夢か現か
どうしてこうなった。
いや、俺は悪くない。
だいたい要が無理に急ぐから悪かったんだ。
俺は止めようとした、それだけで十分じゃないか。
そうだ、俺は偉い。
ちゃんと止めようとしたんだ。
俺は悪くない。俺は、俺は……。
「急げッ!」
「バイタルは?」
「血圧74の44 脈拍119 呼吸15です」
「いちにのさんっ」
遠くに聞こえる会話の意味は、俺には全く理解できなかった。
「君、この子の知り合いだよね。着いてきて」
20代後半ほどの女性隊員は、鋭さと優しさを兼ねた声で俺を呼んだ。
自分が本当に歩けているのか不安だったけれど、俺は必死に着いていく。
俺は要と自ら連絡した救急車に乗った。
「まず、君の名前は?」
「……有賀屋 琳です」
「この子の名前は?」
「……水無瀬 要です」
「辛いと思うけど、これから色々聞かせてもらってもいいかな」
「……はい」
俺は、視界の淵に映る救命作業から目が離せないまま、女性隊員の質問に一つ一つ答えた。
要の住所から学校、その他諸々の情報を全て伝えた。声が震えていたので、何度か聞き返されもしたが、その度に暗示を自分にかけて答え直した。
だんだん遠退いていく女性の声を、逃さないように捕まえて。
「あ、あと君の親御さんにも連絡しておいてね」
「……わかりました」
隊員は、その言葉を告げると血相を変え、救命作業の援護をしに行った。
俺は、とっさに肯定の言葉を発してしまった。
仕方なくスマホを手に取り、チャットアプリを開いて、閉じた。
何も打たなかった。何も打てなかった。
担架で運ばれていく彼女を、俺はゆっくりと追いかけていった。
「残念ですが、もう、要さんの意識が戻ることは……ないでしょう」
四十代前半くらいの容姿をした、男性医師の第一声は、その言葉だった。
ベッドの上には、呼吸器を口に纏った要が寝ている。
すぐ近くでは、心電図モニターが一定の脈を刻んでいた。
「え……」
出そうと思って出した声ではなかった。
完全なる無意識で、半ば反射的に発した、一種の振盪だった。
カラダと魂が二つに分かれる、そんな感覚が全身を襲った。
これは夢だ、現実ではない。
それとも、盛大なドッキリではないのか。
そもそも、要は今、目の前にいる。
彼女がまだ事切れていないことは、この目と心電図モニターが証明していた。
実時間2秒ほどの間に、俺は頭の中で思考を繰り返したせいで、なんだか自分が遠く見えるような感覚に襲われた。
「うそ……ですよね」
「いや……いや、いやぁぁぁあ!!!!」
父親の静かな衝動と、母親の昂ぶった衝動が病室に響き渡る。
「すみません、ここに着いたときには、もう、何もできない状態でした」
医者の二言目が、深々と空気に引っ付いた。
鳥籠のような小さな一室は、生活感など一切感じず、人が入れ替わる度に新調されているような、真っ白い空間だった。
今の俺は、たまらなく息がしづらかった。
この白い空間が全てを無かったことにしたいと、そう訴えているようにしか、心で感じ取れなかった。
死に慣れてしまった医者、言葉を失ってしまった父親、もう微かな声しか発せない母親、心が空っぽになってしまった俺、それらの感情が頭の中で飛び跳ねる。
感情という感情が一周回って、俺の目からは何も垂れていなかった。
拭たくても、そこは乾いたままだった。
その代わりに、両肩にズシリとした重い感触が走る。
それが、人間の手だと自覚するまで、さほど時間はかからなかった。
「……君が……」
久しぶりに戻った意識下で初めて見た光景は、視界いっぱいに広がる、憎悪に満ちた人の顔。
「……君がいて、なんで要は……」
憎しみだけではなかった。
彼の瞳には、大粒の涙が今にも垂れそうなほど溜まっていた。
俺には、その目を見続けることができなかった。
「なぁ、なぁ……」
俺の全身が大きく揺れた。
揺らされていた。
少しでも気を緩めれば、俺はすぐにでも崩れ落ちそうだった。
「……なんか言えよっ!!!!」
鋭い罵声が、俺の全身に突き刺さる。
「あなたやめて……。琳くんだって……」
耳に入ってきたのは、枯れに枯れきった、母親の声だった。
「……きっと、辛い……」
それはきっと、彼女の本心ではない。
「…………すまない」
父親は下唇を噛んだ。
強く、強く噛んでいた。
両肩から徐々に下へと向かう刺激は、やがて太ももを境に途絶える。
目下に見えるのは、地面に頭を垂らす父親の姿。
ポタポタと、雫の滴る音がした。
その嘆きが、俺を現実へと引き戻す。
俺は、せっかく目の前にあった彼らの怒りをぶつける対象を失くした。
俺だって、どうせならもっとボロクソに言われたかった。
もはや、人格をも否定されるほどまでも、ズタズタにされたかった。
ただ、ただ自分が、平然とこの場に立ち続けているのが申し訳なく、そして辛くて仕方なかった。
罪悪感という名の悪魔が、俺に巻きつき締め付けている。
血の繋がっていない部外者が、彼らと同じ悲しみを味わってはいけないと、訴え続けていた。
ただの逃げなのかもしれない。
責任を逃れようとしたのかもしれない。
何を目的として口を開いたのか、自分でも理解できなかった。
「……すみません、俺が代わりに死ねばーー」
口を開いている途中で、俺の右頬に激痛が走った。
目の前には、化粧も剥がれ落ち、髪型も大きく乱れ、グシャグシャになった母親の姿が映し出されていた。
この世のものではないような目つきが、俺を縛り付けて離さない。
「あああぁぁぁぁぁぁぁあああぁ!!!」
床に這い蹲る父親は慟哭しながら、俺の右足を引きちぎるかの如く掴んでいた。
痛かった。
痛くて痛くて、たまらなかった。
「……すみ……ません」
俺は、ゆっくりと背中を倒し、謝罪の言葉を述べた。
震えた感情が、音となって飛び出す。
無意識に堪えていたモノが、一瞬にして溢れ出し始めた。
目の前がふんわりとぼやけ始める。
じんじんと赤く腫れた頰が、何かを鼓舞するかのように、俺をことごとく痛みつけた。
……痛みつけた。