ナルキッソス/ウルフガールと嘘の嘘
閑話:彼らの懐疑的幸福論
河原に冬が訪れようとしている。
草の色はくすみ、高く背を伸ばしたススキもすっかり金の色。
冬空の下には似合わない半袖の左腕をじっと見て、彼は物言いたげに隣に座っているクマのぬいぐるみへと目をやった。
「俺はお前の知っていること以外知らないからな」
「まだ何も言っていない」
「言いたげだっただろうが」
「君はいつも知ってそうなそぶりだけして、何も答えない」
「知らないからだよ!」
彼とクマは語らい続ける。
暮れなずむ冬の空。橋の下にいるので、一部しか見ることはできない。河原の方へ出ればもっと見られるのだろうが、そこまでこの景色に愛着があるわけでもないのだ。
金色は、おそらくすぐ藍色に溶かされていくだろう。彼はその空に手をのばすように、左手をあげた。包帯で隠された腕。
右腕はむき出しなのに、何故左腕だけ隠されているのか、その理由を彼は知らない。
「この町のどこかで僕がまだ生きているという前提で考える」
「おう」
クマは素直にうなずいた。何かにつけて言動にケチをつけてくることが多いだけに、珍しい。彼は少しだけ、不可解な気持ちになって横目でクマをちらと見やった。クマはいつも通り、すすけて薄汚れているだけの、見た目はただのぬいぐるみである。
「どうやら僕は何かしら怪我をしたらしいが、別段痛くもなんともない」
「まぁ、俺らそもそも人間の身体じゃないしな」
彼らは、人間ではない。幽霊なのか、もっと他の何かなのか、それすらもわからない。何も知らなかったが、とにかくずっとこの橋の下に、ただただ存在している。誰にでも見えるわけではないし、橋の下以外にも行けない。
現在、有力候補なのは「どこかの誰かの生き霊である」説だ。残念ながらこの説を推したところで、ぬいぐるみのクマが喋る論拠には乏しいのだが。
「最初、僕は君に痛みついて質問をしたと思ったが」
「したな。そんで、何か花と似ているんじゃないかという話になったな」
「それで、何となしに自分が見える人間と出会うたびに、『痛み』を花に変える活動をしているわけだが……」
「そうだな?」
「これに意味はあるのか?」
ボテッと、軽い音を立ててクマはひっくり返った。彼はやや不本意な様子で「おい」と声をかけたが、クマはしばらく起き上がらなかった。ただ、万感の意を込めた調子でこうつぶやいた。
「今更……」
「真剣なんだが」
「お前、なんなの? そこに疑問抱くなら、最初にそこを詰めとくべきだろ?」
クマのツッコミに、彼はやや眉根をよせた。こちらは何もわからず、気づいたらこの橋の下に放り出されていたのだ。疑問に思うための材料すら、ほとんど得られなかった。
「僕がどこかで生きているとして、なぜ『痛み』について問わなければならないんだ? それがわかれば、どこかにいる僕が生き返るのか?」
「いや、生きているなら、生き返るのはおかしいだろ。まぁ、生きていたとして、お前がここにいるなら、五体満足でいる可能性は低いと思うけどな?」
「やはりそうか」
「うん、まぁ、お前なりに頑張ってわからないことについて自分で考えているのは、成長として評価する」
偉そうなことを言うクマを相手に、彼はぐるぐると回っている思考を、何とか繋げようと首をかしげている。
「それで、僕が生き霊っぽい何かになった理由に『痛み』が関係あるとして……」
「うんうん、言ってみな」
完全に子供の言い分を聞いてやっているかのような口ぶりをされたことはやや引っかかったが、彼は続けた。
「僕が自分のために集めて咲かせた『誰かの痛み』の花は、僕以外の誰に、何の意味があるんだ? それで、誰かが救われることはあるのか?」
クマはいつも通り、偉そうに、少しだけ口が悪く、「お前がわからないことを俺が知るかよ」とか、「今更何を言ってんだ」とか答える……はずだった。
クマは答えない。藍色に溶けていく、太陽の残滓を背に、彼はしばらく黙り込んだまま、真っ黒なプラスチックの眼をこちらにむけていた。
「そいつは……難しい問題だな」
ようやく聞いたその答えは、彼にとって答えの意味を成さないものだった。
Case.3 :ナルキッソス/ウルフガールと嘘の嘘
私は実は、アンドロメダ銀河からきた宇宙人。
