第五章 木曜日のバグ、そして
「お母さんね、明日と明後日は予定が入ってて遊べないのよ。だから今日はおもいっきり遊んじゃうからね!」
「お母さん張り切ってるね! 私、お母さんと一緒に遊ぶようになってからすっごい楽しいよ! これまでも楽しかったけど、もっと楽しくなった!」
今日もまた朝食は食パンとサラダだ。いつもと変わらない朝食を食べながら、お母さんと愛里の会話は弾んでいる。
おもいっきり遊ぶって言ったって、お母さんがお母さん自身でいたのは初日だけだ。もっとも、昨日は『オートなんとか』じゃなくてお母さん自身による究極のなりきりプレイだったみたいだけど。
「ま、昨日はほとんど一緒にいなかったけどね。そのぶん今日は一緒に遊べるとうれしいなー。そういえばさっき、お父さんも来るってメッセージ来てたよ」
そうなのだ。
もしかしたら今日もお母さんが演劇部の時に演じた誰かになって現れるかもしれないからということで、お父さんはお母さんがログインするのを出迎えるつもりらしい。
「あら、そうなの? こうちゃんお仕事は大丈夫なのかしら? でも昨日のこうちゃんカッコ良かったわー。またこうちゃんと一緒に遊びたいわね」
「お母さん、今日はみんなで一緒に遊ぼうね」
「そうね! やっぱりみんなで遊ぶのが楽しいわね!」
実は、愛里の本音は、別のところにある。
愛里としては、お母さんがNPCで現れた場合にお父さんが口説きにかかるのを防ぎたいのだ。セキアやお母さん自身が演じる誰かと仲良くするならいいんだけど、NPCの場合はいくら中にお母さんがいようともNPCはお母さん自身ではなく、あくまでも他人だからだ。いざとなればお父さんを追い返してしまうことだってあるだろう。愛里はお父さんからメッセージが来た直後に僕の部屋に来て「危ないから絶対お母さんのそばから離れないから。お兄ちゃんも協力して」って言ったくらいだ。愛里の決意は固い。
「でもねあいちゃん、昨日こうちゃんがイシュファに言ってたんだけど、こうちゃんいっぱい危ない目に遭ってきたらしいのよ。大丈夫だとは思うけど、お母さんやっぱり心配だわ」
これはきっと、お父さんが本物のリュンタルに行っていた時の思い出話でもしたのだろう。お母さんは『
「大丈夫だってお母さん。お父さん強いもん」
「うーん、でも、心配なところがないわけじゃないのよねー……」
お母さんはその「心配なところ」をぼんやり想像しているみたいだけど、それを言葉にはせず、トーストを口に運んだ。
「まあ、僕や愛里だっているしさ。危険なこともあるかもしれないけど、みんなで協力すれば大丈夫だって」
仮想世界のゲームなんだから、危険なんかないし死んだって何も問題ない。
でも、それを言ってしまうと、昨日の二人そのものを否定してしまうことになる。昨日の二人はあくまでも「本当に国を滅ぼされ逃亡中のイシュファ姫」と「イシュファ姫を守る本当の騎士コーヤ」だったのであって、それを壊してはいけない。
「お母さんさっきおもいっきり遊ぶって言ったじゃん。私全然心配なんかしてないよ。お母さんも心配なんかしないで楽しく遊ぼうよ」
「そうね! 楽しいのが一番よね!」
すぐにいつもの明るいお母さんに戻った。
僕はこの明るくて元気なお母さんが大好きだ。
『リュンタル・ワールド』ではいつも違うキャラになっていて驚かされるけど、それでも楽しんでもらって、お母さんが笑顔になってくれれば、それでいい。
だったらバグが起きたっていいじゃないか。案外悪いことばかりじゃないんだ。
僕はそう考えるようになっていた。
◇ ◇ ◇
ピレックルの噴水の広場。
今日も僕は愛里やお母さんより先にログインしたんだけど……。
お父さんとシェレラが、ベンチに座って何やら話をしていた。
「あ、リッキ、おはよう」
「おはよう。何話してたの?」
僕は『
「別に何も話してないけど?」
特に表情を変えることもなく、明らかな嘘でシェレラは答えた。
はっきりと見たんだ。何かを話していたことは、間違いない。
僕はお父さんを見た。
「な、何も話してなかったけどな。リッキの見間違えじゃないのか?」
シェレラと違って、お父さんの話し方はどこかぎこちない。
まさか――。
「お父さん、もしかしてシェレラを口説いてたんじゃ」
今日のお父さんも、昨日と同じ若い頃の姿のアバターだ。シェレラは元々少し大人っぽく見えるし、知らない人が二人を見れば、きっとお似合いのカップルに見えてしまうだろう。シェレラだって本物のリュンタルに行った時にお父さんに惚れてしまったかのようなことを言っていたし、まんざらでもないかもしれない。
「ないないない! 絶対ない。ないって」
お父さんは顔の前で両手の掌を必死に振って否定している。
「リッキ、考えすぎよ。そんな訳ないでしょ」
「……シェレラがそう言うんなら」
「はーっ。俺、信用ないんだな」
お父さんはため息混じりに愚痴をこぼした。
「そりゃあ……ね」
俯いて肩を落としているお父さんを見下ろす。
お父さんそのものを否定したりはしない。本物のリュンタルで伝説となる活躍をしたこととか、この仮想世界を作り上げたこととかは、すごいと思っている。
ただ、本物のリュンタルでお父さんが見境のないプレイボーイだったと知ってしまってからは、男女のこととなると……。
僕だって、アイリーほど強烈ではないにしても、多少の嫌悪感はある。
突然、シェレラがお父さんの腕を掴んだ。
「やっぱりあたし、コーヤさんに口説かれてた!」
「「はあっ!?」」
僕とお父さんが同時に声を漏らす。
「リッキが全然あたしのこと好きって言ってくれないから、あたしコーヤさんと付き合う!」
お父さんと組んだ腕をぐいっと引き寄せ、体を密着させるシェレラ。
「…………ええっと」
僕はどう答えたらいいんだ?
シェレラの謎行動には慣れているつもりだったけど、さすがにこれはちょっと……。
「いや、リッキ、あの、その、ちょっと待て」
お父さんもさすがに戸惑っている。力ずくでシェレラを振りほどく訳にもいかず、されるがままになっている。
「マジで、マジで口説いてない」
「いーえ口説かれました! 本当はどうやったらリッキを落とせるのか相談してたんだけど、やっぱりコーヤさんに口説かれてたことにします!」
「落とすってなんだよ! ……っていうか、そんな話してたの?」
お父さんはシェレラを口説いていなかった、というのは間違いないようだけど、僕にとってはむしろそれ以上に厄介な内容の話をしていたようだ。それもシェレラのほうから。
「だってコーヤさん一番身近だしこういうの詳しそうだし……。それに、リッキはあたしのことが好きだし」
「それは……シェレラが勝手に思っているだけだろ」
「カイが言ってた」
「なっ……」
カイが? いつだ? いつカイはそんなこと言ったんだ?
「リッキがあたしの好きなところをいくつも言ってたって。こっそり教えてくれた」
こっそり? もしかしてあの山頂に着く直前のひそひそ話がこれか!
「だからあまりムキにならなくてもいいんじゃないかって。アミカみたいな小娘とケンカするのはバカらしいって」
「いやいや後半のほう絶対カイ言ってないよね? アミカのこと小娘とか言ってないよね?」
「ちょっと言い方を変えてみただけ」
「変えてみたっておかしいでしょ!? シェレラが勝手に付け加えてるだけだよね? それに、僕は別にシェレラの好きなところを言ったんじゃないし」
「じゃあ何を言ったの?」
「えっ、それは、その……」
言ってもいいけど、なんだか照れる。
何か言わないですむ言い訳はないだろうか……。
僕はシェレラに腕を引き寄せられたまま体を密着させている人へと視線を移した。
「お父さんがいる前では言えない」
「えーっ、なんでだよ。俺には聞かせてくれないのかよ」
「いいでしょ別に! だって僕とシェレラのことなんだから!」
「じゃあシェレラと二人っきりになったら言うんだな?」
「えっ、それは、その……」
シェレラがじっと僕を見ている。
僕の答えを、じっと待っている――。
「言わない」
「「なんで!」」
二人の声がそろった。
「だってさ、シェレラはカイからこっそり聞いたことを言っちゃっただろ? だから僕とシェレラが二人っきりになった時に言ったとしても、きっとシェレラはお父さんにそのまま言っちゃう」
シェレラとお父さんが顔を見合わせる。
突然、シェレラは密着させていたお父さんの体を突き放した。
「コーヤさんとは絶交です!」
「ええっ! そんな!」
「ちょっと待ってシェレラ! いきなり絶交とか極端すぎるでしょ! 仮にも僕のお父さんだよ!?」
シェレラは立ち上がると、魂が抜けたようなお父さんを捨て置いてすごい勢いで僕に詰め寄った。
「さあ言うのよ」
「い、いや、その……今じゃなくて、本当に二人っきりの時にね。もうそろそろお母さん来るだろうしさ……」
愛里、お母さん、まだ朝食食べてるの? 頼むから早く来てくれ!
「まだ来ないから。全然まだ来ないから。だから今のうちにさっさと吐いちゃいな――」
電子音がシェレラを遮った。
これからログインするということを知らせる、アイリーからのメッセージだ。
「ほら、やっぱりお母さんが来るよ」
「ちっ」
なんで舌打ち!?
シェレラは悔しそうに一歩下がった。
問題は先に延ばしただけかもしれない。でも、とにかく今は助かった。
少し開けた視界の向こうで、お父さんがぐったりとベンチに横になっている。
「ほら、お父さんしっかりして。お母さんが来るよ」
「お、おう」
お父さんも立ち上がった。
「俺にはせいちゃんがいるからな。せいちゃんさえいればいいんだ」
そう言ってお父さんは頷いた。
「あたしにはリッキがいればいい」
それを聞いたシェレラが大きく頷いた。かなりわざとらしい。
「シェレラ、そういうのしなくていいから」
「むー」
背後から光を感じた。『門』が放つ光だ。ふくれっ面になったシェレラのことより、今はお母さんを出迎えるほうが先だ。
今日のお母さんは、どんな姿で現れるのだろうか。『オートなんとか』で動くNPCだろうか。それともお母さん自身だろうか。
立ち上った光が、『門』に吸い込まれるように消えていく。
現れたのは――。
お母さん、だ。
セキアでもイシュファでもなく、お母さんだ。服装もさっき朝食を食べていた時と全く同じ、普通の普段着だ。アバター化しているから現実よりはちょっと若く見えるけど、それ以外は何も変わりはない。
こんなこともあるのか。さすがに考えてなかった。
「え、どういうこと?」
一緒に『門』にいるアイリーも、これは想定外だったようだ。
「お父さん、これどういうこと?」
アイリーは『門』の中から出ないまま、お父さんに尋ねている。
お父さんにもわからないのか、黙ったまま答えない。ただお母さんのことを見ているだけだ。
お母さんはぼーっと突っ立っている。
人によっては脳が仮想世界に順応するのに時間がかかることがあって、そういう人はログイン後しばらく意識がなかったり、体が思うように動かなかったりすることがある。今のお母さんは、たぶんそんな状態だ。
でも、これまでそんなことはなかった。どうして今日に限ってこんなことになったのだろう?
