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おハサミさま

 何年か前、家族を通して、ある男が訪ねてきた。その男、斉木ヒロユキは、自分の体験を作品にして世に広めて欲しいと訴えた。売れないながらも物書きをしていると、時々このような話が舞い込んでくる。

 彼の体験談は信じ難いものだったが、男には妙なカリスマがあった。私は彼の熱意に負けて、いずれ執筆し公開すると約束したまま、時が過ぎた。その彼がつい先日亡くなった。まだ若かったが、彼の凄まじい経験が心労となっていたのだろう。

 彼が死んだ今となっては、彼の体験がただの妄想だったと断じるのは容易い。だが私の家族を含め、今でも彼の信奉者は少なくない。私自身も最初は信奉者だったのだが、後に激しく対立することになった。私自身への戒めと読者への警告のため、ここに彼の物語を記そうと思う。妄想は伝染する。そして伝染した妄想は既に現実なのだ。



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 日が沈んでいく。西日が窓から差し込んでいる。窓から見える光景は初夏なのに、薄ら寒いと感じるのは、ここが病室だからだろう。

「仕事、忙しいのに悪いわね。一時間くらいお願いします」

「うん。ここは俺が見てるから。いってらっしゃい」

 俺は病室から出ていく叔母を見送ってから、ベッドに顔を向けた。そこには、頭と腕に包帯が巻かれた痛々しい姿の少女がいた。腕に点滴を受けたまま、かすかに寝息をたてている。中学二年生のいとこのアヤだ。

 見た目は痛々しいが、大怪我はしていない。脱水症状になっているが、明日には退院できる、そう叔母から聞いて、一安心したところだ。

 だが体はすぐに治っても、精神状態が心配だった。今日はアヤの中学の遠足で、その復路、クラス全員を乗せたバスが横転事故を起こして、アヤ以外は全員亡くなっていた。つい先週も大叔母―祖父の妹―が亡くなったばかりなのに、不幸が続く。

 椅子に座ってため息をつきながらネクタイを緩めて、再びベッドに顔を向けると、アヤと目が合った。

「え、起きてたのか?」

「ヒロにいちゃん、来てくれたんだね……。私、うぅ、みんなを殺しちゃった」

 アヤは俺を見ると、顔をくしゃくしゃに歪めて泣きだした。

「アヤちゃん、悲しい事故だったけど自分を責めることはないよ」

 かわいそうに。自分一人だけ生き残った事に罪悪感を感じているのか。

「違うの。私がおハサミさま使ったからなの。うぅ」

「まさかハサミを使って呪い殺したとでも?」

 そんなオカルト儀式が中学で流行っているのだろうか? それをたまたま事故の直前にやっていた?

 しばらくアヤは泣いていたが、やがて少し落ち着いたようで、ハサミについて語りだした。

「バスの中でシホ達にからかわれて、クラスのみんなまで笑いだしたの。それでむしゃくしゃして、みんなの糸を切ったの」

「糸?」

「おハサミさまの持ち主だけに見える糸。人の体から出てて、それをおハサミさまで切ると死んじゃう」

 そう言ってアヤは、ベッド脇のテーブルに置かれた彼女のカバンを弱々しく指さした。アヤの視線にうながされて、椅子から立ち上がると、俺はカバンを手に取った。

「これか」

 カバンをまさぐって、ハサミを取り出した。全長で十センチ程度の糸切りハサミ、いわゆる和ハサミだ。昔、母親が裁縫で和ハサミを使っていたのを覚えているが、今どきの子でも使うのだろうか?

 このハサミから禍々しさなど全く感じない。むしろ、その黒々とした金属の光沢は、俺には神聖な輝きに映る。

「呪いのハサミどころか、とても素敵なハサミじゃないか。俺は裁縫なんてしないけど、欲しいくらいだ」

 実際、俺は手にしているハサミの質感に魅入ってしまった。欲しい。所有欲がうずく。

「うん、私も初めて手にしたとき、すごく気に入ったんだよ。譲ってもらう時に忠告された事があるけど、そんなこと真に受けなかったし」

「忠告?」

「ハサミの持ち主は糸を毎日切らないといけないの。そうしないと裏側の世界に連れてかれちゃうって。最初は視覚から……」

「怖いこと言うね。どんな世界なんだ?」

「表の世界の人たちがぼやけていって、裏の世界の住民が見えるようになるの。私、昨日くらいから、もうお母さんの顔も友達の顔もよく分からない。だからバスの中でみんなにからかわれて」