私は未来からやってきたので、この先に起こることは全部わかっている。
私の祖母はヨーロッパの貴族で、向こうに渡ればお姫様のご身分なの。
実は超能力が使えて、人の心を読むことができて、前世の記憶があって、偉大な巫女の生まれ変わりで、守護天使がついていて、街を歩いているだけで芸能事務所からスカウトがたくさんくる。
この荒唐無稽のバカな設定は、全部私が話したこと。もちろん、ウソに決まっているし、誰ひとりとして信じていなかった。
私の名前はウルフちゃん。もちろん本名じゃない。本名は上田早苗。普通の名前。普通すぎて卒倒しそう。いっそキラキラネームだったら、もっとネタにできたのに。
ちなみにどうして上田早苗からウルフちゃんなんてあだ名が飛び出したのかというと、単純明快に、私が嘘つきだから。嘘つき狼少年の女の子版ってことで、ウルフちゃん。ちゃん付けをしてくれるあたり、割と親切じゃない?
私はこのあだ名、結構好きです。嘘つきなのは事実だし。ウルフちゃんは特に誰とも仲良しだったり険悪だったりしないので、誰が何て呼んでいても人間関係に影響とかないですし。ま、要するに友達いないってことですけど。
欲しいのは友達じゃないから、別に良いのです。それはそれとして、誰かと一緒にはいたいのです。友達じゃなくていいから。もっとお互いにとって都合のよい、ビジネスライクな感じが良くて。
だから、女子高生であることは武器として最大限に生かします。幸いなことに顔は割と可愛く生まれてきたので、割と軽率に付き合ってくれる人は見つかります。
でもさすがにウルフちゃんだと本名っぽくないので、仮名を使う時は「うるちゃん」って名乗っている。漢字が必要な時は潤って書いてうるちゃんと読ませる。上田を逆にして下田潤。なんで仮名が必要なのかといえば、ちょーっとご年配の方にナンパしてもらった時に、本名だとお互いまずいでしょ、ってことで。ここでも嘘つきの本領発揮というわけ。一応未成年なもので。
一緒にいてくれれば、誰でもいい。友達じゃなくても、人間のクズでも。
そういうことを考えるお年頃なんです。
そんな時だった。どこで聞いたのか、よく覚えていないのだけど、多分どっかのおじさんが娘あたりから聞いた与太話。
この町の、ある住宅街にある橋の下で、何でもひとつ『痛み』を捨てられる。
どういう意味かわからないな、と笑っていたし、私だってそう思う。
だけど、私は考えたわけです。『痛み』がどんなものかはわからないけど、そこにいけば誰かには会えるのかもしれないって。
本当に、本当に、誰でも良かった。『誰か』が欲しかったけど、誰もいなかった。
一応、私にも『本命』の人はいたのだけど、とりあえず誰かがいればそれで満足で。頭のどこかで、私は『本命』の『本命』になれないことはわかっていて。それを嘘つきのウルフちゃんだから仕方ないってことにしていて。
だから、心のどこかで、その曖昧な『痛み』を捨てられる場所に、すがりたかったのかもしれない。
***
その橋は、花井橋というらしい。この地区の名前が花井だから花井橋。平凡な名前。誰も橋の名前覚えてないでしょ。
あのおじさんが又聞きしてきたウワサ話が確かなら、この橋の下には何かがいるらしい。まぁ、話題選びができなくて、娘が母親か友達かと話しているのを聞いたのを、「若い子ってこういうの好きだろ?」みたいな顔でいってくるおじさんの話だから、話半分ですけどね。
理由はなんでもいい。そこにいるのが幽霊でも、妖怪でも。私が一人にならなければそれで。
「……何しにきたんだお前」
「んん? 第一村人発見な感じ?」
「どこの村だよ」
声が聞こえてきたけれど、声の主は見当たらない。きょろきょろと辺りを見回していると、ぽすっと軽い感触が足に触れた。
「下だ、下」
「……んー?」
クマ。
まごうことなき、ぬいぐるみのクマ。
それが、二本足で自立して、私に片手をあげて「よう」と挨拶をしてみせた。ここはどこのファンタジックワンダーランドなの。私の嘘よりも嘘っぽいわ。
「電池は単一?」
「ご挨拶だけど電動じゃねーんだわ」
「わぁ、ファンタスティック。これで私が寝てるんじゃなければ最高」
「安心しろ、起きてるぞお前」
「わぁ、エキセントリック」
