第四章 三日目・午前
朝食といえば食パンとサラダ、というのが沢野家の常識だ。
昨日までの出来事が嘘のように、僕はトーストにマーガリンを塗り、お母さんが唯一まともにできる手料理であるサラダをトーストに乗せ、二つ折りにした。
一口かじる。カリッと香ばしいトーストの表面、柔らかい内側の次に、シャキッとした瑞々しいレタスの感触。これまで何度も何度も食べてきた、ごく普通の朝食だ。
今日は休みだというのに、お父さんはもう会社に行っている。大人はたまに「昔は六月に祝日なんてなかったのに」って言うけど、僕だって小学校低学年の頃はまだ六月に祝日なんてなかった。それに祝日が増えた今も、お父さんのように朝早くから働いている人だっている。
「りっくん、向こうで何をしてきたのか、お母さんに聞かせてよ」
お母さんはトーストにママレードを塗り、サラダにフレンチドレッシングをかけて食べている。僕もサラダをトーストに挟まずにそのまま食べる時もある。どっちにするかはその日の気分で、特に深い理由はない。どっちかだけだと飽きるからとか、そんな感じだ。
今日も相変わらずの梅雨空で、降水確率百パーセントの予報は見事に的中している。外には出たくない。だから今日はお母さんに本物のリュンタルでの僕の体験を話そう。昨日は結局、もうリュンタルに行けないと知った愛里がショックで塞ぎこんでしまって、それ以上話が進まなかったし。
それにしても愛里は朝食を食べに来ないで、いったい何をやっているんだ? まだショックを引きずって、部屋で落ち込んでいるのだろうか。
「お兄ちゃん、大変だよ!」
愛里がドタドタと大きな足音を鳴らして階段を降りてきた。どうやら元気なようだ。
「あいちゃん、階段を降りる時は静かに……」
お母さんの注意は、勢いよくドアを開け突入してきた愛里に遮られた。
「『リュンタル・ワールド』がバグってるみたいなの!」
「なんだって!」
僕は反射的に立ち上がり、トーストを持ったまま愛里と共にドタドタと階段を登った。
「りっくん、階段を登る時は……」
ごめんお母さん、今は急いでいるんだ。
愛里が掲示板を開いた。いろいろと書き込みされている。
どうやらザコモンスターが凶暴化しているらしい。出現率や強さが普段より高く、また積極的に襲いかかってくるようになっていた。場所はピレックル国内。そして実際に戦った人の書き込みに共通して見られることがあった。
「黒い霧を見た、だって……!?」
「お兄ちゃん、これってやっぱり」
「うん。ヴェンクーが襲われた、あの石版の霧だ。まさか仮想世界に侵入してきていたなんて!」
きっと、ヴェンクーが本物のリュンタルから『リュンタル・ワールド』に来た時、一緒に紛れ込んできたのだろう。
「そうだ! お父さんは?」
「さっきメッセージ送った」
ちょうど電子音が鳴った。お父さんからの返信が、パソコンの画面に表示された。
Koya: 把握している。プログラムに侵入してきてデータを改竄された。乗っ取られる可能性がある。対処に集中したい。
「これって、つまり、コンピュータウイルス!? そんなバカな」
「あり得るよお兄ちゃん。『リュンタル・ワールド』に来た時点で、霧は電子情報化された。悪しき気の集まりである霧は、その本能に従って『リュンタル・ワールド』を悪で染めようとして、プログラムに侵入した。プログラムの支配が成功すれば、『リュンタル・ワールド』を真っ黒にすることだって可能だもの」
「く、詳しいな。僕はあんまりそういうの詳しくないから」
「伊達に廃ゲーマーやってないよ」
あー、ついに自分のこと廃ゲーマーって言っちゃったよ。というかゲーマーってウイルスに詳しいのか?
