五メートル以上は遠退いていた。私と西園寺は揃って大きな溜め息をついていた。
「やれやれ…。拒否権がなかったとはいえ…」
「ああ、長い休日になりそうだよな、相棒…」
私達は動輪の広場を抜け、KITTEビルの脇にある地上階へ続くエレベーターの辺りへやって来た。この辺りは地下でもだいぶ広いが、地上を三人で行くとなると歩道がかなり狭く感じるだろう。早くも到着している美波が私達を手招きして急かす。
「早く早く! エレベーターは皆の物。早くしないと他のお客さんが来ちゃいますわ。時は金的という諺を知らないのですか?」
「時は金なりだよ。下ネタは駄目だよ。
…相変わらずせっかちだなあ。育ちは良さそうなのに、まるで子供を相手にしてるみたいだよ」
「案外、どこぞの深窓の令嬢だったりしてな」
「美波さんが? まさか! かなり世間知らずなところがあるし、お嬢様育ちなんだろうなとは思うけど、普通のOLだし、さすがにどこかの会社の社長令嬢がいいとこじゃない?」
「だといいんだがな」
「うん? 何か気になることでも?」
「ん…ああ…いや、何でもねぇよ。厭な事件があったせいか少し気にし過ぎなのかもな。行こうぜ、我らが女王陛下のところにな」
私はふと西園寺の表情がどこか苦々しいように感じたが、彼がそう洩らした理由はまんざら理解できないでもない。この丸の内という場所は、実は日本に名だたる財閥企業のお膝元でもあるからだ。財閥企業の関係者が実は身近にいたとしても不思議ではない。
丸の内という場所はビジネスの中心のように語られるが、その土地柄においても趣の深い土地柄である。三井住友銀行をはじめ、3大財閥「三菱」「三井」「住友」グループ間の合併が行なわれるようになった今でも、この国を代表する3大財閥グループが今も熾烈な競争を繰り広げている場所がこの丸の内周辺なのだ。
その象徴が、東京の玄関口である東京駅周辺の開発事業だろう。空撮写真を見れば、このエリアが3大グループの陣取り合戦の舞台であることもわかるのだ。
駅の西側に広がる丸の内エリアには、三菱商事や三菱東京UFJ銀行、日本郵船など、多くの三菱のグループ企業が本社を置く。
元々は三菱財閥の2代目である岩崎弥之助が明治政府から買い取った広大な野原を、三菱が日本屈指のビジネス街に育て上げた。今では丸の内エリアの3分の1を三菱が所有するといわれている。
一方、線路をまたいで東京駅の北東に広がる日本橋エリアは三井財閥発祥の地であり、三井不動産の本社や三越本店などが立ち並ぶ“三井村゛だ。2004年には三井不動産のコレド日本橋がオープンし、三井村のランドマークとなった。
2015年、つまり来年には三井の象徴ともいえるコレド日本橋の真正面に住友不動産が東京日本橋タワーなる巨大な建物を竣工する予定なのだそうだ。高さ180メートルの同タワーは高さ120メートルのコレド日本橋を見下ろすように屹立する形となる。
丸の内を牙城とする三菱、日本橋をホームとする三井に対し、元来、大阪を本拠とする住友は東京に確たる拠点を持っていない。その住友による“殴り込み”に三井グループ関係者は苦々しい表情だったという。先祖代々、守ってきた土地に“新参者”が入ってきた訳である。ある意味で住友との戦争である。
三井も黙ってはいない。日本橋再生計画を推進し、東京日本橋タワーのすぐ隣に高さ175メートルの高層ビルを建設中で、竣工は2018年度の予定だ。このビルが完成すれば、コレド日本橋とともに住友の東京日本橋タワーを挟み撃ちにする形になる。まさにオセロゲームのごとく、苛烈な陣取り合戦が繰り広げられているのである。
反転攻勢を強める三井は南進し、東京駅の東側にある八重洲エリアにもグイグイと押し寄せ、日本橋から八重洲にかけての8地区で再開発を行なうことを表明した。住友も旧八重洲富士屋ホテル周辺の一帯の開発を発表し、両者の戦いはさらに激化している。
三井と住友のバトルによる火の手が周辺まで迫り、これまで丸の内で“専守防衛”に徹していた三菱も動いた。2015年8月、三菱地所は東京駅の北側、大手町と八重洲にまたがる常盤橋街区に総額1兆円を投じる再開発プロジェクトを発表した。
この国を代表する3大グループは、いまなお切磋琢磨し、拡大を続けているのである。そうした覇権争いの特徴は単なるビジネスや利益の奪い合いではなく、プライドを懸けた責めぎ合いでもあることだ。そのプライドこそ財閥力の源泉といえるだろう。
財閥は国家権力と密接に結びつき、戦前・戦中の日本経済に多大な影響を及ぼしたが、戦後は連合国総司令部(GHQ)により、日本経済の非軍事化と民主化の重要な一環として解体された。だが1997年の独占禁止法の改正により純粋持株会社の設立が許可されたため、財閥で有った企業同士は企業グループとして再度集結を行うようになった。
様々な企業が吸収・合併・分離・解体を繰り返している為、別々の財閥でも、流れを汲む企業が同じことが多くあり、今も東証一部に名を連ねるこの国の有名企業というのは大なり小なり、確実に創業者の血筋であったり、名誉や歴史なり創業理念なりを継いでいるということになる。
今や国民の四人に一人が首都圏に住むといわれるこの時代、過去と昔とでは財閥も随分と意味合いが違ってくるとは思うのだが、私の横でエレベーターを今か今かと鼻歌混じりにハミングしながら待っている陽気で忙しない女の子がいきなりお金持ちの深窓の令嬢だなどと言われても今一つピンとこない。
そうこうしているうちに、はとバス乗り場の停留所から高架下を抜け、東京駅の外周をぐるりと廻る形で歩いて来た私達の眼前に鍛冶橋通りと外堀通りの交わる大きな交差点が見えてきた。右手に地方から来る高速バスが数多く発着する鍛冶橋駐車場を臨む大きくて広々とした交差点である。道中の西園寺と美波は例によって騒がしかったが、道行きは楽しかった。プライベートでこんなに開放的なのも久しぶりである。
日曜日であるせいか、今日は地方から来たと思われる旅行客がかなり多いようだ。スーツケースを転がす若い旅行客が何組か信号待ちをしている。この道路は東京駅へと続いているので一目でそれとわかるのだ。スーツケースをコインロッカーに預けて東京観光という定番のコースであろう。
八重洲側も丸の内側も大きなビルが軒を連ねた大きなビジネス街といったところで、同じターミナル付近でも上野や新宿のような雑然とした無駄がない。ビジネス街独特のやや堅苦しい印象はある。このまま鍛冶橋通りを直進すれば、地下鉄銀座線の京橋駅があったはずだ。外堀通りを左手に進めば東京駅の八重洲南口方向で、右手は東京高速道路があって、有楽町方面へと続いている。私達は東京駅の外周を通って八重洲側にやって来た形である。
そうこうしているうちに、私達の眼前には特異な形状をした、白く巨大な帆を幾つも連ねたような風景が見えてきた。あれがグランルーフである。
東京駅には二つの顔がある。赤レンガ駅舎ともう一つが、このGRANROOF( グランルーフ)だ。我々が待ち合わせに使った動輪の広場は丸の内側の地下一階である。建設予定地の赤レンガの駅舎と広場がある丸の内側から見て反対側、つまり新幹線や在来線の線路を隔てた八重洲側にあるのが、このグランルーフで東京駅の新たな象徴として誕生した場所なのである。私の記憶が確かならば、正式に運用が開始されたのは昨年、つまり2013年の9月20日だったと記憶している。
ここに至るルートは大きく二つある。JR東京駅の八重洲地下中央口からなら徒歩1分。地上の八重洲中央口ならば外に出て、長いエスカレーターかエレベーターで、直接ペデストリアンデッキと呼ばれる連絡通路に繋がっているルートを通ることである。
ペデストリアンデッキという耳慣れない名称も私は昨年知った。ノースタワーとサウスタワーという巨大な二棟のビルを結ぶ“光の帆”をデザインモチーフとした、長さ約230mの大屋根が特異にして壮観な佇まいを見せているスポットである。
