第三十六話 強くなれ
俺は草むらの上に倒れ込んでいた。腹を抱え、痛さのあまり顔を歪めていた。そんな俺を見ながら、シンさんはいつものような笑顔を浮かべ、こう言った。
「わかったかい? 君はまだまだ弱いんだよ」
7月20日
ようやく梅雨が明けた。今日まではダッシュ力と止まる力を養う特訓の繰り返しだった。一向に次の段階に進まなかったが、ようやく今日次の特訓をするらしく、俺の家の近くの公園の広場に、学校終わり来るように言われた。公園と言っても、俺たちが通っていた小学校はなくなってしまったし、小さい子もここら辺には住んでいないから、もうほとんど使われていない。俺も久しぶりに足を運んだ。
草が生え切っていると思ったけど、なぜかほとんど刈られていた。まあ、シンさんの仕業だと思うけど。当のシンさんは広場の真ん中で突っ立っていた。俺に気づいたらしく、笑顔で手招きをした。
「やあ、焔君。今まで特訓ご苦労様。AIから聞いたけど、ちゃんとさぼらずやってたみたいだね。感心感心」
そう。シンさんは俺が止める力をつける特訓を達成したときから、来ていない。来るのがめんどくさくなったのか、それとも俺のことを信頼していたのか……正直なところ半々だと思う。
「今日から新しい特訓ですか?」
俺は単刀直入に聞いた。その言葉にシンさんはニコッと笑い、首を縦に振った。
「そろそろ君もだいぶ力がついてきたみたいだし。梅雨も明けたしね」
次の特訓……そろそろ戦闘訓練とかかな?
俺はけっこう期待していたし、自信もあった。なんたってレッドアイを倒したしな。だが、この自信はすぐに打ち砕かれた。そして俺は思い知った。俺が進まなきゃ行けない道のりがどれほど遠いのか。
「君の次の特訓はいよいよ戦闘に関することをしていこうと思う。じゃ早速……」
そう言って、俺と少し距離を取り構えた。俺はいきなりの行動に全く意味が分からなかった。
「え? 何ですかいきなり? まさか……今から戦うんですか?」
「せいかーい」
「いや、正解って。俺まだ何も教えてもらってないですし。何が目的なんですか?」
「んー……目的か。君に今の実力を知ってもらいたい……って言うのは建前で、本当は君の勘違いを解いておこうと思って」
「勘違い? どういうことですか?」
この時本当にシンさんの言っている意味が分からなかった。だが、次の言葉で俺はシンさんに心を見透かされてるんじゃないかって思ってしまった。
「いや、焔君。君……レッドアイに勝ったからってちょっと強気になってないか?」
シンさんは笑顔だった。それだけに、今の言葉の冷たさと鋭さが余計に怖く感じた。俺はこの言葉に少し固まってしまったが、すぐに代弁した。
「す、するわけないでしょ。シンさんがいなけりゃ俺負けてたし」
「でも、レッドアイと少しは互角に戦えてこの特訓に関して、ちょっと自信持ってるでしょ?」
俺は否定できなかった。確かに、俺はレッドアイと少しの間、戦えたと思ってるし、このことに誇りを持っていたから。
「……やっぱりか」
「で、でも少しぐらいあの経験を自信に繋げてもいいでしょ!!」
「いや、別にそれは良いんだよ。ただ一つだけ知っておいてほしいことがあるんだけど……レッドアイはあの時全然本気じゃなかったよ」
……え? 俺は思わず笑ってしまった。レッドアイはあの時本気だと思っていたし、実際本気を出すみたいなこと言ってたし。
「で、でも!! あの時レッドアイは本気だったはず……です」
「片手一本しか使ってなかったけどね」
「か、片手……一本だけ……」
そうだ……レッドアイはナイフしか使ってなかった。他の一切の攻撃はしていなかった。てことはレッドアイは全然……余力を……
「君は確かにレッドアイには勝った。でもあれは彼の本来の力ではない」
俺はただ茫然としていた。俺の誇りを……自信をこけにされたような気分だ。でも……
シンは少し言い過ぎたかと顔をポリポリ掻き、焔に声をかけようとした時だった。
「わかりました。シンさんの言っていることは良くわかりました。だったらさっさと俺の勘違いを解いてください」
そう言って、焔も構えた。シンは少し驚いていたが、いつものように笑顔を崩しはしなかった。
(あれ? 焔君怒ってるのかな。冷静な顔してるけど、ピリピリと怒りが伝わってくるよ。自分の自信を踏みつぶされたことを怒っているのかな。それともレッドアイのことかな)
「そうだね。前置きが長くなってすまなかった。じゃ、早速始めよっか」
……
長い沈黙が続いた。
焼けるように降り注ぐ太陽の光。
むさ苦しく、纏わりつく空気。
五月蠅く鳴いているセミ。