僕と愛里はすぐに『リュンタル・ワールド』にログインした。
◇ ◇ ◇
噴水の広場は、噂を聞きつけた人たちでごった返していた。ただ、あまり深刻そうではない。笑い声も聞こえる。どうやら野次馬が集まってきただけみたいだ。みんな単なるバグだと思っているのだろう。それは仕方がない。今のところ真相を知っているのは僕とアイリー、それとお父さんだけなんだから。
「あ、レイちゃんだ。おーい、レイちゃーん」
アイリーが人混みの中から知っている顔を見つけた。向こうも気がついたらしく、お互いが人混みをかき分けて近づいた。僕もアイリーについて行く。
「こないだはごめんねレイちゃん。急に抜けちゃって」
「ううん、元々予定外で入ってもらったんだし、全然気にしてないって」
そうだった。ヴェンクーが家に来て急に愛里と智保に集まってもらうことになった時、アイリーはレイって人のパーティに加わっていたんだった。この人がそうか。レイはアイリーよりはちょっと背が高い女の子で、赤い髪が肩に近づくにつれてオレンジ色のグラデーションになっている。装備も赤系統でまとめられていて、背中に剣を装備している。僕の剣より大きいけど、この体で扱いきれるのだろうか。
「私、今ログインしたとこなんだ。レイちゃんは?」
「わたしは一時間くらい前に来たんだけど、ずっとこんな感じ。普段見かけない人が多いから、きっと面白半分で来ているのね。強くなったモンスターを倒しに行くって言うんならわかるけど、つまらないやつらばっかり」
レイってけっこう好戦的なタイプなのだろうか。背中の剣も頷ける。
「アイリー、またわたしのパーティに入ってくれない? わたしと一緒に戦おうよ。今日もシロンがいなくってさ」
レイはアイリーをパーティに招待しようとして、指を動かした。
が、最後まで操作し終わらないうちに、アイリーが首を横に振った。
「ごめんレイちゃん。パーティはもう決めてあるの」
アイリーは僕の手を取った。
「行こう、お兄ちゃん」
そう言うと僕の手を引っ張り、人混みをかき分け歩き出した。
「お、おい。どこ行くんだよ」
僕の声などお構いなしで、アイリーは街の出口へと向かって歩いて行く。
いったいなにが起きたのかという感じで、レイは呆然と僕とアイリーを見ている。
「レ、レイちゃん、初めましてまた後で」
こんな挨拶初めて言ったけど、その声も人混みにかき消されていった。
「今日行くパーティが決まってるんだったら、早く行ったほうがいいんじゃないのか?」
アイリーは人気者だから、パーティに来て欲しいっていうお誘いはきっと多いんだろう。
アイリーの足がぴたりと止まった。
ずっと引っ張られていた僕は、惰性でアイリーとぶつかりそうになった。
距離が近づいた僕を、アイリーが睨む。
「バカじゃないのお兄ちゃん! 何考えてんのよ!」
うわあ、なんだかわからないけど怒らせてしまった。
「えーと、僕、なんか変なこと言ったかな……」
「お兄ちゃんに決まってるじゃない!」
「えっ、何が?」
「私はお兄ちゃんとパーティを組むの! シェレラと三人で! そうでしょう? これは私たちの戦いなんだから」
その瞬間、昨日までのことが頭に甦ってきた。
そうだ、これは『リュンタル・ワールド』の問題であると同時に、本物のリュンタルの問題でもあるんだ。
僕たちが、なんとかしなきゃ。
「お兄ちゃん、私と一緒に戦ってくれるよね?」
アイリーはパーティを作成する操作をしている。指の動きが止まるのと同時に、僕の視界にウィンドウが開いた。
――パーティに参加しますか? <はい> <いいえ>
「ああ、もちろん」
僕はためらうことなく<はい>を選択した。
「あーもうどうして智保と連絡つかないのよー」
シェレラがログインしていない。
アイリーはさっきから智保にメッセージを送っているんだけど、全く反応がない。
「しょうがないさ。きっと大切な用事があるんだよ。とりあえず二人で行こう」
僕とアイリーは、状況を自分の目で確かめるべく、街の外に出た。
「ちょっと黒っぽいね……」
「そうだな……」
ホワイトワーム、というのが正式な名前だ。でもそのイモムシのような姿のモンスターを、プレイヤーの誰もがなんの小細工もせずそのままイモムシと呼んでいる。最弱モンスターの一種だ。
白い姿のそのイモムシが、いつもより灰色がかっている。大きさも普段は一メートルくらいだけど、それより一回り大きい。黒い霧の影響だろう。それに、いつもは街道からやや離れた草むらの中で姿を見え隠れさせているはずなのに、今は草むらから出て隠れることなく堂々と全身を見せている。
「ちょっと戦ってみるか」
「オッケー。お兄ちゃんなら楽勝だよね。でも一応注意して」
「うん。わかってる」
僕は街道から離れ、イモムシへと近づいていった。アイリーも僕の後に続く。
本来なら、この白いイモムシは『リュンタル・ワールド』をその日始めたばかりの初心者ですら倒せるくらい弱い。でも今日の灰色がかってしまったイモムシは、そうではないかもしれない。慎重に攻撃しよう。
そう思っていたら。
向こうから襲ってきた!
