第2話 ガート・ネローVS
猫の耳を生やした女の子は、アンドレが気づくことなく背後に回っていた。テンションが高いのか、生えている尻尾を左右に動かしている。
「……いつ背後をとった?」
「なーに。隙だらけだったからやってみただけにゃ」
猫の耳を生やした女の子は、大したことのないように話す。とても軽く、出来て当たり前のような口調で。
アンドレの心中は、戦場で背後を取られた屈辱感で包まれていた。
「ボクは、冥府の八柱が五、ガート・ネロー。よろしくね」
「私はアンドレだ。よろしく」
アンドレが言い終わると、その場から一瞬でネローの姿が消える。
正確には、とてつもなく速い動きで、アンドレの視界から一瞬で消え去った。
そして、ネローはこの大きな部屋の中を高速で動きまくっているため、普通はネローの動きに目でついていくだけで精一杯である。
「……なかなか速いな」
「まーね。スピードだけなら、ディストピアの下僕でボクより速いやつなんていないよ」
アンドレが呟くと、どこからともなくネローの声が聞こえてくる。
高速で動きながら話しているので、多少聞き取り辛い筈だが、アンドレにはハッキリと聞こえてきた。
「腕もーらい」
直後に、ネローはアンドレの腕を鋭利な爪で切り裂く。
ずば抜けたスピードで敵を圧倒し、部位を削っていく。ネローの基本戦闘パターンである。
すると、ガキンと金属同士を打ち付けたような音が鳴り響いた。
「にゃ?」
確実に切り裂いた筈が、アンドレは全くダメージを受けていない。
ネローは自分の爪を見ると、所々ヒビが入っており、指からは血が流れている。
これまで何匹もの敵を切り裂いてきたネローだが、このような事態は初めてだった。
結果的に、攻撃したのはネローだがダメージを受けたのもネローである。
「なかなかの攻撃。そしてスピードだ」
混乱の中にいるネローに向かって、アンドレは賞賛の言葉を口にする。
「……そりゃーどうも」
だがアンドレのその余裕を感じさせる態度は、ネローにとって少し気に障るものだった。
今度は、腕のような部位的な所でなく心臓や首など、致命傷を負わせる部分に狙いを定める。
さっきのように動き回ることはなく、一直線にアンドレの心臓目掛けて、爪を突き刺すような形で突っ込む。
「つまらん」
アンドレは、一直線に突っ込んできたネローを容赦なく叩き落とした。
ネローの体は、とてつもない力で床に叩きつけられる。
ギリギリ受け身が間に合ったが、ネローの体はかなりのダメージを受けていた。
「いい加減本気を出せ。舐めているのか?」
アンドレは、ネローの頭を掴み自分の顔の前に持ってきて、怒りのこもったような声で言う。
ネローの猫耳がピクッと動くと、アンドレの手を振りほどき、少し距離をとった。
「自分も本気を出してないくせに、よく言うにゃ」
「お前が本気を出すに値しないからだ。だが、お前は違うだろう?」
「……」
ネローはわかりやすく舌打ちすると、両足で立っている状態から四つん這いのような体勢になった。
シャーと威嚇の声をあげると、尻尾をバタンバタンと振りながら、牙をむきだしにしている。
「……やはりワーキャットか。面白い」
「苦痛まみれで殺してやる。ディストピアに足を踏み入れたことを後悔させてやるにゃ」
「ダークバレット!」
アンドレがダークバレットをネローに向かって撃ち込むと、ネローはさっきとは比べ物にならないスピードで躱しながら距離を詰める。
「――グゥ!」
ネローは叩き落とそうとしてくるアンドレの腕を躱し、今度は腕でなく首を攻撃対象に噛み付いた。
だが、アンドレの首の皮膚はまるでタイヤのゴムでも噛んだかのような感触で、牙が貫通したような手応えは全くない。
そして、アンドレもいつまでも噛まれてるわけでもないので、当然反撃される。
「そうだ、それでいい。少しは楽しめそうだ」
抱きつくような形で張り付いているネローの尻尾をアンドレは掴むと、驚異的な腕力で引き剥がし、そのまま、またしても床に叩きつける。
更に掴んだままの尻尾を引き戻し、体を回転させ勢いをつけて投げ飛ばした。
「ぎにゃっ!」
かなりの勢いで壁に激突したネローは、口から血を吐きその場に崩れ落ちる。
壁には大きなヒビが入っており、激突時の衝撃の大きさを顕著に表していた。
「もう終わりか?」
アンドレは、追撃を加えようと倒れ伏しているネローに近づく。
