第一章 『フォレスト・オブ・メモリーズ』
「コラボ、ってこと?」
そろそろ夏休みも終わろうかというある日の夜。
僕は
「コラボっつーかほとんど合併みたいなもんだよ! ありえねーだろこんなこと! なんで
「まあまあお父さん、そう怒んないで」
愛里になだめられても、お父さんの怒りは収まらない。
「怒らずにはいられねーって! 絶対に上手くいくはずなんか」
「はいはい。よしよし」
愛里は腕を伸ばして、お父さんの頭をなでた。
「うぅ……」
お父さんは力なくうなだれた。位置が下がったことで自然となでやすくなったお父さんの頭を、愛里はなで続けている。
お父さんの会社の別チームが作った仮想現実型のロールプレイングゲーム『フォレスト・オブ・メモリーズ』と、『リュンタル・ワールド』とが統合されることになったのだ。統合といっても完全にひとつのゲームになるのではなく、今の形を維持したまま連携をして、どちらか一方のアカウントを持っていれば、同じアバターのまま自由にお互いの世界を行き来できるようになる、ということらしい。アイテムや能力もそのままだし、行き来する時はいちいちログインし直す必要はなく、『
「愛里は『フォレスト・オブ・メモリーズ』って知ってる?」
僕は『リュンタル・ワールド』以外の仮想世界がどんなものなのか知らない。
愛里はお父さんの頭をなでる手を止め、お父さんから僕に目を移した。
「うん。基本的にはなんでもあり。リュンタルと違って人間以外の種族もたくさんいるし、プレイヤー同士での戦闘もできるし。あとはギルドがしっかりしてて組織として動くことが多いかも」
「へー……なんだか全然違うね」
「だろ? だってのに上の連中は『どーせ仮想世界ってことに変わりはないし、作った時期もだいたい同じだし、一緒にしちゃってもいんじゃね?』とか、そんな感覚なんだよ!」
頭を起こしたお父さんが、僕と愛里の視界を遮って熱弁を再開させた。
でも、他のゲームと行き来できるなんてとても重大なことだし、そんな軽いノリで決めたはずじゃないと思うけど……。
「はぁ~、所詮ただの会社員の中の一人だよ、俺は。上が決めちまったんだ。しょうがない。従うしかない。ああ、俺のリュンタルが壊れていく……」
『リュンタル・ワールド』は、お父さんが十七歳の時に異世界リュンタルで経験したことを元に作ったゲームだ。だから、思い入れが特に強いのはわかる。僕だって実際に本物のリュンタルに行ってからは、このゲームへの思いが強くなったし。
「私はいいと思うけどな。FoMの人たちともいっぱい友達になりたいし、こっちからだってFoMに行けるんだから、それだけ楽しいことも増えると思うし。そこはお父さんがよく言う『ゲームだから』ってことでいいんじゃない?」
愛里は相変わらず前向きだ。何もかもを楽しもうとしている。
「ゲームとしてだって大変なんだって。そのままの能力で違うゲームに行き来するんだぞ? 今後は共通のステータスを導入して、それに合わせて今のステータスの数値を調整することになっているんだけど、それだけでも大変だってのについでにマップを新しく追加しろとか言ってくるし……あーもう考えただけでも嫌になる!」
プレイヤーはただ楽しめばいいけど、作っている人たちはそうはいかない。僕だったらこんな大変な仕事、絶対に務まりそうにないや。
「あーダメだ! もやもやする! ちょっとジム行ってくる!」
「ええっ? 今から行くの?」
もう夜遅いというのに、お父さんは勢いよく家を飛び出し、走ってジムに行ってしまった。だいぶ鬱憤が溜まっているみたいだ。
翌朝、双方の公式サイトで、両ゲームが統合すること、予定日は十一月一日で、そのため十月末に長期のメンテナンスがあることが発表された。
◇ ◇ ◇
「――って感じでさ。お父さん、不満爆発させてたよ」
僕は右隣に座っているハルナに昨日のことを話した。もちろん本物のリュンタルのことは伏せて、あくまでもゲームの性格の違いとか、内部のデータのこととかって部分だけを抜き出して話している。
「私もどうかと思ってる。それぞれのゲームにそれぞれの特徴があるから上手くいっているのに。私は仮想現実型のゲームをいくつも試した結果リュンタルに落ち着いた身だし、やっぱりリュンタルはリュンタルのままであってほしい」
