閃刃―⑨―
スプリングプレイス・ホテル 駐車場
雨の湿気と空調設備の臭いが、プレストンの鼻腔を突く。
「大丈夫です、お嬢様。サキ様」
そういって、プレストンに続いて出てきたのは自分が仕える少女たちではなく、五人の屈強な男たち――”ブライトン・ロック社”の私服警備員だった。
アニカの盗聴によって、サキの安全が脅かされた今、拠点を変える必要があるというのが、主人の意向である。
街全体は、非常事態とも言えた。
その為に一般人の外出が規制され、屋外の住民も、商業施設に避難するよう、行政と”ワールド・シェパード社”から指示が出ている。
当然、スプリングプレイス・ホテルも避難場所に指定されていた。
「ブルース達と連絡が取れない。それに、ロック達も」
プレストンは、アニカを届けた後のエリザベスの言葉に顔を曇らせた。
戦闘要員が大幅に減らされている状態では、このホテルは敵の手に渡ったも同然である。
アニカを部屋に留めた後、彼らはサキに今の状況を話した。
アニカが情報を流していたことは、無論伏せている。
他人の為への献身を追及する彼女に、その話題は、精神の平安を崩す以外の何物にもならなかった。
改めて、話す機会を設ける必要がある。
ついでに言えば、それが出来る場所と時間も。
少なくとも、それは此処でもなければ、
プレストンとエリザベスに加え、ロック達とも打ち合わせているが、この場合は、郊外のリッチモンドへ行く手筈になっていた。
コンドミニアムの様に、生活用品が揃っていないので、当面、移動の自由は制限される。
サキもそれを理解しているのか、拒否の言葉もなく、駐車場に来ていた。
エリザベスは、何時ものファーの付いたジャケットを着たままである。
サキの恰好は、アニカの洗濯した衣類から、トレーナーを着せた。
衣類に盗聴器が仕掛けられた形跡は、さり気なく見た限り、確認されていない。
サキへの良心がアニカの中で働いたのではと、考えながら、プレストンは前を向いた。
五人の護衛の男たちが、駐車場で並ぶ、市民を確認。
彼らの頷きを見て、プレストンは主人の為に、扉を支える。
エリザベスと共に出てきたのは、フードを被り、帽子を深く被ったサキだった。
サキ自体が、存在どころか一呼吸も含めた全てが、地元の眼を引く存在である。
その姿のまま外に出たら、市民たちがそれに様々な反応をする。
ある者は、拠点の安全性が損なわれることを恐れるだろう。
また、ある者は、「グランヴィル・アイランド崩壊」の後ろめたさに逃げたと受け取り、市民裁判染みたことを起こしかねない。
そこも理解しているのか、サキの着替えは上手くいった。
――殆ど、疲労による思考停止かもしれませんが……。
プレストンにエリザベスは、サロメが糸を引いている事件で、てんてこ舞いとなっている。
その際に起こり得る
だが、サキは当事者である。
疲れは、自分たちよりも多大かもしれない。
それでもサキは、
「私が前に行きます」
疲れから来るとは言え、その時の声は元気で凛としている。
プレストンは、不思議と
彼女を前にして、エリザベスと共に歩く。
地下駐車場を歩きながら、客室はおろか、フロントにも入れない避難者を見回した。
携帯端末の動画を見る者もいれば、配給されたサンドイッチを摘まむ者もいる。
警官、”ワールド・シェパード社”隊員、ホテルの従業員達に、不満の声をぶつけている者も後を絶たない。
プレストンは、喧騒を避けようとしたが、黒犬耳の隊員に老紳士の一歩先を塞がれた。
「失礼、どちらへお越しでしょうか?」
男性の声で、訛りは無い。
「私たちは――」
「エリザベス=ガブリエル=マックスウェル殿に助力を申し出、本部に連れて行くところです」
プレストンの声を遮ったのは、サキだった。
「”ブライトン・ロック社”に、バンクーバー市への協力……その為の障害を、取り払う。その協力を仰いでいました」
プレストンは、サキの言動に息を呑む。
サキが、
“バンクーバー市への協力”という、彼女の言葉。
主人であるエリザベスから、ホテル”ウェイブ・スウィーパー”の会合で、”ブライトン・ロック社”の知る情報を全て差し出す様に圧力があったことを、プレストンは聞いていた。
プレストンの隣で、目を見開いた主人の少女。
それは、サキには話していないということを表していた。
主と同じく不可解さを抱えるプレストンを他所に、
「……サキ=カワカミさん。あなたのことは存じています。謹慎中の身で、こちらにおられることも。しかし、あなたが、そこまでのことを行う必要はありません」
犬耳姿の兵装の声は、冷徹にサキの言葉を返す。
謹慎先として”ブライトン・ロック社”の施設とも言える、”スプリングプレイス・ホテル”に、サキがいるのは結果論だ。
注目を浴びたからと言って、結果を出す必要性はない。
その点で、目の前の”ワールド・シェパード社”社員の指摘は正しい。
しかし、
「いえ。避難をしている市民の為に出来ること。それは、”ワールド・シェパード社”社員として、障害を取り除くことに務めることです。謹慎を受けている者が、『
そう言って、サキはフードを取る。
彼女の姿を見て、周囲は騒然とした。
「私は、市民とは言えません。しかし、ここにいる以上、この街で、本当に出来ることを明確に提示している者に、電話だけで済ませる。更に、謹慎中だから黙ること。それが、協力関係と言えますか!?」