お母さんは辺りをきょろきょろ見回し始めた。でも目は虚ろで、焦点が合っていない感じだ。まだ意識が混濁していて、周りに何があるのか、自分が何を見ているのかがわかっていないのかもしれない。
「お母さん、大丈夫?」
アイリーが心配そうにお母さんの顔を見つめる。
お母さんはきょろきょろするのをやめ、何も言わずぼんやりとお父さんを見始めた。まだ意識がはっきりしないのだろうか。
そのまま時間が流れる。
――と。
「コーヤ!」
突然、お母さんが叫んだ。虚ろだった目には光が宿っている。
お母さんはお父さんに向かって一直線に駆け出した。慌ててアイリーが後を追って『門』から出る。
「コーヤ、会いたかった」
お母さんはお父さんに飛びついた。
「せ、せいちゃん!?」
「久しぶりね、コーヤ」
お母さんじゃない?
声自体はお母さんのものだ。でも言っている内容はお母さんではありえない。どこか浮かれたような陽気な言い方も、お母さんっぽくない。
お母さんはまた誰かになりきって演技をしているのだろうか? でも昨日のイシュファと違って、見た目は完全にお母さんだし……。
「コーヤ、一緒に帰ろう?」
お父さんに抱きついたまま、お母さんは話し続ける。
「か、帰る?」
「そう。私と一緒に帰るの。そして今度こそあなたを――」
その次の言葉。
僕は耳を疑った。聞き間違えたのだろう、と。
でも、そうではなかった。
「――あなたを、切り刻んであげる」
凍りつくような囁き。
その瞬間、お父さんは抱きついていたお母さんを突き飛ばした。
「お父さん! 何やってんの!」
お母さんの後ろから追ってきたアイリーが、倒れたお母さんに駆け寄った。お母さんの頭のあたりにしゃがんで、お父さんを睨みつける。
「お前がなぜここにいる」
お父さんは剣を抜いた。
「どうやってこの世界に来た? どうやってせいちゃんの中に入った?」
右腕を真っ直ぐ伸ばし、お母さんに剣を向け、叫んだ。
「答えろ! エマルーリ!」
エマルーリ?
誰だ?
「……エマって呼んで、って言ってたじゃない。忘れたの? コーヤ」
やっぱりお母さんじゃないのか?
お父さんがエマルーリと呼んでいるお母さんのアバターが体を起こした。真横にいるアイリーのことなど全く気にする素振りもなく、お父さんを見つめたまま立った。
「答えろ」
「せっかく再会できたってのに、相変わらず冷たいのね」
「答えろと言っている。なぜお前がここにいる」
「……なぜって、あなたが欲しいからに決まってるじゃない。私は別の世界のことが知りたいのよ。だからフォスミロスのことなんてどうでもいいの。大切なのはコーヤ、あなただけ」
フォスミロスのことを知っている!? それに、『別の世界』って……。
相変わらず浮ついた話し方のまま、お母さんのアバターは話し続ける。
「あなたが二十年ぶりにリュンタルに現れた、と私が知った時にはもうあなたはいなかったわ。何もその日のうちに帰ることなんてないじゃない。もっとゆっくりしていけばよかったのに。
フォスミロスの息子はきちんと理解できていなかったみたいだけど、私にはわかる。ここが仮想世界ね。本当にそっくり。鏡みたい。でも幻なんでしょ? コーヤがいた世界には魔法はないと聞いていたけど、どうやってこんなものを作ったのかしら? 不思議ね。さっき蹴られた時も全然痛くなかったし。
……私ますますあなたのことが知りたくなったわ。そのためには……コーヤ、あなたの体を切り刻んで調べるのが一番。だから迎えに来たのよ」
「……来たいからといって、来られるとは思えないが?」
「見つけたのよ。時空の縫い目に綻びが生じたのを。そうね、四日前のことだったわ」
お母さんが『リュンタル・ワールド』を始めた日だ。
「初めは小さな、気をつけなければ見過ごしそうな綻びだったわ。でも日に日にはっきりと見えてきたの。そして私はついに綻びの源を見つけた。ついにコーヤに会える、そう思うといてもたってもいられなくなって、迷わずその綻びの源へと意識を飛び込ませたのよ」
「……なるほど」
お父さんは今も剣を突きつけたままだ。その相手がお母さんのアバターだからいい気はしないけど、中にいるのはお母さんじゃない。エマルーリという名の、本物のリュンタルの人間に違いない。
僕はお父さんに言った。
「お父さんは、このエマルーリって人と、二十年前に会っているんだよね?」
「……そうだ。俺があの一年で出会った中で、こいつほど最悪な女はいない」
お父さんは吐き捨てるように答えた。
最初は訳がわからなかったけど、今はだいたいわかってきた。
お父さんが本物のリュンタルに迷い込んだ二十年前のその日、途方に暮れていたお父さんに声を掛けたのがフォスミロスだった。一九〇センチ近いお父さんよりもさらに大きな体で、大剣を軽々と振り回す逞しい筋肉の持ち主だ。それから二人は意気投合して、お父さんとフォスミロスは一緒にリュンタル中を旅して回った。きっとその時にお父さんはエマルーリと出会ったのだろう。
一体どういう方法を使ったのかはわからないけど、エマルーリは本物のリュンタルから仮想世界の『リュンタル・ワールド』に入り込んで、お母さんのアバターを乗っ取ったんだ。お父さんを本物のリュンタルに連れ帰るために。
……でも、だったらお母さんはどこへ行ってしまったんだ? ログインしているからには、お母さんの意識は当然『リュンタル・ワールド』のアバターの中にあるはずだ。
「ふーん、すごいわね、これ。どうなっているのかしら?」
お母さんの姿のエマルーリが、人差し指で空間をなぞる。
「えーっと……あった!」
空間を弾いた。
現れたのは、刀身が折れた剣の柄。
赤い巨人との戦いで折れてしまった、セキアのレイピアだ。
「何よ。壊れてるじゃない。どうしてこんなガラクタ持っているのよ。なんなのこの女……ちょっと脳の中を探らせてもらうわ。いいでしょ? 減るもんじゃないし」
脳の中を探っている? ってことは、お母さんもちゃんとこのアバターにログインしているってことなのか?
「……へえ、この女、コーヤの妻なの? 二十年も経ったんだから、妻がいるのもしょうがないか……それにしてもずいぶんとおアツいようね。なんだか嫉妬しちゃうわ」
どこに焦点を合わせるでもなくやや視線を上にして、お母さんの姿のエマルーリは折れたレイピアを手にして突っ立ったまま話し続ける。さっきからずっと、お母さんの記憶を調べているのだろう。
「私のものになるはずだったコーヤを手に入れるなんて、羨ましいったらありゃしない。許せないわ」
「エマルーリ、いい加減にしろ。せいちゃんから出て行け」
お父さんは今も剣を突きつけたままだ。
「そうだ!」
エマルーリは折れたレイピアを持つ右手を振った。
すると、折れてしまった刀身の根元の部分から黒い影が伸びていった。影は本来のレイピアの形のシルエットを作っていく。シルエットが完成した瞬間、影は実体化し、レイピアは折れる前の姿を取り戻した。
そして、エマルーリはレイピアを左腕の二の腕に当て――
引いた。
ここは街の中、非戦闘区域だ。
本来なら武器の判定は無効化され、武器がダメージを与えることはない。
でも、お母さんのアバターの左腕には細い傷が走っている。
これもバグのせいなのだろうか?
それともエマルーリの持つ特殊な能力なのだろうか?
「やめろ! せいちゃんを傷つけるな!」
「本当に全然痛くないのね。この女にはもっと痛がってもらいたかったんだけど。つまんないわ」
エマルーリは左腕の傷の少し下の辺りをまた斬った。
細い傷が二つ並んだ。
「これ、そのうち死んじゃうんじゃない? 私はこの体から抜け出せばいいだけだけど、この女自身はそうはいかないものね」
……どういうことだ? ちょっとおかしなことを言ってないか?
「でも安心して? コーヤを連れて帰るには体が必要だし、ここで死ぬようなことはしないわ。そうだ! コーヤを切り刻む時に、一緒に切り刻んであげるね! コーヤもそのほうが嬉しいでしょ? ……本当はこんな女、今すぐ死んでほしいけど」
もしかしたら、エマルーリは仮想世界での死と現実の死との区別がついていないのかもしれない。エマルーリはお母さんの脳内から『リュンタル・ワールド』の知識を引き出している。お母さんは仮想世界で死んだことはもちろんないし、仮想世界で死んだらどうなるのかなんて考えたこともなかったかもしれない。だから、仮想世界で死んでも現実世界に戻されるだけ、という情報をお母さんの脳内から引き出せず、そのことに気づいていない可能性がある。
エマルーリが一歩前に出た。お父さんが突きつけている剣との距離が縮む。
さらに前に出る。お父さんはエマルーリを睨みつけたまま剣を引いた。引かなければお母さんのアバターを貫いてしまう。
「そう。それでいいの。抵抗はやめて、私の言うことを聞いて。コーヤ、一緒に帰ろう?」
「断る」
「どうしても?」
「そうだ」
「……じゃあ、仕方ないわ」
恋人におねだりをして断られたように、体をくねらせ、甘く拗ねる。
突然、様相が一変した。
エマルーリが突き出したレイピアを、お父さんが白銀の盾を出現させ防いでいた。
いつ攻撃したのか、いつ防御したのか、わからないくらい一瞬だった。
キイイイィィィン、と甲高い金属音が鳴り響いているのを、遅れて認識した。
「どうしても一緒に帰ってくれないなら、ここで切り刻もうと思ったんだけど」
「生憎、俺にそんな趣味はないんでね」
さっきまでの甘い表情は消え失せ、お父さんを睨みつけるエマルーリ。
お父さんもエマルーリを睨みつけている。
いくら中身がエマルーリでも、アバターはお母さんだ。お母さんの姿でお父さんに殺気を向けるエマルーリに、嫌悪感を覚えずにはいられない。
エマルーリはレイピアを突き続けた。お父さんも盾で防ぎ続ける。
現実世界の普段着を着ている普通の女の人が、鎧を纏った背の高い男を一方的に攻撃している。なんだか異様な光景だ。
普通に考えれば、こんな攻撃が通用するはずがない。
しかし、実際は違った。
お父さんが掲げる白銀の盾に、少しずつヒビが走り出した。
本物のリュンタルからこの仮想世界に現れ、非戦闘区域で攻撃ができてしまうエマルーリのことだ。常識的には考えられないことをやってのけても、おかしくはない。
ヒビはどんどん大きく、細かく走っていく。
ついに耐え切れなくなった盾を、レイピアが砕いた。飛び散る破片の中を突き進むレイピアがお父さんの体に到達し、白銀の鎧の腹部に小さな傷をつけた。
「お父さん!」
僕は右腰の剣に手を掛けた。
「ダメだリッキ、来るな」
エマルーリが繰り出すレイピアの攻撃を体を躱して避けながら、お父さんは叫んだ。
「でも!」
「……せいちゃんを傷つけないでくれ」
「お父さん! こいつはお母さんじゃ――」
「わかってる。わかってるけど、リッキ、攻撃しないでくれ。頼む」
僕は見守っているしかないのか。お父さんが一方的に攻撃されている姿を。
僕は剣の柄から左手を離した。
アイリーもエマルーリの後ろで杖を構え、いつでも攻撃できるようにしていたけど、構えを解いて僕のそばに駆け寄った。シェレラも僕の隣でいつでもお父さんに回復魔法をかけられるように準備している。
「お父さん、やっぱり攻撃しづらいのかな」
「忘れないでお兄ちゃん。あの中にはお母さんもいるってこと」
アイリーが囁く。
「お母さんはエマルーリって女に取り込まれてる。だからもし殺した場合、エマルーリがリュンタルに戻される時にお母さんの意識も一緒にリュンタルに持ってかれちゃうかもしれない」
「なんだって!?」
「もちろん、それだけじゃないだろうけど。私だって攻撃するフリくらいはできても、本当にお母さんに攻撃するなんて嫌だよ」
僕だってその気持ちはわかる。
でも、このままじゃ何も変わらない。
盾を失ったお父さんは、エマルーリの攻撃を体を躱すことで回避している。剣は右手で握ったまま、全く使っていない。レイピアを剣で弾くことすら、お父さんは拒んでいる。エマルーリの攻撃は速く激しく、躱し切れなかった攻撃がお父さんの鎧の傷を増やしていく。傷は大きな亀裂となり、今にも砕けてしまいそうだ。
「もう少し、もう少しでコーヤを切り刻める」
エマルーリの昂揚した声が、手出しできない僕たちの耳を汚す。
ここは仮想世界だ。エマルーリが知らないだけで、本当にお父さんの体が切り刻まれるなんてことはない。
それでも、お父さんはただひたすら攻撃を躱し続けている。
それは――。
お母さんだって、お父さんを攻撃したくないに決まっているからだ。
いくら仮想世界だからって、お父さんはお母さんを攻撃したくないし、お母さんもお父さんを攻撃したくない。だからお父さんはエマルーリと剣を交えようとせず、ただひたすら攻撃を躱しているんだ。
「うわっ」
攻撃の激しさに圧されたのか、お父さんは体のバランスを崩し、仰向けに転んでしまった。すかさずエマルーリがレイピアを突き出す。
――ことはなかった。
「うっ……!」
エマルーリは急に体をこわばらせた。
「くっ……邪魔をするな、コーヤの妻」
「……こうちゃん」
お母さん?
