第33回「帝国の闇」
霊安室。死体安置所。僕にはそういう不吉な単語ばかりが連想された。ここはそういう場所だった。死と死に等しい何かが常に漂っている、重苦しい命のため池だった。プラムも発言することは特になかった。ただ一人、僕らをこの世界に引き込んだサトーだけが、すれ違う魔道士たちと気さくに会話などをしながら、軽い足取りと明るい口調で深みに歩んでいった。
僕はやっぱり賢者なんかじゃない。ここに来て、強く感じたことだった。何をしているかがまるで掴めない。眠っているのか死んでいるのかさえわからない、ベッドに横たわった人間たち。何やら未知の魔法を試しているらしい魔道士たち。
元の世界で、僕が死ぬ少し前に新版が出た本がある。トマス・ピンチョンの「重力の虹」だ。その上巻の表紙が異様に不気味で、不覚にも涙をこぼしてしまったことがあった。
ここの風景は、それを思い出させる。
「あはは、二人とも、ここを見てどう思った。楽しくなったかな。嬉しくなったかな。それとも、見えるままに怖いと思ったかな」
あれやこれやと次々に言葉を並べ立てていたサトーが、思い出したかのように僕らへの興味を振り向けた。
「僕は頭が居留守中なんでね。この施設の目的について、一から教えてもらえるとありがたい」
「謙遜、謙遜、あは、謙遜。わかってるくせにぃ」
「ここで被検体に何かをしているのはわかる。それが個体能力の強化に繋がることも。だけど、それを大聖堂の地下でやる意味がわからなくてね」
これが国家的事業であれば、わざわざ大聖堂の地下なんかに間借りせず、堂々とやればいい。また違法に行われている研究なのであれば、やはり観光地で行うのは不適当だ。
「あはは、サトーは面白くなってきた。サトーの目が示した通りなら神にも等しい力を持っているくせに、今日も明日もわからない」
「神」
プラムが鋭い言葉を僕に投げかけた。
わかっているとも。
「ああ、僕らをただの観光客だと勘違いして、楽しいツアーに連れて行ってくれているわけではないらしい」
当たり前の話にようにも思えるが、これで単なる狂人という線は消え去った。サトーは何らかの思惑があって、僕たちを連れ回したのだ。他の魔道士たちもそれを熟知していたから、特に疑問を挟んでこなかったに違いない。
サトーはふいに僕の手を取った。その動きは常人と同程度だったために叩き落とすこともできたが、これから何をするのかに興味を持った。
「サトーの目、サトーの目だ」
彼女は、僕の手を自分の眼球へと導いた。
硬質の触り心地が、違和感を僕に抱かせた。
「義眼か」
同時に、その目に魔術学的な仕掛けが施してあり、僕の体内から発せられる魔力の波を捉えているのだろうと推測された。公表されている技術では大型の測定器しか登場していないが、最先端というものは常に小型化を成功させているものだ。サトーが自分の目に入れているのも、その一種だと考えられる。
僕の手を離し、このよく笑う猫背の女は、両手を挙げてくるくると回った。
「ここがどこだか、あはははは、ここがどこだか考える。そうすれば、正解は見えてくる。昼が来れば夜も来て、晴れているなら雨も降るのと同じ」
意味の理解に戸惑った。
ただし、少しずつ僕の思考も冷静さを取り戻し、冴えも際立ち始めていたのだろう。大聖堂、つまり教会の地下には普通何があるか。「書庫」もあるかもしれないが、普通は別のものが存在する。そして、コンスタンティンが示した書庫とは、それを指し示していたのではないか。
「……死人」
答えは墓地だ。僕のいた世界でもサン・ピエトロ大聖堂の地下墓所を始めとして、墓地が存在しているケースはいくつもあった。
「あはは、当たり。ここの人間には未来がない。金がない。親がない。希望になるもの、すべてない。だから、サトーが手助けする。死体に価値を。無力に剣を。こんな自分を生み、育てたこの世界に復讐を」
サトーが再び僕の手を激しく掴んで、今度は自分の左胸に押し付けた。まさかここに来て大きな胸を使っての色仕掛けでもないだろうと思ったら、その通り、僕はすぐに驚くべき事実に気づいた。
「心臓が、動いていない」
「サトーもまた復讐者だ。帝国がサトーたちを捨てるのなら、サトーたちもまた帝国を捨てる」
今、サトーの笑みが止んでいた。その絶望にも似た無表情は呪いと怨念に満ちていて、直視するのが躊躇われるほどだった。
彼女の言う通りならば、サトーを始めとしたここにいるすべての者たちは、社会的ないし肉体的な死を迎え、ここに連れてこられたことになる。しかも、それは反帝国の目的のもとで何らかの手が加えられているのだ。
「生物学的に死んでいるから魔法が効かないなんてな。めちゃくちゃじゃないか。アンデッドとも違う」
「戸籍の上でも死んでいる。あは、サトーは知っている。きみたちは聖女の槍を取りに来たんだろう。エロイーズが言っていた。あは、あはは、安心しろ。サトーは、サトーたちは、アルビオンとともに歩む」
サトーが僕の手を再び離した。笑顔はすでに戻っていた。
そうか。プラムが示唆した帝国内の協力的な組織として、サトーたちも対象に入っていたのだ。だが、いかに彼女が親魔王および反帝国の意志を持って活動をしているとしても、ここまで大規模な施設を維持することは容易ではないだろう。
それを解決する可能性として自然なのが、「自由都市ルスブリッジそのものがすでに魔王と結んでいる」ということだった。
人類国家は、僕の予想以上にアルビオンに切り崩されているのかもしれなかった。