「そんな……。俺の顔も、見分けつかないのか?」

「ううん。ヒロにいの顔だけははっきりと分かるよ。昨日から会った人の中でヒロにいだけは見分けがつく」

「なんで俺だけなのかな。ハハッ、この耳のせいかね」

 俺は苦笑いしながら右耳を触る。俺は子供の頃、自転車で転んで大怪我をした。その時、右耳のほとんどが欠けてしまった。耳介(じかい)―頭蓋から外に張り出している耳たぶや軟骨部分―が欠けているだけで音は聞こえる。子供時代にはコンプレックスだったが、社会人の今は気にしていない。

「とにかくさ。持ち主が代わったら、アヤちゃんの症状は治るかな?」

 もちろん裏側の世界や呪い殺人なんてあるはずかない。だけどアヤが信じている以上、今は話を合わせよう。アヤの罪悪感が生み出した妄想ならば、ハサミの譲渡によって治るかもしれない。

「分からない。でも私もう人を殺すなんてできないよ。だからヒロにいにもらって欲しい」

「わかった。譲渡の儀式みたいなのは必要なのか?」

「ううん。譲渡する人とされる人が合意すればいいみたい。そして約束を守ると言えばいいよ」

「そうか。毎日糸を切ると誓うよ。さあ、これでこのハサミは俺のものだ。アヤちゃん、何か変わったかい?」

 俺はハサミの所有感に高揚しているが、当たり前だが感覚の変化は全くない。アヤも変化はないようで、俺の問いに、小さく首を振っている。アヤの気持ちが少しは楽になるといいんだが。そう思いながらも、一方では、右手に取ったハサミをあちこち動かし、その光沢と質感を堪能する自分勝手な俺がいる。

 うん? 今ちらりと糸のようなものが見えた気がする。病室の照明の加減だろうか。ハサミを動かすたびに、見えたり見えなかったり。左手で、糸が見えた空間を行き来させるが、何も感触はない。やはり錯覚だろうと納得し、アヤに視線を移すと、ぎょっとした。

 アヤの右耳からかすかに糸が見えていた。その糸は俺に向かって伸びていて、俺の胸元近くで消えている。

「ヒロにい、見えているんでしょ」

 表情の消えたアヤが俺を見つめている。

「い、いや、光の加減―」

―コンコン

 話の途中でノック音がしてビクリとしたが、病室に入って来たのは、医者と二人の看護師だった。

「斉木さん、まだ痛むところはあるかな?」

 笑顔を浮かべた医者がアヤに話しかける。医者たちに囲まれたアヤは質問に答えずに、震えている。

「た…けて…た…」

 なんだ? アヤがおびえているのか?

「ヒロにい! みんな同じ、顔ナシだよぅ。連れていかれるよっ、助けてっヒロにい! イヤあぁ! 糸を切って!」

 上半身を起こしたアヤが腕を振り回しながら絶叫している。

「斉木さん、落ち着きなさい、オイッ、体を抑えて。鎮静剤を―」

 医者たちがアヤを落ち着かせようとするが、アヤは益々興奮して声を上げる。

「イヤ、触らないでっ、裏側の世界はイヤァ、ヒロにいっ、死なせて! 糸を切って! 糸を切って死なせてぇ!」

 錯乱しているアヤを俺は呆然となって見ていたが、右手に握っているハサミが温かくなっていることに気が付いた。ハサミがアヤの願いに応えようとしている? まさか。この温もりと、おぼろに見える糸は、アヤの妄想に当てられた俺の錯覚に違いない。今、俺がすべきは、アヤの願いに応えて、安心させることだ。

 だから俺は刃先に想像上の糸をのせて、切った。

―プツッ

 え? 何かを切った感触がある? 俺はハサミからアヤに視線を移す。

 アヤが白目を向いてベッドに倒れこんだ。意識がない。医者と看護師が慌てている。

「斉木さん、斉木さん!」
「先生、脈が取れませんっ」
「エピネフリン投与っ。パドル用意して」

 ウソだろ、なんで? 俺は蘇生処置をしている医者たちから後ずさり、そのまま踵を返して病室から逃げ出した。

 パニックになった俺はそのまま病院からも駆け出した。息が切れたところで少しは落ち着いて辺りを見回すと、病院から少し離れた川辺の遊歩道にいた。すでに日は沈んでいて、道行く人はいない。

 右手に和ハサミを握っていることに気がついた。まさかこのハサミのせいでアヤがあんなふうになったというのか?