普段はこんなことはありえない。いつもなら必ずこちら側から攻撃できるし、攻撃しても反撃してこない時すらあるくらいだというのに。
灰色のイモムシは体をうねらせ、体当たりしてきた。でも所詮はイモムシのスピードだ。楽々攻撃を躱し、横から胴体を斬りつけた。
いつもより手応えがある。本来はイモムシの体はブヨブヨで、ちょっと斬りつければ緑の体液を流して死ぬのが当たり前なのに、密度が詰まっているかのように抵抗があって、剣を振り抜くのに力が必要だった。
それでも問題なくイモムシにダメージを負わせることができた。後はいつものように緑の体液を流して死ぬのを見届ける……はずだった。
死ななかった。
緑の体液を撒き散らしながら、イモムシは体を捻り僕に向かって突進してきた。普段のイモムシからは考えられないスピードだ。僕は剣を正面に構え、イモムシの頭を真っ二つに切り裂いた。
イモムシの体が光の粒子となり、拡散して消えていく。
残された空間には、黒い霧が漂っていた。が、霧はだんだん薄くなり、消えていった。
「ヤバいねお兄ちゃん。一撃で死なないなんて」
「そうだな。黒い霧の影響で間違いないな」
後ろで僕の戦いを見ていたアイリーも、イモムシが強くなっていると感じていた。
「で……、これからどうする? シェレラを待つか?」
「ここまで来てそんなこと言わないよ。私たちだけでも倒せるだけ倒そうよ。……それに、まるでそうしてほしいかのような状況なんだけど」
周りにいた他の灰色のイモムシが、どんどん集まってきた。さらに、新しいイモムシが次々と草むらから姿を現し、こちらに向かってきている。普段ならこんな数のイモムシがいることは、もちろんない。
僕は手当たり次第にイモムシに斬りつけた。どんなに大群だろうが、どんなに強くなっていようが、所詮最弱モンスターのイモムシだ。所詮仮想世界のゲームだ。昨日ユスフィエたちを襲った怪鳥の群れと比べれば、話にならない。何も恐れることはない。寄ってたかって集まってくる灰色のイモムシたちを、僕はひたすら斬った。イモムシたちは次々と光の粒子となって散っていく。残された黒い霧が薄くなり消え去る前に、次のイモムシが光となり散っていく。新しい黒い霧が消え去っていく黒い霧に重なり、そしてまた薄くなって消えていく。僕の体についたイモムシの緑の体液も、消えてはまた新しく僕の体を汚して、そして消えていった。
アイリーはイモムシの群れに炎を放った。次々とイモムシたちが炎に包まれ、光となって姿を消していく。群れを相手にするには、僕のように一匹ずつ斬るよりはアイリーのように集団に効く魔法を使ったほうが効率がいい。
「お兄ちゃん! 気づいてる?」
「わかってるさ! いろいろとな!」
最初の頃は白と比べれば灰色がかっているという程度だったイモムシの色が、新しく生まれてくる度にだんだん濃くなってきている。今ははっきりとした灰色だ。それにつれて強さも大きさも増している。一回や二回の攻撃では倒しきれず、ずっと囲まれたまま戦っていることもあって、イモムシの攻撃を食らうことも多くなってきた。
悪いことばかりではなかった。イモムシの黒さが増すにつれ、得られる経験値やシルが増えてきた。どうやら黒い霧はゲームの法則を律儀に守ってくれているようだ。
そして。
このままではまずい。
いくらイモムシの攻撃といっても、食らい続ければいつかはHPがなくなってしまう。色はどんどん黒くなって攻撃力は上がっていっているし、いくら倒してもどんどん新しく生まれてきているから、群れに囲まれている状況が変わらない。
「アイリー! ひとまず引こう!」
「うん。悔しいけど、しょうがないね。MPが尽きそう」
引くって言ったって大変だ。街道に向かって足を進めながらイモムシを倒し、攻撃を食らいHPが減ったらポーションを飲み、なんとか群れを割り裂く。
街道にたどり着く寸前、電子音が音楽を奏でた。
「レベルアップだ! まさか今さらイモムシでレベルアップするなんて思わなかったよ」
それだけイモムシが強くなっていたし、数多く倒したということだ。
街道へと戻ってきた。イモムシもさすがにここまでは追ってこなかった。
「智保はまだなの?」
街に戻ってきて、アイリーはすぐ智保に連絡を取ろうとしたんだけど、やっぱり反応がない。
