白の女王・1
古来より身の毛もよだつ、身の細る、或いは怒髪天を衝く、肝を潰すなど、人の身体を用いた慣用句はホラーやミステリ小説に限らず、日常でもあらゆるシーンにおいて人間のネガティブな感情表現を表す場面によく用いられてきた表現だ。それは人の恐怖や焦燥、怒りや驚嘆などをきわめて端的に表した慣用表現であり、多くが人間の感覚器官がもたらす個人的な体験に基づく、喩えとしてのそれである。
しかし、今思い返してみても、これから私が読者諸氏に向けて語り、綴っていくであろう、この物語ほど、これらの形容がピタリと当てはまった事件は他に類を見ないのではないかと思う。
それは正に身の毛もよだつ恐怖と身の細る焦りと怒髪衝天の怒りと肝を潰す驚きを一時に味わった、 私にとっては生涯忘れることの出来ない衝撃的な体験に基づく事件だったからなのである。
本書の冒頭で述べたように2014年という年は、私にとって実に印象的な年であった。それは正に名状し難い悪夢のような複雑怪奇をきわめた陰惨な事件の数々との邂逅であり、全ての始まりでもあった。事件記者でありながら、作家としてはまだ駆け出しのひよっこで、些か冗長で読みづらい、私のこの事件記録の物語を辛抱強くここまで読み進めて頂いてきた読者諸氏にとっても、これから私が記録し読者諸氏に読んで頂く物語は、ある種の締めくくりとも集大成ともいえる事件となるのではないだろうか。
作者であり、記録係である私の体験したこの長い物語が終末を迎え、読者諸氏が巻末を読み終える頃には、本書がいかにして誕生するに至ったのか、なぜ私がこの物語を綴ってゆくことを決意したのか、その詳細や経緯が明らかになり、読者諸氏にとっての現実に幾ばくかの感慨なり警鐘なりを与えるに足る物語になっていることを、作者としては祈るばかりである。
70年前、かつて日本は戦争に負けた。だからこそ戦争の愚かさや恐怖や平和を維持することの大切さや尊さを知っている。今も尚、戦争を起こさせない為の政治、起こった時のもしもの為の備えとしての政治は、主に左派と右派、保守や革新やリベラル、サヨクやウヨクという表記の差でも分けられ、色々な分類がされて様々な人々が多様な立ち位置から意見を交わして、日々自由に平和の恩恵を受けるに至っている。
事件記者であり、この日本でマスメディアと呼ばれる仕事に携わる私が中学生の砌、将来への展望を話した時に父親からはこう言われたものだ。
「今は解らなくてもいい。この国でトラブルもなく、まともに平和に生きていたいと思うなら、覚えておけ。大人になったら野球と政治と宗教と血筋の話にはくれぐれも気をつけろ。呪いを甘く見るな」と。
親愛なる読者諸氏ならば、これが物語の重大な前振りであることなど、すぐさま察して戴けることと思う。私が改めて訴えるまでもなく、平和とは維持して守っていくことにこそ価値があるものなのであり、それは同時に人間の魂の価値そのものに立脚した、人間として最も基本的な行為でもあるということを。
「社会には剣と精神という二つの力しかない。結局のところ、剣は常に精神によって打ち負かされる」とは 、かのナポレオン・ボナパルトの言葉であるが、こうした戦争と平和に対する偉人の格言を引くまでもなく、戦争と平和について考えることは、己の血と魂の価値を規定することに等しい。
あの凄惨な東日本大震災を経て、この国は戦争とは違う意味で大きく変わった。平和を維持するということの困難さは、人の命の重さを思い知ることなのだ。極論すれば、天災地変は戦争による凄惨にして残酷な命のやり取りなどとは無縁であり、平和への願いとは、かくも裏腹に、あらゆる形で人の思いや願いなど置き去りにして平気で裏切るものであるらしい。
平和を維持して守っていく一方で、犯罪は全く減らないものだ。天災地変の自然災害が、時に人に牙を剥かない時もない。四面楚歌である。事件記者の私が敢えて明言すれば、犯罪とは社会を騒がせる人災のようなものである。災害やテロに限らず、世間を賑わすほどに騒がれる凶悪犯罪事件の多くは、犯罪者と呼ばれる者達によって現実に解き放たれた狂気の奔流にも似ている。それは正に晴天の霹靂ともいうべき悪夢や病の具現化であり、日常や平和という我々が強固に築き上げ、そこに存在するのが当たり前と信じている、この現実という名の共同幻想に穴を開け、悉く破壊する為に存在しているといっても過言ではない。
