第2回「魔王からの誘い」
田舎暮らしっていうのも、案外悪くないもんだ。それは人付き合いさえする必要がない超ド田舎で、金も食料も、命の心配さえなく過ごしているから言えることなのかもしれない。
だけど、僕は手に入れた。
かつてシャノンたちと訪れた町、ハーミーサイド。そこで懲らしめた悪徳商人、アッシュビーを生かしていたことが功を奏した。彼はもともと能力の高い商人で、僕が再び訪れた時にはさらにその富を増大させていた。強欲すぎたのが運の尽きだったが、僕は彼の悪事をいくつか見逃してやっていた。その恩を返してもらう形で、彼の広大な別荘地の「管理人」として、偽名で住むことになった。
もっとも、別荘地といっても放棄されたような場所だ。平和だったころはリゾート地としての開発が見込まれていたが、魔王軍との戦争が激化し、この付近は係争地帯になった。好き好んで戦闘が起きているところに住むやつは少ない。
だから、僕がそこに住みたいという申し出を、アッシュビーは大喜びで引き受けた。一度は放棄されていた小屋を丁寧に清掃して引き渡してくれたし、定期的に水と食料を持ってきてくれている。
僕はこの家で、世界の歴史を悠然と眺めているつもりだった。
「失礼。大賢者であるリュウ様の居宅はこちらですか」
この世界の著名な哲学者であるヴィクター・ソロの「創造的破壊の表象」を読んでいる時、来訪者はやってきた。長い黒髪がダークブルーの鎧に映える、美しい女性だった。最も僕が素敵だと思ったのは右目の下にある傷で、決して退くことのない彼女の精神を表しているかのようだった。
そんな好感を持てる相手だったことが、僕に本を閉じさせた。うっかりしおりを挟み忘れていたが、それもどうでも良くなった。僕が読んでいたページを忘れることはないし、彼女のために小さなミスを犯した自分を、むしろ褒め称えてやりたいくらいだった。
ここまで美しいのは、ただの人間ではない。魔族だ。僕はそれを看破していた。悪魔はいつだって美しいものだ。
「半分合っていて、半分間違っているね。合っているのは名前で、間違っているのは職業。ここはただの無職の家さ。高等遊民と言ったら、聞こえはいいかもしれないけどね。見たところ、君は魔族のようだが」
「魔王様の近衛隊長をしております、リリ・トゥルビアスと申します」
「リュウだ。しかし、僕みたいな人間のところに何の用かな」
度胸があると言わざるを得ないだろう。僕はいつだって敵には容赦をしなかった。多少いたぶることすらあったかもしれない。つまり、彼女は僕の手によって蒸発させられたり、凍結させられたり、あまつさえ死ぬよりも恥ずかしい目に遭うかもしれない危険を顧みず、ここにやってきたのだ。
「本日は貴方様に大切な話を持って参りました」
「ふむ。立ち話もなんだし、中に入ってもらおう。散らかっているけど、そこは無視してくれ」
自慢じゃないが、僕は掃除が苦手だった。シャノンたちと一緒に行動しているころは、いつもメルに怒られていた。彼女はいつだって僕に厳しかったが、その理由をよく承知しているから、決して非難する気にはなれない。
率直に言えば、僕はシャノンに好かれていた。男同士という性別を超えて、彼は僕に魅力を感じていたようだ。公的には恋人であるところのメルとしては、それが気に食わないであろうことは容易に想像できた。乙女心を読むのに関しては長けているひょうきん者のロジャーも、きっと気が付いていただろう。
そういうことを思い返しながら、僕はこの勇気ある来客のために、ソファの上に置いたままにしてあった、読み終えた本を片付けた。
すぐに台所に取って返して、魔氷庫でよく冷えたウィックミン産のオレンジジュースを取り出し、持ち手のあるカップを選んで注いだ。
「ありがとうございます。このように歓待していただいたことを誇りに思います。いきなり即死魔法を撃たれてもおかしくないと覚悟しておりましたから」
リリは聡明なようで、僕の気持ちに気づいてくれたようだ。これがまた、ありがたいと思った。
僕は彼女の対面のソファに座り、どういう話が切り出されるかに興味を持ち、手を組んで親指同士をこすり合わせた。
「君は魔王の、アルビオンの側近といっていい立場のようだ。わざわざ僕のところを訪ねてくるということは、余程の用事があるんだろう」
「はい。実は貴方様には、共に魔界へ来て欲しいのです」
「それは僕に魔王軍の一員になれということかな」
「決して間違ってはいませんが、もっと重要です。私たちは、貴方を神として迎え入れようと考えています」
神のスカウトとはたまげた。魔王の考えることは人間の一歩も二歩も先を行っている。それとも、今やレベル9999の無職になった僕の脳細胞が弱ってしまったかな。
この場合はどうだろう、神となる僕と、魔王であるアルビオンについては、どちらの方が格上なのだろうか。
昔やったゲームでは、魔王の上に大魔王がいたし、また魔王の上に神がいることの方が多かった。神とはそれだけ特別なのだ。多神教でも一神教でもそれは変わらない。
僕は右の親指で下唇を軽く弾いた。魅力的な提案だった。こういう想定以上のシチュエーションほど、僕を楽しませてくれるものもない。何でもかんでも予想通りなんてのはつまらないものだ。思わぬ目が出てしまうところから、ドラマは生まれる。
だが、いつだって楽しいことには邪魔が入る。猫はリセットボタンを押すものだし、掃除機はお気に入りのBGMの邪魔をする。今もそうだ。
「ん、どうやらネズミが動き出したようだ」
「ネズミ、ですか」
ちょっと古臭い言い回しだったかもな、と心の中で反省する。
「この家は監視されている。ふもとに村がいくつかあっただろう。あれはすべて僕を監視するために作られたものだ。ここに来客なんてそうそうないが、こういう場合には話を盗み聞きしてやろうとスルスルと丘を登ってくる。どうやら君の話は重要なようだったから、結界を張らせてもらった。内容が聞かれることはないから、安心して欲しい。……それにしても、神として迎え入れたいとは大きく出たな」
「貴方ほどの人間、いいえ、人間さえも超えた至高の存在を隠居させたままにしておくなんて、世界の損失です。はっきり言ってしまえば、貴方は魔王様よりも強い。魔王様もそのことはしっかりとお認めになられています。そんな貴方を魔界にお迎えするならば、玉座よりもさらに高みでなければならない。そうです。貴方様は今こそ、『破壊神』としてすべての生命の上に君臨すべきなのです」