「もしかして、昨日の夜までずっとログインしっぱなしだったから、親から『今日はゲーム禁止!』とか言われているのかな」
「うーん、でも、そんな厳しい家じゃないでしょ」
智保がおっとりした性格なのは、おそらく両親のせいだ。智保の両親もどこかのんびりしていて、性格は温厚で、智保が怒られたなんていう話を聞いたことがない。
「もうしょうがないから、シェレラはいないものとして考えるよ。お兄ちゃん、全財産はたいてポーション買って」
「はあ!?」
とんでもない衝撃の一言を、アイリーは事もなげに放った。
「だって回復魔法がないんだよ? ポーション飲むしかないじゃん。私だってマジックポーション買わなきゃならないんだから。マジックポーションは高いんだからね! お兄ちゃんポーション買ったらちょっと分けてよね」
回復魔法がないってのはわかるけど、だからって極端すぎやしないか?
僕はすぐに返事をすることができなかった。少し考え込んでいたら、
「ほら、ショップに行くよ! 急いで!」
アイリーに腕を引っ張られ、強制的にショップに連行されてしまった。アイリーは決断も早ければ実行も早い。こうなると逆らえない。僕はポーションを買えるだけ買わされてしまった。もちろんアイリー自身も、マジックポーションを買えるだけ買った。
「あとはお父さんね。私たちがいくら戦っても、お父さんが負けちゃったら意味ないし。邪魔しちゃいけないとは思うけど、ちょっと訊いてみるよ」
アイリーがお父さんにメッセージを送ったけど、返事はない。
「ああもう! お父さんまで?」
「仕事に集中してるんだろ。しょうがないって」
ウィルス対策はお父さんに任せるしかない。僕たちは僕たちがやれることをやろう。
「行こうアイリー。せっかくポーション買い込んだんだしな」
街の出口は、野次馬たちでごった返していた。みんな街の外を眺めている。
僕も街の外を見た。
「……アイリー、ポーション足りるか?」
「……かなりヤバいね、これ」
ホワイトワーム、とは最早呼べるものではなかった。
すっかり黒く染まったイモムシは、非戦闘区域である街道に進出し、群れをなしてこちらに向かって歩いて来ていた。きっと街に侵入するつもりなのだろう。体は更に大きくなり、三メートルくらいはありそうだ。
街の中はこんなに人が多いのに、街の外に出て戦っている人は一人もいない。
それは当然かもしれない。みんな、ただのバグだと思っているだろうから。バグに積極的に近づこうなんて、僕だって普段なら思わない。
でも、今の僕はそうじゃない。
僕は左手に剣を掴み、街を飛び出した。
弱いモンスターほど、ただ戦えば倒せる。
強いモンスターほど戦い方を考えなければならないけど、その代わり弱点が設定されている。
それが、よくあるゲームのパターンだ。
ただ、本来が最弱モンスターであるこのイモムシには、どんなに強くなろうがたぶん弱点はない。だから戦いは、シンプルな力と力のぶつかり合いだ。
僕は真っ黒い巨大なイモムシに斬りかかった。街の中から野次馬たちの視線を感じる。街道上での戦いも、ギャラリーがいる中での戦いも初めてだ。
イモムシはただ体でぶつかってくるしか攻撃方法がない。斬って一旦引き、その間にアイリーが炎を浴びせる。そしてまた僕が斬りかかる。これならイモムシに攻撃させる隙を与えずに倒せる。ただこれが通用するのは最初の一匹だけだったようだ。周りに集まってきたイモムシが僕とアイリーを取り囲み、この戦法を封じた。
それでも最初の一匹は倒すことができた。イモムシの輪郭が光の粒子となり、散っていく。その場に残された濃く黒い霧が、それに続いて消えていった。
「あっ、レベルアップだ」
そう言いながらもアイリーは攻撃の手を休めず、集まってきたイモムシたちに炎を放ち続ける。
僕も目の前のイモムシを斬り、その後ろから来たイモムシを続けて斬った。
電子音がさっきも聞いた音楽を奏でた。
「僕も今レベルアップしたよ」
「えっなんで? なんでお兄ちゃんがレベルアップするの? さっきレベルアップしたばっかりじゃん!」
アイリーは僕のほうを見る余裕はなく、炎を放ちながら疑問をぶつけている。
僕も戸惑っている。どういうことなんだ?
