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絶対に、後ろを見ないで

「願いが足りないんだ」

 まるで迷子の子供のように不安げな瞳で緋色の王様はニックを見つめていた。ニックは王様のその表情が苦手だった。この人を憎んでいるということを、忘れてしまいそうになるから。

「《神様》が完全になるには、もっと願いを集めなきゃいけないのに。もう、連れてこれる子供がスラムにはいない」

 その言葉に胸が痛む。痛む理由が踏みにじられていく子供達への憐憫なのか、叶わぬ願いに苦しむ王様の心に共鳴したからなのか、もう分からない自分がいた。

「このままじゃダメなんだ。願いを叶えなきゃ死ねないのに。《神様》に壁を壊してもらわなきゃ、生きてきた意味がないのに……!」

 ニックに駆け寄り、縋り付いて涙を流す王様の姿は幼い子供のよう。

「ねえニック、助けてよ……! 苦しい、苦しいんだ、こんなに願っているのにどうして叶わないの? 僕はただ、ただ……」

 そこでぴたりと王様の動きが止まった。ニックが戸惑って彼の顔を覗き込めば、王様の真っ赤な瞳は絶望に濡れていた。

「僕は、ただ……?」

 それ以上聞いていられなくて、ニックはその細い体を抱きしめる。

「大丈夫、俺が側にいます。貴方の願いは俺が必ず叶えてみせる。だから、安心して。辛いのなら忘れましょう? その痛みも忘れてしまえば、きっと無かったことに出来ますよ」

 本当にそうなのか? この痛みは、忘れたからこその痛みではないのか?

 自らに問いかけても、答えは出ない。その答えさえ忘れることを願ったのは他ならぬ自分自身だ。もうニックは分かっていた。緋色の王様の願いを叶えようとしながら、その邪魔をしてみたり、自分に似た誰かを救ってみたり、そんな矛盾を抱えた一貫しない自分自身がなぜ生まれたのか。悲しい思い出も苦しい胸の痛みも消してしまったこの心には欠落が多すぎる。

 そう、結局のところ、こんなに胸が痛いのは……《《自分が何を願っているのか》》、《《もう分からないから》》だ。

「そうだね、忘れよう。忘れたらきっと平気なはずだよね。子供達とお絵かきでもしようかな。きっと気分が紛れる。赤いりんごの絵をたくさん書いて、お金持ちごっこするのはどうかなあ? ゲームをして勝ったらりんごの絵がもらえて、一番多くりんごを集めた子の勝ち! 次に本物のりんごを買った時、ちょっとだけ多くもらえる。楽しそうだと思わない?」

 王様は夢見心地で空想する。さっきまでの涙が嘘のように、楽しそうにくるくる回った。

「では、今すぐりんごを手配しましょうか?」

 その時、王様とニックしかいないはずの部屋に、別の誰かの声が響いた。二人が声のした方を見れば、先ほどまで何も無かった場所に一人の男が立っている。

「ダン! 君はいつもどこから入ってきてるんだい?」
「人々の心の隙間から、とでも言いましょうか」
「何それ、意味が分からないよ」

 おちゃらけたダンの返事に、王様はコロコロと笑った。その安心しきった表情に、ニックは少し不機嫌になる。この男のどこに信用に値するものがあるのか知らないが、緋色の王様はこの男に完全に心を開いていた。ニックにとっては不服でしかない。

「ちょうど、りんごが余っていた所です。私からの報酬を受け取らなかった変わり者がおりましたから」
「……!」

 その言葉にニックは息を飲む。スラム中を這いずり回るドブネズミたちを使い魔として使役するニックは、ネズミの目を通して数日前のダンとベルたちの会話を見ていた。あの時のりんごだと分かってニックは動揺するが、王様にそれを悟られるわけにはいかなかった。ベルの存在を知られてはならないから。

「りんごをお渡しする代わりに、やってほしいことがあるのです」

 胡散臭い笑みを浮かべるダンの言葉に王様は首をかしげる。

「やってほしいこと?」
「ええ。実は、王都から二人ほど少年少女を連れて参りました」
「ほんと!?」
「はあ!?」

 ダンが告げた瞬間、王様とニックは同時に正反対の反応を示した。王様は欲しかったおもちゃを手に入れた子供のように目を輝かせ、ニックは怒りに満ちた眼差しでダンを睨みつける。

「まあまあ、お二人とも落ち着いて。私が無理やり連れてきたわけではないのです。彼らがこちらにどうしても行きたいと言うものですから、仕方なく。ですから、彼らは強い願いを抱いています。その願いがあればもしや……《神様》も完全体になれるのでは?」