賑わい空間と呼ばれる歩行者ネットワークを形成する、このペデストリアンデッキは、その眺めの良さと交通の利便性は元より先進性と先端性を象徴する八重洲口の新たなランドマークだ。デザインアーキテクトには現代建築に大きな影響を与えている、世界的建築家のヘルムート・ヤーン氏が手掛けたそうだ。
地下1階から3階の商業施設には、“Yaesu Sensational Scene(ヤエス センセーショナル シーン)”をコンセプトに、新しい時間の過ごし方を提案する全16の店舗が展開。
地下1階は東京駅と直通であるところの“Travel”をテーマに、肉料理と魚料理の2つのゾーンに分かれた各地の食が集結する。言うまでもないことだが、ここに我が親愛なる友人達の犬と猫…もとい西園寺と美波の先ほどのすったもんだの原因があった訳である。
1階と中2階のフロアは“Culture”がテーマであるらしい。テイクアウトとイートインフロアを設け、日本と世界の食文化を発信する、レストランエリアである。2階・3階では“Health”をテーマに、ヘルシー料理とフレンチ茶懐石などを提案している。正に日本の玄関口から世界の玄関口へと変身する、グルメ大国日本らしいスポットといえるだろう。
騒がしい美波は望むままに写真を撮りまくって私達を翻弄し、例によって私達は揃って被写体にされまくっていたが、こういう機会はそうそうなかったので、これはこれでなかなかに新鮮だった。西園寺も口では毒づいてはいたものの、面倒見のいい男ではあるので、満更でもなさそうである。
が、その時はやはり訪れた。我々にとって本日のメインイベントといってもいい。
「さぁさ、ではではお待ちかねの大丸デパートとヤエチカでショッピングと参りましょう。んふふ…二人とも覚悟はよろしくて?」
美波の無邪気でキラキラした目が私達を射竦めた。この美波特有の悪戯好きの妖精のような無邪気さと小悪魔的な愛らしさが同居したような表情は、時に有無を言わせない邪悪さが眠っていることを私達はよく知っている。もはやこれまで。私と西園寺は揃って顔を見合わせ、ガックリと項垂れ大きくため息をついた。
文句など言えるわけもない。私達は今年だけでも、かなりの頻度で事件の解決やアドバイス欲しさの為に足しげくハスターに通い、彼女の許を訪れている。犯罪事件の記者である私と若手警察キャリアの西園寺が今年になって、いきなりスクープ連発の敏腕記者だの切れ者の凄腕警部補だのと周囲に持ち上げられ、同期二人で出世街道爆走中の立場でいられるのは、悔しいが七割以上が美波の功績なのだ。
事件の解決に貢献しているのは専ら彼女の頭脳と知性と一風変わった才能や知識の方であり、そこはもう二人揃って疑うところがないと認めている。いわば私達は常に彼女には頭の上がらない立場にあり、家庭で財布の紐と胃袋を綺麗に奥方に鷲掴みにされた亭主のようなもので圧倒的に立場が弱いのである。
ロイヤルガードという皮肉の利いた表現は些か美波によって誇張され、持ち上げられ過ぎた結果であり、要するに我らが麗しき女王様にとってはデートでも、私達にとっては地獄の三丁目辺りを市中引きずり回しの刑にされているようなもので、実のところ彼女にとっては私達など退屈しのぎの提灯持ちや荷物持ちや下僕以外の何者でもないはずである。
ここから先はもう美波の独壇場であった。恥ずかしながら、私は大丸東京店という東京駅と隣接したこの立地環境の良すぎる場所を心底、甘く見ていた。油断していたといっていい。地階のグルメゾーンから地上13階立ての日本有数のこのデパートは、一階から六階までがレディースゾーンという我々にとっては正に、立派にして凶悪過ぎる代物だったのだ。
水を得た魚のようになった美波のショッピングは私達にとっては文字通りの地獄絵図である。買う。買う。買う。世間は不景気などといわれるこのご時世だが、金はあるところにはある。持つ人は持っている。実に理不尽だ。バブル時代の熱狂はこのぐらい狂っていたのではないかと錯覚するほどのショッピングの嵐だったのである。もう関わった私が描写したくなくなるほどに壮絶な光景であったのだ。
「よぉ、生きてるか、相棒…」
力なく項垂れた西園寺が、同じく首を下げた私に向けて言った。苛烈な戦場を体験した戦友達は最後に訪れた店舗の片隅で昭和のヤンキーのような格好でしゃがみながら、互いの無事を実感していた。
「満身創痍だね…。女の買い物に付き合って死にそうになったのは初めてだよ…」
私と西園寺の傍らと後ろ側には洋品店の箱や包装、手提げ袋が玉石混淆入り乱れている。要するに私達は荷物番である。さながら通路の奥には倉庫でもあるのかといった体である。信じられないことだが、箱に至っては平行、水平、一直線にうず高く積まれている。引っ越しでもこうは積まない。段ボール箱まで四つほどある。今は周囲に人気がないからいいものの、通路の一角を完全に占領しているので、通路を行き交う買い物客達からすれば迷惑きわまりない連中だろう。
「ああ、本当に死にそうだな…。涙が出てくらぁ。でも仕方がねぇ…」
汗だくの西園寺が手近にあった布で顔を拭おうとしたのを私は慌てて制した。
「ちょっと西園寺。それ高級ショーツ…」
「ぅおっ! 危なかった…。クソがッ! 大人買いや爆買いなんてレベルじゃねぇぞ、畜生!」
「ちょっと、刑事が下着泥棒扱いされたら目もあてられないよ。ってか美波さんに殺されるよ。さすがに変態扱いされるから、それは後ろに置いておこうよ。ただでさえ誤解されてるんだから」
「何だって、待ち合わせがこんな場所なんだよ!」
「この場所しか防犯上、安全な場所がなかったんだから仕方ないじゃないか」
「目立ってしょうがねぇだろうがよ!」
私と西園寺がいるのは件のランジェリーショップの近くの通路である。ちょうど大丸デパートとヤエチカこと八重洲地下街の境界にあたる場所である。グランルーフフロントという場所で八重洲地下街と隣接しており、大丸デパートにも東京駅一番街にも近く、グランルーフのレストランゾーンからも近い場所である。幾つも店舗が並んでおり、女性用のランジェリーショップはちょうど通りの端の方にある。
ショッピングエリアの隅にあるとはいえ、日曜日だけに旅客も多いのだ。我々にとって、もはや罰ゲームに近い。通路を行き交う複数の女性客や家族連れの視線が物凄く痛かった。盗難の被害のない安全で適当な場所はここしかないと判断した美波がたまたま訪れた場所がここだったのだ。当の本人はもちろん、別の場所に買い物に行っている。恐ろしいことに、まだ買い足りないらしい。
西園寺の怒りは痛いほどよくわかる。我々はつい先ほど道行く幼女に後ろ指を指されて“ママーあのオジサン達、変態?”という言葉を聞かされ、彼女の母親に腐った物を見るような目で見られ、そそくさと退散されるという人生では実に得難い体験までしている。
「クソッ…何が悲しくて休日に刑事がこんなことしなけりゃならねぇんだ…」
「とんだハードボイルドだね。その白いスーツや懐の警察手帳から阿鼻叫喚の悲鳴が聞こえるようだよ」
「皮肉かよ。お前も情けねぇ声出すな。もう慣れろ。これはもう宿命と諦めるしかねぇ…。ああ、煙草が吸いてぇ! コーヒーが飲みてぇ! 腹減った!」
白いソフト帽に揃いの白いスーツ姿の立派な身なりの長身の男はきまりが悪そうに帽子で顔を覆った。ペタペタとしゃがみながら地団駄まで踏んでいる。丸ノ内のカミソリとも渾名される風貌の切れ者で気障な刑事も、もはや形無しである。これは八割がた彼が拘りのあるマフィアの組長のような立派すぎる白いスーツに原因がある。ダンディーな格好が今は痛々しくて物凄く可哀想である。私にしてもそれは同じで、要するに盗まれる防犯上の心配はないが、荷物番をするには些か抵抗があるこの場所がよくない。
