第1話 lost colony
紗季は、インコが死なないと思っている。
私と紗季は二階の教室の窓から手を伸ばし、そこにインコが止まるのを待っていた。
五月中旬、春どころか夏を思わせる暑さの日だった。
そんな日に真っ白な右腕をさらけ出して、右腕だけ日焼けしてしまいそうだ。
だけど私は文句を言わずに、紗季に付き合っていた。
私よりも紗季の方が立場が上というか、紗季は私の保護者みたいな感じでなにかと構ってくる。
それは嫌なものではなかったので、私も紗季の幼い娘であるかのように彼女の傍で過ごしていた。
「悠介はどう? 変なこと、されてない?」
紗季は窓の外に伸ばした右手の爪を見つめて言った。
うろこのように尖らせてある紗季の爪を、私も見つめる。
「されてないよ。って言うか変なことって、なに」
「わからないけど。でもあいつ、私と別れてからおかしいでしょ? 次から次へと彼女を変えてさ。五人目で、詠子にまで手を出すなんて」
紗季の右腕は真っ直ぐに張る力を失って、手はだらんと垂れた。
悲しみと罪悪感が顔に出ていた。
そこに心配の色も塗り重ねて、
「本当に、嫌なこととか、なにもされていない?」
と紗季は聞いてくる。
対して私はけろりとしている。
「全然。なんにもされてないよ」
まるで順調な交際をしているように言うけど、それは嘘だ。
私が悠介にされているのは、紗季の想像するような変なことじゃない。
全くもって順調じゃない。
きっと私の前の四人の子たちのように、そのうち私との交際も終わりを迎える。
そしてそのことを紗季に告げるつもりはなかった。
だから私は、話題をインコのことに変えた。
「それにしてもキイロくん、どこに行っちゃったんだろうね」
そう言いながら、「もう星になっているのかもね」と頭の中で呟く。
キイロくんというのは、彼女の飼っていたセキセイインコの名前だ。
キイロくんはある日逃げてしまって、紗季の家には戻ってこなかった。
でも紗季は、迷子のキイロくんがいずれ自分のことを見つけて戻ってくるものだと思っている。
「もっと温かい所に行っちゃったのかもね。沖縄とか」
と紗季は答えた。
「沖縄って、海を越えて? できるの、そんなこと」
「さあ? でも、頑張ればそのくらい飛べるんじゃない? 鳥なんだし」
紗季はいい加減な言い方をした。
根拠はないらしい。
たぶん無理じゃないかな、と私は思った。
でも紗季からしてみれば、根拠がなくたってキイロくんが沖縄の海辺を飛んでいる姿はそう不自然ではないらしい。
キイロくんが逃げてしまってから、もう一年も経つ。
寿命はまだ先だからって、キイロくんが死んでしまった可能性を紗季は少しも疑わずにいた。
死んでしまうことに比べれば、沖縄に行くぐらい余裕であり得るっていう感覚なのだろう。
私もそんなふうに信じ込めたらいいのに。
私は沖縄に行くどころか、キイロくんがとうに死んだものとすら思っている。
死んだキイロくんの肉を、カラスやネズミが食い漁る姿の方がよっぽど想像できた。
爪のピンクの部分は、爪の下を流れる血が透けてピンクに見えている。
生々しさを薄めた爪のピンク色は、私がキイロくんの肉やそれを食うカラスのくちばしを想像する時に思い描く色と同じだ。
それ以上生々しくイメージすると気分が悪くなってしまう。
だけど想像すること自体は止められなかった。
死は自然なことだ。
人間の手の中にいない生き物たちの世界では、ことさら身近なものだ。
だから私は当たり前の可能性としてキイロくんの死を想像してしまうのだった。
「どっかで元気にしてるといいよね」
と私ものんきな振りをして言ってみた。
キイロくんが生きていてほしいと思っているのは本当だ。
けど希望を口にしてみたところで、やっぱり死のイメージは頭から離れてくれなかった。
「まあ、元気でしょ。元々暴れん坊でね、だから逃げちゃったわけだし。それより、人前とかで変なこと言ってないか心配」
「変なことって、たとえばどんな?」
インコにどんな言葉を覚えさせてしまったのだろう。
わくわくして聞いた。
すると紗季は上の方を見て手をぶらぶらさせ、いくつか候補を思い浮かべると、
「お前は俺の世界の全てだ、とかかな」