「クソッ、なんなんだよっ」

 俺は目の前の川面に向かってハサミを投げ込んだ。川面は暗かったが、ハサミは小さな影となって、ポチャンと音を残して川中に確かに沈んだ。

「疲れた……」

 街灯の灯りの輪から外れた暗がりの中に、川に面したベンチを見つけた。重い体を引きずって、そこに座る。病院にアヤの安否を問い合わせようと思うが、確認するのが怖い。携帯電話と川面を交互に見ながらためらっていると、ブルブルと携帯が震えた。母親からのメールだった。

「ああぁ」

 うめき声が出た。メールにはアヤが亡くなったと記されていた。頭を抱えて、足元を見つめる。なんでなんでとうしてどうして……。いろんな考えが頭の中をぐるぐる回る。そのまま何分経ったのか、それとも何時間経ったのか―

―ピチャリ

 川の方から音がする。水音? 頭を上げて、前方を見るが、夜の帳の中では、川の形しかわからない。

―ピチャリ

 また水音がする。得体の知れない怖さを感じて、逃げようとして椅子から立ち上がる。だが、半立ちになった途端、膝の力が抜けて、椅子に倒れ込んだ。恐怖のせいか疲労のせいか、下半身に力が入らない。

―ピチャリ

 音が近づいている。前を見るのが怖い。両腕で頭を抱えて下を向く。震えながら地面だけを見つめる。

―ピチャリ、ピチャリ

 どんどん近づいている。すぐ前に何かがいる。身がすくんで動けない。固まった視線の先にある地面に何かが落ちた。水に濡れた黒い金属。それは川に投げ捨てたハサミだった。

 誰かが、何かが、川からハサミを拾い上げてここまで持ってきた? 初夏なのにヒヤリとした冷たい風が肌をなでる。

(イト…キッテ…)

 かすかに声が聞こえた。怖くて視線を向けることはできない。あっちへ行ってくれ、と祈りながら、地面のハサミだけを見つめ続けた。

 ふと気配が薄くなる。少し離れたところからピチャリと音がした。またさらに遠くから音がする。何モノかは遠ざかっていくようだった。恐る恐る、頭をあげた。

 暗い川面の上に、人型の(もや)が見える。見つめているうちにその靄は、闇に紛れて消えてしまった。

 逃げよう。今度はしっかりと椅子から立ち上がることができた。びくびくとしながら、ゆっくりと川辺から遠ざかる。緊張がほぐれたのを確認して駆け出した。人通りの多い幹線道路を目前にしてやっとひと息つく。

「ハァハァ」

 両手を膝について、荒れた息が収まっていくのを待つ。息と同時に気持ちも落ち着いたとこで、右手に違和感を感じた。

 ハサミを握っていた。

 ベンチから立ち上がる時に無意識に拾っていた?