でも僕も考えている余裕がない。周りを囲まれ、横や後ろからイモムシがぶつかってきて、ダメージを受けた。ポーションを飲み、また目の前のイモムシに斬りつける。アイリーはアイリーで攻撃をしている。群れに炎を撒き散らす余裕はなく、一匹に集中して炎を浴びせている。
イモムシは僕たちを囲んで攻撃してくるだけではなく、群れの残りが僕たちを無視して背後に進んで行った。このままではイモムシが街の中に流れ込んでしまう。
もう無理なのか。僕とアイリーだけではどうにもならない。周囲のイモムシからダメージを受けながら、ポーションを飲みながら、目の前のイモムシを斬りつけるしかない。
突然、背後から歓声が聞こえた。
一瞬だけ振り返る。
野次馬たちが街の外に飛び出してきて、イモムシに攻撃をし始めた。
もしかして、街を守るために?
野次馬の中にいた剣士が一人、僕の後ろにいたイモムシを切り倒して僕に近づいてきた。
「このイモムシすげーな。経験値もシルもボス級なんて。バグさまさまだな。悪いけど俺たちも参加させてもらうぜ」
どうやら野次馬の中に<分析>のスキルを持った人がいて、イモムシの情報を読み取ったらしい。その結果、ものすごい量の経験値とシルを持っていることがわかり、野次馬たちが一斉にイモムシを倒しにかかった、ということのようだ。
レベルアップの謎はそういうことだったのか。経験値もシルも増えているというのは知っていたけど、きちんと数値を見ている余裕がなかったから、そこまで増えているとは気がつかなかった。そして、みんな現金なものだ。利があるとわかると、積極的に動き出すなんて。
でも、理由はなんであれ、戦力が増えたことはありがたい。僕とアイリーは、再び二人で協力して一匹のイモムシに攻撃することにした。そして倒す度に多くの経験値が入り、レベルアップしていった。
このままならイモムシを倒しきれるかもしれない。黒い霧に勝てるかもしれない。
――そう思ったのは、甘かった。
戦いに参加した野次馬たちが、力尽きて撤退し始めた。元々面白半分で集まったのが急に参戦することになったのだから、戦いの備えが足りなかったのだろう。最弱モンスターのイモムシのイメージがあって気軽に戦い始めたものの、予想以上に強くて思わぬダメージを受けてしまい逃げ出した、ということもあるかもしれない。
また僕とアイリーはイモムシに囲まれてしまった。
横から後ろからイモムシがぶつかってきて、僕たちにダメージを与えた。買い込んだポーションもそろそろなくなりそうだ。
「アイリー! 引くぞ!」
「引くって言ったって!」
二人ともイモムシの群れから脱出できない。新たな野次馬たちが参戦してきているけど、僕たちの場所まで届くかどうか。
ついにポーションが尽きた。もう終わりなのか。本当に死ぬことはないけれど、何度でも簡単に戻って来られるけど、それでもここで負けるのは、嫌だ。
HPがゼロに近づいていく。
「おまたせー」
どこか力の抜けた優しい声が聞こえてきた。それと同時にHPが回復していく。
街を出てすぐの辺りで、金髪のショートカットの女の子が、回復魔法を放ったばかりの、人差し指と中指に指輪を嵌めた右手を前に掲げていた。
「シェレラ!」
僕はイモムシを斬りながら叫んだ。
「遅いよ、もう!」
アイリーは文句を言いながら炎を放ち、マジックポーションを飲んだ。
「アイリー、マジックポーションはまだあるのか?」
アイリーは顔の前で手を振って、否定の合図をした。
「ないない。これで終わり」
そう言いながらもアイリーは炎を放ち続ける。それしか方法がない。
僕もアイリーも街に向かって進路を切り開こうとしているのだけど、なかなかうまくいかない。
シェレラが街の中の野次馬たちに向かって叫んだ。
「HPはあたしが全部回復させます! だからあの二人が街に戻って来られるように戦って!」