おじさんのヨクワカラナイウワサ、まさかの急展開でちょっと理解が追いつかない。クマのぬいぐるみが動いて喋っている。
嘘みたい。私が普段ばらまいている嘘みたいな本当が目の前で起こっているんですけど。
「ラジコンでもないし、腹話術でもないし、多分幽霊とかの類の方が近いと思うが」
「あ、第二村人」
「村人ではない」
登場人物が増えた。クマのぬいぐるみを雑に小脇に抱えたのは、私とおそらくそう年齢の変わらなさそうな男子。この寒い季節に半袖だし、左腕が意味深な感じに包帯まかれているし、能面でももう少し表情があるってくらい無表情。
なかなかの非日常感。期待以上でワクワクしてきた。
「ねえ、何か痛みを捨てるのがどうのってよくわかんない噂さ、貴方たちがなんかしてくれるってことでオッケー?」
「よくわからない呼ばわりは心外だが、噂の出所が僕たちなのは認める」
「やったー!」
思わずガッツポーズを決める私を、包帯男子はやや白けた感じで見つめてくる。せっかく上げたテンションが急降下するからやめてほしい。私のテンションも、いつも無条件でアゲられるわけじゃないんです。
やや白け顔のまま、包帯男子はクマの首根っこをつかんで顔を合わせた。相棒くんの扱いが雑。
「おい、首根っこはやめろ」
抗議されてるし。
「立っていると目が合わない」
確かにそれもそうね。思わず納得。
しばらく、審議中とばかりにクマと顔を合わせた後、包帯男子はようやく私に視線を戻してくれた。放置プレイが長いので減点。
「で、何の用だ?」
「ええ~? そこぉ~? 喋るクマとアイコンタクト審議した末に気にするところ、そこなのぉ?」
「用事がなければ僕たちと会うことはないはずだが」
つまり、この都市伝説的な包帯男子withクマは、見える人にしか見えないナニカらしい。つまり私は選ばれし民。
「でもごめんね、別に用事はない」
「……は?」
あ、無表情が崩壊した。包帯男子、突発的事態に弱いご様子ね。
「強いて言うなら私のくだらない喋りに付き合ってくれない?」
「…………は?」
「あ、私のことはうるちゃんって呼んで。ウルフのうるちゃんよ。私、狼女なの。満月の夜にはケモノになっちゃうの」
「……そういう設定は特に必要ない」
「塩対応! もうちょっとくらい尊重してよ、私ってば選ばれし民なんでしょ?」
「君は一体何を言ってるんだ?」
やや哀れみに近い顔をされた。包帯男子の鉄面皮を崩壊させたことを喜ぶべきなのか、都市伝説(仮)にまで哀れまれる自分の存在意義について考えるべきか微妙なところ。まぁ、考えたところで、特に行動は改めませんけど。
「狼少女があだ名なのはマジよ。気軽に呼んでね、うるちゃんって」
「ははあ、なるほど、嘘つき狼少年の女子版だからってことだな」
このクマ、的確に把握するんじゃないの。微妙に腹がたつわ。いいけど。別にいいけど。
だって、私には人のココロが足りませんので、本当の本当に『痛み』なんてどうでもいいのだ。痛くたって、痛くなくたって、私は今日も明日も一人で生きていくのです。ちょっとした恋心がないではないけど、それはそれ。これはこれ。思春期のちょっとした気の迷い。一過性のものに真剣になるほどバカじゃないつもりですので。
「話し相手が欲しいのよ。いいじゃん、どうせ暇なんでしょ?」
「……暇でないと言えば嘘になるが」
「うーん、素直。正直者ね。うるちゃんにも爪の垢飲ませて」
「悪いが生身の人間ではないから、多分爪の垢はない」
「んー、どうしようもないマジレスありがとう」
いまいち会話が噛み合わない。もしかしなくてもコミュ障だわ。嘘つきの私が言うことでもないか。
「これからヨロシクねぇ。ヒマになる度、執拗にここに来るねぇ」
「来るなよ……」
首根っこを掴まれたまま、うめくようにクマがそう言った。
「僕は別に平気だが、今の君にはこの河原は寒いんじゃないか?」
包帯男子の方はやや現実的なご提案。なるほど、なるほど。確かに人間じゃなさそう。寒くなさそうだし、いらないことには気づくし。
「大丈夫、うるちゃんは狼少女なので今は冬毛でホカホカよ」
「はぁ……勝手にしてくれ」
もちろん勝手にしますけど。もうちょっとだけ、ノリが良くてもバチがあたらないんじゃないの?
