71話 今はそんなの関係ねえだろ
くそっ、ダウンを取られた。
俺の頭の中はそのことで一杯であった。
この試合は現代ボクシングルールに限りなく近いが、ポイントによる勝敗の判定はない。
だから、ダウンを取られようともポイントで負けることはないのだが、俺は冷静ではいられなかった。
これはボクサーの
ダウンを先に奪われることは、やはり精神的に追い詰められた気分にさせられる。
気持ちが焦ると、それは肉体にも影響が出る。
なんとか取り返そうと、無駄なパンチが多くなる。とにかくパンチを当てようと闇雲に攻めてしまう。
しかしそれは相手にとっては思う壺だ。俺が焦れば焦れるほど、エドガーにとっては与し易くなる。
俺のジャブは空振りに終わるのだが、エドガーのジャブは俺の顔面にヒットした。
その繰り返しだ。同じ数のパンチを出しているのに、相手にヒットさせた時よりも、空振りの方が疲れる。恐らく精神的な焦りが余計な力を入れる為だと思う。
鼻血で呼吸がしづらい。俺は口で呼吸をするくらいに息が上がり、手数も減り始めていた。
俺からの反撃がないと見るやいなや、エドガーは一気に攻勢に出る。
ガードの上からお構いなしにパンチを浴びせてきた。
上下に上手く使い分けて、俺の注意がボディーに引きつけられた所で、右ストレートが顔の左側面を捉えた。
その衝撃に俺は堪らず右膝をついてしまった。
今度こそ紛れもないダウンである。
「ワーン! ツー!」
観客達の割れんばかりの歓声と怒号に混じって、レフェリーのカウントが聞こえてくる。
土砂降りの雨の中に居るような音の嵐の中、俺はキャンバスに片膝をついたまま放心状態だった。
信じられねえ。こんな簡単にダウンを二度も奪われるなんて。
自サイドのコーナーポストに凭れ掛かり、余裕の表情を見せいているエドガー。
俺はそれをボーっとする頭で見つめながら歯を食いしばった。
なんだその顔は、ふざけたニヤケ面しやがって。
そう思っていると、エドガーの声が聞こえたような気がした。
―― これで、ロゼッタは俺のものだ。
はあ? ふざけんなよ。ロゼッタがなんだってんだ。今はそんなの関係ねえだろうが。
「クソがあああああああ!」
俺は怒声を上げると8カウントで立ち上がって、ファイティングポーズを取った。
エドガーは俺が立ち上がるのをわかっていたと謂わんばかりに、止めを刺そうと一気に距離を詰めて襲い掛かってくる。
来る、次倒されたらそこで試合終了だ。1Rで三度のダウンを奪われた時点で俺の負けが確定する。
迎え撃て、ここで防御に回ったら負けるぞ!
俺が頭を左右に振ってウィービングを始めると、エドガーはそれに合わせてジャブを放ってくる。
幾つかのパンチが当たるのだが、構わずに俺は頭を振る速度を上げる。
そんな俺の動作にエドガーの顔色が明らかに変わった。
フリッカージャブは確かに脅威だ。どこから飛んで来るのか見えないパンチ。
しかし、狙いが俺である以上、俺に向かって飛んで来るパンチなんだ。
当てられるもんなら当ててみろ。
俺のフェイントを交えた高速ウィービングに翻弄され、いつしかエドガーの手数が少なくなった。
ジャブが空を切るのが多くなったことに、エドガーは狙いを定めようと手を止めたのだ。
そして、タイミングを見計らって放たれたジャブ。
それが空を切った瞬間、エドガーが左手を戻すのと同時に俺は一気に相手の懐に飛び込んだ。
いける、このタイミングなら確実に俺のパンチは当たる。
踏込みと同時に右拳を相手のボディーに叩きこもうとした瞬間。
ガンガンガンガン!
ゴング代わりのバケツが鳴り響くと、俺とエドガーの間にレフェリーが割って入り、俺の反撃は不発に終わった。
「ロイム、水だ。口をゆすいで」
ディックが口に水を流し込むと、俺はゆすいで桶に吐き出す。
血塗れの液体を吐き出すと、ついでに鼻血も噴き出してやった。
大分呼吸も楽になったところで、バンディーニが俺の頭を両手で掴んで睨み付けてきた。
「よく戻ってきた」
「す、すまねえ」
「今は試合中だ。小言は帰ってからにする」
終わったことをグズグズ言っても仕方がない。
インターバルは一分間しかないのだ。この間にやるべきことは過ぎたラウンドの反省ではなく、ここから先どうやって試合を立て直すか。
ダウンを二度奪われたが、負けたわけではない。なんとか俺は1Rを乗り切って、生還した。
生きて帰れたならば次のラウンドに反撃ができるということなのだから。
「ロイム、作戦は変わらない。君はウィービングに徹しろ。ホランドは君が日本人であること、その気性まで織り込み済みで作戦を立ててきていた」
「な、なんで、そんなことを知ってんだよ?」
「私が口を滑らしたからだ」
「おめえの所為かよ」
「そうだ。だから、愚直に行け。今から策を弄した所で、所詮は付け焼刃だ。最初の作戦通り、君はウィービングとフェイントで相手を翻弄しながら、真っ直ぐに突っ込むんだ。ゴング間際の踏み込み、エドガーは明らかに対応できていなかった」
「わかった」
バンディーニが背中をバンっと叩くと、俺は椅子から立ち上がる。
セコンドアウトの合図で相手サイドのセコンドもリングから降りると、第二ラウンド開始のゴングが鳴るのであった。
続く。