第三話 ハットリさん、お願いを断れない
落ち込んでばかりもいられない。
私の仕事は忍者だけではないのだから。
主君より賜りしはドレイの身分。しかしてその実態は従業員のそれに近い。
朝の水汲みから始まり、各部屋のシーツ類の回収に掃除洗濯。
庭の木々のせん定の手伝いに、ゴミ出し。
騎士達の遣う用品の手入れに……
「ハットリー!」
姫君の見守りだ。
愛らしい少女、この館の姫君ことアインドラ様はこちらに向かい手を振っていた。
そのお声に応え手を振り返せば、花が咲いたような笑みを浮かべてくれる。
私の黒髪黒目が珍しいのか、彼女は私に多くの興味を持っていた。私も彼女を妹か娘のようにかわいがった。
命の恩人であり、大事な主君の娘なのだ。私が仕えるべき、もうお一人の主君と言い換えてもいいお方。
屈託のない笑みを決して濁らせまいと固く心に誓ったのは、忍者心だけではないだろう。
その彼女と仲のいい少年がいる。
この館の騎士の一人を父に持つ騎士見習いの少年だ。
二人の仲は大層良い。
そして二人のご両親も仲が宜しい。
これはいずれお二人は結婚するだろうなと言うのが、私のみならず館で働く者全員の見解だ。
そんな微笑ましさの溢れる光景から一転しての、夜である。
私の時間と言い換えてもいい。
忍者タイムとも呼べる闇で、私は一人の女性と向き合っていた。
「本気なの?」
一言、その女性は私に問う。
これは汚れ仕事であり、裏の稼業と呼ばれる後ろ暗い任務である、と。
そう忠告し、私を光の当たる場所へと戻そうとする女性は、かのメイド長である。
温厚で優しい領主様。
その血筋をまごうことなく受けている、優しき次期領主のご長男様。
民を守るのが貴族の役目と豪語して憚らない次期騎士団長候補のご次男様。
ドレイにさえ貴重な才である回復魔法を惜しげもなく使う、領家の華と名高き長女アインドラ様。我が姫君。
彼ら彼女らはこの領地の太陽だ。
明るく照らし、恵みを皆に与えてくれるなくてはならない存在。
しかし一方でこの世には闇が存在する。
そして闇を払うには強い光ではなく、同族の闇が必要となる。
それを一手に引き受けているのが、この女性、メイド長なのである。
アサシン。
闇を纏い、闇を操り、闇に潜み、闇を払う。
悪を持って悪徳を成す、人殺し。
それが彼女の裏の顔だった。
その彼女の問いかけに、私は静かに頷くのみだ。
彼女のやっている事はまさに忍者であり、呼び名が違えど忍者スピリッツがこう告げている。
「その仕事こそ、私の本懐である」
かくして私は彼女と意気投合を果たした。
しかし世の中、平和なものである。
この領地に限っては後ろ暗い者たちの暗躍はほぼない。
盗賊、山賊の類はおらず、小悪党はおれども成敗すべき大悪党はいない。裏のフィクサーはいるが、あくまでグレーゾーンを調停する立場にいる人物だった。悪徳に悪徳をぶつけ、落としどころを持って事態を丸く収める仲介人。
要するにその人物、メイド長と同じなのだ。
領主の人の好さにほれ込み、領地の平穏に一役買う人物。
裏世界のボスが領主一家の味方なのだから、この領地に害をなす悪は存在出来なかった。
そんな裏ボスである彼とも話が合った。
彼のお気に入りはご次男の方で、日々の武勇伝を肴に酒を煽るのが楽しみなのだそうだ。
いつしか私の夜は、彼らとの会議から会話へとなり、親しい友人同士の親睦会へと変わっていった。
そんな幸せな日々が続くある日――
「ハットリ! お出かけするわ!」
「はい……。はい?」
我らが姫が、妙な事を言い出した。
お出かけする。
ならばすればいいだろう。