 それを聞いて王様は有頂天になり、狭い部屋をパタパタと走り回って喜んだ。ニックは天を仰いで必死に現状を理解しようとする。

「その通りだよダン! 今すぐその子供たちを捕まえに行かなくちゃ! ニック、急いで準備を……」
「そこです。その点について私からお願いが」
「え?」

 いつも胡散臭い笑みを浮かべたダンの顔が、その瞬間無表情に変わった。およそ人間味を感じない恐ろしい顔で、無感情に彼は言った。

「スラムに《神様》を放してみませんか」

 そしてすぐにいつも通りの笑みを浮かべて付け足す。

「《神様》自身に彼らを捕まえさせるのです。《神様》が完全体にどれほど近いか確かめる良い機会だと思いませんか?」
「それをしてお前に何の得があるんだよ?」

 もはや怒りを通り越して恐怖を覚え始めたニックの静かな問いかけに、ダンはいつも持ち歩いている右手の本を優しく撫でた。

「私は知りたいだけです。貴方たちの願いの結末を」

 ニックはその答えに前髪で隠れた左目を抑えて俯いた。何か耐えがたい現実に直面した時左目を抑えるのは彼の癖だ。その瞳の力があれば、全て忘れることが出来るから。

「いいですよ、私が今言ったことを忘れても。その方が貴方の心が軽くなるならね。大義のための犠牲からは目を逸らした方が身のためです」

 一瞬本気で目を逸らしたいと思った自分自身をニックは嫌悪した。誰だかは知らないが、スラムにやって来た子供たち。何をしようとしているにしても、それは想像以上に勇気のいる行動の筈だ。王都に帰れる保証などどこにもないのだから。そんな彼らを見殺しにしてあまつさえ忘れようとしている自分に憎悪さえ湧いてくる。

「良い考えだね、ダン! 《神様》も外に出たいって言ってたんだ。きっと喜ぶよ! ニックも賛成してくれるでしょう?」

 王様は無邪気に笑った。久しぶりに見る、幸せそうな笑顔。それを見ると自分への憎悪はどこかへ消えてしまう。幸せな気持ちになって、ニックは微笑み頷いた。

「もちろんです、王様。全ては貴方の願いのために」

 その言葉も本心なら、それを告げながら子供たちを逃す方法も必死で考えている自分自身が滑稽に思えて、ニックは誰にも見られないよう俯いて自嘲気味に笑った。


※※※


「ブラッディ、どうしたの?」

 スラムの路地を恐る恐る歩きながら、ランはどこか上の空のブラッディを振り返る。

「ん? え、ああ、何でもないよ」
「あのダンって人に何を言われたの? 別れ際に何か耳打ちされてたわよね。貴方はとても驚いていたみたいだったけど……やっぱりあの人は怖い人だったのかしら」
「別に君には関係ないから。それよりどうやってベルたちを探すか考えてるの?」

 そう問いかけられてランは仁王立ちをしてえっへんと笑った。

「追跡魔法を使います。ほら、先月魔法学校の授業でやったでしょう」
「ああ、君大失敗してなかったっけ」
「あれから特訓したのよ!」
「何で追跡魔法を失敗して大爆発を起こせるのかな、君って本当天才だよね」
「それ褒めてないでしょう!?」
「褒めてると勘違いされなくて安心したよ」
「んんんんん!」

 ランは言い返せないもどかしさを紛らすべく、懐から魔法紙を二枚取り出して紙飛行機を折り始める。紙にはそれぞれ《ベルモンド・シュテルンツェルト》《ソル・ルス》と書いてあった。

「失敗しないでよー」

 飛行機を折るランの後ろ姿に声をかけながら、ブラッディは考え込む。懐に隠した手紙に手を当てながら、ダンという怪しい男に告げられた言葉を思い返していた。

《その手紙の宛先の人間に会いたければ、緋色の王様を探しなさい》

「緋色の王様って誰なんだ……?」

 ガタン!

 その時背後から何やら物音がして、ブラッディは振り返る。薄暗い路地の奥からこちらに近づいてくる《何か》を見て、ブラッディは即座に走り出した。

「ラン!」
「何? まだ折り終わってないのだけれど」
「良いから来て!」
「え、ちょっと何よ!?」
「もう、遅い!」

 状況を理解していないランに説明するのが面倒で、ブラッディはランをお姫様抱っこして全速力でスラムを駆け抜ける。

「何、何が起きてるの!?」
「絶対に後ろを見ないで!」
「え?」

 後ろを見ないで、と言われて彼女は反射的にそちらを見てしまった。その事を、彼女は一生後悔することになる。

「いやああああああああああああっ!」

 少女の悲鳴は人気のないスラムの廃墟街に、いつまでも響いていた。

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