それならばということで、野次馬たちが街の外へ出てきて戦い始めた。
おかげでかろうじて街に戻るための隙間ができた。
僕もアイリーも、潜り込むように街の中に入った。
「ごめんねー。今日はヤスコで特売があって、ほら、牛乳とか卵とかって一人二パックまでじゃない? だから家族全員で行っていたの。そうしたらうっかりスマホ持って行くのを忘れちゃって、帰るまでメッセージが来ていたのがわからなかったのよ。本当にごめんね」
半端に口が開きっぱなしになっている僕とアイリーに、シェレラは両手を合わせて謝った。ちなみにヤスコというのは近所のスーパーマーケットの名前で、その名の通り安さが自慢の店だ。
僕たち三人は、アイリーが使い切ってしまったマジックポーションを買うため、ショップに向かっていた。一旦は使い果たしたシルだけど、さっきまでの戦いでまたシルが手に入った。経験値同様、シルもかなりの金額を得ることができた。
「と、とにかく、絶体絶命のピンチを救われたのは間違いない。ありがとう」
と言う僕をそっちのけでアイリーはシェレラをパーティに誘い、シェレラはそれを受けた。
「遅れてきたぶん、これから頑張ってモンスターを倒すからね!」
シェレラは右手を天高く突き上げた。回復魔法の使い手だというのに、また勘違いして自分で攻撃しようと思ってしまっている。
その時、何やら街の出口の辺りが騒然としてきた。
どす黒い巨大なイモムシが、ついに街の中に侵入してきた。ありえない事態にみんなパニックになっている。逃げ出す人、闇雲に攻撃して返り討ちにあう人、ただただ震えている人、何をしていいのかわからず立ち尽くす人、みんなが混乱していた。
このままでは街が破壊されてしまう。ショップに行っている暇なんてない。無理にでも戦わなきゃ。
その瞬間。
電子音が鳴った。
新着メッセージだ。
急いでウィンドウを開く。
Koya: 対応が完了した。
街に侵入した巨大イモムシから、黒い霧が立ち上っていく。イモムシの体はみるみるうちに縮み、白くなっていった。
街の外も同じだった。黒いイモムシの姿はどこにもない。いるのはいつもの最弱モンスター、ホワイトワームだ。
野次馬たちが、ゴミを片付けるかのように白いイモムシを一撃で光の粒子へと変えていく。
助かった。
勝ったんだ。
終わった……んだ。
「これで終わったって、思ってないよね?」
僕ははっとして、声の主の顔を見た。
その水色の目の視線と、僕の濃い青の目の視線が、ぴたりと重なる。
「なっ……何言ってんだよシェレラ。戦いは終わったんだ。シェレラは戦い足りないと思っているかもしれないけど、でも終わったんだ。そうだ、きっと来たばっかりだから状況がよく掴めていないん――」
「リッキ、嘘ついてる」
まだ言い終わらないうちに、言葉をかぶせてきた。
シェレラはいつものように、優しく柔らかく僕に話しかける。
でもその一言が、胸に突き刺さる。
「それは……」
わかってる。
だけど、それは……。
「リッキ、冴えない顔している。言いたいことがあるなら、言ったほうがいいよ。やりたいことがあるなら、やったほうがいいよ」
全部、見透かされてるな。
いや、思いは同じ、ってことか。
「アイリーも、だよな」
僕は訊くまでもないであろうことを訊いた。
「当たり前じゃん」
何を今さら、と顔に書いてあるかのようだった。
僕はフレンドリストから「Koya」を選択すると、メッセージを送った。
Rikki: リュンタルに行かせてほしい。
Koya: ダメだ。
予想していた答えが、そのまま返信されてきた。
でも、だからって引き下がれない。こっちに流れ込んできた黒い霧はきっとほんの一部で、向こうはもっと大変なことになっているに違いないんだ。僕はもう一度お父さんにメッセージを送った。
Rikki: どうしてもリュンタルに行きたいんだ!