「こうちゃん、わたしを殺して」
さっきまでの殺気立った表情はなくなり、穏やかな顔で少し微笑んでいる。震える体が少しずつ後退し、レイピアを握る右手も少しずつ開いていく。
「……引っ込め、コーヤの妻」
「こうちゃん、今のうちに、早く」
アバターの中で、お母さんとエマルーリが戦っているんだ。
お母さんとエマルーリの意識がせめぎ合い、いつものお母さんの表情になったかと思えば、殺気立ったエマルーリの表情になったりする。体もお父さんから離れようとしたり近づこうとしたり、反発し合う二つの意思が戦っているのがわかる。
お父さんは立ち上がって、お母さんのアバターに剣を向けた。
でも……動かない。
足が震えている。
「お父さん!」
「わかっている! だけど……」
「コーヤ、あなたがこの体を斬ることなんて、愛する女を殺すことなんて、できるわけないよね? そうだよね? コーヤ」
今のエマルーリは思うように体が動かず、無防備だ。
仮想世界の死と本当の死の区別がついていないエマルーリは、言葉でお父さんの攻撃を牽制し、死を防ごうとしている。
お父さんの足が、前に出ない。
決してエマルーリの挑発に従っているのではない。単純に、お母さんのアバターを斬るという気持ちに、どうしてもなれないんだ。
「こうちゃん、はや……く……」
「うるさ、い、黙……れ……」
「こう……ちゃ……」
お母さんの表情がめまぐるしく変わる。
でも、だんだんお母さんの声が弱く、途切れがちになってきた。右手から離れそうになっていたレイピアも、また強く握られようとしている。
その時だった。
僕の右腰から、剣が抜かれた。
えっ? と思う間もなかった。
僕の細身の長剣を手にしたシェレラが、真っ直ぐエマルーリに向かって走っていく。そして、
「やあーっ!」
掛け声とともに、シェレラの持つ剣がお母さんのアバターの左胸を貫いた。
「そん……な、バカ、な」
エマルーリは目を見開き、震えながら自分を攻撃したシェレラを見つめている。
心臓を貫かれてしまったのでは、残りのHPがいくらあろうが関係ない。
「……ありがとう」
最期にそう言い残し、剣を背中から突き出したまま、お母さんのアバターは消えた。
「リッキ、アイリー、早く清花さんのところへ!」
振り返りざまにシェレラが叫ぶ。
アイリーの指が動いた。
「リッキ! 早くログアウトして! 早く! 清花さんを!」
呆然とその様子を見ていた僕は、はっと我に返った。
僕は急いでログアウトした。
◇ ◇ ◇
「お母さん!」
隣の愛里の部屋のドアを開けた瞬間飛び込んできたのは、外したゴーグルを手にしたまま動かないお母さん。
「こうちゃん、ごめんなさい……。こうちゃん……」
うわ言のように呟くお母さんの虚ろな目からは涙が流れている。
隣にいた愛里が、お母さんを抱きしめた。
「お母さんのせいじゃないよ。お母さんは悪くないよ」
愛里も泣いている。
「お母さんがあんなこと思っていたから、こんなことになっちゃった」
「違うよ! 違うって! 悪いのはあの女なの! お母さんじゃない!!」
愛里は涙声で絶叫した。
トントン――と、階段を上がってくる音が聞こえた。
「立樹、清花さんは……」
振り向いた僕に、駆けつけてきた智保がそっと囁く。
「うん……」
僕は部屋の前に立ったまま、中に入ることも、智保に何かを言うことも、できなかった。
部屋の中のすすり泣く声だけが、空気を支配している。
突然流れだした音楽が、静寂を打ち破った。
愛里はその音源であるスマートフォンをお母さんのポケットから取り出すと、僕と智保の間を割って部屋を出て、隣の僕の部屋に入った。
僕も後を追って部屋に入った。智保も愛里の部屋のドアをそっと閉め、僕に続いた。
「お父さん? 私……うん、今ちょっとお母さん電話に出れる感じじゃないから……うん、大丈夫。私もお兄ちゃんもいるし、智保も来てくれてるし……ううん、そんなことないって。お父さんのせいじゃないって……うん、わかった。待ってる」
俯き加減で立ったまま電話をしていた愛里が、顔を上げた。表情は曇ったままだ。
「お父さん、これから帰ってくるって」
「そっか……」
お母さんだけではない。お父さんにとっても、ショッキングな事件だったことは間違いない。
「お母さん、そっとしておいてあげたいから、ちょっとここにいさせて」
愛里はベッドに腰を下ろした。
智保も愛里の横に並んで、ベッドに腰を下ろす。
僕は学習机の椅子に、自分自身の体を投げ捨てるように座った。
ふーっ、と大きなため息をつく。
誰も何も言わず、ただ時間が過ぎていく。
沈黙を打ち破ったのは愛里だった。
「智保、ありがとう。お母さんを救ってくれて」
「だって、あのタイミングでああするしかなかったでしょ?」
重々しく口を開いた愛里に、智保は平然と返した。
お母さんがエマルーリの支配から離れているうちに、お母さんのアバターを殺す。
そうすべきだということは、わかっていた。
でも、お父さんだけでなく、僕も愛里も動けなかった。
智保だけがしがらみや場の流れに囚われることなく、取るべき行動を取った。
「立樹、どうだった? あたしの剣は。なかなかやるでしょ」
「……うん。助かったよ」
智保はいつもと全然変わりない感じだ。でも、僕は愛里と同じで、気分は重い。
「あたし自信持っちゃった。あたしだってやればできると思うの。これからは回復魔法だけじゃなくて剣もやるからね!」
「いや……それはどうかな」
「大丈夫。やれる。間違いない」
「やめたほうがいいって!」
「そんなことないって。剣が使えて回復魔法もできる。あたし最強。愛里ちゃんもそう思うでしょ?」
「え、えっ?」
ずっと表情を曇らせていた愛里が、きょとんとして隣に座っている智保を見た。
「えっと、それは……」
口の端を引きつらせうっすら笑いながら、愛里は答えを言い澱んでいる。智保を見ていた目は横目になり、視線の先は完全に僕だ。そして徐々に顔の向きが追いついてきて、すっかり智保ではなく僕に引きつった顔を見せている。
ダメだ愛里、僕に振るな。自分で答えろ。
僕は小刻みに首を横に振った。たぶん、僕の顔も引きつっている。
――カチャリ。
小さな音が聞こえた。愛里の部屋のドアノブの音だ。
続いて、トン、トンと、間隔を空けて静かに階段を降りる音。
僕はそっとドアを開けた。
ちょうど階段を下りきった、お母さんの後ろ姿が見えた。
「どう? お母さん、大丈夫そう?」
愛里が小声で様子を訊いてきた。
「うん、たぶん大丈夫……だと思うけど」
僕たちは音を立てないように階段を下りた。
お母さんは……自分の部屋に戻ったようだ。
チャッ、という小さな音とともに、静かにお母さんの部屋のドアが閉まった。
「じゃあ、あたし帰るね」
智保はそのまま玄関に向かった。
「うん、ありがとう」
「ありがとう智保。後は私たちでなんとかするから大丈夫」
小さく頷いた愛里を見た智保は、
「じゃあ、またね」
と軽く手を振って玄関を出て行った。
◇ ◇ ◇
しばらくして、お父さんが帰ってきた。
お母さんの部屋で、二人だけで話をしていた。
時間は、意外と短かった。
その後、僕の部屋で愛里と一緒にお父さんの話を聞くことになった。
「すまなかった」
ベッドに座ったお父さんの、最初の一言はこれだけだった。
「お父さんが悪く思うことなんてないって。お父さんのせいじゃないって」
頭を垂れるお父さんの隣で、愛里が言う。
「悪いのはあのエマルーリって女なんでしょ? お父さんはむしろ被害者じゃん」
「でも、バグがなければこんなことは起きなかった。あのゴーグルがバグを起こすと知りながらOKを出したのは父さんなんだから。その結果がこれだ。父さんの責任だ」
お父さんはまだ俯いている。
僕は気になっていることを訊いた。
「お父さん、エマルーリって人はどうして仮想世界に来ることができたの? そもそもどうして仮想世界のことを知っていたのか……」
「……エマルーリは
リュンタルにそんな人間がいたなんて……。
そして、お父さんはそんな人間と戦っていたんだ。
「例えば、フォスミロスの家の庭の木に止まっている小鳥が『門』を見ていたり、リッキたちが話していたのを聞いていたりしたとする。エマルーリならその小鳥を探し出して、記憶を読み取ることだってできるだろう。そもそもエマルーリ自身が鳥や動物をリュンタル全土に放って情報を得ている可能性だってある。エマルーリなりに研究を進めていたということは、否定できない。
そして、せいちゃんのゴーグルが生んだバグに、リュンタルと繋がる何らかの作用があったのだろう。エマルーリがそれを感知してしまったんだ。せいちゃんがゴーグルを使うたびにその作用が大きくなって、ついにエマルーリが侵入できるまでになってしまった……」
最後は途切れそうな小さな声だった。
それでもお父さんは、小さな声を振り絞って話し続ける。
「昨日、イシュファにせがまれて旅の話をしたんだ。その時にエマルーリの話をしてしまった。それがせいちゃんの意識に大きく影響してしまったんだろう。俺があんな話をしなければ、こんなことは起きなかったかもしれない」
俯いたままのお父さんの顔を、横から愛里が覗きこむ。
「お父さん、顔を上げて? エマルーリはリュンタルに帰っていったんだから。もういいじゃん」
少し間を置いて、お父さんは顔を上げた。
「そうはいかない。表向きは目に見えないけど、内部にはまだバグの残骸が残っているんだ。だから、それを取り除かなければならない。これからすぐ会社に戻って作業をするよ」
「え、もう行っちゃうの? もうちょっとお母さんのそばにいてあげてよ」
「……さっき、せいちゃんの部屋に行っただろ? そうしたらさ、こっちが謝るより先にせいちゃんから励まされちゃってさ。『なに落ち込んでるの、しっかりして』って。『こんなところにいるより、やらなきゃいけないことがあるんじゃないの?』って。せいちゃんには参ったよ。父さんなんかより、せいちゃんのほうがうんとしっかりしているよ。
だから父さん、もう行くから。泊まり込んでの仕事になるかもしれない。大丈夫だとは思うけど、やっぱりせいちゃんのこと心配だからさ。二人ともせいちゃんのこと頼むよ」
「うん、わかった。……じゃあお兄ちゃん、とりあえずお昼作ってくれる?」
「へっ!?」
ずいぶんといろんなことがあったように思ったけど、時計はまだ十二時になっていなかった。『リュンタル・ワールド』にログインしたのは朝食が終わってすぐのことだったし、まだこれくらいの時間だというのも当然だった。
「いやあ……全然予定になかったからな。どうしよう」
「なんでもいいから!」
「わ、わかったよ! ……とりあえず台所に行こうか」
僕は部屋を出て、台所に向かった。
僕が台所にいる間に、お父さんはまた会社に行った。
