其の五
「ランマル、それをお貸し」
「はい?」
「お前が持っているその遠眼鏡よ。さっさとお貸しったら!」
そう言うなりフランソワーズは、ランマルの手から遠眼鏡をひったくるように奪うと、それを窓の外にかざしながら覗きこんだ。
どこか興がったような声が漏れ聞こえてきたのは直後のことである。
「あら、たしかに王国軍の軍旗が見えるわ。それにフェニックス騎士団の旗も。ヒルダが謀反を起こしたというのはどうやら本当のようね」
(さ、さっきからそう言っているでしょうがぁぁぁーっ!)
どこか呑気さも感じられるフランソワーズの一語に、ランマルは内心で噛みついた。
事態は極めて深刻で切迫しているというのに、まるで他人事のようにのんびりとした態度の女王に内心で苛々しながらも、ランマルはあらためて城からの脱出をうながそうとしたのだが、その一語を発するよりも早く、大砲の発射音が連続して二人の鼓膜を叩いた。
またしても城のどこかに直撃したらしく、総毛立つような破壊音が立て続けに生じ、同種の崩落音がそれに続いた。
城内の人間も大砲が撃ちこまれたことを察したらしく、あちらこちらから男女の悲鳴が重なりあって響いてきた。
しかし、そんな状況にあってもフランソワーズには城から逃げだそうとする様子はない。
それどころか落ち着きはらった態で、あいかわらず遠眼鏡を覗きこんでいる。
ここまでくると、もはや剛胆をとおりこしてたんに「バカ」なんじゃないのかとランマルは思ったのだが、それを口に出したら最後、眼下の湖に頭から突き落とされるのは明白であったので、ひとつため息をついてから外の様子を眺めやった。
橋の上では忠実な警備兵たちが今なお奮戦していた――のも、もはや過去のものとなっていた。
数に物を言わせて攻めかかるフェニックス騎士団の前に、いまや警備兵たちは城門前にまで押しこまれていたのだ。あの様子では、城門を突破されるのも時間の問題であろう。
かといって、迎え撃ちたくても城内にはもう兵士はほとんどいない。
今、城門前で戦っている警備兵を除けば、警護の衛兵が二、三十人ほどいるだけで、あとはランマルら近習の侍従官と女官、さらには城の料理人に清掃員といった非戦闘員のみ。絶望的状況とはまさにこのことであろう。
にもかかわらず、城の人間で一番絶望を感じるべきはずの女王はというと、絶望感に顔を蒼白にさせるどころか、微笑すらたたえて橋の上の戦いを遠眼鏡越しに眺めていた。
まったく、どういう神経をしているんだかと内心でランマルが呆れた声を漏らしたとき。
そのフランソワーズがふいに遠眼鏡から目をはずしてランマルに向き直り、そして言ったのだ。
「ランマル、城に火を放ちなさい」
「それよりも陛下、なんとかして城からお逃げ……えっ?」
一瞬、ランマルは女王の顔を見返した。
フランソワーズが発した言葉の意味をとっさに理解しそこねたのだ。
ややあってランマルはひとつ息を呑み、おそるおそる問い返した。
「あ、あの、陛下。今、なんと?」
「城に火を放つのよ。ただし女官たち城の人間を逃がしてからね。ヒルダの狙いはあくまでこの私の首。無関係な人間を手にかけるほど、彼女は残忍でも無慈悲でもないわ」
「へ、陛下!?」
一瞬、ランマルは目をむいた。
城に火を放てという命令もだが、なにより言葉に秘められた女王の「覚悟」を察したからだ。
あ然として声もなく立ちつくすランマルの視線の先で、窓の外を眺めやりながらフランソワーズが独り言のように語をつないだ。
「ヒルダにこの首を渡すくらいなら、この城ごと燃えて灰になったほうがましよ。誰が渡すものですか……」
「な、何をおっしゃいますか、陛下。諦めてはなりません!」
さすがにたまらなくなってランマルはおもわず声を高くさせたのだが、かといってもはやどうにもならない状況であることは誰の目にもあきらかだった。
兵士たちの奮戦もむなしく、城の最終防衛線たる城門はもはや陥落寸前。それほど時をおかずして敵兵が城内になだれこんでくるだろう。
それも名将の誉れ高きヒルデガルド将軍に率いられた国軍随一の精鋭がである。
対して迎え撃つ城内の人間は、侍従官、女官、衛兵、料理人、清掃員という非戦闘員ばかり。
この顔ぶれではそれこそ奇跡でも起こらないかぎり、フェニックス騎士団の刃から女王を守ることなどできるはずもなかった。
そんなランマルの心底を感じとったのだろう。薄い笑いが女王の口からこぼれた。
「気休めはいいわ。お前だってヒルダのことはよく知っているでしょう?」
「そ、それは……」
「それに女王たる者、生命欲しさに醜態を晒したら、天上に赴いたときに兄上にあわせる顔がないじゃないの。ちがうかえ?」
「へ、陛下……!?」
「兄上」という一語が鼓膜を打ったとき。ランマルはおもわず目をみはり、発声者の顔を見つめ返した。
そして視線の先で微笑まじりに小さくうなずくフランソワーズを見て、彼は思い知ったのである。
そう、十七歳のときに主席侍従官として召し抱えられ、以後、近習としてお側に仕えること八年にもなろうというのに、いまだ自分が女王の為人《《ひととなり》》というものを完全に把握していなかったことを。
その事実に気づいたとき、ランマルはとりまく状況をも忘れて自省せざるをえなかった。
(そうか、この人はずっと〈あの御方〉のことを忘れていなかったのか……)
(ならば、もはや脱出をうながすのは無意味、いや、無粋であろう……)
