というより
その話を聞いて、俺は少なからず、自分に好意を抱いてくれていたという後輩に同情してしまった。俺が仕出かしたことなのだから同情する権利なんてないのに。
「だけど先輩、ありがとうございました」
雨がしとしとと降る薄暗い校舎口の隅で、目の前の男がそう言って、俺に一万円札を手渡す。これを受け取ることは、自分の中で人として大切な何かが崩れ落ちるような気もしたが、大きすぎる金額に抗えずに静かにそれを財布にしまった。小学校の頃の道徳の授業は無意味だったかもしれない。
こうたは、俺が諭吉を懐に入れるのを黙って見つめていた。
「……俺が言えた口じゃないけどさ」
お前、悪いやつだな、と呆れるように言うと、こうたはにっこりと笑った。
「お金を受け取ってる先輩も先輩ですよ」
分かってるよ、それくらい、と思った。俺も自分の好きな人から恋の相談を受けたら同じような行動をとってしまうのだろうか。
それじゃあ、と言って去っていく後輩の背中を見送りながら、俺は彼との出会いに思いを馳せた。
俺とこうたの出会いは一ヶ月前。
たまたま一人で下校しようとしていた下駄箱で、突然話しかけられた。そのまま、こうたと名乗る初対面の後輩と、俺は一緒に帰ることになる。
今日みたいな、雨が降っている日だった。
「先輩、あゆみって子知ってますか?」
「英語部の子のことだったら知ってるけど」
「その子、先輩のことが好きなんです」
唐突なカミングアウトに開いた口が塞がらない。
というか、それ本人に別の人間が伝えていいのか?
「そ、そうなんだ」
こういう時、なんと答えるのが正解なのか俺には分からなかった。動揺する俺の反応をチラリともせず、後輩は淡々と本題に触れた。
「だから、振ってほしいんです」
「え」
その子のこと嫌いなのか?
最初に思い浮かんだのは嫌がらせ目的だった。
しかし俺の予想に反してこうたは、
「僕はあゆみのことが好きなんです。もう、十年以上」
一途で純情な片思いを吐露した。言葉だけ聞いていたら、全米が泣く映画にできそうな恋路のように感じた。
「僕とあゆみが出会ったのは幼稚園の頃です」
と、彼は二人のエピソードを語り始める。
「僕がいじめられている時に助けてくれたのが仲良くなるきっかけでした。僕はすぐに彼女のことが好きになりました。でもあゆみにとって僕は大勢の友達の一人のようでした。ある日、二人で遊んでいた時に結婚してって言ったんです。まだ四歳だったんですけどね。あゆみは大人になるまで私に恋人ができなかったらいいよ、と言ってくれました」
そこまで聞いて、俺はゾッとした。
つまり、こいつはその十年前の本人が覚えてもいないだろう約束を、律儀にも二十歳になるまで守り続けようとしているのだ。
本人の意思に関係なく。
「あゆみが僕以外の男を好きになって、恋をするのは自由です。でも、恋人はやっぱり僕じゃなくちゃダメなんです」
お願いします、と言って、こうたは足を止め、俺に頭を深々と下げた。
狂気に満ちた後輩の頑なな意思に、俺は戸惑った。
「そんなこと言われても……」
「ただあゆみに一言、『好きな人がいる』と伝えてくれればいいんです。本当にいてもいなくても。そうしたらきっとあゆみは先輩のことを諦めます。もちろん、タダでとは言いません」
これは前金です、とこうたは俺に五千円札を握らせた。
「……っおい!」
「あゆみが先輩を諦めたら一万円差し上げます」
悪い話じゃないでしょう?と微笑む後輩が悪魔のように見えた。
俺は深く、息を吐いた。雨粒がそれを消す。
「……少し、考えさせてくれ」
「はい。僕のメールアドレス、教えておきますね」
こうたは肩にかけていたスクールバックから器用に紙とペンを取り出すと、サラサラとそこにアドレスを記して俺に押し付けた。
「その五千円は差し上げます。話を聞いてくれてありがとうございました」
そう言って、こうたは雨の中、信号の向こうへ消えていった。
俺は手元に残るこうたの連絡先とお金を見つめる。
「伝わらない愛っていうか……」
伝え方を間違えた愛、だな。
終わり