愛里はこれから昼食だということをお母さんに伝えに行ったんだけど……。
断られてしまった。
やっぱり、ショックは大きく、かなり落ち込んでいるみたいだ。
僕は残っていた野菜の切れ端を炒め、インスタントラーメンを茹でた。
リビングで野菜ラーメンを食べている間、僕と愛里は何も言わず、ただ麺をすする音だけが聞こえていた。
午後は夏休みの宿題に時間を充てた。
愛里はあの事件が変な噂になっていないか調べていたみたいだ。なんせ『門』の前での出来事だったし、非戦闘区域での戦闘でもあった。見た人もいただろうし、目立ったことだろう。
でも、特に騒ぎにはなっていないようだった。目撃したからといって誰も彼もがネット上に書き込んだり言いふらしたりして騒ぎ立てる訳ではない。その点では幸運だった。
お母さんはずっと部屋に籠りっきりで、夕食も食べなかった。
お父さんには気丈なところを見せていたみたいだけど、さすがに心配だ。
◇ ◇ ◇
「お母さんね、今日は美容院に行ってくるからね!」
お母さんはいつものテンションで話しながらトーストにサラダを乗せ、フレンチドレッシングをかけ、二つ折りにして口に運んだ。ちょっと前まではトーストにママレードを塗ってサラダは別に食べていたけど、最近はこのパターンがお気に入りのようだ。
心配していたけど、一晩経ってすっかり元気になったみたいだ。
今日と明日は予定が入っているから『リュンタル・ワールド』では遊ばない、というのは元々決まっていたことだ。美容院はいい気分転換にもなるだろう。昨日のことは忘れて、この現実の世界を楽しんでほしい。
僕は今日も夏休みの宿題だ。愛里だって宿題があるのに、全く気にすることなく今日も『リュンタル・ワールド』だ。僕と違ってアイリーの友達はたくさんいるから、一緒に遊ぶ相手に困るなんてことは起こらない。むしろここ数日ずっと僕たちと一緒だったから、こういう日こそ友達と遊ばなきゃ、って考えらしい。智保も回復魔法の使い手として助っ人稼業に行くらしい。
ちょっと前まではよくあったことだけど、なんだか懐かしい。
何事もなく、一日が過ぎていった。
お父さんは今日も帰ってこない。ずっと会社でバグを取り除いている。
お母さんは……今日はちゃんと、僕と愛里と一緒に夕食だ。
「お母さん、髪型似合ってるね!」
愛里が唐揚げを頬張りながらお母さんの新しい髪型を褒めている。お母さんは美容院の帰りに『からあげ皇帝』に寄って、この間の話に出てきたクリームシチュー味とコンソメ味の唐揚げを買ってきた。愛里が食べているのはクリームシチュー味のほうだ。
これまでのお母さんは髪が首の後ろと横を隠していたけど、今は首周りを隠すものがなく、ずいぶんとすっきりしている。後頭部にアップで束ねられた先はくしゃっとしたウェーブがかかっていて、垂れ下がらないほどの長さだ。色も全体的にちょっと明るくなっただろうか。
「いいでしょこれ! 『じもたうん』で広告にするからって写真撮影したのよ! お母さん有名人になっちゃうわね!」
「そうなの? すごいじゃん!」
『じもたうんねっと』は地域に特化した情報サイトで、日本全国の情報が掲載されているけれども、実際には地元の住民が利用するためのサイトだ。新しいお店ができたとか、イベントの情報、アルバイトの募集、逃げてしまったペットの特徴などが掲載されている。
広告バナーを出しているお店もたくさんある。お母さんが行っている美容院もそのひとつなのだろう。愛里は「すごいじゃん」とか言っているけど、いくらモデルとして使われたってどうせ限られた地域の人しか見ないんだから、有名人になんてなりっこない。
そんなことより、お母さんが昨日の出来事から完全に立ち直っているのが、僕は嬉しかった。
久しぶりに食べたコンソメ味の唐揚げもおいしかったし。僕はどちらかと言うと、クリームシチュー味よりはコンソメ味のほうが好きだな。
◇ ◇ ◇
「お母さんね、今日は映画を見に行ってくるからね! 午前中に一本見て、午後からまた一本見るのよ。それから服を買ったりとか、それから……」
今日のお母さんも朝からいつもの、つまり高めのテンションだ。トーストにサラダを乗せてフレンチドレッシングをかけて二つに折る。昨日と同じだ。
いつもより少し早口で朝食を食べたお母さんは、
「お母さん今日は急いでるからすぐに行くわね」
そう言ってまだ朝食を食べている僕と愛里を置いて、さっさと出掛けてしまった。お母さんが最初に食べ終わるなんて、あまり記憶にない。
「……お母さん、元気だね」
一昨日のあの事件の後の落ち込みようが嘘みたいだ。まるで最初からあんなことなんてなかったかのようだ。
「うん、やっぱりお母さんはああじゃないとね。私やっぱり元気なお母さんが好きだよ」
愛里だけじゃない。僕だって同じだ。いつもの元気なお母さんに戻ってくれて、僕も嬉しい。
「お兄ちゃんさ、今日どうする?」
愛里は今日も焼かないままの食パンをもそもそ食べている。
「そうだなー、今日も宿題かな?」
「えーまたー? 今日土曜日だよ? なんで遊ばないの?」
「夏休みなんだから土曜日とかそんなに関係ないだろ。それに愛里だってちょっとは宿題やったらどうなんだよ。まだ全然やってないだろ」
「あーいいっていいって。なんとかなるって。それに私にはハルナ先生がいるんだし。期末テストの結果も思ってたより良かったし、やっぱりハルナ先生に教えてもらうと違うんだよねー」
「あのなあ……」
僕は二枚目のトーストを食べ終えた。
「玻瑠南だってそんなにヒマじゃないんだからな。今日だってピアノの発表会があるんだし。ちょっとは人に頼らないで自分で努力して勉強しろよ」
「お兄ちゃんだって智保に教えてもらってるじゃん」
「僕は自分で勉強してるよ! 本当にわからないとこだけ智保に教えてもらってるんだよ! 夏休みになってからだって、まだ智保には来てもらってないんだから」
なんだかちょっと腹が立ってきた。
「じゃあ僕は勉強してるからな!」
ちょっと怒り気味に言い放って、席を立った。
「ふーん。頑張ってね。私、今日は久しぶりにレイちゃんと遊ぶことになってるから」
「え、レイと?」
リビングから出ようとしていた僕は、愛里のそっけない言葉に立ち止まり、振り向いた。
レイは力も技もトップクラスの大剣使いだ。体格は普通の女の子と変わりないのに、赤い髪と赤い瞳、そして赤で統一された衣装から繰り出される攻撃は、まるで炎が踊っているかのように躍動し、見る者を魅了する。
「どうしたのお兄ちゃん? 勉強頑張ってね」
立ち止まっている僕の心を、愛里が突き放す。
「あ、ああ……。うん……」
気持ちが揺らいだ。
レイの剣技を見たい。
一緒に戦いたい。
レイのような一流の剣士と一緒に戦えるのは、同じ剣士として最高に楽しい。
「な、なあ、愛里……」
「またシロンがいないんだってさ。夏期講習の合宿? とか言ってるみたいなんだけど、とにかくシロンがいないの。それで、でかいクエストやるからどうしても六人必要だからってことでヘルプで入ることになったの」
「えっ、じゃあ、もうメンバーは六人揃っているのか……」
「そうだけど? でもお兄ちゃんには関係ないよね? 勉強頑張ってね。シロンは明日もいないらしいから、私は明日もレイちゃんとこ行くけど」
「…………」
悔しいやら残念やら仕方ないやら、複雑な気持ちだ。
レイと一緒に戦うのは、諦めるしかない。
「あーそっかー。今のうちに宿題やっておいて後でハルナとおもいっきり遊ぶんでしょ。二人っきりで。それじゃあ智保には勉強教えてもらえないよねー。『どうして急に勉強頑張ってるの?』なんて訊かれたら、答えられないもんねー」
愛里は妙に芝居くさく大げさに気持ちを込めて言っている。
「な……なんだよそれ。そりゃあ明日からはまたハルナの剣の練習に付き合うかもしれないけどさ、だからってそんな言い方ないだろ」
確かに、智保と玻瑠南は仲がいいのか悪いのかなんだかよくわからない関係だし、智保にそう訊かれたら答えられないかもしれないけど……。
でも、そこまでは考えていなかった。単純に、『リュンタル・ワールド』ばっかりやっている日が続いたから、宿題もやっておかなきゃと考えただけだ。
「お兄ちゃん頑張れー」
愛里はニヤニヤ笑っている。
「が、頑張れって、何を」
「別にー」
「…………」
愛里の言いたいことはわかる。玻瑠南との恋愛を頑張れ、ってことなんだろう。愛里にいちいち言われなくたって、玻瑠南の想いに応えなきゃって気持ちはある。あるんだけど……。
ちゃんとできているのか、それとも空回りしているのか、よくわからない。
とにかく、明日になったらハルナと会うことになるだろう。ハルナの剣の練習に付き合うことが、今の僕にできることだ。それは間違いないはずだ。
僕も愛里も、明日お母さんと一緒に遊ぶことは考えていなかった。
あんな目に遭ったんだ。
お母さんは、もう『リュンタル・ワールド』に行くことはないだろう。
玻瑠南には「飽きちゃったみたい」とでも言っておけばいい。
これまで通りの日々が、戻ってくるだけだ。
まだ白い食パンをもそもそ食べている愛里を置いて、僕は勉強を始めるため、自分の部屋に向かった。
◇ ◇ ◇
夕方になろうとしている。
宿題はかなり進んだ。これなら明日からまた『リュンタル・ワールド』で遊び続けていても大丈夫だろう。
そろそろ夕食の支度をしなければならない。
今日はどうしようかな。お母さん、また唐揚げ買ってくるかな。だとしたらあまり油を使わないものを作ったほうがいいかな……。さっぱりしたものがいいかな。冷製パスタとか? 愛里はトマトが好きだし、そうしようか……。
スマートフォンが鳴った。
玻瑠南からだ。
「立樹、今からリュンタル行ける?」
いつもより早口だ。息が弾んでいるように聞こえる。
「え、今から?」
てっきり明日からだと思い込んでいた。
「さっき発表会が終わったところなんだけど、どうしてもすぐ会いたくって。私もうダメ。禁断症状出ちゃって。立樹に会えないと死んじゃう」
「いやあ……死んだりはしないと思うけど」
「すぐそこにネットカフェあるから。そこから行く」
ってことはピアノの発表会にゴーグルを持って行ったのか。最初からそのつもりだったな……。
でも、そこまでして僕に会いたいと思ってくれていることは嬉しい。その気持ちに応えなきゃ。
「じゃあ、ちょっとだけね。夕食作んなきゃならないからさ」
冷製パスタを作るんだったら、そんなに時間はかからない。
お母さんが何時に帰ってくるのかはっきりしないし、お父さんはそもそも帰ってくるのかどうかもわからないし、ちょっとくらいリュンタルに行ってたって問題ないだろう。
電話を終え、僕はゴーグルを手に取った。
◆ ◆ ◆
(あれっ? 視線が低い……?)
