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ここは、18世紀半ばの大英帝国の薄暗い路地裏。
まだ、陽も上がらない午前浅く、10代と思われる青年は
その日、酔った窃盗団の頭領が忘れていった皮袋を手にしていた。
半年くらい前から、3つ年下の彼の妹は体調を崩しており、
原因はわからないが、死んでしまうのではないかと心配だった。
乞食同然の彼、ライアンに助ける方法が無かった。
だが、頭領の皮袋には山のような宝石が入っていた。

ライアンはこんな生活から抜け出したかった。
自分が無理でも、せめて妹だけはまともな生活をさせてやりたかった。
このチャンスに、妹を腕のいい医者に見せてやりたかったが、代金が
宝石では明らかに怪しい。だから闇の医者を探していた。

高級住宅街の一角を妹を背負って歩いていた。
「こんなにも軽くなるなんて、」
妹の病気が心配だった。
自分たちの住んでいる、汚泥と糞尿にまみれた街と
ここはなぜこれほどまでに違うのだろうか。
日曜日の教会で、憎きブルジョアと叫ぶ
神父の言葉が、肌に凍みる。

10月のマンチェスターは、夜明け前という事もあって、
凍えるような寒さだ。ライアンの着ている、穴だらけの
薄いシャツとぼろぼろの半ズボンで耐えるには
かなりの忍耐を要する。
それは妹も同じだろう。

15分ほど歩き続けると、目的の闇の医者が見えてきた。
これだけの宝石があれば、ずっと暮らしていけるだろう。
妹を置いていくのは心苦しいが、自分が盗賊団に捕まれば、
妹も見せしめに殺されるだろう。
闇医者とて鬼ではないだろう、これだけの報酬を払えば大丈夫なはずだ。
そう思い決意を固め叫んだ。

「夜分すみません、開けてください、ドアを開けてください。」

アデルは早朝、外で物音がするような気がして起きた。
寒さで乾燥した空気が絡みつき、喉がひりつく様だ。
ベッドの脇においてある陶器製の水差しから、陶器のコップに
水を注ぐと、流し込むように飲み込んだ。
のどの痛みは少しましになったようだ。

元々、ユダヤ人貧民街ゲットーで、塵を拾って暮らしていたが、
この家の主のガブリエルに、治療をしてもらったとき、
支払えるお金も無く、おそらく主である医者が同情したのだろう、
幸運なことにゲットーの外の医者の家で住み込みで、
現在は、看護婦のような仕事をしている。

ユダヤ人がこんなところに暮らしているのは重大なリスクだ。
大英帝国ではユダヤ人への差別も少なく、寛大なほうだ。
これがフランスやスペインならいつ殺されてもおかしくない。
2階にある自室の窓を開けてみると、ドアの前にボロボロの服を着た
乞食にしか見えない兄妹が座り込んで、大声で必死に叫んでいた。

そもそもここに来るのは、同胞の富裕層か、
こういう馬鹿な勘違いか訳ありの貧乏人だ。
どうせお金など持っていないだろう。
どう追い返そうか思案をめぐらせながら、ランプに灯を点すと、
アデルは、部屋のドアを開け廊下に出た、そして階段を降りて行った。

ドア越しに話しかけることにした。まずは代金の確認だ。
そう考え、「お代はお支払いいただけるのでしょうか?」
アデルはお金は持っていなさそうだなと思いながら返事を待った。
「救貧院か教会にいかれてはどうですか?」そう言うと、

青年はやつれてボロボロの少女を抱えて必死に声を絞り上げた。
「お、お金はありません。」

(ああ、そう)しかし叫ばれるのは迷惑だ。
この類は、学習能力も無く叫ぶだろう。
しかも、少女が死んだら恨みそうだ。困った。
ドアの中ほどにある覗き穴をじっと覗きながら
アデルは兄妹の様子を注視していた。

すると青年は、アデルが想定していない言葉を吐いた。

「あ、あのう、宝石ではダメでしょうか?おそらく
ダイヤモンド、それにルビー、サファイヤ。」
青年は怯えながらそう言った。

「えっ!」
さすがのアデルも驚いて思わず、声を出してしまった。
動揺を悟られないように口に手を当て、深呼吸をする。
金持ちやユダヤ人ならともかく、こんな浮浪者が
闇医者に宝石を持ってくる。ただ事ではない。

反応の無いアデルに向かって、青年は何かを悟ったらしく
こう付け加えた。
「知人に宝石商がいまして、財産を持ち運びできるように
宝石に交換して、ウェールズからマンチェスターに出てきたんです。」
ライアンもこんな嘘が通用するとはまったく思っていなかった。
だが妹を助けたい。「お願いします。」意識が遠のき
体が崩れ落ちる瞬間、ドアの鍵が開く音を、聞いた気がした。

アデルはいぶがった。なんて馬鹿な男だい。
盗品だと言っているようなモンだよ。
なんで、こんなに宝石を持っているんだい。
不自然だねえ。放って置くわけには行かないねえ。