「持ち主は捨てることもできないのか……」

 俺は絶望的な気持ちでハサミを見つめ続けた。



~~~~~~
 あの日から何日経っただろう。三日、一週間? 頭がぼうっとして時間の経過を自覚できない。まだ季節は夏だから一月は経っていないはずだ。

 あれ以来、俺は人気のない場所には怖くて居られない。一人暮らしのアパートに帰る気になれないし、会社も無断欠勤だ。二十四時間営業のファミレスや漫画喫茶で夜を過ごした。金銭的にも体力的にも、こんな生活は長く続かないのは判っている。

 ハサミを握って目を凝らすと、周りの人々の糸が見える。彼らの耳からでた糸は、俺の胸元まで伸びている。この糸を切れば、アヤみたいに死ぬのだろう。

 持ち主になるとき、毎日糸を切ると誓った。だけど、俺はその誓いを破った。自分の意思で人を殺すなど、できるはずがない。そして誓いを破った罰として俺の体は呪われた。

 俺はもう人間の顔が区別できない。男と女、大人と子供の区別がつかない。みな同じ顔に見える。目鼻口の輪郭がぼやけているのだ。さらに、昨日あたりから、声が聞こえにくくなってきた。いずれは……。

 そして、今まで見えなかったモノが見えるようになってきた。あの日見た人型の黒い(もや)のようなものも時々見かけるし、もっと輪郭がはっきりとした人間の霊、みたいなものも見える。怖くて近寄っていないが。

 絶望的な状況だが、それでも俺は、唯一残った希望を探して、昼間は人通りの多い街中をさまよっている。夏の暑さと寝不足でふらふらとしながらも、目鼻の輪郭の崩れた人々の群れに目を凝らし続ける。そうしてやっと―

 いた! 見つけた! 目鼻立ちの輪郭が俺にも認識できる人間がいた!

 その人は、季節外れのニット帽を被った二十歳(はたち)くらいの女性だった。歩道に置かれた写真と花束に、手を合わせている。写真にはランドセルを背負った少女が写っていた。彼女はしばらくすると顔を上げて、交差点の信号の真下辺りに視線を向けた。そのままその一点をずっと見ている。

 俺は彼女に向かって駆けだしたいのを我慢して、ゆっくりと近づいて声をかけた。

「あの、あそこに立っている女の子、見えるのですか?」

 そこには、写真と同じ少女の霊体がたたずんでいる。この女性にも見えるのだろうか?

 女性はぎょっとした顔つきでこちらをみた。

「いえ。見えません。でも、妹があそこにいるのを感じるんです。あなたはあの子が見えるのですか?」

「はい、見えます。でも嘘くさいですよね。すみません、急に話しかけて」

 俺はそう言ってから、女の子の霊に向けて手を合わせた。女の子の霊体は俺の方に顔を向けている。表情はないが、俺のことを認識しているようだ。

「信じます、信じますよ。あぁ、やっぱりユイはあそこに居るんですね。私の妄想じゃなかったんだ」

 彼女は俺の言葉を疑うどころか、食い入るように俺を見つめて、話を続ける。

「私にもユイが、妹が見えるようにならないでしょうか? 私が運転していたんです。私のせいなんです。顔を見て謝りたいの」

 彼女は悲痛な表情で俺に訴えてきた。妹を事故に巻き込んでしまった罪悪感に押し潰されている、そんな様子だった。

「もしかしたらできるかも」

 そう言って俺はハサミを取り出した。彼女に譲渡するつもりはない。譲渡せずとも見えるようになるんじゃないか、そんな予感がしたのだ。

 お互いに名前を名乗ってから、俺は、アヤのこと、ハサミのことを全て話した。彼女、桐原マキは、俺の荒唐無稽な話を、疑うどころか、真剣に聞いてくれた。

 話を終えてから、まずは、彼女にハサミを持たせてみたが、何も変化はなかった。思ったとおり、持ち主以外がハサミを手にしても糸や霊は見えない。だが、ハサミを持った俺の手を、マキが包みこむように握ると、彼女は嗚咽混じりの声を上げた。

「ああっ、ユイ、ユイちゃん、ゴメンね、ユイちゃん……」

 マキは、妹の名前を何度も叫びながら歩道から跳び出そうとする。俺はあわてて彼女を抱きとめた。

 妹の霊体が見えるようになったマキは、俺に抱きとめられながら、色々なことを妹に話しかけている。だが、話しかけられている少女の霊体の態度は変わらず、無表情のまま俺たちを見ている。

 意思疎通は無理かな、そう思ったとき、声が聞こえた。

(イト…キッテ…)

 かすかな声だが、道行く自動車の喧騒の中でも確かに聞こえた。

「糸を切って、ユイちゃんがそう言ってます」

「ユイの頭から出て、斉木さんにつながっている糸のことでしょうか?」

「そうだと思います。だけど―」

 人を呪い殺すハサミなのだ。霊体の糸を切ったらどうなってしまうか。そうした懸念を彼女に説明した。すると彼女はしばらく考え込んでから言った。

「もしかしたら、呪いのハサミじゃないのかも」

「どういうことです?」

「糸を切ることをユイが望んでるんです。このハサミって、地縛霊となったユイのような人たちを成仏(じょうぶつ)させる法具なんじゃないでしょうか」

「成仏……」

 考えたことはなかった。ユイちゃんは地縛霊になっている? 確かにあの場所から全く動かない。時々見かける霊体も、動かないものがほとんどだった。

「斉木さんは、呪われているんじゃない。おハサミさまの御使(みつか)いとして選ばれたんですよ」

「そんなこと―」

 そんなことあるわけない、そう言いかけて、不意に気持ちが高ぶる。あの日以来、俺はずっと怯えていた。孤独だった。おハサミさまとの約束を破った罰として、日々、呪いの力が強まっていく。近いうちに、俺は耐えられなくなって自死するか気が狂うだろう、そう予感していた。

 だけど、視覚や聴覚が変異していくのは罰じゃなかったとしたら? 特別な使命を託された体に作り変えられていく、それこそが神の祝福だとしたら? 俺が選ばれた御使いだとしたら?

 俺の思いに応えるように手の中のハサミが温かくなる。

「うぅ、これ、呪いのハサミじゃないのか、ああっ」

 俺は感極まって声を上げて泣き出してしまった。

「成仏させてください。ユイはこの場所に縛られているんです」

 マキも涙を流しながら俺の手を強く握る。

「お願いします」

 そう言ってマキは、俺から手を離した。霊体が見えなくなったマキは、妹の方を向いて、両手を合わせて何かをつぶやいている。

 俺は刃先に糸をのせた。本当にいいのか? 俺は祈る気持ちで、ハサミを握った。

 プツリ、と確かな感触を残して糸が切れた。ユイちゃんの霊体は希薄になって、やがて虚空に消えた。

(アリ…ガト…)

 ユイちゃんの声が聞こえた気がした。これで良かったんだ。おれは生きていていいんだ。ほっとして体の力が抜けていく。

「存在が感じられなくなりました。成仏したんですね。ありがとうございます」

 そう言ってから、マキは黙祷した。しばらく二人で黙祷してから、マキが話しかけてきた。

「亡くした家族の霊を感じるのって、私だけじゃないんです。遺族会で知り合った方が何人かいます。周りの人たちからは妄想だと言われて、二重に苦しんでいます。斉木さん、助けてもらえないでしょうか」

 これが俺の使命なのだろう。これまでの迷いと苦しみから開放された俺は、マキに向かって頷いた。