激昂したお父さんほどではないけど、ハルナも不満を口にした。
僕とハルナは、ヒョウスの森にある平べったい石の上に座っていた。ちょうど二人が座れる大きさで、森に来た時にはいつもこの石に座って話をしている。夏休みが始まった頃はハルナの剣の腕を鍛えるために毎日この森に来ていたけど、その後はあまり……。
剣の素質に恵まれていないと悟って、ハルナはもう諦めてしまったみたいだ。ヒョウスの森に来たのは久しぶりだし、そもそもハルナは剣も鎧も装備していない。ただ僕と二人きりになるだけのために、ここに来ている。
「でもさ、アイリーは歓迎してるんだよ。新しい場所に行って新しい人と友達になれるからって」
「やっぱりアイリーはアイリーね。そんな気持ちになれるなんて。私はそこまで積極的にはなれない」
ハルナは少し呆れている。
「僕だってそう思うよ。アイリーのあの前向きさはちょっと理解できないところが」
「私は」
僕が最後まで言い終わらないうちに、ハルナが口を開いた。呆れていた表情はなくなっている。
「リッキのことだったら、どこまでも前向きになれるんだけど」
音もなく伸びてきたハルナの左腕が、僕の後頭部に添えられた。右手で僕の左手を掴み、体を寄せてくる。
「夏休みが終わる前に……ね?」
僕の視界が、ハルナの顔で埋まった。
さらに近づいてくる。唇が触れるまで、もう少しだ。
これまでにもこういうことは何度もあって、そのたびに寸前で中断されていた。でも今はそんな雰囲気はない。周りにはモンスターの気配もない。
僕はもう、避けるつもりはない。
今もまだ、「好き」っていう感情は、よくわからない。でも、それを知るためにキスをするってのも、あったっていいだろう。
空いていた右手を、ハルナの背中に回す。
目を閉じた。
その瞬間に鳴る、電子音。
反射的に、背中がびくっと震えた。ハルナも同じ反応を示したのを、僕の右手が感じ取った。
「なっ何!?」
ハルナが慌ててウィンドウの操作を始めた。僕も開放された左手でウィンドウを開く。
Airy: これからシェレラと一緒にどっか遊びに行かない?
アイリーが僕とハルナにメッセージを送ってきたのだ。
「「はぁ~~……」」
僕とハルナは、同時にため息をついた。
「……だってさ。どうする?」
「私、一旦落ちる」
「え……なんで」
当然このまま合流して遊ぶのかと思ったのに。
「だって私、シェレラと会ったことない」
「…………えっ??」
会ったことない?
「アイリーのコンサートでピアノを弾いた時、シェレラが客席にいたのは見えた。でもそれだけ。そんなの会ったなんて言わないでしょ?」
そう言われて、これまでのことを思い出してみると……。
確かに、ハルナの言うとおりだ。
「だったらハルナとして、今日初めて会うってことにすればいいんじゃないのかな?」
「ダメ。会わない。アミカじゃないと会えない」
僕にはよくわからないけど、何かこだわりがあるのだろうか。
「シェレラだって、リアルと同じアバターの私をハルナなんて呼びにくいでしょ」
ハルナは少し目を逸らし、顔を赤らめた。
それは……まあ、少しはあるかもしれない。
現実世界でも玻瑠南と呼んでいる僕とは違って、
「だったらさ、こうしよう。今日はアミカで行こう。でも、夏休みが終わって学校で智保に会ったら、『
「それは……そうかもしれないけど、でも……なんか呼びにくい……それに私、別にこのままシェレラに会わなくてもいいし」
そう言いながらハルナは指を動かし、ログアウトしてしまった。
仕方がないので一人で歩いて噴水の広場に行くと、そこにはアイリーとシェレラ、そして、
「うぅ~~ん」
シェレラの大きな胸に顔を埋めて悶える、アミカの姿。
「や、やあ、アミカ。元気?」
「ぅん~~」
挨拶をしても、アミカはシェレラの胸に顔を擦りつけるだけで、振り向こうとはしない。シェレラはシェレラで、アミカを軽く抱きながらうっとりしている。
ひょっとして、ハルナはシェレラに会いたくないんじゃなくて、どうせ会うならアミカとしてシェレラの胸に埋まりたい、ってだけのことなんじゃ?