と言った。
「なにそれ」
「言われたんだよ、悠介に。そしたらキイロが一発で覚えちゃった」
「オマエハオレノセカイノスベテダー」
私は甲高い声で言った。
紗季はげらげらと笑った。
「自分の彼氏なのに、よくそんな馬鹿にできるね」
紗季は腹を抱えて、言った。
「別に私のものじゃないもん」
インコの話だったのに、また悠介の話に戻ってきてしまった。
もっともっと悠介から遠い話をしよう。
私は、世の中が不景気だっていう話や、私たちが大人になってもお金持ちになれないんじゃないかって話なんかを紗季に振った。
暗い現実の中に、悠介は登場しなかった。
そして私たちの暗い話を打ち切ったのも悠介だった。
「まだいたのか、お前ら」
と悠介が教室に入ってきたのだ。
悠介は背が高い。
髪はさらさらで、なにより彼の瞳には希望の光が住み着いている。
彼の目に見つめられていると、日々の嫌なこととかから隔離された宙ぶらりんな世界にいるような気分にさせられる。
ぼうっと夜空を見上げている時の、その夜空の穏やかな黒みたいな雰囲気を彼は持っている。
「そっちこそ、まだいたんだ?」
紗季は意地悪っぽく言ったけど、少し嬉しそうにしていた。
悠介も、紗季に笑みを向ける。
「図書室で調べ物していたんだ」
悠介は私の目の前に立つと、私の肩に手を置いてキスをしてきた。
そんな脈絡なかったでしょ、今。
そう言いたかったけど、口は塞がれている。
それに私は彼のキスを受け入れていた。
目を閉じ、彼に触れられている感触に身を委ねれば、自分のことを彼に相応する美しい人間だと思い込めた。
美しく穏やかな人間のつもりになれる時間。
そんな人間に転成できるかもと思わせてくれる時間。
友達の愛している人を平気で自分のものにしているのに、私の胸は期待と希望で満ちる。
それはとても心地よくて、彼を手放したくなくなってしまう。
「はいはい、バカップルしてないで、早く帰るよ」
紗季は両手を叩き、保護者のテンションで言った。
私と悠介の唇が離れる。
私は思わず紗季の顔を見た。
紗季の呆れ顔の中に、深いしわを作った眉間があった。
元カノの目の前でキスするって、普通じゃないよね。
そう言いたげだったけど、それは一瞬のことで、紗季の表情はすぐに完璧な呆れ顔を作り上げた。
「いきなりキスとかするかね。しかも人前で」
と紗季は常識的な文句を言ってみせる。
呆れ顔を作るのに僅かな時間を要したことを紗季は自覚していないだろうと私は思った。
まだ私の肩に手を置いたままの悠介はとても澄んだ目で私を見て、
「詠子、お前は俺の世界の全てだよ」
と言った。
紗季の顔はそのセリフに歪まなかった。
なんにも感じていないふうに、表情を固定していた。
私はそんな紗季の腕に飛びついて、
「やばいね」
と小声で笑ってあげた。
「ね。やばいね」
小さな声と笑みを私に返してくれた。
それで私は少しほっとする。
紗季には今の言葉を本気にしてほしくなかった。
だって悠介が私に向けている情欲や愛情は、実は私への感情ではない。
悠介は、行き場を失った紗季への想いを代わりの女にぶつけているのだ。
「なに二人でこそこそしてるんだよ」
と悠介は言った。
「悠介は知らなくていいこと」
私がそう冷たく突き放すと、紗季も意地悪そうに笑って追い打ちする。
「そうそう。お前が知っても仕方ないことだよ」
悠介の気持ちは露骨なまでに表情に出る。
紗季と違って感情を誤魔化そうとすらしない。
私よりも紗季に言われた瞬間の方が、寂しそうな顔をしていた。
そういう顔を見ていれば、今だって自分のことが大好きなんだと紗季もわかりそうなものなのに、そうであろうと紗季は彼を許す気がないようだった。
悠介はとても美しい男の子なのに。
そして彼の紗季を想う気持ちも凄く一途で可愛らしいものなのに。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
人間の世界は暗く濁っている。
その濁りは、本来は美しいはずの悠介さえ汚染してしまう。
だからこの世で美しい生き方のできる人間なんて一人も存在しない。
そう感じるからこそ、私はこの世に希望が欲しかった。