10秒ほどの沈黙が続いた。正直、すぐにでもシンさんの懐に潜り込もうと思ったけど……
いつもと変わらず、笑顔を崩さないシンさんに俺は少し恐怖を感じていた。心がぞわぞわするような感じがした。それに、初めてシンさんと対峙してわかったけど……スキが無い……ような気がする。俺にはまだそういうことはわからないが、なぜかそう思った。直感的に。本能的に。
色々思考を巡らせている焔だった。だが、決してシンから目を離したわけでも、油断したわけでもなかった。
にもかかわらず、シンは次の瞬間すでに焔の間合いに入っていた。
焔はハッとしたかと思うと、またシンと距離を取ろうと後ろに下がろうとするが、もう遅かった。
シンはもうすでに右の拳を焔の顔めがけて打ち込もうとしていた。だが、焔は自分の生まれ持った能力のことシンに伝えられていたし、シンも当然そのことについて知っていた。
素早く反応し、焔は顔を右に傾けた。シンの拳は焔の顔の横で空を切った。
だが、それと同時に強い衝撃が焔の右足首を襲った。その瞬間、焔の視界が一気に90度回転し、焔は空中で右方向に倒れ込もうとしていた。
やられた。敢えて右腕のモーションを大きく、俺の注意をひきつけたのか。全くシンさんの足の動きなんて見えてなかったし、見ようともしてなかった……でも、まだだ。地面に着いた瞬間、すぐに距離を取れば……まだ。
焔は一瞬で状況を察知し、受け身を取ろうと用意をした時だった。シンは更に焔に追い打ちをかけようと次は左の手で焔の腹に一撃を食らわそうとしていた。
マジかよ!! あの一瞬でここまでのことが!? ダメだ。手は間に合わない。踏ん張れ!!
シンは焔の腹に掌底を打ち込んだ。焔はそのまま吹っ飛び、草むらの上を転がりまわした。そして、腹を抱え、悲痛なうめき声をあげた。
う……うぅ。痛い……痛すぎる!! 今までの特訓で怪我や痛みにはだいぶ慣れたつもりだったけど、この痛みは毛色が違いすぎる。
腹がよじれそうだ!! 全く立ち上げれる気がしない。
「わかったかい? 君はまだまだ弱いんだよ」
くそ。なんも言い返せねえ。たったの一撃でもう立ち上がれないんだ。言い返す言葉なんて見当たらない。
「今日はここまでにしておくよ。明日もまたここでやるから……じゃ」
そう言って、シンさんは消えていった。2,3分経ちようやく痛みも引いてきた。
俺は仰向けに寝転び、ギラギラ光る太陽を睨みつけた。
確かに俺は弱い。弱すぎる。シンさんの言わんとしていることもわかった。変に自信をもって、特訓に挑めばどこかでブレーキがかかってしまうかもしれないからだ。
でも、あの時の自分は否定したくない。過去の弱い自分は置いてくると言ったが、あの時の自分は強いと、強かったと思いたい。自身を持って強いと言いたい!!……じゃないと、レッドアイに申し訳ないからな。
必ず強くなる。強くなって、自信を持て言うんだ。
俺は強いと。
焔は右手を伸ばし、太陽を掴んだ。
―――シンは自分の部屋に戻るために、どこか近未来的な白の廊下を歩いていた。そんな中、AIがおもむろにシンに話しかけた。
「シンさん。焔さんはとっても強い人だと私は思いますよ」
「えらく急だね。そんなに俺の言葉が気に食わなかったのかい?」
「そういうわけではありません。ただ、私はずっと見てましたから。彼があなたの課す地獄のような特訓を毎日弱音を吐かず、手も抜かず、涙が出そうなのを堪えながら、歯を食いしばって頑張ってました。ですから、彼は決して弱くはないと思います。むしろとても強いと思います」
AIは淡々と語った。だが、不思議と何かしら強い感情がこもった言葉だった。シンはAIの言葉に少し驚きながらも、すぐに微笑んだ。
「うん。確かに彼は強いよ。普通なら逃げ出したくもなるようなことも決して諦めず、食らいついてきた……でもね、こんなところで満足してもらっちゃ困るんだよ。彼にはもっともっと上を目指してもらう。そのために、自分は弱いんだと思っておいたほうが何かと都合が良いんだよ」
「なるほど。そんな意図があったんですね」
「まあねー……そして、それを実現するためには俺は必ず彼の遥か上にいなければいけない」
この言葉を言った後、シンはその場で立ち止まったが、フッと鼻で笑うと、方向転換して少し早歩きになった。
「どうしたんですかシンさん?」
「いや、俺も現状維持じゃだめだと思ってね。それに彼は成長してるのに、俺だけ悠長に彼が来るのを待ってるのは何か違うだろ」
「……そうですね」
(焔君……強くなれ。その分俺がまたハードルを上げてやるから)
シンはいつも通り笑顔だった。だが、その笑顔には強い期待と高揚感がにじみ出ていた。