「子供じゃないんだから我慢してよ。もう少しの辛抱なんだからさ…」
私は傍らに玉石混淆と詰まれ、並べられて通路にまではみ出ている買ったばかりの包装に包まれた紙袋や箱を改めて見渡した。それにしても凄まじい量の買い物である。ネットショッピングもあるこの時代に非常識にもほどがあろう。
それにしても。私が気になったのは美波が会計に使っていたクレジットカードである。ブラックカードだったのだ。クレジットカードの種類を国際ブランド別にまとめるだけでも一苦労だが、あれは一目でわかる。ほとんどのカード色は黒色の文字通りのブラックカードなのだろうが、純金・26粒のダイアモンド・真珠で作られたブラックカードなどというものを実際にこの目で見ることになるとは思いもしなかった。
「それにしてもインフィニットエクスクリシブカード、か…。何て言うかな。現実感が伴わないよ」
「ああ、まさか生きてる間に拝めるとはな。東城よ、どうやら俺らの女王様のバックにいる人物は想像以上にとんでもない人物だったようだな」
ロシアの銀行が発行しているものだ。値段は確か6万5千ドル。日本円にして約700万円である。とある人物を取材したこともあるからよく知っている。持っている人物に出会うことすら稀だろう。例外を除き、やはりカード色はブラックで統一されているようだが、年会費もブラックカードだったはずだ。それなりのステイタスが無いと所持することすら出来ないカードであることが、それだけで良く判る。ブラックカードは欲しいと思っていても自由に持てるカードでは無い。
「普通のお金持ちのお嬢様じゃないよね。買い物の仕方のスケールが違い過ぎる」
「そりゃそうだろ…。あの片桐清史郎の孫娘だぜ」
これは西園寺も気づいていたようである。カードには名義人というものが当然存在する。訪れた店の全てで会計の際に店員達の顔色が一瞬で変わったのをこの目で見ているからである。財閥の令嬢がアポなしで訪れたと彼らは一瞬で判断できたのだ。水戸黄門の印籠くらいの破壊力はありそうだ。
片桐財閥は御一新後の明治時代に、片桐兵衛なる人物が株取引で蓄えた財産を元手に創設されたといわれる知る人ぞ知る財閥、らしい。らしいというのはつまり私にしてもよく知らないからで、幸か不幸か、ごく普通の一般家庭に生まれた私にとっては、絵空事のような雲の上の人物の出来事などそもそも情報でしか解らないからだ。四大財閥に十五大財閥と並べられても詳しく取材した訳でもないから知りようもない。
片桐清史郎氏は財界の黒幕ともいわれている人物で片桐財閥の会長である。元が株取引で大きな利益を上げていた片桐一族の気風を良しとせず、下町育ちで裸一貫から斜陽財閥を一代で成り上がらせたらしい傑物中の傑物である。スケールが違い過ぎる。政財界や司法や法曹界にも顔が効くといわれている人物で、私や西園寺は当然のように知っていた訳だが、それにしても、なんということだろう。私達はその孫娘と知り合いどころか、腐れ縁の関係だった訳である。
非常識な話である。私はこの期に及んでまだ信じられない思いだった。なんというべきか、こんな馬鹿げたことが本当にあり得るのかと思ってしまったのだ。あったのだが。
「何というか、まだ狐に摘ままれたような感じっていうのかな…。何か騙されたような感じというか。認めない訳じゃないんだけど…やっぱりそうなのかな?」
「間違いねぇよ。お前ら記者の情報網もなかなかのもんなんだろうが、警察を嘗めんな」
「調べたのかい? 彼女の素性を」
責めるつもりはなかったのだが、相棒に対してやや詰問するような口調になってしまった。お互いのプライベートやセンシティブな部分には、なるべく立ち入るべきではないとどこかで線を引いていた私だが、今は実際に行動を共にしているのだ。そうなれば話は別だ。財産に関する個人情報というのは往々にして余計な事件やトラブルを招きやすい。仮にもロイヤルガードなどとボディーガードのような扱いまでされている以上、今後の為にも西園寺とはなるべく情報は共有しておきたい。西園寺は苦虫を噛み潰したような表情で白いソフト帽を脱いでガリガリと頭を掻いた。
「もちろん、ちゃんと調べた訳じゃねぇよ。お前にだって聞かれなきゃアイツのことは言わねぇつもりだったよ。俺を見損なうな。#たまたまアイツを知っていた__・__#だけさ」
抜け駆けされたようで私は大いに美波の素性が気になったのだが、西園寺自身は詳しく説明してはくれないようである。まぁこれは当然だろう。これは恐らく刑事が職務上知ることができた情報だという意味ではないだろうか。それはつまり、美波は何かの事件の関係者だったということではないのか? これは美波が己の素性を明かす意図がなければ、確かに刑事が妄りに口にしてはならないことでもある。過去の事件ともなれば守秘義務や個人情報が大いに関係してくる。何にせよ友人同士とはいえお互いの懐事情には、なるべく干渉したくないのは西園寺も同じなようなので、とりあえず私は安心した。
「あ、来やがったぜ。ん? おいおい、何だありゃ…大名行列かよ」
西園寺がそう漏らした理由を私は一瞬で理解した。当の美波が立派なスーツ姿の男達や女性達を五、六人伴って私達の方へとやって来たからだ。近くにはインフォメーションと思われる首にスカーフを巻いたコンシェルジュの女性スタッフまでいる。全員が先ほどの私達のように手提げ袋に箱を三つ四つ持っている同じ姿なのは、さすがにやり過ぎだと思う。私は心底彼らに同情した。大型の台車を押した配送のスタッフまで連れている。その数三台。馬鹿げている。
かなり年配の立派な身形をした支配人風の男にテキパキと指示する美波。その後を受けて支配人氏は後衛のスタッフ達に指示して配送の手順が示されている。こんな非常識な光景を目にするとは思わなかった。
お嬢様付きのおまけである私達はもう完全に蚊帳の外の置いてきぼりの状態で、その光景を唖然としながら見守っていた。引っ越しでもあるまいに、これだけ大量の荷物である。宅急便を手配するのにも台車というものが必要になる。それにしても駅で使われるような大型のカートが三台もある上に、それぞれのテナントの店長クラスの人物まで連れてくるというのは上客にしても非常識にもほどがある。開いた口が塞がらないとは実によくいったものだ。
あれよあれよという間に台車に荷物が移されていく。一人減り二人減り、我々の前にあった荷物がほんの数分で元の通路へと復帰して後衛のスタッフ達は恭しく一礼して通常の業務へと戻っていった。西園寺が玉座に座った女王のように満足そうに微笑んでいる車椅子の美波に言った。
「それにしても、この不景気なご時世に派手に買い物したもんだな。ここら辺でお前のことが噂になるぜ。お前、それでもいいのかよ?」
「ふん、流れを生まずに溜め込まれ、淀んだお金など好みませんわ。生生流転こそヒト・モノ・カネの正しい理ではありませんか。お金はあらゆる物事の変化や流動化を自然で素直に促せる柔軟な使い方をされなければ経済も産業も流れが滞り、人心とてゆっくり死んでいくに決まっているのです」
「いや、経済の話をしてんじゃねぇよ。この買い物の仕方は尋常じゃねぇぞ。狂気の沙汰だぜ」
「ふん、狂っているのは先刻承知のスケベです!」
「がってん承知の助ね」
「江戸っ子かよ」
「お爺様が江戸っ子で気前がいいのは確かですが、宵越しの金すら余っている家というのが、そもそも狂っていますわ! 故に支払いの心配など一切無用!
…お爺様、今日はデートなんですのと言ったら、好きに使ってきなさいとブラックカードを孫娘にポンとぶん投げてくるお爺様もイカレているなら、今日は帰ってくるなだよの、一発で懐妊してくるのですよ、などと訳のわからないことをぬかして娘を門の外に放り出す暴挙に出るお父様もお母様も揃って狂っています! 実に非常識な家ではありませんか!