アデルは一大決心をした。すごい演技をするぞと気合を入れた。
できるだけ、慈愛に満ちて心配する、優しいお姉さんに見えるように。
「そうだねえ、まあいいわ。どんとまかせな。」
「いま先生を呼んであげる。」
ドアを開けると、喜んだその兄妹をそそくさと招きいれた。
絶対に逃がさないように。

「先生、先生、急患です。」アデルは家中の人間に聞こえるように、
大声で叫んだ。アデルとしては銅鑼でも鳴らして回りたい気分だ。
寝ぼけた使用人や同僚の看護を仕事とするものが、
いっせいに起きて来た。
「なんだ、なんだ、うるさいな。」
アデルの主でありラビであるガブリエルは不機嫌そうだ。
しかし、アデルが無意味にこんなことをする馬鹿でないことや
いたずらをする人間でないことも知っていた。

ガブリエルはバケツに頭を突っ込むと10秒ほど息を止め
顔ををあげた。鼻から水が入り込みむせた。
タオルを取って顔と頭を拭くと、寒さが身に浸みた。
だが、かなり頭ははっきりしてきた。

アデルは寝ぼけた使用人に兄妹を案内するように言うと、
ガブリエルに青年から受け取った皮袋の中身を見せた。
何事かと思っていたが、ガブリエルも心臓が止まるかと思った。
信じられないほど大量の宝石だ。
「どうやって・・・手に入れたんだ。」
ガブリエルも思わずうめいていた。

アデルとガブリエルは気持ちを切り替え、青年から
できるだけ多くの情報を聞きだすことにした。

ガブリエルは心配そうに患者を診ると、深刻そうに言った。
「かなりの重病だ。栄養状態のよいところで、
長期間休養すれば命は助かるが、今までのような生活を続けるなら、
確実に命を落とすだろう。」

青年は言った。「代金は宝石で払います。」

「ウム、わかった。」そういうとガブリエルは考え込んだ。

アデルは妹に話しかけた。
「おじょうちゃん名前はなんていうの?」

「グレースだよ。グレース・マクレガー。」
妹の答えを聞いた青年は仕方なく名乗った。

「お、俺は、ライアン・マクレガーといいます。」

「私としても救える命を救えないのはつらい、
だがこれだけの宝石を君が持っている理由を知らなければ、
受け取ることはできない。」

医者は暗に出所を言わないと妹を見捨てると言っているのだ。

「先生 宝石商の知り合いがいるらしく・・・」

「黙りたまえ、アデル君。」わざとらしい医者とアデルの
掛け合い。

「ライアン君、君はこの宝石が何ポンドに相当するかわかるかね?」

ライアンは答えられなかった。

「もし盗品だと言うなら、私は君を突き出さねばならない。
だが、君が正直に話してくれるのなら、グレースの身柄は保証しよう。
我が家で、治療が終われば、我が家に住み込みで働かせてもよい。」

ライアンは騙されているのではないかと思ったが、
妹の命がかかっている。必死に頭を回転させていた。

「私も、治療費が払えない乞食だったんだよ。毎日塵をあさってさ。」
グレースが 「それ、ほんとう?」と無邪気に尋ねた。
「私の出身は ゲットーだよ。」

ライアンは理解した。ゲットーは貧民窟の中の貧民窟。
アデルの言うことが本当なら、妹は助けてもらえるだろう。

「アデルさん ゲットーのどこに住んでいました?」
ライアンはアデルの答えを聞き、
アデルがゲットーの貧民出身であることが理解できた。

それを確認したのかガブリエルが優しく言った。

「君が直接、殺して盗ったというならともかく、
拾ったとか、盗んだと言うだけなら、見逃そう。」

ライアンはなけなしの勇気を払い、本当のことを話した。
すると、
ガブリエルは、宝石をすべておいていくことを条件に、
ライアンに服や銀貨を渡して、別の街のゲットーへ行くように言った。

「すぐに逃げたほうがいい。妹さんのことは
私が命に代えても守る。」
ガブリエルはそういうとアデルに案内を指示した。

ライアンは深々と頭を下げ、心からお礼を言った。
ガブリエルは少女をベッドに寝かせ、看護の人に体を拭く様に指示していた。

ガブリエルは蒼白な顔をアデルに向けると
今すぐゲットーの反ユダヤ主義レジスタントの活動拠点に行くように
言った。

アデルは事態を良く飲み込めずにいたが、緊急であるのはわかった。
ライアンを引きつれ、早朝の街に飛び出していった。
(逃げるかも、いや、妹がいる。あれだけの宝石を盗めば
法律的にも死刑だ。盗賊一味に見つかれば、拷問をずっと
受けるだろう。それでも盗んだのは、妹は大切なのだろう)
アデルはそう判断し、ゲットーに走りこんだ。

事情をライアンから聞いたレジスタンス活動の男は言った。

「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」
それを聞くと大慌てで、2人の男が別々の方向へ飛び出していった。

「これだけの量の宝石がカルテルに見咎められぬとはな、くっ。」
男は歯軋りし、吐き捨てた。
「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」
今度は、その男ともう2人が外に走り出した。
全速力で走っているのだろう、見る見る姿が小さくなる。

「はぁ、どうするんだろうね。」
アデルはため息をつきながら、立ち尽くしていた。



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