だけど、包帯男子が少しだけ、本当に少しだけ、言葉を濁すような感じでぽつりとこぼした言葉を聞いて、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
「……そもそも、君が必要としていないなら、僕は君から見えなくなるだけだから」
***
そういえばあのクマと包帯男子、名前を聞きそびれていたな。
そんなことを考えたのは、久しぶりに『本命』さんに会った日のことでした。
私はその『本命』さんから「今日の分」とお札を二枚受け取るわけです。他の人には五枚要求するんですけどね。ちょっとだけ特別扱いです。
「ねぇ、帰りにどっか寄って、ご飯食べてこうよ」
「もう金出したから今日はおしまい」
この塩対応ですよ。もっと甘い時もあったはずなんだけど、飽きられてしまったんですね。
家に帰っても、両親共働きだし、二人とも放任というか、ぶっちゃけ子供に興味がさしてないものだから、とりあえず「サボリすぎないでね」くらいしか言わないんですよ。一人の夜が寂しいウルフちゃんは、こうやってお話し相手を探しているワケ。
「じゃあ、来週も会って」
「お前、他にもたくさん男いるだろうが」
「決まって会うのは貴方だけでーす」
「はいはい、お前のお決まりのウソな」
これはウルフちゃんにしては珍しく、渾身にして迫真の真実なんですけど、哀しきかな、普段の言動が言動だけに、全く信じてもらえないワケですね。自業自得。
「うるちゃん、そろそろ野生にかえっちゃいますよ」
「はぁ、ウルフのうるちゃんだもんな、お前」
「そうそう。宇宙人だから月に帰るし、プリンセスだから国に帰るし、超能力者だから国に追われるし、とにかく匿って」
「ダメだって言ってんだろ」
「……あのさ、これは嘘じゃなくてマジなんだけど」
「何だよ」
「生理三か月来てません」
ピタリと止まった。うんざりとしたような顔。
「お前、そのウソは悪質すぎるぞ」
「だからマジですって」
「お前、他にも男がたくさんいるだろうが」
「少なくとも貴方以外には、失敗するようなヘマはしなかったつもりだけど」
「あー、はいはい、わかった。あとどんだけ欲しいんだ?」
金目的じゃないんですけど。そう言いたかった。言えなかった。
ええ、わかっていました。本命さんとはいえ、ずっと一緒にいてくれるわけではない。行きずりの関係なんて、本命になったら困るに決まっているし。そこはちゃんとわきまえています。
もし、この関係が高校卒業後も続いたら、本当に『本命』になれる日がきたのでしょうか。多分来なかっただろうな。だけどどこかで期待もしていた。手出しがバレたらまずい立場じゃなければ、私は彼ともっと違う関係になれたのだろうか、と。
極論で言えば、彼じゃなくても良いのだと思う。どうせなら彼で、というだけで。
一緒にいてくれれば誰でもいい。誰でもいいけど、誰でもずっといられるわけではない。一時的にいてくれる人を探すには都合がいいこのご身分が、ずっといてくれる人を選ぶにはとんだ足枷。
単に出会った中では一番優しくて、一番私によく付き合ってくれたっていうだけだった。それだけなのに、一丁前にちょっと傷ついている自分がいるのが、笑えて泣ける。
狼に首輪をつけて欲しいんです。飼い主がいたら、嘘なんてつかなくてもいいんです。
だけど、そのまま『本命』とは別れて、一人で暮れなずむ街に放り出されて。
私は黙って橋に向かう。あの住宅街の中にある、寂れた小さな花井橋に。
