58話 フリッカージャブ
トーマス・ハーンズ。
1980年代、アメリカボクシング界で「黄金の中量級」と呼ばれる時代があった。
これは、体重によって階級の分かれるボクシングという競技において、スピード、パワー共に最も適していると言われている階級ウェルター級に、名実共に優れたスター選手達が挙っていたからだ。
ハーンズをはじめ、シュガーレイ・レナード、マービン・ハグラー、ロベルト・デュラン等、ボクシングファンなら誰でも知っている往年の名チャンピオン達が、その時代に集中したのは、正に黄金期と呼べるだろう。
そんな強者達のひしめく中量級で、5階級制覇という偉業を成し遂げたのがトーマス・ハーンズである。
彼は長身、ロングリーチという体格を活かしたファイトスタイルで、KOの山を築き上げた。
プロでの戦績は67戦61勝5敗1分け、内勝利は48KOという素晴らしいものであった。
ロングリーチをだらりと下げたデトロイトスタイル(日本では漫画の影響でヒットマンスタイルという呼び名の方が有名かもしれない)から繰り出される変則ジャブ、フリッカージャブは彼の得意とするものであった。
「ほ、本当にデトロイトスタイルだったのかい?」
バンディーニが唖然としながら俺に聞いてくる。
あの後ガチの殴り合いになるかと思ったのだが、ロゼッタが俺達の間に割って入ると、なぜか俺の頬を思いっきりビンタ。
それを見たエドガーは目を真ん丸にして驚いていたのが、大笑いしだしてその場はなんとか丸く収まったのだ。
「まさか、あのエドガーって野郎も転生者だったりしねえだろうな?」
「有り得ないだろう、そんな人間が貴族として生まれ変わっていたら、私の耳にも入ってくると思うよ。それよりも、彼のファイトは見てきたのかい?」
神妙な面持ちだったかと思ったら、急に子供の様に目をキラキラ輝かせながら聞いてくるバンディーニ。多分、エドガーという言う男に興味津々なのだろう。
「ああ、その後、ちょっとだけスパーリング風景を見せて貰ったよ」
「やっぱり、あれかい! あれを使ってたのかい!」
うぜーなこいつ、なに興奮してんだよ。
唾を飛ばしながら興奮した様子で迫って来るので、俺はバンディーニの野郎を殴り倒したいのを我慢して話を続けた。
「ああ、フリッカージャブだったよ。間違いなくあれはそうだった」
「くぅぅ~、やっぱりそうか。すごいなそのエドガーという男は。自分一人でそれを考えだしのだろうか?」
「いや、なんか浅黒い肌をした白髭のじいさんがトレーナーにいた」
「へぇ、その人に教わったのかな?」
そんな感じで話をしていると、ずっと一緒に話しを聞いていたロゼッタが会話についてこれないので、苛々しながら割って入ってくる。
「さっきからなんの話をしているのかわからないんだけど?」
「ああ? うっせーな、おまえにはわからねえよ」
「だからわからないから説明しなさいって言ってるのよ!」
「説明してもわからねえから、わからねえって言ってんだよっ!」
このくそアマ、いつもいつも人の顔面に張り手を喰らわせやがって絶対に許さん。
俺とロゼッタが口喧嘩を始めると、毎度おなじみの光景にバンディーニはやれやれと言った感じで肩を竦める。
「二人とも、夫婦喧嘩はそこまでだ」
「ふ? ふふふ、夫婦じゃないわよ!」
「はいはい、ロゼッタお嬢様。ジャブはわかりますよね?」
「え、えぇ。ロイムがいつも打っている左手の打撃のことよね?」
バンディーニにからかわれるも、急に質問をされたので慌てながらも答えるロゼッタ。
「そうだね。あれは、ボクサーならば誰もが身に着けるべきとても重要なパンチなんだ。ロイムの打っている、腰を捻らずに腕を前に突き出すものをオーソドックスなジャブとするならば、フリッカージャブと言うのは変則的なジャブなんだ」
「そう言えば、エドガーは変な打ち方をしていた気がするわ」
「腕をだらりと垂らした状態で、しなる鞭のように下方向から繰り出されるジャブは、非常に軌道が読みづらく見えづらい。エドガーはそんなジャブを身に着けているらしい」
バンディーニの説明に小首を傾げながら納得いない様子のロゼッタは、皆が思うような当然の疑問を口にする。
「だったら皆、そのフリッカージャブというのを使えばいいじゃない」
その疑問に俺が答える。
「できねえからやらないんだよ」
「どういうことよ?」
「バンディーニの説明にもあっただろ、鞭のようにして打つって。腕が長い奴が有利になるような技なんだよ。それに瞬発力も必要になってくる、腕全体をしならせる柔軟な筋肉が必要なんだ」
「つまり、あんたにはその才能がないってことね」
馬鹿にしたように言うロゼッタであるが、まあその通りだから言い返せない。別にフリッカージャブを使えないと上を目指せないってわけでもないから気にしないもんね。
「ロゼッタお嬢様の言う通りだ。エドガーが本当にフリッカージャブを物にしているとしたら、これはかなり脅威だと言えるだろう」
実際のところ、俺は実戦でフリッカージャブを使う選手と当たったことはない。
はっきり言って日本人には、フリッカーを打てるような体格の選手などそうそういないのだ。
浪速のジョーこと、辰吉丈一郎選手なんかも使っていたが彼は特別だ。
尤も彼もそのファイトスタイルから度々顔を打たれたことによる、目へのダメージは相当に大きなものだった。
デトロイトスタイルの選手は往々にして目が良い。ガードするよりも、避けるディフェンススタイルなのだ。
辰吉選手はやはり、目へのダメージ蓄積と網膜剥離の手術による視力の低下で、そのファイトスタイルを維持できなくなってしまった思う。
それ程までにフリッカージャブとは、日本人選手ではほぼお目にかかれない代物なのである。
続く。