消された名前
「おうさまのかみは、どうしてそんなにまっかなの?」
手を引く子供にそう尋ねられて、彼は戸惑ったように笑った。
「さあ、どうしてだろうね? 生まれつきこうだったから、分からないや」
「そうなんだあ。でも、おうさまのまっかなかみ、とってもきれいだね。めも、おんなじあかいろで、すてきだね」
きらきらした瞳で子供は言う。その身にまとう服は布きれ同然のぼろぼろで、顔もすすで汚れていた。彼はこの子が男の子か女の子か分からなかったけれど、それはどちらでもいいことだった。
「ありがとう。もうすぐ教会に着くよ。今夜から、教会が君の家になる。もう、寒い外で凍えることも、食べ物に困ることもなくなるよ」
「ほんとう? おうさま、ありがとう」
でも、と小さな子供の大きな瞳が影を帯びる。彼にとってそれはとても見慣れたものだった。スラムで生まれ育った人間は、大人も子供もみんな同じ目をしていたから。
「どうして、たすけてくれるの? いままで、どれだけおおきいこえでたすけてっていっても、だれもきいてくれなかったのに」
小さな声で尋ねる子供に彼は優しく微笑んで、その低い目線に合わせるようにしゃがみ込むと、教え諭すように答えた。
「子供は希望そのものだからさ。このスラムには希望のかけらもないように思えてしまうけど、君のような子供達こそ未来への鍵だ。そんな君たちが飢え、凍えて死んでいく姿を見るのが、僕は耐えられないんだよ。幸い、僕には君たちを守る力がある。だから、僕が出来る限りは君たち子供を助けたいんだ」
今まで向けられたこともないような優しい笑顔に安心したのか、子供はふわりと笑った。教会へと向かいながら、子供は無邪気な笑顔で尋ねる。
「きょうかいって、どんなところなの?」
「教会はとても大きくて、温かくて、素敵な場所だよ。君くらいの歳の子供がたくさんいる。みんな良い子たちだから、すぐに仲良くなれるはずさ」
「なかよく……それって、ともだちができるってこと? ともだち、ずっとほしかったんだ!」
「そうか。友達、たくさん出来るよ。ほら見てご覧、ここが教会だ」
その教会は今にも崩れ落ちそうなほど古かったが、とても大きくて立派な建物だった。
「うわあ……」
子供は今までにちゃんとした建物を見たことがないのだろう、口をこれ以上ないほど開けて呆然としていた。スラムにある建物はほとんどが戦争で焼け落ちた廃墟なので、驚くのは当然のことではあるけれど。
「さあ、寒いだろうし早く中に入ろう」
彼はそう言って扉に手を伸ばすことなく進もうとして、ああ、そうだったと小さく呟いて扉に触れた。
トン、トントントン、トン、トントン。
合図を叩けば、中から扉がゆっくりと開く。現れたのは、長い前髪で左目を隠した青年だった。夜空のような紺色の髪の奥の真っ赤な瞳が、どこか異質な雰囲気を感じさせる。
「お帰りなさい、緋色の王様。その子は……」
静かな声で問いかける青年に、彼は幸せそうに微笑んだ。
「そう、いつものだよ。ねえ君、彼はニック。赤い目が怖いかもしれないけど、とても優しい子だから仲良くしてあげてね」
子供に向かって青年を紹介し、じゃあ、と言って彼は教会の奥に消える。
「え……あ……おうさま、まって……」
突然置いて行かれて、子供は戸惑い彼を呼ぶけれど、その声はもう彼には届いていない。
「王様を呼んでも無駄だよ。あの人はたくさんの子供たちの世話で忙しいから、新しく来た子にここの説明をしている時間がないんだ。許してあげて」
代わりにニックと呼ばれた青年が子供に声をかける。子供はその鋭く真っ赤な瞳に怯えた様子を見せたが、柔らかく微笑む姿に落ち着いたらしく、素直に頷いた。
「ここは君みたいに行き場の無い、スラムで独りぼっちの子供たちを助ける場所なんだ。ここにいる限り、君は温かい暖炉の前でお腹いっぱいご飯が食べられるし、ふかふかのベッドで他の子供たちと一緒に安心して眠れる。俺たちから君にお願いしたいことは一つだけだ。絶対に、ここから出ないこと。外がとても危ない場所だってことは君もよく知ってるだろう?」