もうほとんど暗くなっているのに、彼は橋の下に座っていた。傍らのクマと一緒に、ぼんやりと、藍色に変わっていく空を眺めている。
「ねえ、橋の下から出てくれば?」
「僕はここからそう遠くまで行けない」
「でも、そこにいたらさぁ、空もまともに見られないじゃん」
「ここからでも、少しくらいは星が見える」
「……星を見るなら、なおさら橋の下から出てきた方がよくなーい?」
はぁ、とため息をひとつ付きながら、彼の隣に腰を下ろした。空の半分が橋の陰に隠れているのに、見ていて何が楽しいのだろう。
楽しくある必要なんてないのかもしれない。私だって、必要のない嘘で塗り固めているのだし。
「寒いから早く帰れ」
「私が必要としているから、貴方が見えるんじゃなかったの?」
包帯男子は答えない。ただ、星を眺めるのをやめて、今はただ暗がりにしか見えない川の向こうへと目をやった。
「それとも……貴方が必要なのは、私じゃなくて、私の中にいる方かな?」
ピク、と包帯男子が身じろぎをした。わかりやすいというか、何と言うか。どうにも、彼、あまり嘘つきは得意じゃないみたいだ。
「そうだよね。これから私に殺されるんだもんね。ちゃんとわかってるんだね。本当、ごめんねって思うわ」
「…………君はわかってて、ソレなのか」
「わかってて、コレよ。本当に、バカみたいでしょ。この子、何で私を選んだのかな。後悔しかないけど、産んでもあげられないのよ。私、これで嘘つきじゃなくて人殺しになるんだ」
本当は――誰でもよかったわけじゃない。
抱きしめられたかった。愛されたかった。誰かを愛したかった。自分だけの何かが欲しかった。
私がついた数々の嘘設定には、いつだって私の願望が含まれていた。
宇宙人には故郷の銀河があって、プリンセスにはお城に家族と従者が待っている。超能力者には仲間のアジトがあって、前世からの記憶を共有する運命の相手がいて――なのに現実のオオカミ少女ときたら、巣に帰っても空っぽなだけ。誰もいない。親すらいない。私が嘘つきの馬鹿じゃなければ幸せになれるはずだった子供も、これからいなくなる。私に殺される。そして私は、誰も来ない巣で、ずっと一匹。笑えるでしょう?
「いくらかかるんだ、って……お金の問題じゃないし」
責任をとってほしかったわけじゃない。あちらこちらフラフラして、別に欲しくもないお金と引き換えに自分を売ったのは私。嘘をついてでも、誰かにすがったのは私。その結果として、自分の家族を自分で殺すのも私。ぜんぶ、私のせい。
それでも、どこかで――どこかで。
「デキて慌てるくらいなら、最初からコドモに手を出してんじゃねーよっ!」
転がっていた石を、思い切り投げつけた。遠く、ぽちゃんと水の中に落ちる音。
こんな風に、誰にも、何にも見えずに、消してしまうのだ。ずっと、ずっとこれから、そのことを背負って私は生きていくことになる。
「ねえ、せめて痛くないようにしてあげて。私は痛くても、いいから……」
「…………ああ」
小さく答えて、包帯男子は地面に手を置いた。ぽつり、ぽつりと地面がぼんやりと光って、小さな、とても小さな花が咲く。花びらの形もわからないほど、粉のように、咲いて、あっという間に枯れる。
とても綺麗で、とても悲しくて・
「ごめんね……ごめん、ごめん……」
どうして、こんな風になったのか、どうして嘘つきじゃなければいけなかったのか、もう自分でもよくわからない。
本当に、普通に学校にいって、嘘なんてつかずに普通にクラスメイトと話して、普通に友達を作って。そういう風にして孤独を癒すことはできなかったの?
