70話 青二才
じじいの言う通りだった。
エドガーは、おもしろいように当たるジャブを繰り出しながら思う。
ホランドに言われた通り、ゴングと同時にロイムとは距離を取らずに突っ込んで行った。
身長が高く腕が長い為、小さい相手との
しかし突っ込んで行くとロイムは明らかに驚いた表情を見せ、足を止めて身体が硬直したのを見て、エドガーはつくづく思う。自分のトレーナーはまるで預言者であると。
酒場で喧嘩に明け暮れていた時もそうだった。
酔っぱらってくだを巻いているだけのジジイかと思っていた。
ひょんなことから言われた通りにパンチを出してみたら、簡単に相手を倒すことができた。それからはホランドの言う通りに戦って、気が付けば不良共の頂点に立っていた。
今回の試合もそうだ。ホランドはロイムとの試合での作戦をこう話した。
「エドガー、今度の相手とはまず距離を取らずに真正面から打ち合え」
「んだよ? 俺のアドバンテージは、左で距離を取ることじゃないのかよ?」
「より簡単にゲームメイクをする為じゃ。開始と同時に相手に突っ込んで行けばわかる、十中八九相手は足を止める」
「なんでそんなことがわかるんだよ?」
怪訝顔でそう尋ねるエドガーにホランドは、相手選手であるロイムの生まれた国、その民族の性質だと説明する。
「今度の相手が生まれた国は、正々堂々と戦って負ける事が美徳される国だからじゃ」
「はあ? 負けるのが美徳? じゃあこっちは卑怯な手を使うってかい?」
「ルールの範囲内であれば、なんでもやるのが勝負の世界」
「そんなの当たり前のことだぜ」
「そうでもないのが、ジャップの性質なんじゃよ」
「ジャップ?」
不思議そうな顔をするエドガーに、ついうっかりジャップと言ってしまったホランドは舌打ちをした。
「とにかく、相手はおまえが正攻法でくると思っておる。初めはセオリー通り距離を取って、ロングリーチを活かしたフリッカージャブで様子見をしてくるとな。それが礼儀じゃと思っておるのだ」
「上手くいかなかったらどうすんだよ?」
「はん、その時は新しく教えたあれを使え。それだけでも、相手は面を喰らうじゃろうよ」
これが、試合前にホランドがエドガーに教えた作戦であった。
実際、これは賭けであった。ロイムが怯まずエドガーとの真っ向勝負を選択する可能性もあったからだ。
しかし、そうはならなかった。ロイムは素直すぎたのだ。
こちらの世界に来てから、奴隷拳闘の厳しさを味わってきたつもりであった。
だが、たかが5年間である。プロボクサー本田史郎として、いや、日本人本田史郎として育った27年間のほうが、やはり勝ったのだ。
世界戦を経験していないのも影響した。
世界で様々な人種のボクサー達と当たっていれば、もっと上手く対応はできたかもしれない。
しかし、ロイムは日本のボクシング界で、日本人との対戦しか経験がなかった。
アウトローを気取る対戦相手も居たが、皆リングの上では紳士であった。
そんな、ある意味ぬるま湯の環境で育ったボクサーだったのだ。
ロイムはあろうことか、相手が必ず距離を取ってフリッカージャブを打ってくれると、信じ込んでいたのである。
「楽勝じゃねえか、じじい」
そう呟きながらエドガーはフリッカージャブを打ち続ける。
ロイムはどうやらこのパンチが見えていないようだ。
変則的な軌道で繰り出されるジャブ。これに対応のできた相手は、これまでの酒場拳闘でも皆無であった。
皆どこから飛んで来るのかわからないジャブに対応できず、ガードを固めて丸くなり滅多打ちにされる。
ガードを固めれば固める程に動きは鈍くなり。
そして、生まれる隙。
「そこだあっ!」
エドガーは、肘が上がり隙間の出来たロイムの左わき腹へ右のブローを叩きこんだ。
堪らずロイムが下がると追撃。
ロイムもなんとか反撃を試みようと、左の刺し合いになるのだが、リーチ差がありすぎる為に空振り。
ガードが空いた所へ、エドガーのジャブがパンパンと入る。ガードを固めるもその上から、強烈な右ストレートが突き叩きつけられた。
よろめきたたらを踏むロイムが、マットに足を取られて尻餅を付く瞬間、エドガーの左が頭を掠った。
「ダウンっ!」
その瞬間、マットに尻餅を付いたままロイムは呆けてしまった。
しかしすぐに我に返ると、カウントを取り始めるレフェリーに向かって叫ぶ。
「スリップだっ!」
しかし、レフェリーはダウンであると首を振って、カウントを進めた。
ロイムは焦りすぐに立ち上がろうとした所で、リングサイドから声が響いた。
「8カウントまで待てロイムっ! 頭を冷やすんだっ!」
バンディーニの言葉に、なんとかかんとか冷静さを取り戻そうとロイムは務めるしかなかった。
そんなロイムの姿を見つめながらリングサイドでバンディーニは唇を噛む。
「完全にしてやられた……。ロイムの性格を、いや、日本人の気性を織り込んでの作戦だ。ホランド、あなたは世界を経験しているのか……」
バンディーニはジっと、敵コーナーのリングサイドに居るホランドのことを見つめるのであった。
そんなバンディーニの視線に、ホランドは気が付いていた。
そして心の中でほくそ笑む。
あの日、敵情視察に来た時に、ロイムが日本人の転生者であることを漏らしたことを悔やんでいるのだろう。しかし、それだけではないぞ青二才、おまえの語った言葉、あの青臭い正義感が今、自分の育てたボクサーを窮地に陥れているのだ。
続く。