『門』の中で、アミカは戸惑っていた。
今日リュンタルに来たのは、ゲームをするためではない。立樹に会う代わりに、リッキに会うためだ。
あくまでも現実世界の代わりとしての仮想世界だ。
だから玻瑠南もアミカではなく、自身をそのまま投影したハルナでログインしたつもりだったのだが……。
先にログインして出迎えてくれたリッキも、戸惑った顔をアミカに見せている。
気持ちが逸りすぎた。焦ってうっかりミスをしてしまった。
言い訳をしようにも、ミスをしたのは玻瑠南なのであってアミカとして何かミスをしたのではない。アミカが言い訳をするのはおかしい。
一瞬の判断で、アミカは空間をなぞった。
Amica: 急ぎすぎてアカウント切り替えるの忘れちゃった
口に出すことはできない。方法はこれしかない。他の誰にも内容が知られることがないこの方法を、妥協点とするしかない。
半透明のウィンドウの向こうで、メッセージを読んだリッキがちょっと吹き出しそうになっている。
アミカは恥ずかしさを隠すように、目を斜め下に伏せた。
「アミカ」
リッキが呼んだ。
顔を上げたアミカに、リッキは続けた。
「おいでアミカ。久しぶりだね、二人きりって。今日は何して遊ぶ?」
◇ ◇ ◇
てっきりハルナが現れるものだと思い込んでいたからちょっと戸惑ってしまったけど、アミカと一緒にいるのだってもちろん楽しい。
アミカと二人きりってのは、ちょうど一ヶ月前かな。ギズパスの地下都市で宝箱から伸びる触手のモンスターと戦った、あの時以来だ。
「わーい」
笑顔を輝かせながら、『門』を出たアミカが飛び込んできた。勢いよく抱きつかれ、倒れそうになるのを必死で堪える。
「遊ぶって言っても、あんまり時間がないから、クエストとかは無理だよ? 街の中を歩いてお話ししたりとかしかできないけど」
「うん、それでいいよ」
「……アミカ、離れてくれる?」
アミカはまだ僕に抱きついたままだ。これじゃ歩くことはできない。
「いーの」
「ほら、時間があんまりないんだしさ。このままだと何もできないうちに時間がなくなっちゃうよ?」
「それでもいーの」
アミカは全然離れようとしてくれない。むしろ力を込めて僕を抱きしめている。
「リッキもアミカのことぎゅーってして」
しょうがないな。
アミカの後頭部と背中に手を添えた。
『門』から淡く白い光が立ち上ろうとしている。
なんか恥ずかしくて、あんまり人に見られたくないけど、だからと言ってこの場を動くこともできないし。
どうせ、見知らぬ他人がたまたま通るだけだ。関係ないさ。
そう思ってぼんやり『門』を見ていたけど……。
おかしい。
綺麗な円筒を作るはずの白い光が、至る所で小さく点滅して暗い灰色になったりしている。その点滅は小さな四角形をしていた。荒いドットに見えるそれは現れては消え、また現れ、やがて『門』全体に広がって……。
光が消えた。
地面に描かれた『門』が、荒くバグっている。
その中心に立っている、見知らぬ女。
でも……誰なのかというのは、なんとなくわかった。
色白でくっきりとした目鼻立ち。ややクセのある、肩までの黒い髪。
白と黒の衣装に身を包んだその女の、どこか昂揚した最初の一言が、それを確定させた。
「――あなたのお父さんはどこにいるの? ねえ教えて? コーヤの息子」
僕は右手でアミカの後頭部を抱き寄せるように押さえた。
背中から離した左手で、メッセージを打つ。
Rikki: えまがきた
変換している余裕はなかった。
○ ○ ○
「じゃあ、また明日」
「うん、またね」
アイリーが加わったパーティのメンバーたちが帰っていく。すぐそこにある『門』で移動する人もいれば、そのままログアウトする人もいる。
このクエストは四つの関門をクリアしなければ最終地点に辿り着けない。そのうち二つ目の関門をクリアしたところで一旦終了し、明日再開することになった。元々二日がかりでクエストに挑む予定であり、順調に進んでいると言える。
六人のメンバーのうち四人が去り、アイリーの隣にレイがいるだけとなった。
「私もうちょっと遊んでいきたいんだけど、レイちゃんどうする?」
「特にはないけど……強いて言えば、明日に備えて剣の手入れとか、そんな感じかな」
「レイちゃん抜かりないねー。……っと」
電子音が鳴った。手紙の形のアイコンが点滅している。
アイリーはメッセージを開いた。
「どうしたアイリー? 急に顔色変えて」
「ごめんレイちゃん! またね!」
アイリーはすぐそこの『門』に飛び込んだ。
「アイリー! 待って、わたしも行く」
白い光が立ち上り円筒となって、二人の少女を包み込んだ。
○ ○ ○
「よし、いよいよ最下層に到達するぞ」
ダンジョンの奥で、大剣を担いだ男が囁く。
大きな体に似合わず声が小さいのは、この層に降りて来た時に、その瞬間にモンスターに見つかり危うく死にかけるという経験をしたため、それを警戒しているのだ。
他の男たちも口を噤み、足音を立てないように階段を降りる。
そんな中。
「あっ」
パーティでただ一人の女が、無造作に声を出した。
その、金髪のショートカットの女が、右手の人差し指を空中で動かす。
一瞬の後。
「ちょっと急用ができちゃった。あたし帰るね」
「ええっ!?」
「シェレラ、ここまで来てなんで……」
「これからいよいよってところだ……」
男たちの声を最後まで聞くことなく、シェレラはその場で姿を消した。
◇ ◇ ◇
「帰れ」
「冷たいこと言わないでよ。教えて? コーヤはどこ?」
今すぐ斬りかかりたい。
この間みたいに、エマルーリとの戦闘は有効になっているはずだ。
でも、今の僕はアミカに抱きつかれている。
動けない。
「教えるはずがないだろ」
「けちね。それくらい言ってくれたっていいじゃない」
「リッキ、だれと話しているの?」
僕に埋もれるように抱きついていたアミカが、少し顔を上げた。
「なんでもないよ。心配しないで」
僕は囁いた。
アミカをトラブルに巻き込みたくはない。
ましてや本物のリュンタルが関わっていることならなおさらだ。
アミカの後頭部に添えている右手に、少し力が入った。
「別にあなたじゃダメってことはないけど、やっぱり私はコーヤが好きなの。だからコーヤを連れて帰って切り刻みたいのよ。どうしても教えてくれないっていうんなら……こうすれば、いいのかしら?」
エマルーリ右手の人差し指を動かし、杖を取り出した。
「この世界は便利ね。こうやって空中から取り出せばいいのだから」
そう言って頭上に杖を掲げた。杖の先の
そのままエマルーリは動かない。
何も起きない?
違う!
空から何かが降ってくる!
轟音が鳴り響いた。
それも、街のあちこちから。
「キャーーーーーッ」
アミカの叫び声が、僕の胸にぶつけられた。
空から降ってきたのは、隕石だった。
降りそそぐ隕石が、街の建物を破壊していく。
隕石はさらに降りそそぐ。そのうちの一つがやけに大きく見え……こっちに近づいてきているんだ!
一際大きな轟音と地響き。
この噴水の広場に、隕石が落ちた。
地面に大穴を穿った隕石が衝撃で破裂し、破片がこっちに飛んできた。破片といっても当たれば致命傷となる大きさ、そして速さだ。思わずアミカを抱きしめ、顔を伏せた。
破片は、ここまでは飛んでこなかった。
顔を上げた僕の目に入ってきたのは……足だけとなった建国王の像。
その足だけでも人間と同じくらいの大きさがある巨大な像が隕石の破片を受け止め、僕とアミカの盾となり、砕け散ったのだ。
僕はエマルーリを睨みつけた。
「こんなことをやっても無駄だ! すぐに帰れ!」
「早くコーヤの居場所を教えなさい。……直接痛い目に遭えば言ってくれるのかしら?」
エマルーリは杖を前に突き出し、『門』から一歩踏み出した。
そして、その隣の『門』が白く光り出した。エマルーリは立ち止まり、振り向いて『門』の様子を見ている。
ひょっとして仲間でも来るのか?
でも、一歩踏み出した後に立ち止まって振り向いたままなんて、なんだかタイミングがおかしいな。仲間が来るんじゃないのか……?
立ち上った白い光の円筒が、徐々に降りていく。
現れたのは――。
「な、何これ? どうなってるの?」
変わり果てた街の光景に驚いて声を上げる、全身ピンクの魔法使い。
その隣には、大剣を背負った真紅の剣士。
「アイリー! レイ!」
仲間は仲間でも、僕の仲間だ。
「レイちゃんどうしてついてきたの!」。
「いや、ただごとじゃない様子だったからつい……」
どうやらアイリーは一人で来たつもりだったようだ。きっと僕がアミカにこの事態を見せたくないように、アイリーもレイには見せたくなかったのだろう。
二人の女の子を見たエマルーリが、静かに、そして昂ぶった声をあげた。
「あら、あなたも来てくれたの? コーヤの娘」
「あんたが本当のエマルーリなの?」
「あなたなら教えてくれる? コーヤはどこに――」
赤い炎が飛び散った。
エマルーリが話し終わるのを待たず、アイリーが炎の玉を放ったのだ。
至近距離からの不意打ちだったけど、エマルーリは瞬時に杖で炎の玉を受け止め、弾き飛ばした。破壊された炎の玉がちりぢりになり、四方八方へと飛んでいく。
レイが背中の大剣を抜いた。アイリーの攻撃を見て、この白黒の服の女が敵であると、そして街の中といえども戦闘可能であると判断したのだろう。
レイの加勢は、戦力を考えればありがたい。
でも、本物のリュンタルに関わることを、他人に知られたくはない。
アミカにすら知られたくないのに。中身の素性を全く知らないレイになら、なおのこと知られたくない。
「リッキ、なにが起きているの?」
僕に抱きついたままのアミカが必死に問う。僕が後頭部を押さえて抱いているので、アミカは振り返ることができない。
「大丈夫だよ」
「アミカも戦う!」
「大丈夫だから」
「リッキ、かくしごとしないで! アミカを信じて!」
「……わかった」
僕はアミカを押さえつけていた手を離した。
アミカも僕を抱きしめていた手を離した。周囲の惨状を確認し、見たことのない白黒の服の女を見やる。
「あいつの、しわざなの?」
僕は右腰に下げた剣を左手で掴み、抜いた。
「危なくなったらすぐに逃げるんだよ」
アミカだって戦えば強いのはわかっている。
でも、本物のリュンタルから来た奴を、アミカと戦わせたくはない。
僕は前へと駆け出した。
一瞬先にレイが斬りかかった。エマルーリはレイの剣を杖で受け止めた。その背後から僕は斬りかかった。
一瞬振り返ったエマルーリが、ニヤリと笑う。
気付かれた!?
