第十七話 結花の決意
午後5時50分。
(もう帰っちゃったかな?)
圭子とのチョコレート作りが終った後、やはり模擬戦の行方が心配になり、結花はプラクティスグラウンドへ足を向けていた。
イーロンの授業にMPG実習は必須科目だったので、結花も搭乗は出来た。しかしイーロンにも得手不得手はあり、原理やメカニズムへの理解は常人のそれを大きく超えていたが、操縦自体は一番の苦手科目だった。
よって、結花にとっての模擬戦は、中距離レンジからのペイント弾の打ち合い程度でしかなく、教官も適性を見てそれ以上の事は求めなかったので、格納庫へ足を踏み入れた時の驚きようは、まるで普通の女子高校生のそれと同じだった。
「なに……これ?」
激しく損傷した2機のシェムカを見た瞬間、まだ兄は帰らずに居るだろうか?から、大怪我をしているのではないだろうか?へと、頭の中でアラームがけたたましく鳴る。
結花は居てもたってもいられず、機体が積載されているトレーラの傍らの保に声を掛けた。
「あ、あの!これに乗ってた人たちは、今どこにいるか知ってますか!?」
突然大声で背後から声を掛けられた保は、驚いて手に持っていた端末を落としそうになる。
「わぁっっとぉ……! なんだよ!びっくりさせんじゃ……あれ? 祥吾の妹?……」
「あ……保さん……お兄ちゃんは大丈夫だったんですか!?」
校内では服部さんと呼んでいる保の事を、保さんと呼び、祥吾をお兄ちゃんと呼んでしまった結花は、気が動転してそんな事にも気が付いていない。
保は、「あいつならピンピンしてるよ。上にまだ居るんじゃねえかな?」と、あきれた様に言い、「それよりも結花、これ見てくれよ!ひでえ……」と続けてシェムカに向き直り、大仰に手を振って愚痴をこぼそうとしたが、その時には既に結花は階段を駆け上がっていた。
「だろ……あれ? 行っちゃったよ……」
コントロールルームにはまだ灯りが灯っていた。その灯りで動悸が少し落ち着いた結花は、何故か室内を窺うように、ドアの窓越しにそっと祥吾の姿を探した。
祥吾は正面の複数のモニターに映し出されている映像を見ているようだった。多分、母親から色々説教される前に、言い訳とか説明を考えているのだろうと思った結花は、ドアを開けようとノブに手を掛けたところで、固まってしまった。
(なんで、私、お兄ちゃんは一人の筈って思ったんだろう……)
コントロールルームには祥吾と同じパイロットスーツを着た杏の後ろ姿も見えた。
杏は祥吾の隣に座って、同じようにモニターの画像に見入っているようだったが、時折祥吾の方へ話しかけている。
結花が覗いている角度からは、祥吾の表情は見え難く、杏の表情は良く見える。
話している内容は聞こえない。
モニターを一時停止して、二人で何かを話している……
そして、また映像が動き出す。
祥吾は腕組みをして、いつになく真剣な様子だった。
杏は所々で祥吾に意見しているようだ。
それに対して祥吾も何か言い返す……
(なにやってるんだろう、あたし……)
このままドアを開ければ、祥吾は自然と結花を迎え入れるだろう。しかし杏は……
杏の事など気にせず、兄妹なんだから堂々と入っていけば良い……
そんな風にも考えた結花だったが、どうしてもドアを開ける事が出来なかった。
一方でこのまま何も言わずに帰りたくない……それは何故か?心の中で、小さな葛藤から次第に黒っぽい染みが心に広がり、結花は戸惑いながらも広がっていく染みに抗う事が出来ず、メッセージ画面を開いた。
そして、簡単な文章を祥吾へ送り、その返答を待ちながらコントロールルームの様子を窺う。
祥吾は何か杏へ説明し、直ぐにメッセージの返答を打ち始めたようだった。
《今、杏と模擬戦の反省会やってる。引き分けだったよ。これから親父のとこいくんだろ?俺の事は気にしなくていいよ》
間を置かず祥吾から返事があった。
当たり障りのない、今の状況をそのままメッセージで寄越したその内容に、結花は行き所の無い、曇った感情を覚える……理由は判っていたが、それを考えると、自分がとても嫌な性格に思えて、それ以上考えようとはしなかった。それよりも……
結花は《わかった。お父さんのところへ行くね》とだけ返す。
それよりも……結花は祥吾がメッセージを打っている時、杏が傍らで見せた祥吾に対する表情に心がざわついていた。
祥吾が返事を打っている間、杏は一時停止されたモニターの方を向いているのだが、時折横目で祥吾の様子を盗み見る……それも度々……
結花はその様子に覚えがあった。というより、むしろはっきりと判っていた……
黒い染みは一向に薄くならず、戸惑いの感情も無くならない。
結花は、そうすればその思いを抑える事が出来るかの様に、肩に掛けているバッグを両手で抱え、ドアの前から離れた。