◇ ◇ ◇
夏休みが終わった。今日からまた学校だ。
「行ってきまーす」
僕は一人で家を出た。愛里は愛里のタイミングで家を出るから、偶然タイミングが重なりでもしないかぎり、二人で一緒にいくことはない。
ちなみに、智保はいつものんびりしていて、僕より家を出るのが遅い。小学生の時は愛里や智保と一緒に学校に行っていたけど、今は三人ともバラバラだ。
まだまだ夏の太陽が、容赦なく照りつけている。とにかく暑い。家を出た瞬間から汗が流れる。学校に行きたくない。でも、そんなことは言っていられない。学校に着くまで、なんとか我慢しなきゃ。
教室に入った瞬間、なんとなく空気が違うと感じるのは、軽めにかかっている冷房のせいだけではないだろう。
夏休み前と比べて雰囲気が変わってしまう人というのは、たいていクラスに数人はいるものだ。日焼けした肌や髪型といった一見してすぐにわかる違いから、よく見ないとわからない小物の好みが違っていたり、話し方が変わっていたり、妙に自信を持った顔つきになっていたり、逆になぜか落ち込んでいたり、やたらと明るい性格になっていたり、何が違うのかはわからないけど何かが違っていたり、とにかくそんな人たちがいて、そんな人たちやそれを見て何かを感じる人たちが、夏休み明け初日の独特な空気を作っている。
僕はさっそく、夏休み前とは違うところを発見した。
玻瑠南だ。
前に僕の家に来た時と同じ、あの眼鏡をかけて席についている。
もっとも、玻瑠南はもともと教室では一人で静かにしているタイプだし、変化があったとはいえ、特に目立った存在にはなっていないようだ。
しばらくして、チャイムが鳴った。これから始業式だ。
僕たちは体育館へ向かった。
◇ ◇ ◇
始業式が終わり、教室に戻ってきた僕たちがやること――それは、席替え。
この学校ではなぜか、夏休みや冬休みが終わるとすぐに席替えをする、という風習がある。
新しい席の選び方は、特にない。自由に好きな席に行き、希望者が重なってしまったら話し合いやじゃんけんで決めるという、かなり原始的なやり方だ。
僕は一番後ろの、窓側の席を選んだ。後ろの席は人気があるけど、僕と席を取り合おうとする人はいなかった。僕みたいに背が高い人が前にいると、後ろの人が黒板が見えにくくなってしまう。暗黙のルールとして、僕が一番後ろの席を選ぶことが認められているのだ。
迷うことにも争うことにも無縁な僕は、ぼんやり窓の外を眺めていた。まだまだ夏の太陽が、ギラギラと眩しい日光を送り込んでいる。外は朝よりも確実に暑くなっているはずだ。家に帰る時のことを思うと――。
ズズッ。
僕の隣の、つまり右側の席の椅子を引く音が聞こえた。
振り返ってみると――。
玻瑠南だ。
特に表情を変えることもなく、ごく普通に、ごく自然に、眼鏡をかけた玻瑠南がそこに座っていた。
「えっ、と……」
「? どうかした?」
戸惑う僕を、玻瑠南が不思議そうに見つめている。すると、
「ちょっと! 牧田さん!」
女子の一人が、声を荒らげて近寄ってきた。
「なんで牧田さんが
「なんで、って……」
玻瑠南は立ち上がった。大声を聞いて集まってきた女子たちを見下ろす。
「背が高いんだから、後ろの席でいいでしょ?」
「だからってその場所じゃなくたっていいじゃない!」
「……何? 文句あるの?」
相手の女子は大きな声で騒いでいるけど、玻瑠南は静かだ。だからこそ余計に、玻瑠南が与えると言われている冷たい威圧感を受けているのかもしれない。相手の女子は少し後ずさった。でも集まってきた女子たちを後ろに従えている以上、もう引き下がることはできない。後ずさったぶん、一歩前に踏み出した。
まずいな。このままじゃ喧嘩になりかねない。
「みんな、その、落ち着いて。ほら、ま、牧田さんも、落ち着いて」
僕はこの争いを止めにかかった。
すると、女子たちを見下ろしていた玻瑠南が振り向いて、少しきょとんとした顔で僕を見た。
「どうしたの
教室中が一瞬静まり返った。女子たちだけではなく、クラス全員の目が僕と玻瑠南に注がれている。そして一瞬が過ぎ、教室中が一斉にざわつき始めた。