良かったわぁ今日はパーティーねぇとお婆様を筆頭に執事もメイドも巻き込んで屋敷中で日曜日の真っ昼間だというのに宴を開いて喜んでいるのですから、もはや狂気の極みですわ! ウチは代々イカレた家系で家族もそのようですから、揃いも揃ってどうしようもありません!」
どうやら美波の一風変わった気質や型破りな言動は血筋だったようだ。それも筋金入りである。それにしても蝶よ花よと育て上げた財閥の孫娘に狂ったイカレた非常識だと言わしめる家族やお屋敷の御歴々というのは、もはや私などには想像もつかない世界の出来事である。
「ふん、狂ったお金の使い方で焼き芋に味噌ですが、結局こんな手垢のついたやり方こそ真っ当な経済の回し方ならそうするだけのことですわ。いずれ世の中を回さないお金に我が家は興味はありません」
「焼け石に水ね。まぁ、こんな派手な使い方を皆ができてる社会とはお世辞にも言えないよね」
私の言葉に美波は少し表情を曇らせた。
「散々買い物をしておいてなんですが、深刻な格差社会というのは要するに搾取する者とされる者がはっきりと明確化し、不幸がひたすら再産出されると大多数の人々が感じてしまう社会のことなのですわ。
最大多数の最大幸福とは、かのジェレミーベンサムの功利主義論ですが、弱者が弱者を叩くのが当たり前だというなら、それは人が弱くなった原因すら自己責任で自分のせいなのだとしてしまう社会構造がそれだけ歪になってしまったということの証でしょう」
それは確かにそうだろう。私は犯罪記者で経済紙の記者ではないし経済のことは門外漢だが、犯罪は経済とは実に密接な関係にあるものだ。ここ二十年ほどの日本の経済格差の増大や高齢者の増加に伴う労働者の負担というものが既にまともではないとは私ですら感じる。いや、まともな流れがそこかしこで詰まっているとは、とみに感じるところだ。もちろん貧富の差は昔から存在していたが、中流をよしとして大半を占めていたバブル期を境に、その流れは完全に変わった。外資系企業が日本の経済に多大な影響を及ぼしたのは元より、震災という大災害を経たのも大きい。
格差は広がるばかりである。労働者にですら正社員と派遣社員という格差がある。企業にも所得による格差がある。首都圏の住環境にだって格差がある。夫婦にだって親子にだって、労働者なら格差がある。職業に貴賤の別はないはずだが、実際にはそんなことはない。人は何かにつけて己や世の中を基準に上だの下だのを作りたがるものなのだ。
海外からは日本人は俗にワーカーホリック、労働中毒などと呼ばれもしたが、日本はそれくらい働き者の国で労働者には寛容な国であったはずだ。ところが派遣法などという悪法が生まれた。国際競争に対抗する大々的な規制緩和が尊ばれた。企業は労働者を低賃金で長時間拘束し、お前の代わりはいくらでもいるとばかりに過労死になるまで追い込んで安い賃金で使い倒す。安い賃金で済むならばと労働力を海外からも募る。そんな世の中になるなど誰が予測できたろうか。いずれまともな話ではないだろう。狂気というなら、とっくに狂気の只中ではあるのだ。
大企業ばかり優遇して税金を搾り取る政治家も。ひたすら資産を海外に逃がして溜め込む富裕層も。内部留保を弱い人々に還元しようとしない大企業の経営者達も。男性が多忙では女性とて結婚や子育てどころではなくなるだろう。労働者が奴隷と化してしまっては若者は高齢者を敬わず、高齢者は若者をあてにせずに財産をひたすらに溜め込む。それが当たり前な世の中だというのでは労働者や家族の在り方とて当然に変わってしまう。多忙にして殺伐とした時代になったと言うべきなのだろうか。
「たまにまともなことも言うよな、お前。まったくお金持ちのお大尽様ときたら、やることが違うなぁ。いっそのことエリアごと買い上げたらどうだ?」
「まあ、その発想はありませんでしたわ! うだつの上がらない刑事もたまには慧眼を発揮するのですね。今度ぜひ実践してみることにしましょう」
西園寺がやや含みのある言い回しで皮肉ったが、美波はどこ吹く風といったところである。まったく非常識きわまりない会話である。露骨に唇を突き出して反論しかけた西園寺を牽制するように、私は腕時計で時刻を確認した。時刻は13時02分。既に正午はとっくに過ぎていた。
「そろそろいい時間だね。やっぱり日曜日だね。どこを行くにも人だらけだ。だいぶ混んできたね」
「それじゃあ、ヤエチカを探検しながらランチ探しといきましょうか! ワンちゃんがそろそろブチギレ寸前のようですし、お腹も空きましたでしょ?」
「誰がワンちゃんだ! これ以上引き摺り回したら本当に噛みつくぞ!」
私達は広大な休日の地下街を見渡した。東京駅の改札を抜け、大丸デパートの地下にも程近い場所である。場所としては地下街の端というか、境界にいることになるだろうか。やはり日曜日の昼食時だけあって家族連れやスーツケースを持った旅客で相当に混雑している。ランチの店を探すにも一苦労だろう。並ぶのも覚悟しなければならない。
八重洲の地下街はまるで迷路だ。何度出かけても、どこからどこに繋がっているのかわからなくなり、さまよったという経験は私などは幾度もある。入社の時に上京した当時は、もちろん東京の地理はおろか、この辺りの地上の主要なロケーションや地下の様子も地形も土地勘の知識など当然ある訳もなく、主要な構造など全く解らなかった訳だが、今では通勤途中であっても仕事帰りであっても歩く度に新しい発見がある。
夥しい人の波に揉まれ、自宅から通勤の駅を経て、ただ忙しく帰るだけの都会暮らしの生活を繰り返していると、つい東京の良いところなど見えなくなりがちで、こうした身近な場所の当たり前の良さをつい忘れがちになるものだが、休日にこうして騒がしい友人達と共に駅から街へと出て、また駅に帰ってくるという回遊型の散歩というのも、なかなかに楽しいものだ。新陳代謝を繰り返し、拡大し続ける東京駅直結であるところの通称ヤエチカと呼ばれる、この広大なラビリンスのような八重洲地下街は、私にとってもそうした意味で趣深い場所である。
八重洲地下街が一気に拡大の様相を見せ始めたのは昭和30年代のことだったらしい。「もはや戦後ではない」の名言で知られる1954年、東京駅八重洲口が完成すると、百貨店『大丸』が東京駅に進出。当時の東京駅名店街と並び、八重洲口周辺が一気に賑わいだした。
そこで昭和31年、地下駐車場が計画され、駐車場の上に広大な地下街が作られることになった。
この八重洲地下街には私と西園寺が行きつけの1969年からやっているという老舗のカレーショップがあり、取材したというわけではないのだが、ふとした折りに店主に開発当時の八重洲地下街の様子を聞いたことがある。その生き字引のような人に言わせると、この辺りは昔から迷路のような場所だったらしい。
八重洲地下街もまた東京駅の発展から始まったのだという。名店街(現在の東京駅一番街)が旅行者の為の地下街だとすれば、ヤエチカは庶民の為に作られた商店街だったのだそうだ。東京駅から日本橋へと抜ける都道もある。
名店街の下には入浴施設があり、当時は夜行列車で訪れた人々が東京で働くお得意様に向かう前に汗を流したのだという。また、このヤエチカには日本初のセルフサービス式カフェテリアや、交番なども設けられた。
時代と共にヤエチカの顔ぶれは変化したが、地下全体の変貌ぶりは、そのさらに上をいく。前述のように名店街の一部分は東京駅一番街となり、東京ラーメンストリートや限定おかしが手に入る東京おかしランド、東京キャラクターストリートなどが軒を連ねる場所へと変化し、今では年中問わず、下は小さなお子様から中高生、上は旅行のお年寄り夫婦やツアーの団体や外国人のグループを問わず、賑やかこの上なしである。