※ ※ ※
「結花!」
コントロールルームからの階段を下り、俯きながら格納庫の出口へ向かっていた結花に、里香が声を掛ける。
「お母さん……来てたんだ」
保と話をしていた里香が、断りを入れ結花へ近づいた。
「祥吾に会ったかい? そんな訳で、お母さん帰りが遅くなるから、気にしないで先に休んで良いからね」
「え……?」
結花が驚いた表情を見せる。
「なんだい。祥吾の奴説明しなかったのかい? 全くあいつは……」
事情を知らない里香は、呆れた様に階上を見上げため息をついた。
「詳しい事は後で祥吾から聞いて。これからお父さんのところへ行くんだろ?」
「うん……」
「じゃ、ご飯はお父さんのところで食べな。連絡入れとくから」
「わかった……」
「ん?……なんだい結花。元気ないね?」
終始、心ここに非ず、こちらの説明にも上の空、という結花の態度に里香もさすがに心配になる。
「え?……そ、そんな事ないよ……気のせい、気のせい……」
慌てて取り繕うに結花に、里香は唇の片方を上げ、「タイツを穿かなかったせいで、告白でもされた?」と、からかうような笑みを見せる。
「ち、違うってば、お母さん……あたしへ告白する人なんて居ないの、お母さんも知ってるでしょ……?」
最後の台詞は里香の胸にちくりと刺さった。里親に預けられている期間、イーロン達は交際が禁じられていた。これは公然のルールであったため、イーロンに対してイーロンは元より、一般生徒からの告白も一切ない。
里香はそんな結花を不憫に思っていても、その事は一切口にした事が無かったが、今日は何故か母親として言わずにはいられなかった。
「結花。親の立場としちゃあ、ルールを守れって言うのが正しいって事くらいわかってるんだけどさ。大抵の事は自分の子供がやった事を肯定するもんだ」
「だからあんたも……あんまりため込むんじゃないよ」
結花が何か言いかけたが、里香は、「じゃ、気を付けて行くんだよ。お父さんによろしくね」と残し、メカニック達が話し合っている場へ戻って行く。
(あたし、多少感傷的になってるかな?)と里香は思った……
しばらく里香を目で追った結花は、母親の言葉を心の中で反芻した。
そこには圭子の言葉も重なり、さっきまで、黒い染みとなって心の奥底に広がっていた嫌な何かを吹き飛ばし、(自分なりの結論を出すべきだ……出したい!)という前向きな衝動が、沸々と心の中に湧き出る実感があった。不安が無いと言えばウソになる。しかし、残された時間を考えると、もう迷っている時間は無かった……
結花は、あらためて頭上のモニタールームを見上げた後、自分に何かを言い聞かせる様に、大きな歩幅で校門前のコミュータ乗り場へ向かった。
※ ※ ※
午後6時35分。
辺りは既に夜の帳をおろしていたが、一面を覆っている雪が街灯に反射し、雪国の夜特有のコントラストが名寄を覆っていた……
行き交う車の数も少ない……
結花が、父の居る天文台に到着した頃、天文台から北に約2㎞、駐屯地から東に約2.5㎞にある墓地の真っ暗な入り口へ向かって、誰にも見咎められず野良犬数匹が一列になり進んでいた。
野良犬たちは墓地の中に入ると、四方に別れ雪に埋もれた墓石の間を更に進む。
すると、いつの間にか墓石の陰という陰から、他の野良犬たちが湧き出るように現れ、先頭を歩く犬について行った。
四方それぞれに集まった野良犬の数は、合計100匹を超えていた。夜の墓地に100匹以上の野良犬が集まっている光景は、正に《異様》という言葉が相応しく、仮に誰かが目撃したら、恐怖で即座に110番していたであろう……
全ての野良犬の目は、ビー玉をはめ込んだように生気が無かった。
そして……白く見える筈の吐き出した息が見えず、腹部も動いていないようだ。
それはまるで剥製が動いている様に見えたが、しかしその仕草は生きている犬とそっくりだった。
いや、それも良く観察すると、幾つかの仕草のパターンを繰り返しているだけだと言う事が判る。
四方の集団それぞれの中心に居た野良犬が、雪に覆われた地表に伏せると、その周りにいた他の野良犬も一斉に伏せる。
そして伏せた野良犬達が立ち上がりもせず、そのままの姿勢で横方向へ移動し、扇の形を形成した。
全ての動きが止まると、集団の中心に居る野良犬の目が、人工的な緑色に点滅し始めた。
それに呼応するように、扇状に展開した他の野良犬の目も緑色に光りはじめる。
遠くから見ると、それは季節外れの蛍の様に、ちらちらと瞬いていた。
指向性を持たせたかのように、扇状にまとまったグループの扇面にあたる部分は、全て北北東を向いており、その50㎞先にはオホーツク海に面した雄武港があった……