子供は大きく首を縦に振る。
「それだけ守ってくれれば、何をしても構わないよ。何か分からないことはあるかい?」
そう聞かれて、子供は好奇心に目を輝かせながらニックに問いかけた。
「どうして、ここはこんなにあかりがあるの? よるなのに、どうしてこんなにあかるいの?」
教会の中はたくさんの蝋燭に火が灯されて、夜でも暖かな光に溢れている。夜には真っ暗になってしまうスラムでは絶対に有り得ない光景のはずなのに、ここではそれが当然のように実現されていた。
「それはね、王様が皆のために蝋燭をたくさん持ってきてくれるからだよ。そして、王様は魔法が使えるからさ」
それを聞いて、子供は大きな瞳がこぼれ落ちそうなほどに目を見開く。
「おうさまは、まほうがつかえるの? まほうがつかえるのは、かべのむこうのひとたちだけだってきいたよ? スラムにいるひとたちはみんな、まほうがつかえないからおいだされたんだって」
「そうだね、それは本当のことだよ。スラムの人たちはみんな、魔法が使えない。でも、魔法が使えないから追い出されたんじゃない。追い出されたから魔法が使えなくなったんだよ。魔法の力は、人が何かを強く願う思いの力だ。スラムの人たちは皆、願うことを止めてしまったから魔法が使えなくなったんだ」
ニックの説明に、子供は首を傾げる。君にはまだ早かったかな、とニックは苦笑いをした。
「まあ、とにかく皆は魔法が使えないけど、王様は使えるんだ。だから、王様が蝋燭に火を付けて俺たちを照らしてくれてるんだよ。ここで俺たちが食べ物にも寒さにも困らず安全に暮らしていけるのは、全部王様のお陰なんだ。それを忘れてはいけないよ」
「うん!」
素直に頷く子供の様子にニックは満足そうに微笑むと、子供の手を優しく引いて、教会の奥へと連れ込む。
「まずは温かいお風呂に入って、汚れを落としてこよう。他の子供たちに手伝わせるから、初めてお風呂に入ると思うけれど安心して良いよ」
お風呂、がよく分かっていない様子の子供にそう告げて風呂場へと向かいながら、そういえば、とニックは問いかけた。
「王様は、君の名前を聞いたかい?」
「ううん、きかれなかったよ。おうさまのなまえも、おしえてくれなかった」
「そうか」
その答えを聞いたニックの表情が一瞬凍り付いたように無表情になったことに、子供は気づかない。
「……じゃあ、君の名前は必要ないってことだな」
「え?」
戸惑いニックを見る子供に、彼は突然前髪を掻き上げて左目を見せた。瞬間、辺りが真っ赤な光に包まれる。子供は立ったままで一瞬気を失ったが、すぐに何事も無かったかのように目を覚ました。
「ニック、おふろってなに? こわい?」
その頭から先ほどまでの名前についての会話に関する記憶の一切が失われていることに、子供は気づかなかった。何事も無かったかのように、お風呂について問いかける。
「怖くないよ。大丈夫、とても素敵なものだから」
微笑んで答えるニックの左目は変わらず長い前髪に隠れて見えなかった。
「さ、ここがお風呂場だよ。子供たち、この子に色々教えてやってくれ」
ニックが風呂場の脱衣室で声をかければ、待ち構えていた数人の子供たちが一斉に新入りの子供の元に集まってくる。
「初めまして!」
「仲良くしてね!」
「いろいろ教えてやるよ!」
すぐに新しい子供は周りと打ち解けて、わいわいと楽しそうにおしゃべりが始まった。
「後は頼んだよ」
ニックはそう言って姿を消す。新しい子供は、自分がここに連れてきて貰えた幸運に心から喜んでいた。自分も周りも、誰一人として名前を聞くことも教えることもしなかったということに、子供はもう二度と気づくことはない。自分に名前があったのかどうかさえ、子供の頭からは消えていた。ただ、子供がとても幸せだったことだけは確かだった。