第1話「秋月 一真」
「先輩! これから飲みに行きませんか!」
椅子に座ってひたすらパソコンのキーボードを叩き続ける一人の男に、会社の後輩であろう男が話しかけた。
男は言葉を放つ際、片手を口元まで持っていくとクイックイッと手首を内側に軽く捻り、酒を飲む動作を交えながら言った。
その姿を見て、喉にシュワシュワっと刺激を指す痛快な黄色い飲み物を想像して思わず席を立ち上がり、後輩の飲みの誘いに了承を出そうとするが、ハッと気づき言葉を呑み込んだ。
(いけない、いけない……。今日の分はまだ終わっていないからな……。しっかりやらなくては!!)
「あー、すまん。まだ仕事残ってるから今日はパスで……」
両手を合わせ、「申し訳ない」という動作を交えつつ断りの返事をすると、後輩の男は呆気に取られた表情を浮かべたのち、「それじゃあ、また今度行きましょう! では先輩、お先失礼します!」と言って、軽く会釈をしてオフィスから立ち去った。
悔やむ表情を浮かべるこの男を除いて、最後まで残っていた後輩がオフィスを出て行く姿を名残惜しいと思いつつも、お疲れ様という意味合いも込めて扉が閉まる瞬間まで見送り、再び椅子に腰掛けパソコンと向かい合うのだった。
「ふあ〜〜っ」
椅子に腰掛けている男は大きな欠伸を一つして、目尻を擦ると、左手に着いている黒を基調とした近代的なデザインのデジタル腕時計に目を見やった。
そこには白いフォントで「20:34」と表示されており、「ふぅ」と軽く息を吐くと彼は両頬をパンッ――と叩いて自分に喝を入れた。
頬を叩いた乾いた音は、誰もいないオフィスに虚しく響き渡り、男は加えるように言葉を放った。
「よしっ! もうひと頑張りいきますかっ!」
そう言うと、仕事用のデスクに鎮座しているパソコンと向き合うと、途中まで入力された文字のカーソルに慣れた手つきで指を動かし文字を続けて打った。
彼の名は「
一真は超が付くほどの真面目な性格で、その日に与えられた仕事を、それがどんなに数の暴力を振りかざそうが、しっかり終えるまでは寝る時間を削ってでもやり遂げるという過酷なルールを自分に課せており、今日のように一人オフィスに取り残されるということは多々ある。
後輩や同僚の飲みの誘いを断り続け、最近自分を誘う人間が減っていると感じ取っていようが、そんな状況に寂しさを感じていようが、彼はルールを破ろうとは思わない。
それは、大袈裟ではあるが、”自分の信念を貫き通すのが筋”と考えているからで、例えそれが自分の首を締めることになろうとも曲げようとも思わない。
それが一真の中での「男」という存在であり、己が男という性別に生まれた
そんな性格の一真は、周りから「できる男」と評され上司からも一目置かれる存在となっているが、そんな良いことづくしという訳ではなく、こいつならもっと仕事を与えても大丈夫だろう、などと仕事量とハードルはどんどんと高くなっていく一方で最近では歯止めが効かなかなってしまっているのが現状だ。
成果は着々と出ているので、文句は一切無いのだが肩身が広いというのも困ったものだと贅沢な悩みを抱えているのも本音だ……
そして、一真は最後の仕上げにエンターキーをわざとらしくタンッと叩くと「はぁ〜」と、大きく溜息を吐き、今日の分の全ての仕事を見事やり終えた。
「よぉ〜し、終わったぁ……」
と、背伸びをしながら疲れを吐き出す様に言葉を放った。椅子を軋める音が聴こえてきたのが不安になり、すぐに身を戻す。
通常ならば二日に分けて処理した方が賢明だと思われる凶悪なほどの仕事量をやり遂げたおかけで、一真の肩にはそれなりの代償を支払わされた。
肩に人間が一人乗っかっているのかと錯覚してしまうほど重く、そして固くなってしまった肩に感謝の念を抱きつつ帰りの準備を始めた。
(ん? もう、11時か……)
不意に視線に入った左手の腕時計には「22:56」ともうすぐで十一時を回ろうとしていた。一真は電車間に合うか、と不安になり片付ける手を早める。
幸いなことに明日は念願の週末がやって来る。そのことを考えれば長い帰り道も我慢することが出来るので疲れてはいるが、辛くはなかった。
あらかた片付き、椅子の背もたれに掛けていた黒のスーツのブレザーを羽織る。
すぐさま時計を確認し、先程から三分弱が経ったことを確認するとオフィスの出入り口まで向かった。オフィスの明かりを全て消して暗闇になったことを確認すると、ドアノブに手を掛ける。
ガチャリとドアノブを下まで下げ、今日一日世話になったオフィスをもう一度見ようと振り返り、同様に今日も一日頑張った自分を
「今日一日お疲れ様でした! 俺!」
誰かにこんなとこを見られたら変人だなと思われるな、などと考え苦笑しながら今度こそドアノブを捻って扉を開けた。
すると、目に飛び込んできたのは目が絡むほどの眩しい太陽の光と盛んに賑わう洋風の街並み――
「いやいやいやいや」
が、次の瞬間すぐに扉を閉めた。
「あれ? なんでうちの会社のオフィスの扉がどこでもドアになってんの?」
今自分ができる最高のボケで現実を逃避しようと試みる。
ボケなんて一切したことのない一真にとって、こんな低レベルなボケが最大限だ。
とりあえず、かなり疲れているので幻覚でも見たのではないかと考えた一真は扉の先にあるものを確かめようと、恐る恐るもう一度ドアノブを捻り、扉をゆーっくり開けた。
「はぁ……意味がわからない……」
やはりそこには、目が絡むほどの眩しい太陽の光と盛んに賑わう洋風の街並みが広がりっていた。
一真は、もうどうにでもなれという精神に身を任せて扉を潜り、その謎の世界に足を踏み入れた。
「なんなんだよ……ここは……?」
見慣れない、というか見たこともない街の光景に見入ってしまった一真は扉を離し、そのまま閉まっていくのに気付かずに呆然と立ち尽くしていた。
「ダメだ。やっぱり疲れてるんだ……。休まないと……」
一真は片手で額を抑えながら振り返り、先ほどまでとは扉の柄が全くの別物に変わっていることに気づきもせずに扉を開けると、そこは八十歳くらいのお爺さんとお婆さんが机を挟んで向かい合うように椅子に座っていた。
家の中は日本人の馴染みが深い木造りだ。
「あ……れ?」
それは、一真が見慣れたオフィスなどではなく普通の一般宅だった。
一真に遅れて気づいたお爺さんとお婆さんがこちらを見ると、会釈をしてきた。
それにつられて一真も思わず会釈を返す。
そして「失礼しましたー」と言って、何事もなかったように扉を閉めた。
「オフィスの扉どこいったの……」
この意味のわからない状況と疲れた体のせいで一真は思わず涙が出そうになり、両手で顔を覆った。
数秒後、一真はかなり弱気になってしまった心と体をとにかく休ませないとと考え、結局、戻ることは今日は諦めて宿を探す事に頭を切り替えた。
幸い人は沢山いるので、情報収集は簡単そうだななどと思い、すぐ脇を通ろうとした一人の中年の男に話し掛けた。
そして、物語はプロローグへと繋がる。