~~~~~~
 うまくいかなかった。あれからマキと共に、二人の遺族と会った。二回とも、彼らが存在を感じると言って示した場所に、霊体は見えなかった。俺はマキ以外の人間の顔の見分けがつかない。そのせいかもしれないとマキと話し合った。

 そして今、三人目の相田タダシさん、彼が指さす方向にも、やはり霊体は見えない。ここは一軒家で、タダシさんの自宅の寝室だ。彼が留守中、強盗に押し入られて家族が殺された、その現場だった。

「私のこの右手を両手で包むように握ってください」

 タダシさんはハサミを持つ俺の手を握った。そうしても、彼にも俺にも霊は見えるようにならなかった。

「見えない……。だけど、私には感じられるんです。あそこに、妻と娘がいるんです。絶対にあそこにいるんです。感じるんですよ。マナミ! ヒナ!」

 タダシさんが悲痛な声をあげて、俺にすがりつく。その表情は分からない。俺には、彼の目鼻の輪郭がぼやけているからだ。

「私には妻と娘が全てなんです。仕事も財産も、あの二人がいなきゃ意味がないんです。何でも、何でも差し上げますから、どうにかなりませんか」

 俺とマキは目を合わせた。今回もうまくいかなかった場合、俺自身は乗り気ではないが、マキは一つの提案をすることになっていた。俺は、しばらくためらってからマキに頷くと、マキはタダシさんに向きあって言葉をかけた。

「方法はあると思います。私と斉木さんには共通点があります。相田さんも『そうなったら見える』ようになるかもしれません」

 そう言ってマキは、深めにかぶっていたニット帽を脱いだ。マキの左耳があらわになる。ひどい火傷の跡で、耳介部分が潰れている。

 俺とマキの共通点、おれは右耳、マキは左耳だが、耳、正確には耳介部分がほとんどなくなっていることだった。マキの耳は、父親からの虐待とだけ聞いている。

「耳、ですか……」

 タダシさんがつぶやく。その表情は俺には見えないが呆然とした様子が伝わる。

「斉木さんが、私以外の顔を見分けられなくなっていることはお話ししましたよね。斉木さんと私の共通点は片耳がないことです。だから相田さんが片耳を失えば、斉木さんは、相田さんと、そのご家族が見えるようになると思うんです」

 そしてマキは彼女のカバンから、ハサミを取り出した。刃渡り十五センチ、全長で三十センチ近くもある大型の肉切りハサミ。彼女は、その持ち手をタダシさんに優しく握らせて言った。

「奥さまと娘さんのために全てを捧げる覚悟があるのなら、試してみませんか」

「あ、あ」

 タダシさんは応とも否とも判じられないつぶやきをもらす。彼の反応に構わず、マキは肉切りハサミを持つタダシさんの右手を握って、彼の右耳に誘導した。一対の刃の間に耳が収まる。