そんな場の雰囲気に呑まれることなく、いやむしろ自ら作り出した空気を楽しむかのように、玻瑠南は話し続けた。
「夏休みの間、いつも一緒にいて、立樹の右側に座っていたじゃない。今さら離れるなんて私できない。あ、そうそう、私コンタクトやめて眼鏡にしたから。だって立樹が似合うって言ってくれたんだもの。そうよね立樹。ねえ立樹」
座ったままの僕に覆い被さるようにして、玻瑠南は僕を見下ろした。眼鏡の奥からの眼光が怖い。みんながよく言っている「見下されて怖い」ってのはこれのことか。よくわかる。わかりすぎる。僕は眼鏡に変えることで、その怖さをカバーできるんじゃないかと思っていた。でも玻瑠南、ごめん、今の玻瑠南はけっこう怖い……。
「う……うん、言った、ね」
クラス全員の視線が注がれる中、僕は力なく答えた。
「もっとはっきり言って?」
「は、玻瑠南は眼鏡が似合うと、間違いなく、い、言いまし、た……」
人間の顔って、こんなに引き攣ることができるものなのか。
見えていない自分の顔が、容易に想像できる。
「ずっと一緒にいたんだもの。これからもずっと一緒にいたいでしょ?」
一緒にいたのはあくまでも仮想世界の中だけだ。現実のこの世界では、夏休み中は一回も会っていない。でも、ここで何かの言い訳が許されるような雰囲気は、ない。
玻瑠南の切れ長の目が、レンズの向こうから冷酷に僕を突き刺す。
「そ、そうだね……僕も、玻瑠南と一緒にいたい、な……」
全身から変な汗が出てきた。冷房は軽めにしか効いていないし、きっとこの厳しい残暑の日差しが窓を通り抜けて僕に降り注いでいるのだろう。うん、そうだ、そうだと思いたい。思い込みたい。教室中がざわめいているみたいだけど、なんだか耳に入ってこない。えっと、どうしてこんなことになったんだっけ。そもそも今は何をやっていたんだっけ。なんだかよくわからないや。
「どうしたの? そんなに慌てて」
廊下からおっとりした優しい声が聞こえてきて、僕の意識は目覚めた。
「松川さん! 沢野が、沢野が!」
クラスメイトの男子が、わざわざ隣の教室から智保を連れてきたのだ。
「どういうことなんだよ沢野! お前の嫁っつったら松川さんだろ!」
背中を押された智保が、玻瑠南の前に突き出された。
「待ってくれよ。このクラスの席替えの問題だろ? 智保はか――」
関係ないだろ? と言おうとしたんだけど、
「智保だって、私たちのこと応援してくれているものね! そうよね、智保」
玻瑠南の明るく弾んだ声に、完全に遮られた。
智保と玻瑠南は仲がいいのか悪いのか、未だに僕はよくわからない。去年は同じクラスで名簿順が並んでいたこともあってよく話し合う仲だったらしいけど、僕がこの二人が話しているのを見たのは、玻瑠南が僕の家に押しかけてきた、あの時だけだ。お互い攻撃的な火花を散らしていて、僕には特に仲がいいようには見えなかった。
仮に仲がいいのだとしても、智保が僕と玻瑠南との仲を応援しているなんて聞いたことがない。これはたぶん、玻瑠南が嘘をついている。
それにしても、こんな状況で玻瑠南が「智保」って言うことになるなんて。すっかり二人の仲がいいことを周囲にアピールする形になってしまっている。こういう状況を作ってしまえば、智保は玻瑠南が言っていることを否定しづらい。
僕と玻瑠南が集めていた注目が、智保に向いた。
智保と玻瑠南の視線がぶつかっている。
智保は空気を読むことが上手くできない。だから、たとえこんな状況になっても平気で玻瑠南が作った状況に反した言動をやってしまうかもしれない。でも僕は智保にどうしてほしいんだ? 玻瑠南との仲を、智保に認めてほしいのか? それとも否定してほしいのか? 自分でも……なんだかよくわからない。でも否定するだろう。これは玻瑠南の嘘なんだから。智保なら否定するはずだ。そうに決まっている。
智保は玻瑠南に視線をぶつけたまま、優しく微笑み、口を開いた。
「そうね。玻瑠南はお似合いなんじゃない? 頑張ってね、玻瑠南」
それだけ言うと、智保は隣の教室に戻って行ってしまった。
智保は、僕と玻瑠南が恋人同士だと認めている……のか? 本当に?