いや、最初からわかっていたのか。
エマルーリが空中に出現させた、半透明の膜。
斬りかかった僕の剣が、その膜に包まれた。剣の勢いが止まり、エマルーリまで届かない。
膜の効果は一回だけらしく、衝撃を受け止めきった膜が消滅した。しかしその間にエマルーリは飛び退き、距離を取った。
「さすがに一人じゃ分が悪いみたいね。でもこれならどう?」
エマルーリは杖で地面を叩いた。
すると、広場一帯の地面から黒い影がゆらゆらと生えてきた。
エマルーリがもう一度杖で地面を叩くと、影は実体となっていく。
モンスターだ。
ネズミや狼、鹿、猪など、動物型のモンスターが広場のあちこちに出現した。
いや、違う。
『リュンタル・ワールド』にはいないような奴らも混ざっている。
こいつらは本物のリュンタルの魔獣だ。
エマルーリは魔獣を自らの手で創り出すような人間だ。きっとこの魔獣たちもそうなのだろう。
「行け!」
エマルーリが杖を振りかざし号令をかけると、魔獣たちは一斉に僕たちに向かって突進してきた。
体をびっしり鱗で覆った大トカゲの魔獣が僕に迫ってきた。こいつと戦うのは簡単だ。『リュンタル・ワールド』にも似たモンスターはいる。それに何より、僕が本物のリュンタルで初めて戦闘をした時の魔獣がこの大トカゲだった。僕は身を翻し、大トカゲの後ろに回った。首の周りの逆立った鱗の隙間に剣を突き刺す。大トカゲは絶命し、光の粒子と化した。
僕以外にも魔獣は襲いかかっている。アイリーは杖で、レイは剣で、アミカは弓で応戦している。地面からは影が生え続け、魔獣は尽きることなく襲いかかってくる。その間にエマルーリはさらに隕石を降らせ、街を破壊していく。本当は魔獣じゃなくてエマルーリを攻撃したいのに、それどころではない。数に任せて押し寄せて攻撃してくる魔獣の群れを、ひたすら受け止めて戦うしかない。
大トカゲを倒した僕に襲ってきたのは……なんだこいつは。
蛇が立っている。
尻尾だけを地面につけ、五メートルくらいの体のほとんどが垂直に立っている。しかも頭には一角獣のような角。『リュンタル・ワールド』のモンスターにはいないタイプだ。
蛇の魔獣は体をしならせ、そして一気に伸ばした。頭の角が僕を串刺しにしようと迫ってくる。僕は素早く右に跳んで躱した。角が左の脇腹をかすめ、僕の後ろへと伸びていく。それに続いて胴体が空中を走る。もし貫かれていたら絶対に死んでいただろう。
蛇の魔獣は僕を中心に円を描くように体を曲げた。逃げ場をなくすつもりか、それとも巻き付いて締め上げようとでもいうのか。僕はさらに右へ逃げた。蛇の胴体を飛び越える。
その瞬間。
狼のような魔獣が猛スピードで右から突っ込んできた。僕はまだ着地していない。体勢を変えられず、左利きの僕では右の真横から来る敵に対応できない。
狼の魔獣の牙が、僕の右太ももを抉った。着地した僕は立っていられず倒れ込む。さらに噛み付こうとしてくる狼の魔獣から、僕は転がって逃げる。他の魔獣たちも集まってきた。攻撃を避けるのに精一杯で、ポーションを飲む余裕がない。このままでは死んでしまう。何か方法は……。
HPが回復していく。
僕は、何もしていない。
それなのに、抉られた右太ももが、元のあるべき形に戻っていく。
立ち上がった僕は、集まってきた魔獣たちを次々と剣で仕留めていく。狼の魔獣も、喉笛に噛み付こうとジャンプしてきたところを下から剣を跳ね上げて腹から胴体を真っ二つに斬り裂いた。
HPが回復した理由――一つしか考えられない。
前にもこんなことがあった。
僕は『門』を見た。
金髪のショートカットの女の子が、人差し指と中指に指輪を嵌めた右手を前に突き出している。
「シェレラ!」
僕だけではなくみんなもHPが減っていたようだ。シェレラは次々と回復魔法をかけていく。
「近くに『門』がなくって、一旦ログアウトして再ログインしていたら時間がかかって」
「来てくれただけでもありがたいよ!」
再び襲ってきた蛇の魔獣を躱しながら感謝する。
でも、いくらシェレラが回復してくれるっていったって、魔獣が無限に出現するのではいつかは力尽きてしまう。
アミカが魔獣の攻撃をかいくぐりながら僕のところに来た。
「きりがないから。ちょっと守って」
僕の背中で、アミカが呪文の詠唱を始めた。
蛇の魔獣が僕に狙いを定めている。さすがにこいつの攻撃は避けなければならない。アミカの盾になったところで、アミカごと貫かれてしまうだろう。
シェレラも僕の元へ駆け寄ってきた。
「あたしに任せて」
シェレラは蛇の魔獣を見据え、呪文を一言発した。
右手の中指の指輪が、紫に輝く。
蛇の魔獣は……構えたまま動かない。いや、ゆっくりと動いてはいるが、まるでナメクジにでもなってしまったかのように遅い。
シェレラの魔法が、蛇の魔獣の時の流れを歪めたのだ。動物型のモンスターにだけ効果がある、一定時間動きを封じる魔法だ。
「シェレラ、こんな魔法使えたっけ?」
「こんなこともあると思って、昨日覚えた」
本当に今日こんな戦闘が起こるとわかっていたはずはないんだけど、覚えたばかりのスキルや魔法がさっそく役に立つことが、なぜかシェレラにはある。
ただ、相手は蛇の魔獣だけではない。影は今もゆらゆらと地面から生え続け、実体化して魔獣となっている。魔獣たちは僕を標的と定め、集まってくる。
蛇の魔獣への魔法の効果も、そろそろ切れそうだ。
「アミカ! 早く!」
僕が振り返った時、アミカの右手の指輪が金色に輝いた。
広場一帯に、雷が降り注ぐ。
魔獣たちはアミカの雷撃魔法を受け、一斉に焦げた体から煙を吐き出した。
痙攣し倒れながら、魔獣たちは光の粒子となって消えていった。
「ピカピカして綺麗ね~」
シェレラがのんびりと場違いな感想を漏らす。
「つよい雷をいっぱいおとしたかったから、時間がかかっちゃった」
「ありがとうアミカ。おかげで助かったよ」
アミカは言い訳をしたつもりなのかもしれないけど、全然そんなことはない。このレベルの魔獣を一掃できる魔法を使えるなんて、アミカくらいしかいない。
「死ね!」
静かになった広場に響いた声。
魔獣が全滅した余韻に浸ることなく、レイがエマルーリに斬りかかった。
うなりをあげた大剣が空を斬る。
「ちぃっ」
舌打ちしたレイが見上げた空中に、背中から黒い翼を生やしたエマルーリが浮かんでいた。
僕たちはレイの元に集まり、エマルーリを見上げた。
「いいかげんに諦めろ! おとなしく帰るんだ!」
「諦めろですって? 笑わせてくれるわね。遊んであげているのがわからないの? 私が求めているのはコーヤだけなんだから。コーヤが来るまでずっといたぶり続けてあげるわ」
エマルーリは地上に向けて杖を動かした。動きに沿って空中に魔法陣が描かれる。
アイリーが炎の玉を、アミカが光の矢を放ってエマルーリを攻撃した。しかしエマルーリは魔法陣を描きながら半透明の膜を出現させた。炎の玉も光の矢も膜に受け止められ、エマルーリには届かなかった。
魔法陣が完成し、一瞬光った。
平面の魔法陣から立体の何かが少しずつ、姿を現してくる――。
足、だろうか。それにしてはずいぶんと巨大だ。
続けて太ももから腰、分厚い胸、異様に長い腕、そして最後に頭が姿を現した。
こいつは……魔獣、なのだろうか。
いや、人間のような形をしている。魔獣ではなさそうだ。
何より、魔獣とは決定的に違うところ。それは――。
「どう? 私が作った機械のゴーレムは。今度はこの子と遊んでくれる?」
人間の形をしたそれは、金属で構成されていた。
エマルーリはこんなものまで創り出せるのか。
機械のゴーレムは空中の魔法陣からゆっくりと降りてきて、着地した。
着地の衝撃が地響きとなり、僕たちの足元を揺らす。
とにかく大きい。壊れてしまった建国王の像が確か五メートル近くあったはずだけど、こいつはさらに大きい。八メートルくらいか?
着地の衝撃に合わせたかのように、地面のあちこちから生えてくる黒い影。
影は実体化した。これもやはり機械の人間だ。ただし、ゴーレムと違って大きさは普通の人間と変わらないし、構造も単純そうだ。おそらく、ただの量産型の兵士だ。
「またアミカがやっつけちゃうよ」
アミカが呪文の詠唱を始めた。
「そうはいかないわ」
エマルーリは地上の僕たちを見たまま、杖を空に向けてぐるぐる回した。
何も変化が起きていないように見えるけど……。
アミカの人差し指の指輪が金色に光った。
しかし、雷が機械兵やゴーレムに降り注ぐことはなかった。
雷は地上に到達することなく、上空で閃光を散らして消えていった。夜が近づき薄暗くなってきた空を、線香花火のような光の瞬きが埋め尽くす。
「あっはっはは」
エマルーリの高笑いが響き渡る。
「そんな……」
アミカが愕然として力なく声を漏らした。
「空全体に
シェレラがゆっくりとした声で説明する。
「リッキ、みんな、ごめんね」
「謝ることはないよ」
僕は、剣を片手にこっちに向かって歩いてくる機械兵の集団を見据えた。
「エマルーリだって、もう隕石を落とせなくなったはずだ。街の破壊はもう止まった。後は僕たちが戦って勝つだけだ」
『リュンタル・ワールド』のモンスターには、機械兵なんていない。
機械兵相手に剣が効くのだろうか……。
それでも、戦うしかないんだ。
エマルーリの目的を阻止するだけなら、方法は単純だ。
お父さんが『リュンタル・ワールド』にログインしなければいい。それだけだ。僕たちだって逃げてしまえば戦わなくてすむ。
でも、きっとエマルーリはお父さんが現れるまで街を破壊し続けるだろう。ピレックルだけではなく、『リュンタル・ワールド』中の街を破壊し尽くすに違いない。
そんなことは、絶対にさせるわけにはいかない。
僕たちは、ここで戦い続け、勝つしかないんだ。
○ ○ ○
「ただいまー。ちょっと遅くなっちゃった」
帰宅した清花は靴を脱ぐと、薄暗い家にやや違和感を覚えながら、リビングから台所へと向かった。
「りっくん、今日の晩ご飯……あら?」
この時間、いつもなら台所で料理をしているはずの立樹がいない。
「りっくーん? あいちゃーん?」
階段の下から、二階にいるであろう二人を呼ぶ。
返事はない。
「もう、まだゲームやってるのかしら。しょうがないわね……」
清花は腕組みをして悩んでいたが、十秒もしないうちに、
「そうだ!」
リビングに置いたカバンの中から、スマートフォンを取り出した。
「こうちゃんのゲームのアプリから呼び出せばいいんだわ! 便利になったわね~」
『リュンタル・ワールド』を始める前はできなかったが、今なら自分のアカウントからメッセージを送ることができる。
たどたどしい手つきでアプリを開く清花。
「遊ぶのもいいけど、ちゃんとご飯を食べなきゃダメってしっかり言わなきゃ」
料理をするのは立樹だというのに、それでも清花は母親として叱らなければと思っている。
「えっと……こうやるんだったかしら」
清花はメッセージボックスを開いた。
本来であれば、もっと早く気づいていたかもしれない。
音が鳴らないよう、映画館に入った時に通知を全てオフにしたままにしていたのを、清花はすっかり忘れていた。
だから、メッセージが来ていたことに気づかなかった。
Rikki: えまがきた
「うそ…………そんな…………」
スマートフォンを持つ清花の手が震えた。
◇ ◇ ◇
HPを少しだけ減らすことはできる。
でも、魔獣を斬るように機械兵を斬ることはできなかった。
レイは斬るというより叩き割るように戦っている。でもレイの大剣と違って僕の剣は細身だ。そんな戦い方はできない。注意深く関節を狙い、タイミングよく攻撃するしかない。
物理攻撃が効きにくいモンスターには魔法がよく効く。ゲームでありがちな設定だ。
アイリーの炎の玉やアミカの光の矢のほうが、僕の剣より有効のようだ。それでも一撃で倒すことはできず、繰り返し攻撃を放ってやっと一体を倒すことができていた。
文字通り矢継早に攻撃し続けるアミカに対して、アイリーの攻撃はどことなく遠慮気味だ。いつもなら派手に炎をぶっ放すのに、攻撃のペースが落ちている。
「アイリー、もっと大きな爆裂系の魔法でいっぺんに攻撃できないのか?」
「あれMP消費大きいから。クエストが終わって回復しないでそのまま来ちゃったから、ちょっと節約しないと。マジックポーションの補充もしてないし」
「アイリー、わたしのせいで」
レイはアイリーに近寄り、迫ってきた機械兵を大剣で砕いた。
「レイちゃんは悪くないって。悪いのはあいつだから」
アイリーの前に立ち塞がり次々と機械兵を叩き割るレイに、アイリーは反論した。
「それに、やっぱりレイちゃんが来てくれてよかった。私たちすごい助かってる」
それは僕も思っている。僕は機械兵の関節を狙って攻撃することでなんとか戦えているけど、レイの攻撃は問答無用だ。
レイだけではない。
アミカも本当はこの戦闘に関わってほしくなかった。でも、魔獣との戦闘を終わらせたのはアミカだ。アミカなしでは僕たちは戦えていない。今だって光の矢を放って必死に機械兵と戦っている。
それでも機械兵との戦いは終わらない。魔獣と同じく機械兵も次々と生えてくる影から実体化し、僕たちに襲いかかってくる。戦闘が終わる気配は全く感じられない。
そして。
大きな地響き。
後方でじっと控えていたゴーレムが動き出した。
一歩、また一歩と、その巨大な足を踏み出すたびに地面が揺れる。
「リッキ、上!」
シェレラの声に反応して、空を見上げると。
黒い翼を音もなく羽ばたかせ、エマルーリが迫ってきていた。
「お前のせいで失敗した。お前だけは私が直接殺してあげる」
エマルーリは杖の先から伸びる長い刃を構築した。杖は槍となり、シェレラを襲う。
「シェレラ!」
僕はシェレラの前に立ち塞がり、上空から迫るエマルーリを迎え討った。
キイイイイイィィンッ!