「さあ、おハサミさまにお願いしましょうね。相田さん、あなた自身でちゃんと言葉にしないといけませんよ」

 マキは優しくも断固たる口調でタダシさんに迫る。

「今ためらったら、二度とおハサミさまに声が届きませんよ」

 タダシさんが頷いた。その表情は見えないが、覚悟を決めたようだった。

「お、おハサミさま、おハサミさま。どうかマナミとヒナに会わせてください」

 そう言ってタダシさんは右手に力を込めた。

―ザクリ

 耳を切り落とす音がはっきりと響いた。ボタボタと血が流れ落ちる。

「ぐうあぁ」

 タダシさんが大きな呻き声をあげる。そして彼の顔は『苦悶に満ちていた』。そう、俺は今、タダシさんの目鼻口、その表情がはっきりと分かる。そして俺は視線を寝室に移した。

「見えますよっ。相田さんの顔がよく見えます。そして二人の霊体も!」

 俺がそう言うと、タダシさんは、止血処置をしようとするマキに構わず、ハサミを持つ俺の手を握る。

「ああっ! マナミ、ヒナっ」

 タダシさんにも、二人の霊体が見えたようだった。

 タダシさんは、マキの時と同じく、しばらく霊体に話しかけた後、俺に霊たちの糸を切るよう頼んできた。俺がマナミさんとヒナちゃんの糸を切ると二人の霊体はふうっと虚空に消えた。

「相田さん、おハサミさまと斉木さんのおかげで、お二人はちゃんと成仏できましたね。良かったです。これからは私と一緒に、斉木さんを支えていきませんか?」

 マキの提案にタダシさんはためらわずに頷いた。

「もちろんです。私たちで斉木さんを支えて、おハサミさまの教えを広めていきましょう! 遺族会だけでなく、全国にも苦しんでいる方は沢山いますから」

 ありがたい。本当にありがたいことだ。マキに続く二人目の仲間ができた。俺一人では社会生活が厳しい。最近は、顔だけでなく、話し声にも雑音が混じり始めている。近い将来、もう普通の人とはコミニュケーションができなくなる。そんな俺を二人は支えてくれる。俺には生きていける道がある。ありがたい!



~~~~~~
 相田タダシさんは建築会社を経営していて、人脈も豊富だった。話を広める手段は口コミだけだし、胡散臭い話なのに、タダシさんを通して、多くの人を紹介された。俺の話を信じてはくれても、耳を切るまでの覚悟のある人はさすがに少ない。それでも、一人、また一人と、自ら耳を切ってまで仲間となる人が増えていった。

 あれから何年経ったろうか。半年前に俺とマキは結婚している。その頃には文字も判別できなくなっていた俺は、全ての社会生活を、マキと仲間たちに頼っている。俺ができるのは、霊たちの糸を切って成仏させることだけだ。

 俺たちの霊体成仏の活動は、口コミだけで宣伝はしていないのに、いつの間にかマスコミの網にかかったようで、大変な騒ぎになっている。それでも俺の生活は充実している。仲間がいる。そして苦しんでいる人たちを助けることができるのだ。他人からは気違い沙汰に見えようとも、苦しんでいる当人は救われるのだ。

 そして今日、マキから嬉しい報告があった。マキが妊娠した。俺たちの子供ができる! 俺たちは、マスコミやネットで、カルト教団だの、狂信者だの、詐欺師だの、さんざん蔑まれてきたし、家族や親族からはとっくに縁を切られている。そんな俺にも家族ができる。さらに、人数は少ないが俺たちを祝福してくれる仲間もいる。どんなに嬉しいことか。

 些細な事だが、一つだけ悩みがある。俺が事故で失ったのは右耳だ。彼女は左耳がつぶれている。さて、生まれてくる俺たちの子供には、どう「処置」したものだろうか? 俺がそう問うと、彼女は笑いながら言った。

「いっそ両耳を切り落としましょうよ」




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 斉木ヒロユキとマキの子供は、数年に渡る裁判の後、やっと児童虐待と認められ、親権が剥奪された。私は、怒りと後悔で、斉木ヒロユキの物語をこれ以上書くことができない。もっと早く彼らを止めていれば―

 私は窓から、我が家の小さな庭で一人遊びをしている五歳の孫を見る。彼女は季節外れのニット帽をかぶり、その小さな右手は、黒々とした光沢を持つ和ハサミを握っていた。

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