玻瑠南の嘘に乗っかったのか? それとも本心なのか? どうなっているんだ? いや、智保が認めてくれたのならそれでいいじゃないか。それなのになぜか、「智保はそんなことは言わないはずなのに」「智保にはそんなこと言わないでほしかった」「なぜ智保はこんなこと言ったんだ」、そんな気持ちが頭の中を渦巻いて……。
僕が混乱し、教室中の目が智保を追ってドアの外へと向いている中、
「立って」
玻瑠南が僕を促した。
言われるがままに、僕は立った。自分でまともに考えるということができなくなっていた。それに、今この場は玻瑠南が圧倒的に支配している。逆らえるはずがない。座ったままでいるなどという選択肢は、僕にはなかった。
玻瑠南は僕の背中側に回って後ろから僕を抱きしめると、取り囲む女子たちを一通り見回した。
「そういうことだから。よろしくね」
玻瑠南の勝利宣言が、静かに教室中に響いた。
集まってきていた女子は全員、呆然としている。動きたくても動けない、声を出したくても出ない、そんな感じだ。
教室ではいつもおとなしい玻瑠南がこんな行動に出るなんて、全然想像できなかった。僕ですらそうなのだから、何も知らない人が僕以上に驚いてしまうのも無理はない。
一方、男子は俄然騒がしくなった。
「一体夏休みに何があったんだ!」と僕に訊いてきたり、
「正真正銘のビッグカップルの誕生だ!」と言ってスマートフォンをこちらに向けた後、「ダメだ、ビッグすぎて画面に入りきらない」などとおどけて言ってみたり、「もしよかったら俺と付き合わない?」と茫然自失真っ最中の女子に声を掛けたりと、教室は混乱に支配されていた。
そこへ、
「ちょっとみんな! 今は席替えの時間よ! ちゃんと席を決めて!」
教室の前のほうから、女子の声が響き渡った。
学級委員長の
勉強熱心で背が低い西畑は、一年生の時からずっと席は一番前と決めている。だからこの騒乱には加わることなく、ずっと遠目で眺めていたのだ。
冷静な女子がいてくれた。助かった。
西畑の声で、教室全体が冷静さを取り戻し、席替えは滞りなく進んだ。
席替えが終わった頃を見計らって、担任の
「夏休みはもう終わりました。席も新しくなったことだし、気持ちも新しくして明日からまた勉強に励みましょう」
と、それだけ言うとホームルームを終わらせ、教室を出て行ってしまった。
あまりくどくどしゃべり続けるタイプの先生は僕は好きではないけれど、逆に山根先生はあっさりしすぎなんじゃないだろうか?
クラスメイトたちが、次々と教室を出て帰っていく。玻瑠南も「またね」と言ってあっさり教室を出て行った。この後は現実世界の立樹ではなく、仮想世界のリッキと一緒に過ごすつもりなのだ。
僕も帰ろう。そう思った時だった。
「沢野君、ちょっと用事があるんだけどいいかな?」
教室の前のほうから、西畑が僕を呼び止めた。
どうせまた、高い所にある物を取るとか、そういう用事なのだろう。山根先生から頼まれることはよくあるし、山根先生からの伝言で西畑が僕に言ってくることもある。でも、だったら山根先生が自分で僕に言ってから教室を出て行けばよかったはずなのに。なんでわざわざ西畑が用事を言うのだろう?
僕は「いいよ」と答えて西畑の後をついて行った。西畑は理科準備室の方向へと歩いている。山根先生は理科教師で、呼ばれた時に行くのはいつも職員室か理科準備室のどちらかだ。
ところが、西畑はその手前の理科室のドアを開け、中へと入っていった。不思議に思いつつ、僕も続いて中に入った。
僕たち以外、誰もいない。窓もカーテンも閉まっている。
エアコンが動いてなくて、湿った暑い空気が体にまとわりつく。それに、廊下が明るかったぶんカーテンに遮られた室内が余計暗く感じ、じめじめとした空気の感覚を引き立てている。
西畑は理科室の一番後ろの机の上に座った。
三十センチくらい差があった目の高さが、同じになった。
西畑の赤縁眼鏡の向こうの両眼が、じっと僕を見つめる。
前にもこういうことがあった。
あの時西畑は、「僕のことを狙っている女子が多い」という僕が全然実感できていないことや、「もし付き合ってって言ったら付き合ってくれるのか」という西畑なりの告白を、僕に言った。
もしかしたら、用事があるなんていうのはただの口実で、またあの時みたいに付き合ってほしいと言ってくるのだろうか。もし言われたらどうしよう。でも、いくら加わっていなかったとはいえ玻瑠南が起こした騒動をちゃんと見ていたんだし、そんなことはないだろう……。
緊迫した空気が張り詰める――。
「沢野君てさ、ゲーム、好きでしょ?」
へっ!?