女王の「秘めた思い」を悟ったランマルは説得を断念し、かわりに深々と低頭した。
「ご、ご無念にございます、陛下……」
すると意外なほどあっさりとした、あっけらかんとした声が返ってきた。
「フフフ。まさか今日のような日を迎えるとは、つい先日までは想像すらしていなかったわね。でも私に滅ぼされた国々の王たちもおそらくそう考えていたでしょうし、それを思えば因果応報というものかしらね」
「…………」
ランマルは無言を保った。
女王が他者に向けて話しかけているのではなく、自らへの独語と察したからだ。
だがランマルが沈黙を守っていると、
「それよりもランマル。ちょっとだけ私に付き合ってもらえるかしら」
「は?」
「一人くらい見物人がいないと、私も《《舞い甲斐》》がないからね」
「舞い甲斐……でございますか?」
真意をはかりそこねたランマルにフランソワーズは小さくうなずき、そのまま踵を返して廊下を歩きだした。慌ててランマルもその後に続いていく。
悲鳴と怒号とが交錯する城内の廊下を歩くことしばし。やがてたどり着いたのは城の謁見の間だった。
赤く染めあげられた厚織りの絨毯が広間の中央を一直線に伸び、その先には床面から三段ほど高くなった階《《きざはし》》があり、一番上の段には玉座が置かれてある。
だが広間を進み歩くフランソワーズの足はそこまで至らず、広間のほぼ中央のあたりで止まった。
そして顧みることなく後背のランマルに声を投げる。
「ランマル。あそこのサーベルを取ってきてちょうだい」
そう言ってフランソワーズが指さしたのは、広間の北側の壁に飾られているサーベルだった。
観賞用の模造刀などではなく、刃も研がれてあるれっきとした真剣である。
ともかく言われたとおりに壁からサーベルをはずして戻ってくると、ランマルはそれを女王に手渡した。
手にしたサーベルをフランソワーズはごく短時間、無言で見つめていたが、やがて鞘走らせて刃を抜くとそれをゆっくりと水平にかざした。
その口から低い独語が漏れたのは直後のことである。
「人間、五十年……」
その独語を端にして、フランソワーズは謡を口にしながらサーベルを手に舞いはじめたのである。
人間五十年
下天の内にくらぶれば
夢幻のごとくなり
一度生をうけ滅せぬ者のあるべきか
それは【アツモリ】という謡名で知られる舞謡だった。
変わったその謡名が作者の名前なのかどうか、そのあたりの詳しいことはランマルは憶えていない。
ともかくこの歌詞の意味するところは、人間の一生はせいぜい五十年ほど。五百年とも千年とも言われる下天、すなわち天上世界の時間の流れにくらべれば一昼夜の夢や幻のようなものであり、生あるものはいつかは滅びてしまうものだ、ということである。
人間の一生の儚さを謡った物悲しい舞謡であったが、サーベルを手に黄金色の長髪を振り乱しながら謡い続け、そして舞い続ける女王の姿を、ランマルはなかば自失した態で見守っていた。
正確には圧倒されていたのだ。
部下に謀反を起こされて今まさに確実な死が迫り、絶望の淵に立たされたはずの人間がどうしてこれほどまでに美しく華麗で、そして威厳あふれる舞いができるのかと。
それほど女王の剣舞は、見る者の心を魅了するものだった。
やがて舞い終えたフランソワーズは、しばし自らを落ち着かせるようにその場に佇んでいたが、ふいにランマルに声を放ってきた。
「人間五十年と言うけれど、私はまだ半分ほどしか生きていないのよね。まあ、十分に中身の濃い人生であったけどね。そう思わない、ランマル?」
忠実な側近が返答に窮していると、またしても数度の大砲の砲撃音と、それに続く同数の破壊音と崩落音が二人の鼓膜を打った。
しかも今度はそれだけにとどまらず、咆哮にも似た猛々しい叫び声まで聞こえてきた。
どうやら敵兵の一部がついに城内に攻め入ってきたらしい。
「どうやら時間がきたようね」
微笑まじりにつぶやくと、フランソワーズは表情をあらためてランマルに向き直り、
「いいわね、ランマル。かならず火を放つのよ。そして、お前はお逃げ」
「陛下……」
声を詰まらせたランマルにフランソワーズは優しげに微笑み、
「さらばよ、ランマル」
「いえ、すぐにお会いできます、陛下」
するとフランソワーズは、一瞬驚いたように両目をしばたたいてランマルの顔を正視したが、その表情から主席侍従官の「内なる覚悟」を見てとったのだろう。
穏やかな微笑がその口もとをかざった。
「そうね。また会いましょう、ランマル」
そう言うとフランソワーズはサーベルを手に踵を返し、おそらくは自らの死に場所と定めた奥の玉座に向かって歩きだした。
女王たる者、死すときも玉座とともにあるべきということなのだろう。
気高い為人の彼女らしいとランマルは思う。
くわえてその歩調には、間近に迫った死への恐怖や焦燥などは微塵も感じられない。
それどころか、敵対した国々から【ジパングの魔女】と畏怖された女王にふさわしい、凜とした威厳すらあった。
そんな女王の去りゆく姿を見つめながら、ランマルは今さらながらに思うのだった。
十七の年にお仕えして以来、自分の青春はあの女王とともにあり、あの女王とともに歩み、あの女王とともに刻んできたことを。
そして今、その女王とともに自らの人生にも終幕を降ろそうとしているが、それはおそらく八年前から宿命づけられていたことにちがいない、と。
そう、主席侍従官として召し抱えられた八年前のあの日から……。