37話 絶体絶命
「あの馬鹿……」
だから言わんこっちゃないとばかりにロワードがそう零す。
他の二人も同様に、ルクスに滅多打ちにされているロイムに向かって声援を送っていた。
バンディーニは険しい表情のまま試合を見つめているのだが、自分でも気づいているのかいないのか、固く握りしめた拳が震えていた。
「師匠! 止めるべきです。このままじゃロイムが潰されますっ!」
ロワードの進言が耳に入っていないのかバンディーニは何も答えない。
歯を食いしばり、目を見開いたままロイムのことをじっと見つめていた。
(ロイム、おまえはこんなところで終わっちゃ駄目なんだ。おまえは俺と一緒に、この世界の覇者に……)
*****
くそっ、完全に認識が甘かったと言わざるを得ない。
一ヶ月前に、いや、ほんのちょっと前にロワードに釘を刺されたのはこれだった。
俺の短所の話。
相手のことを舐めてかかるという、あの悪い癖だ。
俺はこの一ヶ月でそれをなにも直せていなかった。
反則と言っても、ここまで大っぴらにそう何回もやってこないだろうと、高を括った結果がこれだ。
ルクスは反則がばれた時のことなんか微塵も考えていない。
あらゆる手を尽くして、対戦相手である俺を壊すただそれだけを考えている悪魔だ。
とにかくこのままだとマズイ。
俺はガードを固めて丸まっていたのだが、ルクスはお構いなしに殴りつけてくる。
嫌らしい奴だ。人体の急所を心得てやがる。
打たれたら効く箇所を、確実にルクスは打ってくるのだ。
テンプル、リバー、ストマック、そして現代では禁止されている腎臓打ち。
これをガードの隙間を縫って的確にパンチを入れてくる。
とにかく今はなんとかしてこのラッシュから抜け出さなくてはならない。
俺は形振り構っていられないと、クリンチでルクスの猛攻を止めようとした。
「だめだロイムっ!」
バンディーニの声が響いたような気がする。
しかしそれどころではない俺は、必死でルクスにしがみ付き攻撃の手を止めようとするのだが、ルクスも押し返す形で左手を俺の顔に持って来た。
その瞬間、今度は右目に激痛が走った。
サミングだ!
サミングとは指で相手の目を抉る行為である。
ボクシンググローブは親指だけが解放されている為に、目潰しなどの際には
一応、フィッシング等にもサミングと言う用語はあり、これは決して反則ではないので誤解のないようにしておきたい。
しまったと思った時には遅かった。
こちらの世界は現代のグローブとは違ってすべての指が露出されている。
だから目潰しなどを行おうと思えば簡単にできるのだ。
しかも今回は、俺がクリンチをした状態からそれを嫌がっての行為の為、故意ではないと主張することもできる。完全にルクスの術中に嵌ってしまった。
俺は激痛に堪らず右目を手で押さえると、顔面に強い衝撃を受けてそのまま膝を突いてしまった。
そう、俺はルクスにダウンを取られたのだ。
くそ、くそっ! ボクシング技術では圧倒的に俺の方が上だったのに、またやってしまった。
もっと慎重に、ルクスのことを過小評価せずに戦っていればよかった。
しかし、そんなことを思っても後の祭りである。とにかく今はこのまま蹲って体力の回復に努めるんだ。
冷静になって考えてみれば、最初からそうすればよかったのだ。
こちらのルールにテンカウントはない。
だから、立ち上がれない振りをしていればテンカウント以上の回復時間を取れる。
倒れた相手への打撃は反則、だったらガードの上から打たれている時に、適当に倒れておけばよかった。
それなのに俺は、ダウンだけは取られまいとクリンチに逃げてしまった。
完全にドツボに嵌った状態、ルクスの思い通りの展開にされてしまったのだ。
経験だ、俺にはこちらの拳闘試合の経験が圧倒的に足りな過ぎる。
もっと、もっともっと、試合を熟さなくてはならない。
今俺が行っているのはボクシングではない、現代の安全に配慮された紳士的なスポーツではないのだ。
右目を押さえるとぬるっとした感触がする。瞼の内か外か、大量に出血しているようだ。
これはもう右目は使い物にならない、下手をしたらこのまま失明と言う可能性もあるかもしれない。
左目は大分よくなったけど、まだ少し霞む。
「ロイム、立てるか? 降参するか?」
レフェリーであるボンゴエが俺に問いかける。
俺はゆっくり立ち上がると、小さく首を振った。
右目から滴り落ちた血が地面にポタポタと水玉を作る。
右腕で血を拭うとファイティングポーズを取り、霞む左目でルクスのことを見据えた。
ボンゴエは、すぐには試合を再開せずに、俺達を中央に来させると注意をした。
「ルクス、目潰しは反則だぞ」
「ロイムが組みついて来たんです。あっちが反則でしょう、俺は無我夢中で引っぺがしただけですよ」
「だとしても指を開くなっ! 次やったら一発でおまえの反則負けだ! ロイムも組み付きや投げ技は禁止だ。気を付けるように」
ルクスは不満そうな声を漏らしている。
俺が返事をせずに頷くと試合が再開された。
目が霞む、ルクスの大まかな輪郭は見えるが、この感じだとパンチまでは見えないだろう。
俺はなんとか左目の回復を図ろうと考えた所で、ルクスがボソリと呟いた。
「おまえ、次も適当に倒れて回復しようと考えてるだろ」
「な? おまえ……」
「ははは、図星みたいだな。次倒れたらそのまま頭を踏み潰すぜ、くくく」
こいつならやりかねない。
見えはしないが、ルクスは今間違いなく、悪魔のような笑みを浮かべて俺のことを見ているに違いないと思った。
続く。