西畑は僕の予想とは全然違うことを言ってきた。
「う、うん……まあ、嫌いではないけど」
「やっぱり! 沢野君のお父さんがゲーム会社で働いているって男子と話しているのを聞いたことあったから、きっと沢野君も好きなんじゃないかと思っていたのよ」
西畑の表情が急に弾けた。
なにげない雑談って、意外と聞かれているものなんだな。玻瑠南もこれを聞いていて、お父さんが『リュンタル・ワールド』の開発者だということを突き止める手がかりにしていたし。
「それでね、私、『フォレスト・オブ・メモリーズ』っていうゲームやっているんだけど、沢野君も私と一緒にやってみない? とっても面白いのよ! えっとね、どんなゲームかっていうと」
西畑ってFoMやってたのか。知らなかった。
「ちょ、ちょっと待って」
頭の真ん中まで響いてくるような声でまくし立てる西畑を、僕は遮った。
でも西畑は止まらなかった。
「迷わなくていいから! 一緒にやろうよ! わからないことがあればなんでも教えてあげるから」
「いやいや、そうじゃなくてさ、その……」
西畑の勢いから逃げるように視線を外し、そしてまた前を見た。
「僕、『リュンタル・ワールド』やってるからさ。今からFoMを始めるっていうのは」
「えっ、あ、そうなんだ、沢野君リュンタルやってるんだ……」
僕は『リュンタル・ワールド』をやっているということを誰にも言っていない。
もしやっていることが知られたら、それをきっかけにお父さんが開発者であることまで広く知られてしまうかもしれない。僕のクラスでは僕と玻瑠南以外にやっている人はいないみたいだけど、ひょっとしたら僕が直接知らない友達の友達のそのまた友達なんかが話を聞きつけて、お父さんから何か裏情報でも聞いているんじゃないかと絡んでくることだってあるかもしれない。そこまでしてゲームを攻略したがる人、他人より優位に立ちたい人というのは、どうしても存在してしまうものだ。
でも、今ここで西畑の誘いを無下に断ることはできない。それなりの理由が必要だ。
それに、僕は西畑を信用した。
だから、『リュンタル・ワールド』をやっているということを、僕は素直に言った。
「確かに、リュンタルやってるのに今からFoM始めるってのは変よね……」
西畑は足をぷらぷら振り始めた。視線を僕からその足の先へと移している。
「ごめんな。せっかく誘ってくれたのに」
僕が断ると、西畑は顔を上げた。
「じゃあさ、その代わり、統合されたらFoMに来てくれる?」
それくらいだったら、別に構わない。
それに、初めて行く世界を何も知らずに歩くのも新鮮でいいだろうけど、よく知っている人がいるのならやはり心強い。
「うん、それだったらいいよ」
「やったあ! じゃあ約束して。必ずFoMで一緒に遊んでくれるって。初日に。二人っきりで。必ずよ!」
「ああ……うん、わかった。約束するよ」
最後にちょっと付け足されてしまったけど……まあいいか。
「絶対よ! 待ってるからね! あー、あと二ヶ月かー。まだかなー」
そう言いながら机から飛び降りると、西畑はそのまま僕を置いて理科室を出て行ってしまった。
結局……用事って、これだけ?
なんでわざわざ理科室に?
◇ ◇ ◇
しばらく何事もない普通の日々が続いたまま十月も半ばを過ぎ、FoMとの統合が間近に迫ってきた。
僕はピレックル郊外にある劇場に行った。劇場内には稽古場も併設されていて、最近のアイリーはここで歌や振付の練習に励んでいる。ピレックルではアイリーの発案でFoMとの統合に合わせてお祭りを開催することになり、まとめ役としてお祭りを取り仕切る一方、アイリー自身もステージで歌を披露することになっているのだ。
そっと稽古場を覗いてみると、アイリーは練習の真っ最中だった。ドアが開いたことには気づいたようで、ちらっと横目で僕を見たけど、歌とダンスを止めることはなくそのままアイリーは練習を続けた。
ここに来たことに深い意味はない。ちょっとヒマだったから来てみただけだ。僕は静かにドアを閉め、立ち去ることにした。すると、
「お兄ちゃん!」
アイリーが稽古場を飛び出し、僕へと駆け寄ってきた。
「ああごめん。邪魔しちゃったかな」
「邪魔なんかじゃないって。せっかく来たんだから、見ていけばいいじゃん」
「いいよ別に。見たってしょうがないだろ」
「どうせヒマなんでしょ? ハルナがいなくて」
「いや、まあ……それはそうなんだけど」
玻瑠南は最近ずっとアミカでログインしている。理由はアイリーと一緒で、ギズパスでもお祭りをやることになっていて、歌の準備で忙しいからだ。
「そうだお兄ちゃん、ちょっといい?」
アイリーは一緒にいた振付師に休憩を申し出ると、僕の手を引いて劇場の裏口から外に出た。狭い路地だ。人通りはない。