高い金属音が鳴り響く。
「邪魔をするな、コーヤの息子」
エマルーリは黒い翼で羽ばたきながら、空中から繰り返し槍を突き出す。
僕は突き出された槍の先を打ち払う。空中にいるエマルーリには、槍をかいくぐって懐に飛び込むことができない。突き出された槍を打ち払うことしか、僕にはできない。
ちらりと横を見たエマルーリ。
半透明の膜に突っ込む炎の玉。
アイリーが隙を見てエマルーリを攻撃したけど、僕からの攻撃を受けることがないエマルーリには余裕があった。きちんと反応し、アイリーからの攻撃を防いだ。
「無駄よ。あなたたちがどうあがいても、私には勝てないわ。おとなしく負けを認めて、コーヤをここに呼んでくれる? そうしたら許してあげてもいいわ」
会話をする必要はない。僕は黙ったまま、空中のエマルーリを睨みつける。
しかし――。
睨みつけたエマルーリの背後の空を隠す巨体。
機械の体をしたゴーレムが、僕に恐怖を与える。
どう戦えばいいんだ?
無理だ。
でも、戦わなきゃ。
「あのゴーレム、心臓がある。そこを壊せばいいみたい」
<分析>を使ったシェレラが、背中から教えてくれた。
「ありがとう。やってみるよ。シェレラは危ないから下がってて」
いくら弱点がわかっても、攻撃する方法なんてない。
でも、そう答える以外の選択肢を、僕は考えなかった。
エマルーリの背後から、ゴーレムが長い左腕がしならせ、真横から薙ぎ払うように殴りかかってきた。僕は後方にジャンプして躱した。下がっていたシェレラと軽く触れ、シェレラが僕の背中を受け止める。
エマルーリが距離を詰めて槍を突き出す。シェレラはさらに下がった。その後ろには隕石の落下を受け原型を留めていないショップが立ち並んでいる。もう下がれない。僕はエマルーリの槍を打ち払った。ゴーレムの振り抜いた左腕が裏拳となって戻ってきた。僕は真上にジャンプした。
ゴーレムの拳は大きい。ギリギリ躱したと思ったけど、踵がゴーレムの拳にかすってしまった。僕はバランスを崩し、尻から着地して手をつく。そこへゴーレムの右拳が飛んできた。
僕は為す術がなかった。
ゴーレムの右拳が、僕の体を吹き飛ばした。
ここは仮想世界だ。痛みはない。
HPもギリギリ足りた。
でも、僕とシェレラは離ればなれになってしまった。
シェレラは防護壁を張った。
エマルーリは槍の先を光らせ、防護壁を突いた。防護壁はあっさりと砕け散った。
シェレラにはもう何も手段がない。
エマルーリが槍を構える。
僕がシェレラを守らなきゃ。
でも、強い衝撃を受けた影響で体が思うように動かない。
痺れる腕を、届くはずがないとわかりつつ伸ばす。
その先に。
赤い疾風が駆け抜けるのを、僕は見た。
キィンッ!
高い金属音が一瞬だけ鳴った。
エマルーリの槍が弾かれ、その勢いでエマルーリの体が後退した。
「エマルーリ。お前だけは絶対に許さない」
絶体絶命だったシェレラの前に立ちはだかり、黒い翼を羽ばたかせるエマルーリにレイピアを突きつける、以前とは違う髪型の、赤いビキニアーマーの女戦士。
「セキア!」
「お母さん!?」
僕とアイリーが同時に驚きの声を上げた。
「何か仕掛けがあるんだろうとは思ったが、やはり生きていたか、コーヤの妻」
仮想世界の仕組みを理解しきっていないエマルーリが、そう言って槍を握り直す。
「お母さん、どうして来たの! 危ないよ!」
「心配はいらない。これは私が決着をつけるべき問題だ」
エマルーリが突き出した槍を、セキアが弾き返す。ゴーレムの拳も悠々とジャンプして躱した。
その間にシェレラは回復魔法でみんなのHPを回復させている。僕のHPも回復した。癒えた体で立ち上がり、戦場へと駆け戻る。
「シェレラはMP残ってるの?」
「あたしもクエストの途中で抜けてきたから、あんまり……」
「リッキ、シェレラを連れて離れた場所へ。そのほうが戦いやすい」
「わかった」
セキアがエマルーリとゴーレムを引きつけている隙に、僕とシェレラは回り込むようにしてその場から離れた。
「逃がさないよ」
黒い翼を羽ばたかせ、エマルーリが追ってきた。
「待て!」
「お前はゴーレムが相手してやるよ」
エマルーリを追おうとしたセキアの前に、ゴーレムの巨体が立ちはだかる。
「これくらいの図体のやつなら倒したことがある」
セキアはゴーレムの足首を力任せに斬りつけた。
キイイイィィ……ンッ
レイピアの刀身が半分だけちぎれ、あさっての方向へ飛んでいく。
あんなにレイピアは折れやすいと、刺突に向いていると言ったのに!
こんな金属の巨体相手に斬りつけるなんて!
大事な時こそやらかしてしまうのが、やっぱりお母さんなのだろうか。
ゴーレムが拳を繰り出す。
セキアはジャンプして躱しながら壊れたレイピアを投げ捨て、あるアイテムを取り出した。
一瞬にして、ゴーレムの頭が吹き飛ぶ。
セキアの右手にある薄灰色のアイテム……カイの拳銃。
音もなく発射された弾丸が、ゴーレムの頭を撃ち抜いたのだ。
本物のリュンタルに銃は存在しない。何が起こったのか理解できないエマルーリが、空中に留まりゴーレムとセキアを見ている。
しかし。
ゴーレムは一瞬動きを止めたものの、またセキアに拳を振るい始めた。
「! まだ動くのか!」
「セキア! 頭じゃない! ゴーレムの弱点は心臓だ!」
「そうか! わかった!」
セキアはゴーレムの拳を躱しながら、ゴーレムの左胸に弾丸を放った。
ゴーレムの金属の胸にヒビが走る。
セキアは続けて引き金を引いた。
二発、三発、四発。
弾丸がゴーレムの左胸を大きく穿つ。
「これが最後の一発だ!」
五発目の弾丸が、ゴーレムの左胸を貫いた。
ゴーレムの巨体がふらつく。
長い腕を大きく振り、バランスを取ろうとするゴーレム。しかし体の揺れは収まらない。
ついに巨体を支え続けられなくなり、ゆっくりと仰向けに倒れた。
大きな地響きを立てた直後、ゴーレムは光の粒子となって消えた。
セキアはカチカチと引き金を鳴らしながら、拳銃をしまった。
「そんな……まさか、ゴーレムが、私のゴーレムが」
空中でエマルーリが震えている。
「
セキアは大きく息を吸った。
そして……聞き覚えのある、高く澄んだ歌声が響き渡った
アーピの歌声。
セキアの体が仄白く輝く。
歌い続けるにつれ、僕たち全員の体も仄白い光を帯び、HPやMPが最大値まで回復していく。
それだけではない。
地面から立ち上る影が、実体化することなく消えていく。機械兵の動きも鈍りだした。体にサビが浮かんでいる機械兵すらいる。
「これなら遠慮なく戦える!」
アイリーが大きな炎の玉を群がる機械兵に向けて放り込んだ。炎の玉は爆発し、脆くなった機械兵たちを破壊した。レイの大剣は一撃で機械兵を切り裂き、アミカの光の矢も機械兵の体を貫いた。
機械兵は、全滅した。
「コーヤの妻……お前、何者なの?」
エマルーリが空中からセキアを見下ろす。
「決めた! コーヤの前に、まずお前を切り刻んでやる」
エマルーリはセキアを睨みつけた。
その場に留まりながら黒い翼を羽ばたかせる。
すると。
突然、セキアに向かって槍を突き出し、猛スピードで滑空した。
セキアは丸腰だ。危ない!