「本当にこの辺りは迷路みたいだね。人が多いとロケーションまで変わって見えるな。旅行の人なんか結構いるね。迷いそうだ」
「ああ、よく見りゃ外国人だらけだしな。俺も何度も通ってるが、この辺りは平日も休日も人が多いのは変わらねぇな」
「あら、こんなところに猪がいますわ」
美波が通りの脇にある立派なブロンズ像を指差した。これはヤエチカの観光スポットの一つである。鼻を撫でると幸せになれるというこの像、毎日の通勤の行き帰りに触っていく“常連”もいるほどだ。高さ1.25メートル、横幅1.6メートルほどの大きさで鼻の部分の色は塗装が剥げて金色が剥き出しになっている。
「ああ、それは幸運の仔豚だよ。観光スポットのオブジェクトだね。あっちにはヤン・ヨーステンの首から上の銅像もあるよ」
「ヤン・ヨーステン? そんな素敵な中国人の生首があるんですの!?」
「中国人じゃねぇし生首でもねっつぅの。ヤン・ヨーステンってのは、そもそも八重洲の地名の元になった外国人だよ。オランダ人だけど日本人の名前を貰ってな、確か世界史の教科書にも載ってる奴じゃなかったっけか?」
西園寺が詳しく説明しろとでも言いたげに私へと振った。この上、観光ガイドの役までしなければならないらしいが、一応説明書き程度の知識は私にもあった。
「うん、ヤン・ヨーステンはオランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに大西洋をひたすら南下してチリの最南端ケープホーンからハワイ沖と通って1600年(慶長5年)4月19日に今の大分県である豊後に漂着した人だね。
徳川家康の通訳に信任され、江戸城の内堀沿いに邸を貰って日本人と今でいう国際結婚した人でもある。屋敷のあった場所が現在の千代田区で現在の中央区八重洲の地名は1954年に成立したんだけど、その辺りを八代洲河岸といったらしい。
西園寺が言った通りヤン=ヨーステンが訛った日本名の耶楊子(やようす)と呼ばれるようになって、これが後に八代洲河岸から八重洲になったといわれてる。ウィリアムアダムスの日本名である日本橋の按針町と共に地名の由来になったといわれてるんだよね」
「そうそう、ちょうどこの辺りは中央区と千代田区の境界だから、その目印みてぇなもんだよな。確か銅像には当時の航路もあったはずだぜ。住所として登場するのは1872年(明治5年)のことで、1954年(昭和29年)には東京駅の東側一帯が中央区八重洲になったらしい。まぁ、こいつは警察官としての知識だな」
「それは知りませんでしたわ! まるでトラベルミステリーではありませんか! こういう身近にあるのに見えない突然の出来事を東大モトクロスというのですわね」
「灯台もと暗しね。ちょっ…ちょっと美波さん、何してるのさ」
「今日という日の記念に撫でて撫でて撫で倒してやるのですわ。これはその為にあるのですから! 折れるほど鼻が擦りきれたら、幸運の仔豚も鼻が高いというものですッ!」
「折っちゃ駄目だよ! 撫ですぎ! いくらなんでもバチが当たるよ」
「アホかオメーは! 人だらけの地下でこれ以上、目立つようなことしてんじゃねぇ」
西園寺が例によって美波に噛みつくと西園寺は通りの向こう側の端の方を指差した。ガラス張りの自動ドアと地上へ続く階段が見える。隣のビルに続いている。近くにはトイレと喫煙所が見えた。
「ああ、もう! 取り敢えずタバコを吸わせろ! あそこに喫煙所があるからちょいと行ってくらぁ! 東城、悪い。そいつをその豚に括りつけて構わねぇから、くれぐれも目を離さないようにしてくれ!」
「まぁ、なんて失礼な! 人を猫か犬みたいに!」
「ケージに入った猫の方がまだお前よりおとなしくて可愛げがあるぜ。いいからオメーはおとなしく待ってろ!」
「すぐに決着をつけてあげますわ」
その時だった。手持ち無沙汰になった私と美波がちょうどヤン・ヨーステンの顔を象ったモニュメントに差し掛かった辺りで、私は通りの向こうに見知った男の人影を見つけた。同じ会社の元上司で、私の直属でもあった風祭純也である。
風祭は私が事件記者になる折りに入社当時から、色々と私の面倒を見てくれた先輩でもある。無造作に流したツーブロックのマッシュショートの髪型にラフなウェーブを乗せた、こなれた印象の男である。会社にいる当時は黒髪で落ち着いた印象を与えてくれるスタイルで、スーツ姿では大層モテた。
ラフなレザージャケットをさりげなく着こなしているが、仕事のデキる男といった風貌は、一年前に会社を辞めた当初から変わっていないようだ。フリーの記者になったきっかけは家族との時間を大切にしたいということだったようだ。綺麗な奥さんともども、幼い娘さんを職場に連れてきたことがあったが、幸せそのものといった感じで、独り身を絵に描いたような、やさぐれた生活を送っている私などはえらく羨ましく思ったものである。
だが、少し彼の様子がおかしい。風祭は手元のスマートフォンを弄くりながらも、液晶の画面をまったく見ていないのだ。大通りの通路から別の通路の壁に凭れるようにして、ちらちらと幾度か目を上げては何かを見ている。目線を下げては今度は視線だけで周囲の様子を確認して、再び視線を上げる。何かの様子を窺っている様子である。いや、正確には対象は何かではなく特定の誰かだろう。
何も知らない人間から見れば、他の通行人の邪魔にならないように通路の端でスマートフォンを弄っているだけにしか見えないだろう。だが、相手の視界からは映らない位置と角度から遮蔽物に完全に自分の身体は隠し、対象からは外れている。完全に雑踏の一部になって紛れつつも、視線だけは鋭く対象を観察し、同時に周囲への確認も怠らない。手慣れている。
同じ記者の経験と直感で分かった。あれは明らかに尾行や監視の動きである。視線の先を何気なく目で追ってみると、私はそこにも見知った人影を見つけた。
毛足の長い白いファーのついた黒いロングコートを着た、すらりと背の高い女だ。ボブカットの今風の髪型で黒いサングラスをかけているが、あれでは却って目立つだろう。私の記憶が最近見かけなくなった芸能人の姿形と一致した。
「あの人は…」
「あら、東城さん、どうかしましたの? 鳩が下手な豆鉄砲を数撃ちゃ食らうみたいな顔をして。お腹が空いたんですの?」
「鳩が豆鉄砲を食らうね。あと下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるだよ。混ぜないでね。
…美波さん、ちょっとアレ。アレを見てよ。ねぇ、あのブティックにいる女の人、見たことない…?」
「むっ、東城さん! 私というものがありながら、せっかくの晴れのデートの日に本命の女を差し押さえて、別の女の人を痴漢していいと思ってるんですの!」
「痴漢じゃなく視姦。それと、差し押さえじゃなく差し置いて、ね。たんに視界に入っただけだよ。
…ああ、それと僕と美波さんは、まだ知り合って二ヶ月くらいだし、今のところ本命だのデートだのという間柄の関係じゃないと思うよ。念を押すけど」
「あっ、ひどい! こんな盲いた女をカゴメにして尚且つ二号にしようだなんて、何たる奇特なの! 」
「カゴメじゃなく手込め! あと奇特じゃなく鬼畜! 始めて見ただけの女の人と美波さんで一号も二号もあるわけないでしょ。ってか鬼畜じゃないし!
