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エピローグ

 目を開く。
 ゴーグルの向こうに、一番見慣れた天井が透けて見える。
 その天井が、遮られた。
「智保……」
 ベッドの真上から、智保が僕の顔を覗き込んでいる。
 智保の顔をもっとよく見たくて、ゴーグルを外す。
「ただいま」
 ずっと寝ていたせいか、体が思うように動かない。寝たまま挨拶をする。
「おかえり」
 智保は優しい笑顔で挨拶を返してくれた。
 それがうれしくて、智保の顔を見続ける。
 智保も、僕の顔を見続ける。
「それだけ?」
 笑顔を崩さないまま、智保が僕の次の言葉を待つ。
 もちろん、言うべき言葉は挨拶だけではない。
 これを言うために、この気持ちを伝えるために、僕は帰ってきたんだから。
「智保、好きだよ」
 気づくまでに時間はかかったけど、思いをはっきりと口にした。
「あたしも、立樹が好き」
 智保の目が潤む。
「体、起こせる?」
「んっ……、ちょっと、手伝って」
 頑張ればなんとか自力で起きられそうだったけど、智保に甘えたくなって、手を貸してもらうことにした。
 僕の背中と後頭部に手を入れて、智保が僕を起こした。そして、
「ん――――」
 そのまま、僕と智保の唇が重なり合った。
 後頭部を押さえられていて、逃げようがない。
 でも、そもそも逃げる理由なんてない。
 体も時間も智保に預けて、唇の甘さを味わう。
 智保が唇を離した。
 また僕を寝かせた智保が、ベッドの上に乗った。僕の上に、覆いかぶさるように跨る。
「えっ、と……」
「立樹はあたしが好き」
「う、うん」
「あたしも立樹が好き」
「うん……」
「そして、ここはベッド」
「……………………」
「だったら、することは一つ」
「ちょっと待って!」
「待たない」
「待ってーっ!」
 智保は完全に体を密着させて僕に重なる。まだあまり体が自由に動かなくて、抵抗できない。シェレラからは無理やり迫られたことは数え切れないほどあったけど、智保にされるのは初めてだ。告白した途端、こんなことになるなんて!
「今は、ほら、とにかくダメ」
 ほんの数センチ先にある智保の顔を、両目を見つめて答える。
 智保も僕から目を逸らさない。
「じゃあまたキスして」
 うーん、それくらいならいいかな。
 というか、キスなら僕もしたい。
 智保の後頭部に手を回し、引き寄せた。
 もう一度、唇を重ねる。
 いつまでもこうしていたい、そんな気持ちになった。

「お兄ちゃん! おかえ……あ、どうぞ、続けて」
 突然ドアが開いて、騒がしい声が聞こえた。
 智保に当てていた手を、慌てて離す。
「あ、愛里!」
「うん、続けるね」
「続けなくていいから!」
「大丈夫大丈夫。私にはお構いなく」
「お構いなくじゃないだろ!」
「りっくーん! 帰ってきたのー?」
 階段を駆け上がる足音が迫ってくる。
「お母さん? うん、帰ってきたよ! ほら、智保、もう降りて」
「どうして?」
「いいからもう降りて!」
「むーっ」
「りっくん! おかえり!」
 お母さんが部屋に入ってきたのと、智保がベッドから降りたのは、ほとんど同時だった。なんとか間に合ってよかった。
「本当に帰ってきたのね! お母さん心配してたのよ!」
 お母さんは今にも泣き出しそうだ。
「ごめんね、心配かけちゃって。でも、ちゃんと帰ってきたよ」
「でも、こうちゃんは一年向こうに行ってたのに、りっくんは意外と早かったわね……」
 ええ!? 心配してたって言ったのに、そんなふうに思ってるの?
「そうだわ! こうちゃんにも教えてあげなきゃ!」
 ポケットを叩いて、スマートフォンを持っていなかったことに気づいたお母さんが、階段を下りていく。
 もっとも、お父さんはとっくに把握しているだろうけど。
「僕も、みんなに帰ってきたって報告するよ。久しぶりにアミカやフレアにも会いたいし」
「じゃあ私から連絡しておくね。お兄ちゃんと智保は先に行ってイチャイチャしてて」
「イチャイチャってなんだよ!」
「うん、イチャイチャしてるね」
「しなくていいから!」

   ◇ ◇ ◇

 シェレラと二人で噴水の広場のベンチに座って待っていると、少し遅れてアイリーが、そしてアミカ、フレア、それにザームが来てくれた。
 意外にも、ザームが人目もはばからず大泣きしている。
「リッキ、もう大丈夫なのか? ずっと病気だったんだろ? 治ったのか? 体はどうなんだ?」
「え? う、うん、もう大丈夫だよ」
 どうやら僕はそういう扱いになっていたようだ。
「そうか! よかった! これでまた一緒に遊べるな!」
「よく言うわ。ずっとギター弾いてばっかりだったくせに。今日もこれから練習なんでしょ?」
「お、おう、そうだった。俺のスケジュールをちゃんと把握しているなんて、さすがお嬢だぜ」
 八重歯をキラリと光らせて、爽やかに笑う。
「じゃあ早く行く!」「ぐあっ!」
 フレアがザームの尻を蹴飛ばした。ザームはそのまま去っていった。