ドアを閉めるなり、アイリーは口を開いた。
「お兄ちゃんさ、どうせヒマなんだからお祭りに参加してみない? 屋台でも出すとか」
「いやあ……僕はいいよ。そういうの、なんか苦手でさ」
「もー、お兄ちゃんってこういうの全然やりたがらないよね。一度でいいから参加してみてよ。楽しいか楽しくないか、やってみなきゃわかんないじゃん」
「それはそうかもしれないけどさ……」
不満を見せつけるアイリーをなだめながら、僕は続けた。
「ちょっと、外せない用事があって」
「用事? 本当に用事なんてあるの? どーせてきとーに言い訳してるだけなんじゃないの?」
「そうじゃないって。本当に用事なんだよ。……えっと、ほら、前にちょっと話したことがある、クラスメイトの西畑さんって人なんだけどさ」
「うん! あれからどうしたの? また付き合ってって言われたの?」
アイリーは突然前のめりになって話に食いついてきた。心なしか目がキラキラ輝いている。
「違うって、落ち着けよ……。西畑さんさ、FoMやってるんだよ。それで統合初日にFoMに来てほしいって誘われててさ。だから」
「行ってきて。全力で行ってきて」
アイリーは僕の両肩をがっしりと掴んだ。身長差がありすぎて、まるでバンザイしているかのようだ。
「わかってるよね? その西畑さんて人、ただの友達のつもりでお兄ちゃんを誘ったんじゃないからね? わかってるよね?」
「わかった、わかったって」
「なんなのそのいいかげんな返事! 信じらんない!」
「なんでそんなに怒るんだよ……でもさ、今度は本当にただFoMに誘われただけなんだって。それ以外何も言ってなかったし」
「もーお兄ちゃんの鈍感!」
アイリーはムキになってそう言うけど、本当にそうなのだろうか。西畑とは特に普段話しているということでもないし。アミカという接点があった玻瑠南とは違う。
「あっごめんメッセージ来た」
アイリーの指が空中を滑る。歌に踊りに、さらに僕に怒りまくったかと思えば今度はメッセージ。忙しそうだというより、
「えーっそうなの? どうしよう……」
「どうしたんだ? なんかトラブルか?」
「うん、ちょっとね……。でもお兄ちゃん関係ないから、気にしないで」
アイリーはそう言うと、とっとと劇場の中へ戻って行った。バタンとドアが閉まる。
僕は関係ないって言っているし、きっとお祭り関係のトラブルなんだろう。
――と思ったら、急にドアが開いてアイリーが出てきた。やっぱり僕に関係あるのか?
「お兄ちゃん、西畑さんへのプレゼント、考えておかなきゃダメだからね!」
それだけ言ってアイリーはまた中に入った。さっきと同じくバタンと音を立て、ドアが閉まる。
完全に余計なおせっかいだ。
でも、プレゼントか……。プレゼントなんて、いるのかな……?
◇ ◇ ◇
シェレラは夏休みが終わった頃に工房を構えた。助っ人稼業をやめ、β版以来のアクセサリー作りに夢中になっている。結構人気が高く、買いたくても順番待ちという盛況ぶりらしい。おかげで九月以降、あまり一緒に遊んでいない。
劇場でアイリーと別れた僕は、シェレラの工房に来た。
「こんにちはー……」
邪魔をしてはいけない。そっと小声で言いながら扉を開け、静かに中に入る。
シェレラは作業中だ。金や銀の細い鎖に小さな宝石をいくつも繋げている。ブレスレットだろうか。
「あ、リッキ、どうしたの? 何か作りたくなったの?」
僕が来たことに気づいたシェレラが、いつもの優しい笑顔で僕を誘う。
「いや、そうじゃないけど……」
僕もβ版の頃にシェレラと一緒にアクセサリー作りをやったことがある。ただ、自分にはセンスがないと悟り、それからは全く手を出していない。
「最近はどんなアクセサリーが人気なのかなと思って」
「人気?」
「うん……ちょっと、気になって」
「人気なんか気にしなくても、リッキに似合うのならあたしが作ってあげるから! 任せて!」
「いや、そうじゃないんだ。僕がつけるんじゃなくて」
「じゃあ誰?」
「えっと、誰っていうか、その」
西畑のため、なんて言えるわけがない。
「あ、あくまでも一般論として、最近の流行というか、うん」
ダメだ。絶対にごまかせていない。
「……………………」
シェレラがじっと僕を見つめる。その水色の瞳に、きっと僕は見透かされる。
「そうね、あたしの知り合いがやっているショップを紹介してあげる。そこで売れ筋を聞いたらいいかも」
そう言ってシェレラはアクセサリーショップの場所を教えてくれた。
「ありがとう。行ってみるよ」
シェレラによって追い詰められ、シェレラによって救われた僕は、そそくさと工房を後にし、教えてもらったショップへと向かった。
◇ ◇ ◇
「せいちゃん、俺泣きそう」
「あらあら、どうしたのこうちゃん」