…ああ、だから、色々と違うんだって! あのね、美波さん、いつもそうだけど声がデカいよ。こんな地下街で周りの人が誤解するようなことを言わないでよ」
「五回も六回もありません! 殿方がいくらタフでも五回なんて体がもちませんわ! 東城さん、色々とすっ飛ばして真っ昼間から何てことを考えるのです!」
「だから、そんな話はしてないよ! 今、ブティックに入っていった、あの女に見覚えない?」
「ふん、知ってますわよ。ファッションモデルの冴島紀子でしょう? 確かSNSで炎上発言をして業界を干されかけてる芸能人じゃありませんか。ついでにその人を視姦ならぬ監視をしているのは、ご同業の方? 東城さんと同じムッツリのお仲間ですか?」
「あのね、記者は別にムッツリじゃないからね。あの人は風祭純也さんっていって知り合いというか、僕の会社の上司で入社の時に僕のお守り役だった人だよ。一年前に退社してフリーになったんだけどね」
「ふうん…でも、あのイケメンの風見鶏問屋さんも結局は人様を尾行してプライベートなことまで掘り下げて、口に出来ない下品な記事にするのでしょう? だったらマスメディアも出歯亀もムッツリも似たようなものではないですか」
片桐美波という女の短所は、このように人の名前をロクに覚えない上に天然ボケを盛大にやらかすところである。微妙に間違っているのは、これが素の状態だからで、西園寺などはこの天然ボケの最大の被害者だ。美波は人の名前をたまにわざと間違えて、からかうようなことまで平気でするのである。
「違うでしょ。それと風祭さんね。とにかく冴島紀子を見てたのは、別に下心があってのことじゃないよ」
「どうだか。殿方は平気で浮気するから、信じられませんわ。愛は魚心、恋は水心といいますし」
「愛は真心、恋は下心ね。それと魚心あれば水心ありだよ。下心なんかないし、浮気する相手や本命なんかそもそもいやしないよ」
どうにも無用な誤解を与えている。やや気後れした私は彼女の視線に耐えきれず、俯いて目を逸らした。我ながら腰の抜けた男だと思うが仕方ない。私は少し苛立ちながら言った。
「身分違い…だと思う。美波さんと僕なんかとじゃ。美波さんは凄く立派な家柄だろ? 釣り合わないよ。少なくとも反対する人達はいると思う」
「東城さんは意気地なしです。他人の批判ややっかみが何だと言うんです!? 友達から一歩踏み出すことがいけないことですか。東城さんは私が嫌いですか?」
「そうじゃない。そうじゃないだろ。もちろん美波さんを嫌ってなんかいないよ」
「じゃあ好き? 嫌い? 大事なところです。ここはちゃんと答えてください。デブかライブか」
「ラブかライクね。太ってないし歌わないよ」
ここまできちんと答えなくてはいけないものなのか。二者択一を迫るというのもどうなのだろう。卑怯な私な答えを保留した。
「まだライク、かな。友達としてね」
「それは私が…片桐家の人間だからですか?」
「それは違うよ。ビックリはしたけど」
「私が身障者だから…ですか?」
「違う。そうじゃない。それは違うよ。絶対に違う」
本当にそうなのか? そうじゃないと言い切れるのか? 心のどこかで私は彼女のこの天真爛漫な明るすぎる性格を面倒だと感じていないのか? 西園寺はどうなのだろう? どうも西園寺は彼女の素性を知っていたようだが、私にしてみれば寝耳に水だ。
何せあの片桐財閥の令嬢なのだ。その事実は私にとっては少なくとも衝撃的だった。なぜ、真っ先にそれを説明してくれなかったのだ? 私は多分、そのことに苛立っている。せっかちな彼女は私のやきもきした感情などお見通しで、それが気に入らないようである。
「時間は待ってくれませんわ。東城さんは私がどこの馬の骨や犬の骨に拐われてもいいんですの!?」
これだ。強引だが抜け目がない。それに見るべきところはきちんと見ているのだ。今朝の一件で私は二人の会話を盛大に誤解までしている。というよりも、あのことがあったから強引なのか?
「ひょっとして…。ねぇ、ひょっとしてなんだけどさ。美波さん、妬いてるの?」
カマをかけたつもりだったのだが、美波は白い顔を耳まで赤く染めて怒ったような表情を見せた。
「や、焼き飯なんて食いませんッ! どど、ど、どうして私が東城さんの出歯亀の対象を見ていたからといってバットで焼き飯なんです!」
バット? 嫉妬か? 美波が嫉妬? まさか。卑怯な私はこの期に及んで答えを保留した。というよりも、内心で戸惑っていた。
「とにかく、急に色々と焦ることもないじゃないか。第一いきなりデートっていうのも無茶苦茶だよ。
…いいかい、物事には手順ってものがあるだろう? 告白だって準備がいるよ。何もかもすっ飛ばしてるのは美波さんの方じゃないか。こんな滅茶苦茶な…」
「ああ、もういいですわ! 何を誤解してるか知りませんが、勘違いしないでくださいな。東城さんのその蒸し切らない性格を何とかしようと、少し困らせてあげようとしただけです!
私がデートに誘うなんて、こんなチャンス滅多にありませんのよ? 肉も食わずにこの先もキノコというのなら焼き肉定食は大マグロです! 引きこもりの猿はプリチーな猫が犬に食われるのを草でもしゃぶって黙って見ているのがいいですわ! 東城さんのクラゲ!」
滅茶苦茶に間違っている。もはや訳がわからない。片桐美波という女の実に難儀なところは、このように感情の起伏が激し過ぎる上に興奮すると故事成語どころか日常会話すら儘ならなくなるところで、怒りに駆られた時の言動は小学生どころか3歳児の癇癪である。いちいち解説するのもアホらしいが、最後のは恐らく人でなしと言いたかったのだ。誰が人でなしだ。罵倒するにも間違えまくっている。
察するに上げ膳据え膳のデートという状況下で女子にアプローチの一つも出来ない草食系の猿でこの先の弱肉強食の世の中を生き残っていけると思ったら大間違いだと言いたいのだろう。煮え切らない態度ばかりとる私に言いたかったのだろう。
西園寺に言わせると、世界広しといえど美波が興奮した時の支離滅裂な言動を理解して的確に突っ込みを入れられる変な奴は私しかいないのだそうで、要するに我らが女王様は自分にかまってくれない私達の態度に大いに臍を曲げたらしい。というか誰が引きこもりの猿だ。引っ込み思案だろうに。何がプリチーな猫だ。西園寺だって毒だと分かっている代物など食わないだろう。怒りに震えている様子の美波はぷい、と盛大にそっぽを向いた。
「あ、美波さん! ちょ、待ってよ!」
私は思わず彼女に手を伸ばして彼女の腕を掴んだ。我ながら少し荒っぽい。だが、こうでもしないと拗れる一方だ。
「離してください! 離して! ほら、あそこに東城さんの好きな足の長~い健康的なモデルがいますわ! どうぞ! 止めませんから行ってらしてくださいな!」
「何を怒っているのか知らないけど、僕の言い分もちゃんと聞いてよ。シリアスな話くらいさせてよ」
「そんな尻やコーンフレークの話なんかしてませんわ! 東城さん、ふざけているのですか!」
怒っている。目許に涙まで浮かべている。私はもちろん、美波もけっしてふざけている訳ではないのだ。これが素の状態だから困る。感情豊かというか純粋というか真っ直ぐというべきなのか。
眠気を催すような甘い独特の芳香が私の鼻孔を掠めた。いつも以上の距離の近さに胸が詰まる。まるで陳腐でありがちな恋愛歌のようだ。相手の女は「自分だけを愛しているわけではなく、他にも相手がいるのでは」と勝手に決めつけて唇を噛んで怒っているようなものだろう。悪魔の証明のようなものだ。本当に他に何もないことを証明するというのは、とても難しい。
「とにかく怒らせたのなら謝るよ。いきなり言われても…その、訳が分からないんだよ。仕事ばかりでプライベートですらこういうの…その、慣れてなくて…」
「私だって囚われの身です…。政略結婚の道具に自由なんかありませんわ。これからは会社に行くことも、誰かと好きにショッピングに行くことすらできなくなるんですもの。爆買いだって半分は揚げ糞です」
「自棄糞ね。え? 美波さん。け、結婚…するの?」
…しまった。今のは不味かった。私の配慮に欠けた無神経な言葉に美波の色白の顔が瞬時に赤くなった。
「鈍いにもほどがありますわ! もういいです! 私のことは本当に放っておいて!」
「よくないよ! ちゃんと答えてよ!」
…あぁ、そうじゃない。そうじゃないだろう。
「言葉にしなきゃ分かってもらえないのですか? 私はもう誰かの所有物。それだけです! 東城さんや西園寺さんは、こんな面倒くさい身障者なんか放っておいて芸能人でも健康的なモデルでも、好きな女を好きなだけ見てらしたらいいでしょう!」
こんな時の男の言葉とは実に不便だ。何をどう話しても言い訳のように取られてしまう。違う、そうじゃないと言い続ける以外に何ができるというのだ。身障者だからと気負う必要など何もないし、私だって彼女のことは友人として好きは好きなのだ。それは間違いないし信じてほしい。今は一緒にただ賑やかにしていたいだけなのだ。ただ、それだけなのに。
「美波さん! 待ってよ!」
どうすれば信じてもらえるかわからず、僕は彼女の後を走って追いかけた。もし、追いついて彼女の腕を再び掴めたとしても、また振り払われてしまうかもしれない。振り向いてもらえないかもしれない。
