4 子供を見つけた日
「奥様は、運ばれてきたときにはもう……」
警察から連絡を貰って病院に駆け付けた俺が見たのは、既に冷たくなった妻だった。
「子供は?! 日菜子は臨月だったんです!」
「本庄さん、お腹の子もご臨終でした……」
お力になれず、申し訳ありません。
そんな言葉が遠く感じる。医者の言っている言葉がわからない。
いや、俺だって一応医者だ。内容は解る。認めたくないだけだ。
目の前が真っ暗になった。何も聞こえない。聞きたくない。
そんな俺に、勤務先の病院は半年の休暇をくれた。
何かをする気力もなく。食欲もなく。果たして生きていると言えるのかと思えるほどの無気力な日々。
事故が起きなければ、もうじき産まれるはずだった子供。そのエコー写真を眺めては涙を溢すだけの毎日。
思い出されるのは、愛しい人の笑顔。
『男の子かぁ。じゃぁ、名前は克希で!』
『おいおい、俺には考えさせてくれないのか?』
そんな風にじゃれ合いながら、元気に産まれておいでと祈った日々。
それはもう二度と叶わない。
「ああ……ああああああああ!」
どうして。
何で。
日菜子が、俺が何をしたというのか……。
いくら神を恨んだところで、日菜子は戻ってくることはない。
静かすぎる家はどこか薄暗くて。ぽっかり空いたその場所があまりにも寂しすぎて。
ただ茫然としたまま過ごしていた俺を連れだしたのは、双子の兄の楓だった。
「たまには外の空気吸わないと。病気になっちまうぜ」
「うるさいな。放っておいてくれよ」
煩わしいと。今は何もしていたくないと言っても楓は聞かず。
強引に連れ回された。その行く先々に、日菜子との思い出があり。
初めて出逢った公園。痴漢から助けた駅のホーム。取り留めのない話をしながら乗り続けた環状線。恋人同士になった高校。誕生日プレゼントを選ぶのに何時間も迷った雑貨屋。プロポーズをした綺麗な夜景の見晴らし台。初めて一緒の夜を過ごした旅館。
どこに行っても、日菜子の幻影がついて回る。もう君はどこにもいないというのに。
狭い田舎だ。楓がその場所を知っていた、というより二人で行かなかった場所が少ないというだけ。
気晴らしと言ってはあちこち連れまわされるうちに、古い家の前を通りかかった。
『……て』
「ん? 何か言ったか?」
「いや?」
『……助けて……お父さん』
その声は、楓には聞こえていないようだった。だが、確かに助けてと聞こえた。
「あっ! おい、要?!」
引き留める楓を無視してその家のチャイムを鳴らす。
――反応はない。
玄関の郵便受けには入りきらないほどの新聞や郵便物。雨風に曝され続けたのか色褪せてボロボロになってしまっている。
「何やってるんだよ、要? 誰もいないって。空き家だろ? ここ」
「いや、確かに助けてって聞こえたんだ。それに……何か変な臭いしないか?」
「ああ、確かに下水臭いっていうか……って、おい、要! やめろって」
制止する楓を振り切って庭に回る。
カーテンの隙間から覗くと、子供が倒れているのが見えた。
「何だ? 人形か?」
「いや、人形が助けを求めるか、よっ」
置石を剥がして思い切り窓に打ち付ける。
「やめろって要! 通報されるぞ!」
「むしろ呼べ! 救急車も!」
割れたガラスから、刺激の強い臭いが漏れてきた。
子供はピクリとも動かない。
靴を脱ぐ間も惜しくてそのまま駆け寄る。
「大丈夫か? おいっ! しっかり!」
抱き起こすとその異常な軽さにびっくりする。骨の浮いた手足、痩せこけた頬。カサカサに乾いた唇。
うっすらと開いたその眼は何も見えていないようだった。
わずかに動いたその細い手が、弱々しい力で俺の腕を掴む。
知らず知らずのうちに涙が溢れ、子供の顔に滴った。
「……おか、えり……おとう、さん……」
擦れた声でそう言うと、また気を失ってしまったようだった。
一体、この子に何が起きたというのか。この家の人間は、親はどこへ行ってしまったというのか。
楓の呼んだ警察が来て、家の中の状況に唖然としていた。
俺が子供を抱きしめたまま離さないものだから、駆け付けた救急隊員によって一緒に病院に運ばれる。
たくさんのチューブに繋がれ、痛々しいほどに痩せこけた少年。何故か放っておけずに俺は彼の病室に通い続けた。
警察から聞いたこの子の名前は、長嶋香月。生まれてくるはずだった子供と同じ音の名前。
親はずいぶん前にこの子を置いて出ていったらしい。家の中に食べ物は何もなく、僅かに生米が数粒落ちていただけだったらしい。
電気も水も止められるほど長い期間、この子は独りであの家で親の帰りを待っていたのだろうと。
聞いた瞬間「俺が引き取ります」と言っていた。
簡単に子供を捨てたこの子の親が許せなかった。俺の子供は生まれてくることができなかったのに。そんなに要らないなら俺にくれよ、と叫びたかった。
昏々と眠り続ける少年の手を握り、名前を呼び続ける。
施設に行くはずだった香月を、色々な伝手を使って俺の家で預かることを認めさせた。香月の両親が逮捕されても、香月は目を覚まさなかった。
それでも、少しずつ血色がよくなってきた。頬も少しふっくらしてきた。
俺は毎日香月に呼びかける。
早く起きて。そしたら、一緒に楽しいことをたくさんしよう。行きたいところも全部行こう。
何度でも言うよ。
「俺の家族になって。俺を君のお父さんにして」
ああ、早く起きないかな。ちゃんと笑った顔が見たい。
俺は君の為なら何だって頑張れる気がするんだ。