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「おう、どうした坊主、学校サボりか?」

 儂のように碌な大人にならんぞ、とセリフに反してカカッと笑うお爺さんに声を掛けられる。
 これが、僕が自分を受け入れられるようになるきっかけをくれたお爺さんとの出会い。

 それは夏のような強い日差しの日だった。
 木の葉を騒めかせて顔に当たる風が心地よくて。
 転校したばかりの学校に馴染めなかった僕は町の中心である住宅地から外れて、涼しい場所を求めて山の中を散策していた。

 山の中腹辺りの見晴らし台に辿り着くと、先客がいた。
 見晴らし台の木製ベンチに腰掛けて、足の間に衝いた杖に体重をかけてどこを見るでもなく眺めているお爺さん。

 暑い日なのに、白い長袖シャツに深緑色のカーディガンを羽織って汗一つかかずにいる。
 茶色い山高帽子から覗く髪は真っ白で、年齢がわからないくらいしわくちゃな顔だ。
 けっこう歳いってるように見えるけど、はっきりした話し方で声は聞き取りやすい。

「……お爺さんは何を見ていたの?」

 お爺さんの見ている景色を見たくなって、隣に座ってみる。
 ふわっと、お線香の香りがした。嫌いではない匂いだ。
 お爺さんは微かにプルプルと震える腕をゆっくりと上げて、目の前の谷を指さした。
 その指先に視線を送ると、河を堰き止めるコンクリートの壁が見えた。

「あのダムはな、地形をそのまま利用して作られていてな。もうすぐ、ちゃんと作り直すって話だが」
「ふうん……綺麗な景色だねぇ」

 僕の気のない返事なんて気にせず、愛おしいものを見るかのようなとても優しい顔でお爺さんはずっとダムを見ていた。


 次の日も次の日も、僕は学校へは行かずにその見晴らし台に行った。
 いつ来てもお爺さんはベンチでダムを見ているのだった。

「おう、また来たのか坊主。学校行かなきゃダメだぞ」
「お爺さんこそ、毎日いるじゃん」
「儂はもう自由人だから良いんだよ」

 学校へ行け、と言いつつ本気で叱ってはいないのはその表情でわかる。
 きっと、お爺さんは話し相手ができて嬉しいのだろう。
 だって僕がいる間、ずっとお爺さんは自分の事を話し続けているんだもの。
 自分の事は話す割に、僕の事は聞かずにいてくれるお爺さんが好きだった。
 少なくとも僕は、お爺さんの事を年の離れた友人だと思っていた。


「あのダムにはな、儂の幼少期に過ごした村が沈んでいるんだよ」
「えっ、村が沈んでいるの?!」

 ある日、お爺さんがずっとダムを眺めている理由を教えてくれた。
 過疎化が進み、立地にも適していたため村ごと引っ越しをさせられたそうだ。
 結構急な決定と立ち退きだったらしく、建物も壊されずにそのまま沈んでいるらしい。

 校庭にタイムカプセルを埋めた学校。
 友人たちと買い食いをした駄菓子屋。
 初恋の人と通った小さな図書館。

 こうして暑い日が続くと、ダムの水位が下がって思い出の場所が見えてくるらしい。
 どこに何があって、どんな思い出があったのか、まだ何も見えてはこない水面を指さして懐かしそうに語っていた。

「その人たちは、今どうしているの……?」
「さてなぁ……」

 皆バラバラに越してしまったため、どこにいるのか、生きているのかすらわからないそうだ。
 この町に越してきた人のほとんどは死んでしまったという。

「年寄りばかりだったからな。儂だけが取り残されておる。遊びに来てくれる人がいなくなってからこうして時間を潰しておるのよ」

 来る日も来る日もダムに思いを馳せるお爺さんは、どこか寂しそうで。
 新しい友達を作るというのは、大人の方が難しいのかもしれないと思った。

 梅雨が来て、僕はしばらく見晴らし台へは行けなかった。
 雨の山道は危険だと要に怒られたからだ。
 それでも、要は僕に学校へ行けとは言わなかった。

「行けると思ったら行けば良いよ」

 そう言って、いつだって僕に好き勝手やらせてくれた。

 要は僕自身に危険がある事や、本当にやってはいけない事をした時くらいにしか怒らない。
 要に引き取られたばかりだったから、僕にはそれが少し不気味で、要との接し方がいまいちわからずにいた。
 この時の僕は、これが要の優しさだとは気づかずに、ただ両親のように要も僕に関心がないのだろうくらいに思っていたのだ。

 見晴らし台へは行けず、かといって学校に行く気も起きず。
 誰もいない部屋で一人、雨の降る外を眺めているのはつまらなかった。
 お爺さんの家を聞いておけば良かった。そうすればいつでも遊びに行けたのに。

 そんな退屈な日々を過ごして、やっと梅雨が明ける。

 晴天が三日続いてようやく山へ行く許可が下りて、見晴らし台まで一気に駆けていく。
 いつものベンチ、緑色が濃くなった風景。
 僕にとってはもう馴染みの光景となったそこは、ただ一点だけ欠けていた。

 いつもいて、今日もいるはずのお爺さんがいなかったのだ。

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