プロローグ2 過去・「行かないで」
「行かないで」
あの時の
一年前。場所は
警察病院から退院した次の日、大志は簡単な荷物だけまとめて、そっと警察寮を出た。
まだ首を
己の中に生まれた憎悪が、
「行かないで」
まだ商人や農民さえも目覚めていない時間。
その声は明らかに大志に向けられたものだった。声で人物の
「
体と心の性が一致していない、大志の幼馴染。奈都は震える声を必死に
「行かないで。ここにいて。大志がいなくなったら、ツバメはどうするの? ツバメ、すぐどっか行っちゃうけど、それは大志っていう帰る場所があるからなんだよ? お仕事はどうするの?
「…………」
「私もいやだよ。大志。ね、行かないよね? だって、みんなで約束したでしょ、『三人で協力して生きていこう』って。覚えてるでしょ? あの日、この町の駅のホームに降りた時だよ」
「……………」
「ね、大志、なにか言って。行かないって、ちゃんと言葉にして。行かないよね?」
「…………………」
大志の口は、
どこかぼーっとしたような、遠くどころかなにも見ていないような、そんな目をしている。
奈都の声もちゃんと届いているかわからないような
この状態の大志を、奈都は何度か見ている。
怒りや悔しさ、悲しみが一気に高まってごちゃごちゃになった時の顔だった。
孤児院にいた頃、奈都が
ただ無表情で、冷静に子供を殴り続けていた。
その
今の大志は、あの時にそっくりだ。
「
その言葉だけは、すんなりと大志の中に入ったのだろう。
「………復讐が、仕方ない……?」
「そうだよ、だって、そんなことしたってハルカは帰ってこない。大志が元気でいることのほうがずっと大事だよ」
やっと反応と言えるものを見せた大志に、奈都はたたみかけるように続けた。
「私だってハルカが死んじゃったのは悲しいよ。殺した人のこと、絶対に許せない。だけど、私は大志のことも大切なんだよ。大志まで失ったら、もうどうしていいかわからない」
「俺は、そいつを殺して、ちゃんと帰ってくる」
「そんなのわかんないよ、げんに入院までしたじゃない!」
「今度は必ず殺せる‼︎」
普段あまり聞かない大志の怒鳴り声に、奈都は肩を震わせた。
大志の開ききった
「復讐したって仕方ない? 俺が元気でいるほうが大切? ハルカは家族だろうが、お前はそう思ってなかったのかよ‼︎」
「思ってない!」
「は………」
予想外の言葉に、大志は言葉を失い固まった。
奈都はまっすぐな目で大志を見ている。いつものおっとりした人の良さそうな顔じゃなくて、強い意思のある顔をして。
「大志にとってハルカが家族でも、ハルカにとっての家族は私たちじゃない!」
「!」
「あの子には、ちゃんとした、血の繋がった家族がいる。私たちはせいぜい同年代の友人くらいにしか思われてない。大志の家族は、私と、ツバメと、スラムで亡くなったアナタのお爺さんだけ。わかる?」
「………………」
「私が守るべきなのは家族で、それは大志とツバメ。例えハルカの仇が目の前にいても、私は二人の安全を優先する」
「………………」
奈都は迷いの無い声で言い切ってから、ゆっくりと一歩、大志に近づいた。
そして、朝の空気で冷え切った大志の手を取る。
「ねぇ、大志、行かないで」
奈都の、その時の必死な顔が、大志の心に響いた。
幼馴染を悲しませるのは本意では無い。大志がハルカを失って絶望したように、奈都も大志が目の前から姿を消せば絶望してしまう。その可能性に、彼はやっと気付いた。
「ごめん、奈都……俺はどこにも行かないから」
このまま奈都の手を振り払って、背を向けることもできた。
だけど大志は、約束を口にした。
全て捨てていくには、彼には大切なものが多すぎた。手放せないものが多すぎたのだ。
幼馴染と、協力して生きていこうという約束と、今までの暮らしと、やっと手に入れた職と、心から願った安定。
それを手放す思い切りも、勇気もなかった。手放すには、それはあまりにも心地よいぬるま湯だったから。
復讐の為だけには生きられない。
仇を取る利益と、生きている家族を捨てる恐怖。大志の中でこの時わずかに、後者に気持ちが寄った。
彼は復讐の為に生きるには、あまりにも臆病で自分が可愛かった。
__警察に残れば、犯人の情報が入るかもしれない。
でも臆病者とは認めたくなくて、そんな言い訳まがいのことまで考えて。
奈都の手を握り返す。その時の奈都の顔は、大志はあまり覚えていない。