荒々しい足取りで、ネローに吸い込まれるように歩いていた。
ピクリとも動かないネローに向かって、とどめの一撃を放とうとした刹那、アンドレは予想に反した攻撃を受ける。
「さっきから不用意に間合いに入りすぎにゃんだよテメー!」
予想に反した攻撃とはネローの飛び膝蹴りだった。
うつ伏せの状態からの急加速によって、明らかに油断していたアンドレは躱すことはおろか、反応すらすることも出来なかった。
アンドレはネローの飛び膝蹴りを、顔面にまともに食らうことになる。
「――お返しだ!」
だが、まともに食らったからと言ってダメージがある訳では無い。
アンドレは殆ど怯むこともなく、ネローの後頭部を鷲掴みにして、強引に膝蹴りをする。
痛々しい音が部屋中に響き渡った。
「もう終わりか?」
「……まだ」
ネローが答えると、アンドレはネローの足をつかみ、思いっきり握り潰す。
最初に骨が折れる音が聞こえ、次に骨が砕ける音が聞こえてきた。
「――グゥゥッ!」
ネローはソプラノで刺すような悲鳴を上げる。
アンドレが足から手を離すと、ネローは距離をとろうと、必死で上半身を使いながら移動した。
足が破壊された以上、ネローの専売特許であるスピードが封じられ、勝率がガクンと下がるのは明確である。
「……終わりだな」
アンドレはネローに背を向け、階段を上ろうと一歩踏み出す。
すると、後ろからネローの微かな声が聞こえてきた。
「問題にゃい……」
アンドレが振り向くと、ネローは立ち上がっていた。
夢遊病者のように立ち上がり、片方の足が破壊されているためか、上体をふらつかせている。
体中から血を滲ませ、満身創痍という言葉がぴったりの光景だった。
だが、ネローは未だ戦うことを止めない。
ネローの役目は、上の階で待つ冥府の八柱の仲間の為に、アンドレに少しでもダメージを与えておくことだった。
ないしは、自分たちの創造主であるアルフスのことを思えば、ネローの身体は喜んで奮闘する。
ネローに立ち上がる力を与えたのも、アルフスへの圧倒的忠誠心の賜物である。
「見事だ、ガート・ネロー」
アンドレはネローの方に振り向くと、大きく反動をつけ、フルパワーで拳を放つ。
放った拳は、フラフラと立っているネローの腹部を完璧に捉え、貫いた。
直後にその傷口から、勢いよく血が吹き出す。
アンドレはネローの返り血を全身に浴びた。
異常とも言えるその出血量は、アンドレの体を真っ赤に染め上げる。
「……アルフス……様ぁ」
ネローは、そう言うと力なく倒れ、アンドレの手からスルリと抜けていく。
ビチャっと血溜りの中に崩れ落ちると、服に血がジワジワと染み込む。
ネローは、そのまま音もなく死んでいった。
「手強いな……これほどのレベルとは」
アンドレはひと息つくと、独り言を漏らす。
自分が想定していた強さを、遥かに超えられた状況であった。
敵を見くびり過ぎていたことを少し後悔し、褌を締め直した。
「……何だ?」
だが、そんなアンドレを横目に異変がおこる。アンドレの腕に、急に激痛が走ったのだ。
反射的に、血で真っ赤に染まった自分の手を見つめる。
勿論激痛が走るほどの怪我はしていない。
となると、答えは一つだった。
「毒か。それもかなりの」
アンドレは一つの結論に辿り着く。
ネローの血はとてつもない猛毒であった。
アンドレのレベルになると少しなら耐えられるが、他の生物、伝説級の魔獣でも即死するほどの強さである。
しかし、このまま何もしないでいるとアンドレと言えども死の危険があるだろう。
「グレートヒーリング」
アンドレは、一日に十回しか使えないゴッドマジックを使う。
ゴッドマジックとは魔法の中でも最上級のレベルであり、連発はそうそう出来ない。
アンドレでさえ、二発連続で撃つのが精一杯である。
そのゴッドマジックをこんな序盤で使ってしまったのは、アンドレにとっても少し誤算であった。
「わざと攻撃を食らって血をばらまいたのか……一杯食わされたな」
アンドレは、ネローの作戦に感嘆の念を禁じ得ない。
ネローが、アンドレほどの者にダメージを与えるとなると、あれくらいしか策が無かったのだろう。
それを実行するほどの忠誠心を、アンドレは想定していなかったのだ。
「フフ、心躍るな」
アンドレは、かつてない強敵との戦いに、胸を膨らませながら三階への階段を上る。
上った先に居たのは、巨大な一匹のドラゴンだった。