我が主は他領へ会合に出かけており不在だが、何の問題もない。
姫君はカゴの中の鳥ではないし、我が主も姫君を閉じ込めておく気などさらさらないのだから。
だからそれは私にではなく、メイドの一人に指示を出せばいい。そうすれば確かな人員を確保し、安全の元優雅なお出かけが叶うのだから。
それをどうしていちドレイである私に言ったのか。メイドと勘違いしたのだろうか。
そう思った。
よって、私の口から出たのは間の抜けた返事だったのだが、それがよほどおかしかったのか、姫君は口に手を当てて笑い出した。
「ふ、ふふふ! ハットリって変ね!」
「は、はぁ。いやしかし、姫君がいきなりそのような事を言い出すからですよ」
「あら、私の所為だって言うの?」
「概ね、その通りかと……」
「あら、やだ。うふふふふ!」
箸が転がっても楽しい年ごろなのだろう。私が何かを言う度に姫君は愛らしい笑顔を向けてくれる。
私には日本、いや、あちらの世界に家族はおらず、当然の事ながら嫁も子もいない。
そう言う年齢ではあるが、忍者の辞め時を見失った私は同時にその機会も失っていた。
同僚は既に忍者を辞め、子供をもうけて幸せそうにしていたな、と日本の事を思い出す。
今は、この方こそが私の娘だ。これが家庭を、子を持つ幸せか、と思えば
「ハットリって最近お父様みたいな顔するのよね。不思議ね」
と、指摘されてしまった。
返す言葉もなく頬をかいていると、姫君はそんな私の虚を突いて真剣な表情となった。
これは猛烈にイヤな予感がする。
こういう時の姫君は、何か無茶な要求をしてくるのだ。
助けを求めるべく周囲を見回すが、人がいない。
人払いがされている。
姫君を見れば、それはどうやら彼女の作戦だったらしい。不敵な笑みを浮かべていた。
さすがは貴族だと、一本取られた思いで彼女の口からどんな話が飛び出るのか覚悟を決めた。
居住まいを正した私に、姫君は言う。
「私ね、森へ行ってみたいの!」
森。
それは動物の領域である。
危険溢れるその領域は、いかに姫君であってもそう易々と行く許可が下りない。
彼女も重々承知しているだろう。
しかし、何故彼女がそんなことを言い出したのか。
すぐにピンと来た。
「さては、ローウィン君が心配ですか?」
「う、うん……」
問えば、すぐさま素直な返事がかえってくる。
ローウィン君は騎士見習いの少年で、姫君の恋人である。
将来有望なローウィン君は今、騎士団に連れられて森の探索に出かけている。
騎士団は平和な世にあって精鋭ぞろいだから、ローウィン君に万が一はないだろう。しかしそれでも気になるのが少女の心と言う事か。
そしてどうしてそれを私に言ったのか。
「もしかして、他の者に内緒で連れ出して欲しいのですか?」
だろうな、と言う思いで問えば、顔を真っ赤にして頷く姫君。
いやはや、ここまで心配されるローウィン君は果報者だと思うと同時に、ほんの少しの危惧が湧く。
姫君、あなたちょっとストーカー気質ではありませんか?
騎士団の実力は十分。ローウィン君の実力もかなりのもの。
危険のない訓練だと姫君も分かっているのだろうに、待てない。だから会いに行きたい。
これは危ないのではないだろうか。
ローウィン君が姫様の尻に敷かれる光景が今から目に浮かぶ。
止めるべきか。
止めざるべきか。
チラリと姫君を見る。
もうそれだけで私の腹は決まってしまった。
顔を真っ赤にして上目遣い。服の裾を掴むそのお姿に、お願いを却下出来る父親などいようものか。
「指示には、従っていただきますよ?」
「ええ、分かっていますわ!」
こうして私は、第二の主君たる姫君を連れて森へと向かった。