家に帰ったら、どうせ一人なのに。狼の巣穴には、家族なんていないのに。
本当は嘘をつく必要なんて――なかったはずなのに、どうして。
「…………貴方の名前、聞いてもいい?」
友達ではないけど、ずっと一緒にいてもくれないけど、次に来たらもう見えないのかもしれないけど。
包帯男子は、少し考え込んだ後「ハナ」と名乗った。
「かわいい名前ね」
「仮名だ。花を咲かせるからハナ、ポラリスが呼ぶから」
「ポラリスは俺の方な」
クマが手を上げる。ハナとポラリス。ああ、冗談みたいにメルヘンな名前。
「きっと忘れないわ」
***
人は死んだら星になるというけれど、生まれる前に死んだ子供は、星になるのだろうか。
だとしたら、彼が橋の下から見上げた星の中に、私の家族になるはずだった子はいるのだろうか。
「ねえ、どう思う?」
「…………さあ」
綺麗に見えなくなるのかと思えば、残念ながら私にはまだ彼が見えている。
ハナは何とも気まずい顔をしていて、ポラリスはぬいぐるみだから表情はないけれど、とにかくドン引きしている気配は伝わってくる。どうしてか、表情筋が存在しないのに、ハナよりもポラリスの方が感情豊かなのよね。
「今日は私の方に用事ができたので、来ちゃいました」
「…………」
ハナは答えない。ただ、私の要求については、何となく察しがついているようで、ひたすら居心地が悪そうな顔をしている。会った時よりもやや表情豊かになったのは、彼が私に多少は心を許してくれたからなのか、それとももっと他の理由?
まぁ、多分これが最後だろうから、もうどうでもいいことだけど。
「私の『痛み』を捨てたいの。ハナに頼めばできるのよね」
「…………できる」
だから、そんなに嫌そうにしないでってば。わかるけど。わからないでもないけど。
「できるんならいいでしょ。やってやって」
思い切りよくやってくれないと、こっちまで迷ってしまいそう。それは勘弁してほしい。私だって、あれから考えて、考えて、それなりの覚悟をしてここに来たのだから。
ハナは少し考え込むそぶりを見せた後、やがて小さく呟いた。
「……それを捨てたら、君は幸せになれるのか」
「そんなわけないでしょ」
思わず即答してしまった。だって、まさかそんなことを聞いてくるなんて思いもしなかったから。
「何を捨てたって、私が嘘つきのウルフちゃんじゃなくなるわけじゃないよ。狼少年だってそうでしょ。本当のことを今更言っても、誰も信じたりなんかしないから。だから、私はこれからも嘘をつくよ。まあ、でも……さすがに懲りたから、嘘でもいいから誰でも、なんて言わないってだけ」
嘘なら突き通す勇気と覚悟を。
今の私に必要なのは、そういうものだから。
嘘の嘘は本当かもしれないけど、それが本当だと気づく人なんていないもの。
「幸せになんてなれなくてもいいの。幸せになれれば嬉しいけど、今、私に必要なのは幸せじゃないから」
こんなの何の解決にもならない。こんなことで許されるわけでもない。それでも、嘘つきの私がこれから生きていくのに、どうしても欲しいもの。
「だからね、ハナ。これから私が一人になっていても、心が痛くならないようにして。私を孤独でも生きられるようにして」
Re:閑話:彼らの懐疑的幸福論
まっすぐに伸びる緑のしなやかな葉と共に咲いた黄色の花。それが、冬枯れの河原に咲いては枯れていく。
「黄色の水仙……」
「狼女らしい花っていや、そうだけど」
水仙の学名は「ナルキッソス」だ。ギリシア神話で、水面に映る自分の顔に恋をして溺れ死んだ少年の名から取られた。故に、その花言葉は「自惚れ・自己愛」である。
「黄色の水仙は、他に特別な花言葉がある」
「何だ?」
彼の言葉に、クマは気のないそぶりで応える。
「もう一度愛して、私の元に戻って、だ」
「……そいつは笑えないやつだな」
それきり、彼とクマの間にはしばし会話が途絶えたまま。
咲いたそばから、黄色い花と緑の葉は茶色く変色して、無残に枯れ落ちていく。
花が散れば、いずれその痛みは持ち主の元に帰るだろう。だが、枯れてしまった場合は――。
彼は彼女と出会う前に、この河原で、ひたすら考えていたことを思い出していた。『痛み』と引き換えに咲いた花は、誰のためのものか、何の意味や価値があるのか。
「……アレな、お前の質問してきたやつの意味に、答えてやろうか」
彼の言いたいことを察したかのように、クマはそう言った。
「君にわかるのか? いつも僕が知らないことは知らないという癖に」
「お前が本当はわかってるけど、単純に気づいていないだけって場合は、俺にもわかるんだよ」
クマの回答は、彼にとって納得ができるものではなかったが、それでも黙って次の言葉を待った。こんな機会でもなければ、彼の方から進んで答えを言ってくれることはないように思えたからだ。
「お前が気にしてた、『痛み』を捨てることに意味があるのか……についてだが、多分な、痛みを捨てても、特に人は不幸にも幸福にもならないんだ」
「……不幸にもならない?」
「そうだ」
幸福にならない。でも不幸にもならない。本当にそうだろうか?