プレストンは、サキの凛然とした口調に息を呑む。
自分はサキを含め主人であるエリザベスも、守る。
エリザベスも同じだったろうが、それは、あくまで市民の眼を逸らす為のものだ。
だが、サキは違う。
自分たちに守られるだけでなく、周囲も頭に入れている。
市民の為と言いつつ、小手先で誤魔化す者は多いが、彼女は自分を理解し、その目標を示していた。
サキの凛とした声が、駐車場にいた避難者の顔を上げる。
その視線が、サキを守る後光の様に、彼女の足を止めた男に注がれた。
犬耳兜の男は戸惑いながら、通信装置に連絡を入れる。
数人の”ワールド・シェパード社”社員たちが、集まり始め、
「……わかりました。車を回すよう手配します」
犬耳兜は右手を兜に抑えながら、言葉を交わしてプレストン達を先導。
”ブライトン・ロック社”の護衛の男たちを挟む形で、”ワールド・シェパード社”兵士も合流を始めた。
「エリー、プレストンさん……ごめんなさい」
サキが小声で、俯く。
「場所は違うところよね……これから――」
「いや、本部だ」
プレストンは、主人の言葉にも驚かされた。
だが、音量は抑え、兵士に聞こえない様に戸惑う執事に、エリザベスが耳打ちしてくる。
「どのみち、ロック達と連絡は取れない。ナオトもな。恐らく、サロメ関係に加えて、”ワールド・シェパード社”の一部が、その原因に大きく絡んでいる。この場合は、少しでも高い場所から見た方が良い」
「追うものの懐に飛び込む……。敵陣に入りますが、確実です」
“ブライトン・ロック社”と”ワールド・シェパード社”は、”ウィッカー・マン”を含めたUNTOLD関係で協力を結んでいる。
今回の出来事によって、以前の取り決めが反故になることは無いだろう。
「それに……サキが顔を見せても、誰も銃を構えるどころか、未だに
エリザベスの言葉に、プレストンは舌を巻いた。
ナオトの様に、サキを擁護するもの、そうでないものが”ワールド・シェパード社”を二分化している。
だが、どれだけ得体が知れなくても、”ウィッカー・マン”の弱点が分かる少女を処理するようなことをすれば、分裂は、
行き過ぎた戦力は警戒される。だが、使えると判断出来れば、話は変わって来る。
「どう出るかが分からなければ、行くしかない」
「恐れていたことが……起きましたな」
少し前に触れた、サキがエリザベスからの悪影響を受けることの懸念を、皮肉で言ったのを思い出した。
「違うな、プレストン」
エリザベスは、首を振って笑顔で、
「私がサキの影響を受けたのだ。良い方向に、な」
兵士がプレストンたちに向かって、
「用意できました。こちらへ!」
兵士たちも集団で、囲む様に、プレストン達を地下駐車場から案内した。
バンクーバーの雨が、止む気配はない。
それどころか、雨脚は強くなっていた。
冬梅雨は、春の訪れの前に訪れる冬の洗礼を思わせる寒さがある筈だが、
「温かく感じますね……」
プレストンは言いながら、5人の護衛を見る。
サキとエリザベスを背後にしながら扇のように広がっていく。
犬耳の兵士たちも言葉を交わさず、扇形に広がる護衛の反対側に構える。
ちょうど、一人の老紳士と二人の少女は、異なる陣営の背中を見守る形となった。
「人の出入りが激しくなっている……街がそれだけ、混乱しているからな」
エリザベスは、サキに背を向けて話す。
「……それだけじゃない」
サキの言葉に、プレストンはふと背筋が寒さを覚えた。
忘れていた雨の冷気が戻る感覚が、老紳士を呼び覚ます。
「血の様に雲が流れ、息のような温かい湿っぽさ……」
サキの歌う様な口調に、エリザベスの鋭い目が、大きく開いた。
プレストンは、雨がふと背中のジャケットに入った様に感じる。
降りしきる大雨の小さな一滴のように、象牙眼の女がサキの背後に降り立った。
「撃つな!」
一瞬の内に行動したのは、エリザベスだった。
犬耳とジャケットの護衛の構えた得物が、プレストンの女主人の凛とした声に制される。
だが、彼女の一言よりも速きに制したのは、サキの背後から飛び散る血潮だった。
「……これで、完遂――」
金色の砂を体の至る所から血の様に流しながら、象牙眼の女――サロメ――が崩れる。
プレストンの前で、サキは痛みに叫ぶ時間も与えられず、白と黒の光の奔流に呑み込まれた。
やがて、彼女の周囲に二色の光の柱が立つ。
二柱は天に突き刺さらん勢いで、街を覆った。
「サキ……この
隣にいるエリザベスの言葉は、プレストンの記憶を思い出させた。
スコットランドのダンディーを壊滅させかけた、破滅の光とその担い手。
プレストン達の前で、サキの姿はいなかった。
光が女性の体を作り、満月色の眼が輝く。
月白色の肌が、サキの上を包み込み、生まれたままの姿を作った。
薄掛かった夜色の肌の上を、星なき夜の黒が食い込む。
黒に浸食された豊満な胸から臀部は、月食色の真珠に覆われた。
月白色と月食色に彩られた女は、整った目鼻の下で、紅く吊り上がった半月を描く。
月輪の様な髪が、彼女の首筋を覆った。
老紳士と女主人が見上げる女は、艶めかしくもどこか、作られた均整を感じさせる。
浮かぶ均整から放たれる芳香から、プレストンは
エリザベスと出会う前、
プレストンの隣で、エリザベスが苦々しく吐き出した。
「……リリス」