すぐに返信が来た。
Koya: フォスミロスたちを信じろ。
「わかってるよ!」
僕はメッセージアイコンを叩きつけて、ウィンドウを閉じた。
「僕だってヴェンクーやリノラナを信じているさ! 僕たちですらあの黒い霧に勝てたんだ。ヴェンクーやリノラナが絶対に黒い霧なんかに負けるはずがないって、信じてるさ! でも心配じゃないか! たとえ余計なことだとしても、それでも行きたいんだよ! もしかしたら、もしかしたらだけど、ピンチになって、助けを求めているかもしれないじゃないか! だから行きたいんだよ! 行って、リュンタルで出会ったみんなの力になりたいし、みんなの無事を確かめたいんだよ! わかるでしょ! お父さんなら! 『
……バカだな。いくらここで叫んだって、お父さんには聞こえないのに。
電子音が鳴った。メッセージアイコンが点滅している。
ウィンドウを開いた。
Airy: 私もリュンタルに行きたい!
Shelella: 私からもお願いします。
アイリーとシェレラがお父さんに送ったメッセージが、ウィンドウに表示されていた。
また電子音が鳴る。
Koya: 昨日も言ったように、もし失敗すれば、仮想世界からも現実世界からも消えて……
僕はメッセージを読むのを途中でやめた。
そして、またお父さんにメッセージを送った。
Rikki: お父さんを信じているから。必ず成功するって。一回だけでいいから。だから、お願い、お父さん。
返信を待つ。
待っている時間が、妙に長く感じた。
もしかしたら、本当に長かったのかもしれない。
電子音が鳴った。
Koya: これから準備をするから、待っているように。
「お父さん……」
三人は顔を見合わせた。
「お兄ちゃんの思いが通じたんだよ」
アイリーがうなずいた。
「僕一人じゃ、思い切ることができなかった。アイリーとシェレラが後押ししてくれたからだよ」
シェレラはいつものように優しく微笑んでいる。
「あたしはただ、思ったことを言っただけなんだけど」
その「思ったことを言う」ってのは、大事な時ほどできなかったりするものなんだ。それができたのは、シェレラのおかげだ。
「ありがとう、シェレラ」
自然と言葉が出た。
パン、とアイリーが手を叩いた。
「そうと決まればこっちも準備しなきゃね。私もっといい杖買ってくるよ。マジックポーションもいっぱい買っておかなきゃ。シルはたくさんあるんだから、できる準備は全部やっておかないとね」
こういう時、アイリーは本当に動き出すのが早い。
「いいなーアイリーはいっぱいシル持っていて。あたしどうしよう」
「大丈夫だよシェレラ。マジックポーション分けてあげるから。それと、お兄ちゃんはシェレラに負担がかからないように鎧を買うこと。いいね? 噴水の広場で集合だからね」
「わ、わかった」
アイリーはてきぱきと仕切ると、さっさとシェレラと二人でショップへ行ってしまった。
僕も装備を整えに行こう。新しい剣を買おうとは思っていたけど、確かに鎧も買う必要がある。昨日の怪鳥との戦いで、自分の弱さを思い知らされたし。シルはたくさんあるから、剣も鎧も両方買えるはずだ。それにスキルも増やそう。イモムシとの戦いでだいぶポイントが貯まったし。ちょうど取ってみたいスキルがあったところだ。
「お兄ちゃん、ちゃんと鎧買ったの?」
噴水の広場で集合すると、アイリーが最初に言ってきた言葉がこれだった。もしかして買っていないと思われているのだろうか。そんなに信用されてないのかな。
「ちゃんと買ったから。心配するなって」
「どんなの買ったの?」
なんでこんなに厳しく追求するんだ?
「普通のやつだよ。こんな感じ」
鎧を着るのは装備ウィンドウから一瞬でできるけど、街の中でいきなり未経験の鎧姿になるのはなんだか恥ずかしい。
僕はウィンドウを操作して、空中に自分のフィギュアを出現させた。装備ウィンドウから買ったばかりの鎧を選ぶと、フィギュアが鎧姿に変わった。金属の板を繋ぎ合わせた、ごく普通のシンプルな鎧だ。
この3D映像のフィギュアを使うと、自分の姿がどのように見えるのかが客観的にわかるから便利だ。上下左右どの方向にも回転させることができるし、いくつも表示させて、並べて見比べることも可能だ。
「う~~~ん」
フィギュアに顔を近づけ、眉間にシワを寄せ顎に手を当てて凝視している。いったいなんだって言うんだよ? 何か欠陥でも見つけたのか? いやそんなはずはない。これはオフィシャルショップで買った、だれでも買える普通の鎧だ。鍛冶の腕が未熟なプレイヤーが開いたショップならともかく、オフィシャルショップで欠陥品なんてあるはずが――。
「つまんない」
は?