「もう忙しくて忙しくて。ただでさえ忙しいのに、冒険しやすいようにフィールドにも『門』を置くことになって、マップ全体を見直さなきゃならないんだよ」
「あらあら、よくわからないけど大変なのねえ……でもほら、ご飯いっぱい食べて、元気出して! 今日はこうちゃんが帰ってくるから、奮発して松茸味にしたのよ!」
最近のお父さんは本当に忙しい。忙しすぎて帰ってこない日も多い。今日帰ってきたのだって、一週間ぶりだ。
お母さんはもう『リュンタル・ワールド』にログインしていない。ほんのちょっとだけ使った新しいゴーグルは、買ったその日のうちにまた箱にしまわれて、それっきりだ。今はもう興味がないみたいで、お父さんがなぜそんなに忙しいのかも、あまり詳しくは理解していないみたいだ。
料理は相変わらず僕が作っている。最近だんだん寒くなってきているし、今日は久しぶりにお父さんが帰ってくるということで、夕食は寄せ鍋にしてみた。三人だけでもいいけど、やっぱり家族四人全員そろって鍋を囲んだほうが、おいしく感じる。
そして、それとは別にお母さんはまたいつものように唐揚げ専門店『からあげ皇帝』から新作の唐揚げを買ってきた。それが松茸味の唐揚げだ。あくまでも松茸の風味が加わっているだけであって、松茸は入っていない。だから特に豪華ということではないし、お母さんは奮発したって言っているけど、実際には他の唐揚げと値段は同じだ。
お父さんは鍋を食べて、唐揚げも食べて、ご飯もたくさん食べている。食べている姿だけを見ていると、かなり元気だ。仕事が忙しすぎて参っているようには見えない。
「私心配してたんだよ? お父さん仕事やりすぎてやつれてるんじゃないかって。でもむしろ体がっちりしてきてない?」
愛里が心配していたように、僕も心配していた。そして、その心配に反してしっかりした体つきをしていることに驚いた。
「そりゃ毎日ジムに行ってるからな。ここんとこストレスが溜まりやすくなってるから、ジムで発散しないとやってられなくって」
お父さんは元々ジム通いを欠かさなかったけど、それは異世界リュンタルに再び行って戦うことがあるかもしれないから、という理由だった。だからそれが果たされてからは、あまりジムに行かなくなっていたんだけど……。
やっぱり性分として、体を動かさずにはいられないのかもしれない。
理由がストレス発散っていうのはちょっと問題かもしれないけど、体がたるんでしまったお父さんは見たくないから、ジム通いはこれからも適度に続けてほしい。
翌朝。
僕が起きた時には、お父さんはもういなかった。
「こうちゃんね、会社に行く前にジムに寄って行くんだって」
朝食の時に、トーストにサラダを乗せながら、お母さんが教えてくれた。
そうなのか……。肉体的にはともかく、精神的には大丈夫なのかな。やっぱり心配だ。
◇ ◇ ◇
「大丈夫なの? 引き受けちゃって」
「大丈夫。無理でもやる。これだけは絶対に断われないし、むしろやりたくて仕方がない」
僕はハルナと一緒に、劇場に向かっていた。
昨日、アイリーのもとに来たメッセージ。その内容は、アイリーのバックバンドでキーボードを担当している人がリアルの都合で参加できなくなる、というものだった。そこで急遽、ハルナが代役を務めることになったのだ。
「スケジュールはどうするんだよ」
ギズパスでもお祭りがあり、イベントの一つとしてアミカがライブを行うことが決まっている。だから最近の玻瑠南はずっとアミカでログインして、毎日のようにライブの準備をしてきていた。
「向こうはもう歌も振付もできているから。振付はまだ覚えきれてないけど……でも、全部打ち込みだから楽器と合わせる手間はないし、アミカさえちゃんとしていれば大丈夫」
「でもさ、練習はどうにかなっても、本番はどうにもならないだろ。同じ日程でやるんだから」
「それは大丈夫だよ、お兄ちゃん」
「うわっ!」
突然アイリーが後ろから割り込んできた。
「今回は劇場でやる本格的なのじゃなくって、仮設ステージでパパッと終わらせちゃうから。そのほうがハルナに負担がかからないし、私だってお祭りの責任者として歌にかかりっきりにはなれないし。それに日にちも重ならないように日程組んだから大丈夫」
「そうか……でもハルナ、無理しちゃダメだよ? アイリーも無理させたらダメだからな」
「わかってるって。ちゃんとキーボード的には簡単な曲選んだから」
「譜面見せてもらったけど、全然問題ない。あとはピアノとキーボードの違いさえこなせればいいだけ」
「二人ともそう言うんだったら、僕はあまり口出しすべきじゃないな」
音楽的なことは、僕なんかにはわからない。
劇場に着くまで一緒に歩いた僕は、二人が中に入っていくのを見届け、来た道を引き返した。