じっと咲いては枯れていく水仙の花を見つめる。彼女はここに戻ってこない。もう二度と。この花も彼女の元には戻らない。それは、きっと幸福ではない。不幸ではないのか。
自分は――彼女の不幸に手を貸したのではないのか。
「ハナ、話は最後まで聞けよ」
「…………」
「普通に考えて、痛くて苦しい状態で、幸せになれるヤツなんていない」
「……そうだろうな」
「でも、痛みってのは一種の危機管理機能だ。それが身体の痛みであれ、心の痛みであれ、それがあるから、人間は自分が辛い状況にあるって察知できる。だから、痛みを失くしたら、人はどこまでも鈍感になるんだ」
たとえば、心苦しさを感じることで何とか保っていた友人関係を、痛みを失うことで破たんさせてしまったり、あるいは、単純に身体の痛みや苦しさを失ったために、自分の身体の異変に気付かずに命を落としたり。確かに『痛み』とは危険信号であり、必要なものなのだろう。
「だけど、痛くて苦しくて、もう一歩も動けないんだったら、それはもう危機管理っていうレベルじゃないだろ。だから、痛みを失うことが必要になるやつだっているだろう。狼女にとっては、そうだったのかもしれない」
先に進むために、鈍感になる。それが必要になることがある。
幸福でも、不幸でもなく、ただそういう選択肢を選ばなければならないことがある。
「…………だから、意味があると?」
「……意味があると、いいな、って話だ。幸せや不幸せなんて、誰にとっても共通するものなんてない。人生に意味や価値が、必ずしもあるとは限らないだろう」
クマは――ポラリスは、自分が知らないことは知らないし、自分が本当は知っていることは知っている。そういう存在である。
彼は、咲いては枯れていく黄色い水仙の、最後の一輪が枯れて朽ちるのを見送った。
彼はずっと、このクマとここにいる。『誰かの痛み』を花に変えて、それを観測するだけの日々だ。
「痛みを抱えていても、失ってしまっても、そのこと自体に幸も不幸もないんだ。お前が何をしても、不幸せはやってくるし、幸せになることだってあるかもしれない。そういうことだよ。せめて幸せの方に向かってくれることを祈るくらいしか、俺たちにできることなんてない」
そんなあてにもならない、懐疑的な幸福のために、これから自分はどれだけの『痛み』を観測すればいいのだろう。
彼は考えた。考えて、考えて、答えは出ないままに太陽の残滓も空からすっかり消え失せて、辺りが闇に飲みこまれた。
橋の上の外灯の光は、ここには届かない。
花もなくなったこの橋の下には、闇の中にぼんやりとした、自分とクマの輪郭が見えるばかりだ。
やがて、クマの影がゆっくりと肩を揺らした。
「……お前が最近、人間みたいな顔をするようになったことを、俺は喜んでいいか悲しんでいいかわからないんだよ」
何も見えない。暗闇の中。
クマのプラスチックの瞳に映った自分が、どんな顔をしていたのか、彼は知ることができなかった。