 それから僕たちはいつものホテルの部屋に行き、本物のリュンタルで何があったか、僕がいない間『リュンタル・ワールド』でどんなことがあったかを話した。とても一日で語り尽くせることじゃないから、きっとこれから少しずつ話していくことになるのだろう。
 智保に告白したことは、ここでは言わなかった。
 いずれは言わなければならない。アミカもフレアも、僕を好きだと言ってくれている。智保に好きだと言ったからには、僕は二人にはっきりと断る義務がある。

 ログアウトした時には、すっかり夜になっていた。
 ベッドから体を起こす。なんか忘れているような……?
 …………思い出した! 晩ご飯!
 本物のリュンタルでは全く必要がなかったけど、こっちじゃ僕が料理を作らなきゃ。
 まだ軋む体をなんとか動かして部屋を出て、ゆっくり階段を降りる。
 あれ?
 階段を一歩一歩下りるごとに、いい匂いが漂ってくる。
 どういうことだ? 誰かが料理をしているのか? お母さん……の、はずがない。絶対にない。じゃあ、一体誰が……。
 リビングのドアを開ける。
 テーブルには料理が少しだけ置かれていた。
「お、立樹、どうだった、向こうは?」
 そして、お父さんが椅子に座っている。まるで旅行から帰ってきた人を迎えるような、軽い言い方だ。
 ひょっとして、お父さんが料理を?
「お待たせー」
 台所から、お母さんがお盆に料理を乗せて持ってきて、テーブルの上に置いた。ということは、お母さんがこの料理を? いや、そんなはずはない。お母さんに料理ができるはずが……。
 もう一人、台所から誰かが来る。モノトーンのエプロンに身を包み、ご飯と味噌汁を運ぶお盆を持つ手には、銀色の手枷。
「無事に帰ってきたようね」
「エマルーリ!?」
 どうして、どうしてエマルーリがこの家に?
「エマさん、いつもありがとう」
 お母さんがエマルーリにお礼を言う。
「お父さん! これ、どういうこと?」
「立樹がいない間、エマルーリに料理を作らせてたんだ」
「大丈夫なの? そんなことして」
 ヴェンクーがこの家に来たこともあるし、エマルーリが現実世界に出現できるというのはわからなくはないけど……。
「大丈夫。これが意外とおいしいんだよ」
「そうじゃなくて! 危険じゃないのかってこと!」
「安心して? コーヤに嵌められたこの首輪と枷がある限り、私に自由はないから」
 軽く恍惚の表情を浮かべながら、エマルーリは首輪に指先を当て、滑らせた。手首では銀色の枷が輝く。
「料理は終わったし、私は牢獄へ戻るわ」
「あ、ちょっと待って」
 階段を勢いよく降りてきた愛里が、リビングに入ってくるなりスマートフォンをエマルーリに見せた。イヤホンの片方をエマルーリに貸し、二人で何かを見ている。
「おおう、これは……」
 エマルーリの白い顔が、少し頬を赤く染めたように見える。一体何を見ているんだ?
「お父さんとお母さんも見る?」
 今度はお父さんとお母さんが、イヤホンを分け合って何かを見ている。
「何を見てるの? 教えてよ」
「ちょっと待て! 今いいとこだから」
 お父さんがスマートフォンに顔を近づける。
「こうちゃん、わたしが見えないじゃない!」
 お母さんがスマートフォンを引っ張った。
 イヤホンのコードが抜けた。

「智保、好きだよ」
「あたしも、立樹が好き」

 え、えっ――――?
 これは、あの時の…………。

「いやー、お兄ちゃんの体に何かあったらいけないから、部屋にカメラをセットしてあったんだよねー。で、お兄ちゃんが帰ってきた時、私結構大きめな戦闘やっててすぐ落ちれなくてさ。そうしたら智保が先に来ていて……いいものが撮れたなーって」
 と、いうことは。
 あの時の僕と智保が、全部録画されている――――?
「あ、もうカメラは回収したけどね。あの後、先にログインしてもらったのも、そのためだし」
「え、えっと、智保は、カメラのこと、知ってたの?」
「知ってるに決まってんじゃん」
 やられた。動かぬ証拠を、智保に作らされた。
「せいちゃん、俺、せいちゃんが好きだよ」
「わたしも、こうちゃんが好き」
「何マネてんだよ!」
「いいじゃないか。人を好きになるのはいいことだぞ」
「そうよ。智保ちゃんを大事にしてあげてね」
「わかってるよ! 言われなくてもずっと大事にするよ!」
 こんな録画があろうがなかろうが、僕の気持ちが変わることはない。
 この世界に帰ってきたこともうれしかったけど、それ以上の喜びを、僕は感じていた。

 ――あ。
 エマルーリの料理、本当においしい……。

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