9話 網膜剥離
どこか異国の地で起こった戦争捕虜らしかった。
奴隷として各地を転々として来たカトルの母であったが、誰の子ともわからないカトルのことを宿し産んだ。そんなカトルのことをとても大切にしていたらしい。
しかし母が流行病に倒れてしまい、カトルは引き離されるようにして別の奴隷商の元へと連れて来られ、そして今の主人に買い取られたと言う。
「皆には黙っていて、お願いロイム」
カトルが身の上話を俺に聞かせたのはきっと、同情を誘う為だったのかもしれない。
しかし俺は、ものの見事にその誘いに乗ってしまった。
「うぅぅぅ、カトルおまえ、そんな小さい頃から苦労したんだなぁ」
「小さいって、ロイムと歳変わらないけどね」
「わかった、わかったよ。この事は俺とおまえ二人だけの秘密だ。それにしても今までよくバレなかったな」
マスタングに買われた時には、碌な身体検査も行われずにこの施設に放り込まれたと言うカトル。
意外にそこら辺は雑なんだな。
それにしても、カトルだってもうすぐ12歳だ。
子供は女子の方が成長が早いから、今まではなんとか誤魔化せたかもしれないけど。
今だってたまに妙な色気をだすなあと思っているくらいだ。思春期にもなれば体つきも女らしくなってきって……なってきて。
俺はカトルの真っ平らな胸板を見つめながら考え込む。
「まあ、ここはバレずに済みそうだな」
「な!? どこ見て言ってるのさっ! ロイムのばかっ!」
そう言うと真っ赤になりながらカトルは、俺の顔面に覚えたての右ストレートをぶち込んでくるのであった。
「どうして男の振りをして、拳闘士なんかやっているんだよ?」
殴られた頬を擦りながら尋ねると、カトルは膝を抱えこみ遠い目をする。
「強くなりたいんだ……。僕は、自分の手でお母さんを守ってあげられるくらいに強く」
「そうか……、でも検定試験の時には流石にバレるだろ」
「それまででいいんだ! お願いロイム。きみの知識を、技術を僕に教えてほしい。なんだってするから、僕は強くなれるのならなんだってするから!」
俺は腕組みをして考え込む。
俺が今まで培ってきた知識や技術をカトルに教えてやるのは構わない。
それによって皆が切磋琢磨して、競い合うことができるのならば。俺のボクシングを磨き上げるのに、より良い環境になるのは望ましい事だ。
しかし、それが果たしてカトルの為になるのかどうかはわからない。
もしも性別を偽っていたことがバレたら。
女性拳闘士なんて者が居るのかどうかはわからないけど、この施設では見たこともないし聞いたこともない。
マスタングがそれを許すかどうかもわからない。
それでも、カトルの真剣な目を見ていると、俺はその頼みを断ることができなかった。
次の日。
日の出前、俺は目覚めると朝のロードワークに出掛ける準備をする、軽いストレッチをしながら練習場まで来ると何人かの姿が見えた。
驚いたことにそれは、シタールを含んだジュニア組の連中で、一緒にロードワークに出ると言うのだ。
その中には、カトルの姿もあった。
とりあえず、カトルの性別のことは一旦忘れよう。
ここいる仲間達全員で、次にやってくる検定試験に合格するんだ。
俺はそう胸に誓うと皆の先頭に立ち、走り出すのであった。
*****
それから2週間。
「もう限界だぁぁぁぁ、飯食ったら寝るぞぉぉぉ」
ヘロヘロになったシタールが、文字通り這うようにして水場に向かっている。他の奴らも同様にフラフラしながら練習場を後にしていた。
最近は皆やる気が満ちていて良い。特にジュニア組は見違えるように成長しているように思う。
俺はもう少し汗を流そうと思いその場に残っていると、もう一人誰かが残っていた。
身長はそれほど高くないが、異常に肩幅が広く筋肉質な男。
そのずんぐりむっくりな体型で誰だかすぐにわかった。
ジョーンさんだ。
ジョーンさんは27歳のベテラン拳闘士だ。
拳闘士になってからもう10年にもなるらしい。
普通、7~8年も奴隷をやっていれば、自分を買い取れるくらいの稼ぎは出せる。そうやって皆、解放奴隷になれるまで主人の元でがんばるのだ。
奴隷と言っても、ちゃんと働けば給料や報酬は貰えるし、財産だって持てる。
まあ奴隷出身者は市民権を持てないので、土地などを買うことはできないが、それでも自由を手に入れることはできるのだ。
ジョーンさんは拳闘士としては、はっきり言って平凡な戦績だ。
この10年の戦績は、48戦21勝21KOらしい。
勝ったり負けたりを繰り返している。
それでも勝ちの全てがKO勝利と言うのは、やはりあの二の腕が物語っている。
丸太の様に太い腕、そしてどっしりとした下半身。彼は見た目通りパワータイプのインファイターだ。
俺はジョーンさんに近寄って行くと話しかけた。
「ジョーンさんもまだ練習して行くんですか?」
「お、ロイムか? 最近はすっかり優等生になったみたいで感心だな」
そう言いながらニカーっと笑うジョーンさん。
鼻は潰れて、瞼の上には傷の痕が深く刻まれている。典型的なボクサーの顔。
俺はそんなジョーンさんの顔が大好きだった。
「ははは、俺ももう歳だからな。少しでも悪あがきしないと、若い奴らには敵わない」
「なに言ってるんですか。ジョーンさんだってまだまだ若いじゃないですか」
言いながら俺は心の中で自分の言葉を否定する。
ボクサーにとって27歳とは決して若い年齢とは言えない。
ボクサー程、現役でいられる年齢の短い競技はそう多くないだろう。
それは、生物ならば決して抗うことのできない老いがあるからだ。
どんな競技にも言えることだが、身体能力の衰えは負けに直結するものである。
どんなにキャリアを積もうとも、身体がついていけなくなれば、アスリートは勝てなくなるのだ。
そして、それ以上にボクサーの選手生命を縮める要因がある。
それは、怪我による故障だ。
拳にはグローブを付けているとは言っても、堅い革でできたものだ。
その下にはバンテージとテーピングでガチガチに固めた石の様に硬い拳がある。
その拳で殴りあうのだ。
一歩間違えれば大怪我では済まない。
ボクシングとはそんな、常に死と隣り合わせの過酷な競技なのである。
ジョーンさんの顔、そして防御に使った腕や肩に刻まれた無数の傷痕を見て俺は思う。
この人が、10年間も拳闘士を続けてこられたのは奇跡に近い事なのだと。
「いやあ、最近はなんか目も霞んできてな。相手のパンチが見え難いものだから、より接近戦の打ち合いが多くて、老体には堪えるよ」
「え? 視力が落ちて来てるんですか?」
ジョーンさんの言葉に俺は一抹の不安を覚える。
そして、ジョーンさんがさっきからしている仕草がずっと気になっていた。
「ジョーンさん、さっきからなにをしているんですか?」
「ん? ああ。まったくこの季節は嫌だね。蚊が多くて、振り払っても振り払っても湧いてくるもんだから」
顔の前を手で払うジョーンさんの姿に俺は絶句した。
ここには蚊なんていない。蚊が湧くような藪や池だってないし。
これはもしかしたら、飛蚊症かもしれない。
ジョーンさんは、網膜剥離を患っている可能性が高かった。