今さら私が言うまでもなく、犯罪とは人々が築き上げてきた平和な日常や安全管理を脅かす反社会的行為である。行為そのものに大小などない。殊に殺人事件となれば、そこに生きる人々やその家族、築いてきた人々の絆や繋がりをいとも容易く断ち切り、被害者の命や名誉、その名前に刻まれた尊厳を過去、現在、未来に渡って侮辱する行為であることは元より、それは時に血に飢えた不可視の獣が実体化したかのごとき狂騒を社会にもたらす。平和に生きたいと願うのも人ならば、故意にせよ過失であるにせよ、壊してしまうのもまた同じく人なのである。人間の悪意や欲望が時には赤い濃霧のように立ち込め、荒らぶる狂雷と風雨は嵐となって、ひたすらに傘もなき現実に降り注ぎ、その恐ろしくも忌まわしき爪や牙は脆弱なる者の精神を完膚なきまでに揺さぶり、叩き伏せ、捩じ伏せる。
泥に浸かり、もはや往時の美しき姿形など見えなくなった湖のごとく、血の雨が降り注いだかに見える、その酷悪にして残酷な人のもたらした破壊の爪痕と黒々と穿たれた深淵の暗闇に、人は果たして何を見出だせるというのか。
事件によって人が泣き叫び、悲しみ、怒り、時には自分には関わりないと忌避し、恐怖し、加害者や被害者を嘲笑う業の深きを、同じく人が思い知る頃には、時は既にして遅い。事件とは人が作り上げ、人によって語られ、人によって記され、来し方から行く末まであらゆる形で残され、記憶と記録に刻まれていくものだ。時代の変化や流れと共にその入力や出力の媒体は変われども、あらゆる情報は今この瞬間にも生まれ、莫大な情報量と加速度で処理され、データベースに刻まれて、あまねく過去となる。あらゆる情報や書籍の文字の羅列の中に記された記憶の墓場は、もはやそれを過去の情報としか定義できないものとなる。
だが、その情報や記録は紛れもなく人が作り上げたものなのだ。人の過去や罪は消えない。事件の名前、被害者の名前、事件の経緯、犯罪者の名前、罪状や刑期は記されていても、そこに感情や人間性を置き去りにしておくことはやはり出来ないものだろう。
「神は死んだ」「人生を危険に晒せ」「畏れは道徳の母」「嘘は人間の条件である」などの名言で知られるドイツの異端の哲学者、フリードリヒ・ニーチェは、その著作『善悪の彼岸』において、こんな言葉を残している。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と。
現実を引き裂いて余りあるほどの暴力が具現化した、犯罪と呼ばれる逸脱行動に走らせる人の狂気の衝動とは、何から生まれ、そしてどこからもたらされるものなのか。人の内にある、その混沌からもたらされる黒々とした悪意が何故にこの世に存在するのかを、本書最後のこのエピソードを通して今、私は改めて世間に問いたい。
我々人間がその内に秘めている混沌とした暗闇を覗く時、そこに垣間見るのは我々自身の姿ではないのか。陰湿な言葉を吐き捨てる残虐さと流れる緋色の血の濃密にして芳醇な、金臭き味や香りを求めて徘徊する獣のごとく、本能のみに動く浅ましき獣の姿こそが、ありとあらゆる暗闇を宿した人間本来の姿に他ならぬのではないのか。人の深淵を覗くこととは即ち、血を啜り、臓物を食らっては他人の命を奪う人面獣心の獸の諸相こそが、他ならぬ我々自身が本来的に隠し持った、もう一つの我々の現し身であることを思い知ることに他ならないのではないのか。
古来から人は無類の酒好きであり、あらゆる悪夢の物語を好んできた生き物でもある。悪夢や謎のもたらす陶酔に浸り、酩酊を追い求めるがごとく、血塗れの物語に歓びを見出だす。血塗られた書物の良し悪しを語る場に供される美酒は擬似的な悪夢の代替であり、人の業とは即ち、平和を望みながらも憎しみに駆られて生きる選択をも平気で容認してしまうことなのではないのか。そう作者は日々生きる中で己自身の持つ暗闇に思いを馳せ、時に悩み、時に迷うものである。
些か大仰な前置きなれど親愛なる読者諸氏よ、今こそ最後の悪夢の物語をここに語り明かそう。この語り部が舌を噛み、明かし語ろう。この本書を手に取り、回り続ける車輪のごとく共に走り続け、喜びや悲しみや感動を共有してきた読者諸氏には、その結末を知る資格がある。悪夢の終着駅へと向かう、最終電車の時は訪れたようだ。
後に『隅の麗人』と名付けられた、その血と闇と暴力に彩られた惨劇と悪夢の物語を最後まで共有し、その噎せ返るような陶酔のもたらす圧倒的な狂気の奔流が向かう先にこそ、我々がたどり着くべき真実の扉があると信じて、ここに綴ってゆく。
2014年3月29日のことである。