……などと、思う間もなかった。
槍を見切ったセキアが、躱した瞬間にその先の右腕を掴んでいた。
「やあああああぁぁっ!」
セキアの気合いが、広場に響いた。
エマルーリの体が、突撃のスピードそのままに、腕を掴むセキアの手を中心に綺麗な弧を描く。
イシュファの体術をセキアの力強さで食らったエマルーリが、猛烈な勢いで背中から地面に激突した。黒い翼が根元からちぎれ飛ぶ。
「ぐは……あぁっ」
痛みはなくても、衝撃はある。
エマルーリは動けない。
セキアは腕を掴んだまま、エマルーリの顔を踏みつけた。
女戦士の固い靴底が、狂科学者の頬を醜く歪める。
僕たちは駆け寄り、瀕死のエマルーリを取り囲んだ。
「お前の負けだ」
セキアが冷酷に告げた。
「どうする? こいつ」
僕は迷っていた。
こんな奴、死んでしまえばいい。
でも、いくら悪人であっても、エマルーリは人間だ。
僕は人間を斬ったことはない。
さすがに躊躇してしまう。例えここが仮想世界だとしても、だ。
電子音が鳴った。
Koya: これからそこに行く
メッセージを読んだのとほとんど同時に、『門』が白く光った。
現れた白銀の鎧姿のアバターは、二十年前の若いころのお父さんではなく、今のお父さんだ。それでも、セキア同様、若く見えるけど。
セキアに踏みつけられているエマルーリの顔は『門』がある方向を向いている。駆け寄ってくるお父さんの姿が、エマルーリにも見えているはずだ。
「コーヤ、来てくれたのね」
駆け寄ったお父さんに、エマルーリが顔を歪めたまま歓喜の声を漏らす。
「お願いコーヤ。助けて。コーヤなら私を」
「エマルーリ、お前を拘束する」
お父さんはエマルーリの言葉を聞かず、一方的に告げた。右手の人差し指が滑らかに動く。そして――
エマルーリの姿が消えた。
顔を踏みつけていたセキアの赤いブーツが地面を踏み、軽く足音が鳴る。
「エマルーリは俺が預かった。後は任せてくれ。……外から状況を見ていたけど、酷いなこれは。すぐに復旧に取り掛からなくては」
お父さんは周囲を見回し、さんざん破壊された街並みの様子を確認している。
僕も、他のみんなも壊れた街並みをあらためて見て、被害の大きさを感じている。
静かな時間が少し流れた、その時。
「戦闘は終わった、ってことでいいのかな?」
レイがエマルーリを取り囲んでいた輪から外れ、『門』の方向へ歩き出した。
「それじゃわたしは帰るから。アイリー、また明日」
「うん、ありがとうレイちゃん。また明日」
レイが手を振り、アイリーも手を振った。レイは『門』の白い光に包まれ、姿を消した。
「アイリー、さっきの子、大丈夫かな。ちゃんと黙っていてくれるだろうか」
「大丈夫。レイちゃんは信用できるフレンドだから」
他人には知られたくない今回の事件だったけど、レイなら言いふらすようなことはしないだろう。そもそも事件の真相なんかには全然興味を持っていないのかもしれない。
「ねえねえこうちゃん、わたしカッコいいでしょ! 写真で見たのと比べてどう? 本物のほうがカッコいいでしょ?」
壊れまくった街の壊れまくった広場に響いた、場違いな明るい声。
戦闘モードだったセキアが、素のお母さんに戻っていた。斜めに立って体をわずかに反らせ、モデルのようなポーズをとっている。
「せいちゃん……すげぇ、鼻血が出そう。そのまま、そのままで。スクリーンショット撮りまくるから。いやでもやっぱ生で見てるのが一番だよな。もっと、もっとよく見せて」
「こう? こうかしら?」
お母さんはポーズを変えた。
「せいちゃん最高!」
「お父さん! 何やってんだよ全く! お母さんも変な挑発しないで! せめてさ、二人っきりの時にやってくれないかな、そういうの」
アミカがぽかーんと口を開けてお父さんとお母さんを見ている。
初めて見た僕のお父さん――このゲームの開発者でもあるお父さんがこんな人だって知ったら、こうなってしまうのは当然の反応だろう。
「あっ」
お父さんがアミカの様子に気づいた。というよりも、お母さんに見とれるあまり、アミカがここにいたこと自体を忘れてしまっていたのかもしれない。
お父さんはアミカの前で膝立ちになった。二人の顔が、同じ高さになった。
「えっと……名前、アミカちゃん、だったよね。いつもリッキやアイリーと一緒に遊んでくれてありがとう。お願いがあるんだけど、今日のこと、みんなには内緒にしておいてくれないかな」
「う、うん、いいよ。ないしょにする」
「ありがとう。かわいい声をしているね」
「だってアミカはアイドルだもん!」
「アイドル!? そうだったのか。かわいい顔にかわいい声、アミカちゃんは全部かわいいから、きっとファンも多いんだろうね。ファンクラブってあるのかな。どこで申し込めばいいのかな。もしないんだったら俺が作っちゃおうか……な?」
お父さんは、首筋に冷たいものを感じた、はずだ。
僕が当てた、細身の長剣の冷たさを。
「ひぃっ! リッキ! な、何するんだ!」
何するんだ、じゃないよ全く。
本物のリュンタルで、お父さんはこれと同じことをやって、ヴェンクーのナイフの冷たさを同じように首筋で味わったじゃないか。
尻餅をつきうろたえるお父さんを僕は見下ろし、静かに、冷たく言った。
「アミカの中身、玻瑠南だから」
「ハ、ハルナ? ハルナって、リッキの、あの」
お父さんはものすごい勢いで首を傾け、アミカを見上げた。
「ハルナ……さん、ですか?」
アミカは黙って頷いた。
「え、えっ、みんなは、みんなは知ってたの?」
お父さんはぐるりと周りを見回した。
アイリーも、シェレラも、お母さんも、首を縦に振った。
「いつか、ちゃんと言うつもりだったんだけど……」
アミカはアミカのまま、玻瑠南としての気持ちを言った。
「こうちゃん」
お母さんはしゃがんで、尻餅をついたままのお父さんに手を差し伸べた。
お父さんはその手を取った。
「痛てててててっ!」
お母さんが、力いっぱいお父さんの手を握り返したのだ。
もちろん痛くはないのだが、つい反射的に言ってしまったのだろう。
「わたし、こうちゃんがエマルーリに騙されたの、わかった気がする!」
大きな声でそう言い放つと、お母さんは手を離し、立ち上がった。
「バカコーヤ! 今日は晩ご飯抜きです! いいわね!」
尻餅をついたままのお父さんに言い放つ。
「お母さん、晩ご飯抜きって、どうせ作るのは僕じゃないか……、あれ、お、お母さん!?」
お母さんの姿が、薄くなっていく。向こう側の壊れた街並みが透けて見える。
「あ、あら? あら……」
お母さん自身も、一体何が起こったのか、理解できていないみたいだ。
そして、何度か点滅した後、お母さんは完全に消えてしまった。
「お母さん!?」
「せいちゃんの体を見てきてくれ!」
「うん!」
お父さんの指示に、アイリーが素早くログアウトした。
アイリーに続いて、僕も慌ててログアウトした。
◇ ◇ ◇
「お母さん! 大丈夫?」
隣の愛里の部屋に駆け込んだ僕を見る、お母さんと愛里。
「りっくん、これ、壊れちゃった」
お母さんが両手で持っているものは――。
ヒビ割れたゴーグル。
「きっとお母さんがパワー発揮しすぎたから壊れちゃったんだよ。古いゴーグルだったし、しょうがないって」
悲しそうな顔のお母さんを、愛里が慰めた。
バグを重ねながらプレイを続けてきた代償が出てしまった。
古いゴーグルには、これ以上負担に耐えるだけの力は残っていなかったんだ。
「りっくん、あいちゃん、お母さんはもうこうちゃんのゲームできないの?」
「大丈夫だよお母さん。明日新しいゴーグルを買いに行こうよ。愛里も一緒に行ってくれるだろ?」
「当たり前じゃん。私、まだまだお母さんと一緒に遊びたいし」
電子音の音楽が流れた。
愛里のスマートフォンからだ。
「あ、お父さん? うん、大丈夫。お母さんなんともないよ。……うん、お母さんのゴーグルが壊れちゃってさ、物理的に。もう再起不能みたいだから、明日新しいの買おうって話してたとこ。……わかった。みんなで見るからパソコンで開くね。ちょっと待って」
愛里がパソコンの操作を始めた。
「お父さんが動画を見てほしいんだって」
お父さんからのメッセージに添付された動画。
それは――。
四方を石の壁に囲まれた狭い部屋。窓どころか扉すらない。
そこにいるのは抜け殻のように生気がなくぐったりと床に座り込んだエマルーリと、ネズミのような小さな生き物。
「お父さん、これ、生の動画?」
「ああ、今現在のエマルーリだ」
お父さんの声がパソコンから流れてきた。
「一体どういう方法を使ったのかはわからないが……今日のエマルーリはバグを利用し、ログインして『リュンタル・ワールド』に現れた。ログインしたとシステムに錯覚させたんだ。マップ上の同じ座標に転送されたヴェンクーと違って『門』から出現したのも、それが理由だ」
ヴェンクーが『リュンタル・ワールド』に現れた時は、洞窟の中で倒れていた。それはヴェンクーが本物のリュンタルで洞窟で倒れた時にバグが発生したからだ。
でも、エマルーリはそうではなかったらしい。
「エマルーリの体はイレギュラーな存在ではなく、正規のアバターとして処理された。ウィンドウを開くこともできたし、ステータスも設定されていた。もっとも、ステータスはバグで改竄されまくっていたけどね」
これはきっとセキアが強いのと同じようなものだ。初心者なのになぜかバグで強くなってしまっていたセキアと違って、エマルーリは意図的にステータスを強くしたみたいだけど。
「つまり、エマルーリがリュンタルに戻るには、フィールドにバグを発生させ体を転送させるのではなく、ウィンドウを開いてログアウトする必要がある。だから、それを利用したんだ。
このエマルーリと一緒にいるネズミ型のモンスターは攻撃力が全くなく、そしてあらゆるダメージを無効化する。今のエマルーリは戦闘中の扱いだけど、戦闘を終わらせることができない。つまり、ログアウトができない。
本当はこんなこと、やりたくなかった。エマルーリがおとなしくしていてくれれば、それが一番良かったんだが……。もし殺したとしたら、ただ元に戻るだけだ。全てを断つチャンスがあの瞬間だった。この部屋はHPが赤になるのが発動条件だ。あの時しかなかったんだ」
僕は、エマルーリなんか死んでしまえと思った。
でもお父さんは、エマルーリに死ぬことを許さなかった。死よりも過酷なことを、エマルーリに与えた。
死んでしまえば、エマルーリの意識は本物のリュンタルに戻ってしまう。仮に『リュンタル・ワールド』に戻ってくることがなかったとしても、本物のリュンタルではこれまで通り自由に動くことができる。これまで通り、危険なモノを生み出すことができてしまう。
お父さんは、その道すらも断ってしまったんだ。
「戦闘に巻き込んでしまい、すまなかった。俺が出て行って戦うべきだったのかもしれないけど、余計な混乱を招く恐れがあったから、戦闘が終わるまで行けなかった。みんなよく戦ってくれた。そして……せいちゃん、ありがとう」
お母さんは愛里からスマートフォンを受け取った。
お父さんの声がパソコンから聞こえてくるからだろうか、お母さんはスマートフォンを顔の正面でマイクのように持っている。
「こうちゃん、もう、何も心配しなくていいのよね?」
「うん、そうだよせいちゃん。安心して」
「わたし、明日もこうちゃんのゲームで遊んでいいのよね?」
「もちろんさ! いいに決まっているじゃないか!」
お母さんは僕と愛里の顔を見て、にっこりと微笑んだ。そして、
「なんだかほっとしたらお腹が空いてきちゃったわ。りっくん、晩ご飯にしましょうよ」
「そうだね! お兄ちゃん、今日のメニューは何?」
「えっと……冷製パスタ、かな」
いつもの元気なお母さんが帰ってきた。
「こうちゃんは晩ご飯抜きですからね! 先に壊れちゃった街を直すこと! いいわね!」
お母さんは顔の正面に持ったスマートフォンに向かって、笑顔のまま言った。
僕も愛里も、お母さんはもう『リュンタル・ワールド』をしないものだと思っていた。
でも、お母さんはまだこれからも続けるつもりのようだ。
エマルーリは囚えられたんだし、もう心配はない。
また一緒に遊ぶことができると思うと、嬉しくて仕方がなかった。
早く明日になれ。
僕は心の中で叫びながら階段を駆け下り、台所へと向かった。