39話 ロゼッタ・マスタングお嬢様
「おまえに理解できるか? 飯も食えねえ、水も飲めねえ、こんな真冬にも関わらず寒空の下で身を寄せ合うようにして眠るしかない! 毎朝目覚めると誰かが凍死しているんだ! そんな環境で生き抜いてきた俺と、おまえらが一緒だって言うのかよっ!」
なんという表情で視線を向けて来るのか。
ルクスの目は、まるでこの世の全てを憎むような、そんな目に見えた。
なにも言い返せずにいると、バンディーニが俺を羽交い絞めにしながら耳元で囁く。
「本当の事だロイム、我々はマスタングさんの元で破格の待遇を受けているんだよ。これが平均ではない、むしろルクスがこれまで受けてきた待遇の方が、当たり前のように存在するものなんだ」
その言葉に俺は息を飲む。
「勝たなきゃ殺されるんだよ。いや、勝たなくてもだ。余興だと言って、
ルクスは顔を歪め、半笑いになりながら俺に問いかけてくる。
「両方の手首から先を切り落とされた。試合でのことだからとグラディエーターにはなんのお咎めもなしさ。その拳奴は死ななかったよ。でも、拳のない拳闘士がどうやってその先、生きていけるってんだ! それだけじゃない! なにも知らされず、朝目覚めたら突然闘技場に連れて行かれて、大人と殴り合えと言われるんだ! 俺はまだ11だった!」
いつしか、皆が黙り込みルクスの叫びに耳を傾けていた。
「反則だあ? あんなものは日常茶飯事さ! 目潰し金的、噛みつき、指折り! なんだってする。いいか? 拳闘なんてものを見に来るやつらはな。血が見たいんだよ。相手を不具にしちまえばな、一躍スターさ! 負けの込む拳奴の試合なんざ誰が見に来る。客を呼べなくなったら俺達に商品価値なんざねえ、体格で勝てねえんだ、そうでもしなければ……俺は……生きて来られなかったぁ」
地獄だ。ルクスが味わってきたのは本当の地獄だ。
生き抜くために泥水を啜り、汚物を喰らって、そうやって死ななかった者だけが、拳闘士として戦い、解放されるスタートラインに立つことができたのだと言う。
ほとんどの者がそのスタートラインに着く前に脱落する。そんな地獄でルクスは生きてきた。
ハングリー精神なんてものじゃ到底そぐわない。
生きるか死ぬか、喰うか喰われるのかの世界で生きてきたんだ。
「マスタングだって一緒さ。おめえら拳奴のことを過保護に育てちゃいるが、商品価値がなくなれば用済みよ。結局俺ら奴隷は、そうやって上流階級の人間共にいいように使い棄てられて死ぬのさ」
吐き捨てるようにそう言うと、ルクスは黙り込んでしまった。
皆も同じように黙り込んでいたのだが、大股でルクスにずんずんと近づいて行く人物が一人。
その人物は羽交い絞めにされているルクスの眼前に立つと、思いっきり頬に張り手を入れた。
「そんなこと関係あるものですか!」
それはロゼッタであった。
ロゼッタは鬼のような形相でルクスのことを睨みつけている。
そのあまりの威圧感に羽交い絞めにしているボンゴエも冷や汗をかいていた。
「なにすんだこのアマぁっ!」
「黙りなさい拳奴風情がっ!」
もう一度張り手をお見舞いするロゼッタ。
皆がそれを唖然としながら見つめている。父親であるマスタングも同様であった。
「あなたの事情なんか知ったことではないわ! でも、ここにいる拳奴達に対してあなたがやった悪辣非道な数々の行い。それによって彼らが使い物にならなくなったら、うちの受ける損害は甚大なものになるのよ!」
この期に及んであの女。まだあんなことを言っているのか。
ルクスの言っていたことを聞いていなかったのか? おまえら支配者階級の奴らの行いの方が悪辣非道ではないか。
ルクスの言ったこと、それが反則をして良い言い訳にはならない。
しかし、そうしなければ生きてこれなかったという、その部分は理解できなくもない。
俺だって自分が本当の死に晒された時に、果たしてボクサーとしてのプライドを保ち続けることができるか、そんな自信はなかった。
俺はいつしかルクスに同情してしまっていたのだ。
ロゼッタのあまりの言い分に腹が立ち、俺が食ってかかろうとした所でバンディーニが止める。
「よせロイム」
「なんでだよ! どうしてあんな言い方を、あれじゃあ、あんまりじゃないかっ!」
「いいからロゼッタお嬢様の話を聞くんだ。彼女の言葉を悪意だけで捉えずに、冷静になって考えるんだ」
バンディーニは怒ってはいなかった。
真剣な表情で、声音で、俺のことを諭すように言う。
「ここにいる拳奴達は、拳闘士であろうが訓練生であろうが候補生であろうが、全員がマスタング家の財産なの。彼らは私達に利益をもたらす大事な商品。だからこそ、こんな所で無下に扱って、使い物にならなくされるのを許さないわ!」
「そうやって、てめえらは俺達奴隷のことを見下して」
「見下してなんかいないわっ!」
ロゼッタの言葉にルクスは茫然とする。
「見下すものですか。これは身分の問題なのよ。私達が主人であり、あなた方は奴隷なのだから。身分には役割と言うものがあるの、だから私達には、あなた達が立派な拳闘士として闘技場に立てるようにする義務があるの!」
「俺は……俺は、違うじゃないかぁぁぁぁ」
「馬鹿を言いなさい。あなたももう、マスタング家の財産なのよ。それを肝に銘じておきなさい」
そう言うとロゼッタは踵を返して歩き出す。
ロゼッタの背中を見つめながらルクスは涙を流し、膝から崩れるのであった。
「あれが、ロゼッタ・マスタングお嬢様だよ。ん? なんだか不満そうだねロイム?」
「うるせえよ。気の強い女は嫌いなんだよ」
不貞腐れる俺のことを見ながらニヤニヤと笑うバンディーニ。
すると、踵を返したロゼッタがなぜか俺達の方へやってくる。
またなにか言われるのかと思い俺が身構えると、ロゼッタは手に持っていた布を俺に向かって投げつけた。
「早く血を拭きなさい。すぐに治療を受けるように、そのままにしておいて化膿でもしたら失明しかねないんだからね!」
真っ赤な顔で怒りながら去って行くロゼッタのことを、俺は茫然としながら見つめるのであった。