動揺。躊躇。戸惑い。様々にない交ぜになった感情が私の初動を遅らせた。そうこうしているうちに、やたらと速い車椅子にいる美波の姿は既に通路の角にある女性用トイレにあっという間に消えていた。私は心の底から地団駄を踏みたい気分だった。
ああ。最悪だ。まったく! 今日はなんて1日だ! 私は心の底から自分の煮え切らなさが嫌になった。
なぜだ? どうしてこうも、いつだって私は突然な出来事に対して上手く立ち回れないのだろう。なぜ彼女の気持ちを汲んであげることが出来ないのだろう。男として、自分で自分の中途半端でいい加減な感情や曖昧な態度に腹が立つ。
喧嘩をしたり、怒らせてしまった時には、きっと男ががむしゃらにならなければいけない状況というのはあると思う。私などこんな風に些細なことで躓いてはモヤモヤして、どうせ何も手につかなくなるに決まっているのだ。何もせずに諦めることなどできはしないだろう。草食系? そんな流行りの言葉に逃げてウジウジしていただけだ。心底、自分の性格が嫌になる。
言葉を仕事にしている癖に、言葉はどうしてこんなにも不便なのだ? どうしても逃したくない女の前では、きっとどんなにタフな男だってひざまずいてしまうのだろう。必死な想いで叫ばなければいけない時があるのだ。そうでなければ伝わらない想いがその場にしかないのだから。チャンスを逃がして言い訳をしまくってきた自分に盛大に罰があたっている。とにかく美波には色々と詫びなければならないだろう。
どこか、うちひしがれた気分のまま、私は西園寺が向かった通りの端の方を見た。
地上の階に繋がっている階段が見える。喫煙所の右手にはガラス張りの自動ドア。喫煙所もガラス張りで中の様子が窺える。通りは先ほどよりもさらに人混みでいっぱいだった。日曜日ともなると客層は家族連れの旅客やカップル連れがやたらと多い。買い物している間に地下もかなり混雑してきていた。
配送の台車も行き交っている。子供達も多い。事故が起こらないか、無関係なこちらが心配になるほどだ。通りの先が見通せなくなるほどではないが、広々とした通路の端で滞留する旅客もかなりいる。そうすると見慣れた道でさえ、ロケーション全体が掴めなくなりそうだった。
西園寺はまだ喫煙所にいた。誰かと話している。白いスーツ姿の目立つ西園寺が同じく紺色のスーツ姿の長身の男と何やら話している様子だった。何者だろう? 警察の関係者だろうか? 眼鏡をかけた、やや垂れ目がちな目許が気だるそうな印象を与えるが、やたらと目つきが鋭い、悪く言えば悪相の男である。長身の西園寺よりも頭一つ背の高い男だった。
その時だった。突然ポンと私の肩が叩かれた。私が驚いて振り返ると、そこに風祭がいた。
「よぉ、東城じゃないか。随分と騒がしい痴話喧嘩だったな。苛ついてるようだが、どうした?」
どうやら先ほどのやり取りを見られていたようである。いいだけ動揺していたのは確かだが、これ以上恥をさらすのも偲びないので結局、私はとぼけた。
「ああ、風祭さん。どうも、すみませんね。久しぶりなのに見苦しいところを見せてしまったようで」
「デートか?」
「みたいなものです。今日は買い物で。風祭さんこそ、取材はいいんですか? ええと、その…多分なんですけど、あそこにいる冴島典子の…」
「あれは別にいい。“干されたアノ芸能人は今”みたいな下世話な記事なんか書いたところで面白くもなんともない。ありゃついでの用事で、俺も暇なのさ」
そう言われると気になるもので、本当にそうなのだろうか。訝しがる私の表情を察したのか、風祭は僅かに表情を曇らせた。
「ああ、まぁな。説明は、まぁ今は出来ないな。
…それより東城。ちょっといいか?」
風祭は通路の壁際に私を手招きした。私の肩越しにブティックにいる冴島典子がギリギリ見えている位置取りだ。私も彼の動きを察して、自分が背中で冴島紀子から壁役になるように風祭の邪魔にならないような位置で正面に立った。
「お前とさっき一緒にいた、あの車椅子のコ…」
風祭は僅かに声を潜めて私に問いかけた。
「美波さんですか? 彼女がどうかしたんですか?」
「美波? あのコは美波というのか…。名字は?」
「片桐。片桐美波といいます。それが、どうかしたんですか?」
「片桐…。いや、特に何かあるという訳じゃないんだが…。どうも見たことのある顔な気がしたものでな。
…ああ、いや…他人の空似かもしれないが。
…なぁ、あのコは見たところ、車椅子生活者のようだが足を痛めているのか? アレは病気か事故の後遺症か何かで車椅子生活をしているのか?」
「本人からはギランバレー症候群だと聞いています。たまに足の痺れが止まらなくなる症状だそうですが。現在もリハビリ中だとかで。まったく歩けないという訳じゃないようなんですが、本人が車椅子でいるのが好きなんだそうです」
正確には車椅子を改造して運転するのが好きだからというブッ飛んだ理由なのだが、ややこしくなるのでその辺の事情や説明はやめておいた。ほんの一時的であるにせよ、瞬間加速にして公道を法定速度を無視して爆走するほどのスピードが出せるエンジン付き車椅子を自作するなど非常識にもほどがある。彼女の場合、どこかのアニメの探偵のようにブローチやアクセサリー型の変声機や撮影機能に録音機能まで付いたメガネのプロトタイプまで大真面目に開発して、もうじき完成する運びらしいのだが、どこまで本気で言っているのかわからない。
「ふうん、お前が彼女と知り合ったのは、つい最近のことなのか?」
「どうしたんですか? 記者の取材でもないのに根掘り葉掘り尋ねるなんて。クールな風祭さんにしてはめずらしいですね」
「まぁ明るい性格の美人のようだし、先輩として後輩の恋路は気になるんだよ。なぁ、どうなんだ、東城。彼女とはいつ、どこで知り合った?」
「1月の聖創学協会の事件の取材の時に、ちょっとありましてね」
「ああ、お前がスクープを取ってきたあの事件か。あの時は大金星だったな。フリーになってもうじき一年経つが、お前の名は俺のところにも届いてきてるぞ。やるじゃないか、東城。もう免許皆伝か」
「よしてください。僕が記者を続けてこられたのは、風祭さんの言葉が支えになっていたからだ。スクープの一つ二つで師匠越えなんて甘過ぎます」
「なぁに。この業界、続けていればチャンスなんか幾らでも転がってくるさ。必要なのはスクープそのものじゃない。スクープからどんな真相が暴き出され、その結果からどんな真実が生み出されるかだ」
門外不出のネタという訳でもないので、私は美波がいかに聡明で頭脳明晰で一風変わっているのかを風祭と共有することにした。
「なるほど。今は車椅子の女探偵をしているってわけなのか…」
「今は? 風祭さん、彼女を知ってるんですか?」
「いや、何でもない。お前は気にするな」
何なのだろう。風祭のその歯切れの悪い受け答えが私は少し気になった。と同時にもう昔とは事情が違うのだなと、妙に納得してしまった。考えてみればフリーになったのなら、会社組織からは既に切れているし収入とて個人店舗を経営してるようなものな訳で、同じ業界関係者だからこそ明かせない情報というのはあるだろう。何かしらのスクープに繋がるとなれば競合他社には明かさない秘密主義は半ば当然で、同じ会社組織で私と情報を共有していた昔とは既に立場からして違う。スクープが即収入に繋がる身の上ならば、何から何まで教えてくれるはずがないのだ。
「ああ、本当に何でもないんだよ。お楽しみのところ悪かったな、東城。そうそう、お前もうまくやらないと、あの白いイケメンのスーツに彼女をさらわれちまうぞ。俺の直感だが、悪口をいいだけ言い合ってる仲の方がいざとなったら激しく燃え上がるもんだ」
どうやら西園寺と三人でいるうちから私達の動向には気づいていたようである。あれだけやいのやいのと騒いでいれば当然のことだが、この人の油断のなさには本当にかなわない。
「いや、彼女とは別にそんな関係じゃ…」
「無理すんなよ。怒らせたのなら土下座でもなんでもして謝り倒せ。恋愛の秘訣はな、いつだって相手の気持ちを尊重することさ」
そう言うと風祭の視線が私の背中の向こう側の何かを見ている。会話はなるべく素っ気なく、複数の視線を対象に向けないのは張り込みの鉄則だ。冴島紀子に動きがあったようだ。風祭はじゃあな、とでもいうようにすれ違い様に私の肩をポンと叩くとそのまま通りの向こう側へと立ち去った。
私は風祭の言葉が少し気になっていた。敢えて黙っていたが美波が財閥の関係者という情報は正直、伏せておいて正解だったろう。マスコミ関係者である風祭なら尚更だ。西園寺とは共有しているが、実のところあまりおおっぴらにするべき話題ではないと思う。個人情報としては特大級のネタだ。彼女の身に危険が及ばないとは限らないからだ。それにしても。
イケメンのスーツにさらわれる、か。
そういえば、西園寺はどうなのだろう? 美波と西園寺はしょっちゅう口喧嘩ばかりしている印象で私も含めて事件を通して知り合って情報交換している腐れ縁の飲み友達の関係、のはずだ。美波といい風祭といい昔馴染みの同級生である私と西園寺を勝手に三角関係のライバルにしているようだが、実際のところ西園寺は美波のことはどう思っているのだろう?
