閃刃―⑧―
午後9:37 スプリングプレイス・ホテル フロント
ホテルの受付に殺到する人々の顔は、行き場のない感情に染まる。
その中で子供をあやす母親は、憔悴し切っていたが、何処か安堵を抱いた表情を浮かべていた。
プレストンは、そんな人々の織り成す喧騒の中で考える。
トルストイは、著作“アンナ・カレーニナ”で「幸福な家庭は全てよく似たものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という言葉を冒頭に置いた。
しかし、プレストンはそのことに疑問を持っていた。
言葉は一つの様であるが、その取り方は多様。“幸せ”と言う文字を見ても、主観的で
他者の幸せを自分と共に感じることが出来れば、それを受け入れられない者もいる。
幸せを享受者と、不幸せな自分の現状を比べて貶めるものもいれば、幸福を向上させようというものいる。
そうして、世界は変わっていく。
自分が目の前のものを選び、考えながらそこから広がる新しい道を歩いていく。
この向かう方向が同じであることを鑑みれば、幸福が同じに見えるトルストイの冒頭は正しいが、
幸福が、成功の果てに得たか、失敗から生じたものであれ、当人が何らかの意味を見出せば、先へ歩める。
その体現者が、今の主人のエリザベス=マックスウェルだった。
彼女の知己である、ブルースと彼の下で働くロックに加え、主人を友として認めるサキ。
人生の質を求める求道者が、集うのは、その方向性を同じとしているかもしれない。だから、喧騒の中で、唐突に
――アニカさん……?
プレストンは、自分が公平であると断言はできない。
しかし、人を個人として扱い、労務とそれ以外の切り分けは出来ている自負はある。
だから、アニカが後ろめたさで、顔を曇らせているのが、プレストンの眼を一際引いた。
客室清掃員の東南アジア系の女性が、周囲を見ながら歩く度に人波が少なくなっていく。
プレストンは彼女に気付かれない様に、後を歩いた。
それが、外れて欲しい。
しかし、
トルストイの著作の主役、アンナ・カレーニナに忍び寄る破滅の影を、アニカから感じ取った。
「アニカさん……」
プレストンの声が、人気のない通路で響く。
その声に、後を付けられた中年女性は、振り向いて目を強張らせた。
彼女の右手には、同じ大きさの携帯端末が握られている。
「サキ様の部屋に盗聴器を仕掛けられたのは、貴女だったのですね……」
驚愕の余り、プレストンは声に感情を含ませることが出来なかった。ネクタイとベストを纏ったプレストンの感情と抑揚のない顔を、見開いたアニカの目が離さない。
ロックとサキが、会話をしている間、情報通信端末を見ていた。
予定の確認の他に、”ワールド・シェパード社”の活動も監視するためだ。
バンクーバーは、TPTPの元で行われている実験都市であり、”ワールド・シェパード社”はその前線に立っている。
しかし、”ブライトン・ロック社”は、冷戦期のフォークランド、中東で無人爆撃機の操作に必要な情報処理も行っていた。カナダは、英連邦の関係もあり、海外市場での影響力も衰えていない。
実質、バンクーバーは、英国と環太平洋国家のどちらかが、”ウィッカー・マン”を倒すかの、覇権戦争の舞台となっている。
そういった場所で、長期滞在が出来るだろうか。
「wifi回線を使うのは良いでしょう……しかし、目的別に端末を用意されることをお勧め致します。まして、
プレストンが、ロックとサキを監視していた時に、見つけたのは、”ブライトン・ロック社”の情報端末用の基地局で暗号化された記録だった。
解像度や音質を上げると言うことは、その分
複雑化すればするほど、その情報は
「本来こういう任務は、誰かの用意したものを使う筈です。従業員用のネットワークを使ったということは、それほど、逼迫され――」
プレストンの言葉を、携帯端末の床に落ちた音が遮った。
東南アジア系の清掃員は一本の短剣を両手に握り、老紳士の心臓を狙う。
彼女の眼は鋭く、短剣の切っ先も一心不乱。
だからこそ、彼女は
プレストンは、アニカの短剣を握る両手に、自らの両手を重ねる。
彼は一呼吸も入れず、彼女の褐色の両手を押し出した。
中年女性は、後へ引っ張られるかのように、盛大に倒れる。
人間が、安定して掛けられる重心の広さは、肩幅ほどだ。
だが、攻撃する際はどうしても、
短剣の落ちる音が、廊下に響く。
痛みに歪んだ東南アジア系の従業員が膝を付くと、プレストンは右足で短剣を自分の方に寄せた。
「貴方たちは……危険よ」
アニカの吐き出した顔から、南国の太陽を思わせる包容力は消えている。
プレストンは、短剣を拾う様に目をやりながら、
「
プレストンは、アニカに
眼の前の東南アジア系の女性に、娘がいたことを思い出す。
大学を卒業して、就職が決まったことも。
プレストンも何回かその話題に触れたことはあった。
「娘」と言う意味で言えば、自分の娘や、今仕えているエリザベス=ガブリエル=マックスウェル、アニカの娘やサキは、彼女と同じ話題で共有された
「こんな世の中でも……移民でも、働きづめで、ここは良かった。でも、それでもお金は掛かる。学生ローンの支払いも、子供だけではどうにもできない」
高等教育と将来への保証。
それを確約する為の未来の値段は、
人として裏切るには十分すぎ、プレストンにとって驚くことは無い。
だが、アニカの口から出た言葉は、老執事を突き刺した。
「あなた達と接して分かった……。あなた達は、人を選ぶ理屈を探している。
アニカの叫びは、プレストンの息を呑ませた。
サキの留学と現地での生活。
サキはその中でも、良い成績を収めていた。
だが、結局プレストン達の都合の良い方向へ、サキを導いている事実は変わらない。
「サロメに、あなた達は……サキちゃんに何をさせようとするの。あの子は……ただの、
アニカの恐怖に歪んだ顔に、悲しみの色が宿り始める。
だが、褐色の中年女性は、敵意の視線を、プレストンの背後に向けた。
プレストンも背後の闖入者に驚き、息を止める。
エリザベス=ガブリエル=マックスウェル。
顔色が陰に隠れていて、表情は見えない。
プレストンは、感情を見せない主の意図を見守る。
その主人を見るアニカが、体を動かした。
――お嬢様!?
身構える彼を、制する主の視線。
エリザベスは、そうして老紳士に無言の諫言を放つと、懐から紙束を取り出す。
それをジャケットの懐から取り出したペンを紙の上で流した。
「サキを……
紙束をちぎって、アニカに渡す。
プレストンの眼に映ったのは、小切手だった。
彼女の労働契約で得られる報酬の倍と、その他が加えられた額が記されている。
「サロメの……報酬より上ね。私は、お金を捨てられない。それもお見通しよね。サロメもあなた達も悪魔よ……人を制御できると、見るもの全てを変えられると思いあがっている!」
エリザベスは、何も返さなかった。
プレストンは、小切手を見て蹲るアニカに避難場所へ行くよう、促す。
歩き出したアニカは、呪詛を吐き続け、二度とプレストンを見ることは無かった。