アイリーは腕組みをして僕を睨みつけると、すごい剣幕で怒鳴りだした。
「なんでこんなありきたりの鎧を買ったの? ありきたり過ぎるくらいありきたり、キングオブありきたりじゃん! もっとちゃんとデザインとか考えてよ! せっかくリュンタルの人たちに見てもらうっていうのに!」
ファッションチェックかよ!
「あーもうこんなんだったら私もちゃんと一緒について行けばよかった。一生の不覚。お兄ちゃんセンスなさすぎ。妹として恥ずかしい。ちょっと離れて歩いて」
そ、そこまで言うのかよ。今実際に着ているわけでもないのに。歩いてすらいないのに。
「シェ、シェレラは、そんなこと思ってないよな?」
シェレラのセンスの良さは、得意のアクセサリー作りで証明済みだ。シェレラならアイリーとは違った感想を持ってくれているだろう。いや、そうに違いない。
「う~~~ん」
なんか渋い顔をしてる! いつも優しくにっこり微笑んでいるイメージしかないシェレラが、渋い顔を隠そうと無理やり優しい表情を作ろうとしているのがあまりにもバレバレすぎて余計に辛い!
僕は額や背中や体のいろんなところから汗が流れるのを感じた。
「あ、あのな、これはオフィシャルショップで売っている鎧だぞ? 言い換えればお父さん監修のアイテムってことだぞ? そ、そんなこと思ってていいのか? な? そうだろ二人とも」
「誰にでも合うはずの鎧が似合わないのが、お兄ちゃんのダメなところ」
「あたし……、ごめんね、何も言えない。リッキを傷つけないですむ言葉が見つからない」
ひどい。ひどいよ。
「だいたい鎧を買うのなんて初めてなんだし、似合うとかそういうのはわかんないって。いいじゃないか別に。防具としてちゃんとしていれば。……そうだ、お父さんにメッセージを送ろう」
フレンドリストの「Koya」を開いた。グループ内の共有ではなく、個人宛てのメッセージを打つ。
「そうだリッキ、あたし<分析>のスキル取っておいたからね。昨日の戦闘でリッキ困っていたでしょ? またあんな見たことない魔獣が出てくるかもしれないから、その時は任せてね!」
シェレラが鎧とは全然関係ない話を唐突に言い出した。
「ありがとう。でもシェレラ、僕はもう知らない敵でもちゃんと立ち向かえる気がするんだ」
シェレラは天然が混じっているせいか、突然思いもよらない言動をすることがある。シェレラなりに考えてのことなんだろうけど、空回りになることが多い。<分析>のことも、シェレラなりに僕を思ってくれてのことだからありがたいけど、でも僕はもう大丈夫だ。
Rikki: オフィシャルショップの鎧のデザインにクレームが入っています。クレームをつけたのはあなたの娘で、そのせいであなたの息子がひどい目に遭って――
ここまで打ったところで、着信の電子音が鳴った。
お父さんからだった。
Koya: 準備ができたから、王城に来るように。
僕は結局お父さんにメッセージを送らないまま、王城に向かう二人の後ろを、ちょっと離れて歩いた。
その後来たお父さんからのメッセージに従って、僕たちは正門とは別のお城の西側にある騎士団長の屋敷専用の出入口に行って、辺りに通行人が誰もいないのを確認してから、普段は鍵がかかっているその扉を開いた。
中に入ると、広い空き地と、屋敷の正面が見えた。昨日も一昨日も、僕たちはジザに乗ってこの空き地に降り、屋敷の主であるフォスミロスからここで出迎えを受けた。
……そう思わせるほど、そっくりに再現されていた。
感傷に浸っている暇はない。僕たちはさらに奥に進んだ。
あの花壇が、荒いドットを見せて僕たちを待っていた。
「行こう」
僕は、これから共に戦地に行く仲間の、決意に満ちた顔を見つめた。
二人の、ピンクと、そして水色の瞳に、僕の濃い青の瞳がはっきりと映っているのを感じた。
二人は頷き、僕も頷いた。
荒いドットと化した花壇の土が、伸ばされた三人の手を同時に受け入れた。