私は美波のことは明るくて魅力的だが気難しくて騒々しくて、いつだって手のかかる妹のような感覚でいただけに、この露骨に肉食系な異性の突然の猛アプローチは相当に意外で、同時に複雑な思いだった。感情を爆発することにもされることにも慣れていない。
その時だった。私は半ば冗談のように唐突で不条理なそれを見つけた。通りのど真ん中に突然現れた、その異状を見つけた。何かが、いやスーツを着た誰かが地面に倒れている。
アレは何だ?
いや、それよりも何よりも。
アレはどこから現れた!?
あの死体は!
アレは一体、誰だ!?
それを死体と認識した瞬間、頭蓋から爪先まで私の総身が粟立った感覚だった。こう見えても私は事件記者だ。あの倒れ方。あの形状。アレが死体だと一瞬で判断できたのには、もちろん理由がある。それは物言わぬ人の骸だけが放つ、圧倒的な存在感のなさなのだ。矛盾しているが抜け殻や人形を見ているような、あの空々しさと生々しさが同居したモノは死体特有の異質なものだ。
…くそっ! 人混みで前が見えない!
黒山の人だかりに塞がれて私は思わず舌打ちした。ほんの一瞬だった。そばに白い服装の人影が見えた。死体は仰向けに倒れていた。時間にして何秒とかかっていなかったが、アレは間違いなく人間だ。当たり前だ。生きているはずがない。血塗れで、首から夥しい血を流している。
人間の他殺死体なのだ。
「イヤァああァッ!」
案の定、辺りをつんざくような女の悲鳴があちこちで響き渡った。その時、押合いへし合いの人垣の合間の向こう側が僅かに見えた。仰向けに大の字で倒れているのはワイシャツ姿の男だろうか。通路に血溜まりが出来ている。誰かが死体の前に座っている。今の悲鳴は誰だ。アレは。あの白いワンピースは…!
「美波さん!」
私は思わず叫んだ。必死に邪魔な人垣を掻き分けて惨劇の現場に近づいていた。西園寺の大柄な人影が同じく野次馬に怒鳴りながら反対側から来ていた。
「おい、事件なら一般人は離れてろ! 警察だ! おい東城、こりゃ一体、何の騒ぎだ!」
「分からないよ。とにかく美波さんを…美波さん! 一体何がどうなって…」
その時だった。乱暴な力が美波に近づこうとした私を押し退けて人混みの方へと追いやった。目の前にベビーカーがあった。危うくつんのめりそうになる足を踏ん張る。
誰だ! 憎々しげに私が振り返ると、先ほど西園寺と話していた男が私の眼前に立ち塞がっていた。
「なっ! 何をするんです! あなたは一体!?」
「銀座中央署の桜庭だ。現場に近づくな。
…お嬢さん、ちょっと話を聞かせてもらおうか」
「私に何か…御用ですか?」
「ふん…血塗れで随分と余裕のある態度だな。そこに西園寺がいるからか? それとも財閥の関係者が身内にいるからか?」
「何の…ことですか?」
「はっ! なるほど、しらを切るのか。悪いが知り合いに刑事がいようと、お前が身障者だろうと、お前の罪状や罪は何一つ変わらない。まして過去には殺人容疑までかかっていた、お前のような殺人鬼にはな」
「殺人…鬼…。過去…? さ、殺人容疑って…」
「お、おい! ちょっと待て桜庭! そいつを一体、どうす…な、何だよ! おい、何しやがる…お前らァ! おい、一体これは何の真似だ。離せ! 離しやがれ!」
いつの間に現れていたのか、西園寺の両脇を屈強なスーツ姿の男達が抑えた。
「西園寺、同期のよしみでお前には言っておく。その女には近づくな。死ぬぞ。手荒な真似はしないが、この女を庇い立てするなら、お前でも容赦しない。この女には既に殺人容疑がかかっている。邪魔するな。
…おい、そいつは丸の内警察署の西園寺和也警部補だ。共犯の線はないだろうが、容疑者の知り合いだ。そこにいるジャケットの男も一緒に事情聴取するぞ。
規制線を張って通路からこちら側を封鎖しろ。地上への階段を塞いで警官を立たせておけ。目撃者がいるはずだ。野次馬も可能な限り向こう側に案内しろ」
「チッ! 桜庭…。どういうつもりだ? いきなり現れてまとまな捜査の手続きまで踏まねぇつもりか? 一民間人の俺のダチをつけ回したり、いきなり連行したりと自分が何をやってんのかわかってんのか! きちんと事情は説明してもらえるんだろうな?」
「これが緊急事態だというのが解らないのか? ここがどこだと思っている? まともな判断が出来ない足手まといは引っ込んでいろ」
連れていけ、と高圧的な口調で桜庭は部下達に命令した。彼は西園寺の問いには何も答えず、血塗れのままトンビ座りをして俯いている美波を、まるで腐った物でも見るように一瞥した。私が美波のいる現場の方へと近づこうとすると、制服を着た警官達が無言の圧力で私の前に立ち塞がった。動くな、ということか。桜庭の低い声が聞こえた。
「片桐美波。お前はつい最近も人を殺しているな? 殺人狂をこれ以上、野放しにはしない。俺が来たからには、もう逃げられん」
桜庭は私の視線を遮るように、床に座り込んでいる様子の美波の前に立ち塞がっている。ここからでは美波の表情がわからない。顔面が。白いワンピースが。スカートの裾が。どす黒い血に塗れていた。
腕の辺りに不意に電気が走ったような感覚がしたと思った一瞬、強面の男達の乱暴な手が私の両肩をがっしりとロックした。
くそっ! 何てことだ。美波が離れていく。私はどうやら後ろへと引きずられている。騒音の中、動けない私の耳に響いてきたのは絶望的な一言だった。
「片桐財閥の三女で元高校生モデルの神狩ちなみと呼んだ方が世間的には通りがいいんだろうがな。
…片桐美波、殺人容疑でお前を逮捕する」
私は信じられないものをそこに見ていた。血塗れの美波が音もなく刑事に両脇を抱えられて。
現行犯逮捕された。
「み、美波…さん。一体、君は…」
息が切れたように上擦った私の声は、もう彼女には届いていない。心臓がバクバクと高鳴り、周囲が黒いヴェールに包まれ、見る間に暗転したかのような感覚だった。人混みと野次馬に阻まれ、もう彼女の姿が見えない。周囲は既にパニック状態だった。雑踏に霞む景色の向こう側に見えた衝撃的な光景に、私は身じろぎ一つせず立ちすくんでいた。人混みの中で人々が呪い、囁き合う声の数々が、今さらのようにどこか遠くの方から聞こえてくる気がした。
人殺し、血だらけ、狂った女。そんな忌まわしい言葉の数々と共にスマートフォンで撮影するシャッター音や動画撮影の起動音がいくつも聞こえてくる。得体の知れない穴にいきなり突き落とされた恐怖に私の体が今更のように震えていた。何かが狂ってしまった世界の只中に、いきなり置き去りにされた恐怖を私はどうやら味わっている。私は目眩を覚えていた。ひそひそと囁く人々のざわめき。恐れ。苛立ち。憤り。
金臭くも目に滲みる生々しい血の匂い。シャッターの不協和音とフラッシュの明滅。人々が囁く声。心臓を鷲掴みにされたような不規則な呼吸と切れ切れの律動。血塗れのランウェイからフェイドアウトしていく美波。怒声を発して警官達にもみくちゃにされ、押さえつけられている西園寺。それら全ての光景が私の五感を不安と怖気に駆り立てた。
それは今まで当事者でなかった私達にとって、正に名状し難い悪夢のような長い事件の始まりを告げる、静かにして獰猛なる狂気と狂騒の幕開けだった。