4.春の物語
朝おきて小屋の外に出ると、空はまぶしいくらい晴れていた。
昨夜の雨がウソみたい。
地面にできた水たまりの上に太陽が映っている。
「雨、止んだよっ」
わたしは小屋の中に呼びかける。
返事はない。
しっかり爆睡中?
もー、ホントにあいつってば。
放っとくと昼過ぎまで起きてこないんだから。
小屋の裏で、バケツにたまった水で顔を洗う。
バケツの水に自分の顔を映すと、まあ、良くも悪くもない自分の顔が映っていた。うん。まあ、今朝もそんなには悪くない。
「おうマオか、早いな」
うしろで声がした。
ふりかえると近所のリュウさんだ。
「リュウさんも早いね。朝の散歩?」
「ああ。久々の晴れだ。有効につかわんとな」
「お天気続くかなあ?」
さあな、とリュウさんは大きなあくびをした。それから伸び放題の白いひげ面をぼりぼり掻いた。
「今日はリュウさんも行く?」
「どこ?」
「決まってるじゃん。『狩り』だよ」
「いやいや、今日は行かん。ひととおり物は足りてるよ。だがマオ、お前は行ってこい。行って櫛やブラシのひとつやふたつは持って帰れ。ひどい髪してるぞ、お前。や、年頃の娘がそれではいかん」
「あはは。余計なお世話っ。これはこういう髪型なのよ。リュウさんこそ、そろそろヒゲ、切ったほうがいいんじゃない?」
「バカ。わしからこのヒゲをとったら何が残るって言うんだ。ああそうそう、」
と、急にリュウさんは声を低くした。
「今日はマーケットには行くなよ」
なんで? と私はきき返す。
「『ディラ』が来る日だ。あいつらとは、あまり関わらんほうがいい。若い女と見ると、あいつらは―」
「んー、そんなの今に始まったことじゃないよー。大丈夫、大丈夫。あいかわらずリュウさん、心配性だなあ」
「おいマオ、こいつは人から聞いたんだが……」
「なになに? また何か心配なお話?」
「いや、そういうわけでもないんだが。お前、近頃、歌ってるらしいな、ビズのところで?」
「そだよ。ビズのとこと、あとはビリーゴーツって店でも、ちょっとだけね」
「ビズには気をつけろ」
「なんで?」
「あんまりいい噂を聞かない。女に手は早いし、裏ではどうも―」
「もー、やめてやめて、朝からそんな辛気臭い話は。大丈夫だよ。二時間かそこら店の奥に立ってサラッと歌って、あとはお給料もらって帰るだけっ。あれでもけっこう、いい稼ぎになるんだよ」
あははっ、とわたしは大きく笑って。
「ねえ、よかったら一緒にどう、朝ごはん? すぐ準備するよ。スープ缶のいいのが入ったの」
「盗んだのか?」
「んー、まあね。でも盗んだのはわたしじゃなくてシウン」
「あんまり派手にやるな。見つかったら殺される」
「そんなヘマはしないよ。シウン、ああ見えて案外すばしっこいから。ねえどう? 食べてく?」
「いやいや、遠慮しておく。気持ちだけ頂くよ。ありがとう」
「どーいたしまして! じゃ、またねっ」
そのあと小屋に戻ると。
やっぱりあいつはまだ寝てた。
「シウン、起きなよ。朝だよー、あ・さ・だ・よーっ」
わたしはつま先で、シウンのおしりを蹴とばす。
それでも起きないから。
何度か顔にビンタをくらわしてやる。
バシバシ、バシバシッ。
「ほら、起きろ起きろ起きろっ」
「んー……なんだよ、早いなー、マオ。今日なんかあるのー?」
「天気いいよ。狩りにはもってこいだよ。朝ごはん食べて、さっさと出かけよう。たまには早く着いていいもの手に入れようよっ」
朝の早い時間なのに、バス停はすごく混んでいた。
雨続きで何日も狩りに出られなかったから。
みんな一度にやってきたらしい。考えることはみんな同じってわけだ。
バスが来ると、そこにいる全員がドアに殺到。
でもわたしは始めから中に乗ろうなんて思ってない。
知らない中年男の肩を踏み台にして。
すばやく屋根によじのぼった。シウンもあとから上がってくる。
屋根の上が満員になると同時に、バスはゆっくりと走り出す。
真っ黒い煙を吐き出しながら、バスは朝のメインストリートをゆっくりと走る。タイヤが水たまりの泥水を跳ね上げ、派手な水音をたてた。通りをゆく車はまばらだ。途中、自警団のワゴン車と何回かすれ違った。反対方向からのバスも2台。
私たちのバスは、まもなくゲートにさしかかる。
ゲートには自警団の黒いバンダナをつけた若い男がふたり。
バスの運転手と何か言葉をかわしている。
男はふたりとも、でっかい銃を持っている。だけど銃口は地面に向けたまま。
「シティ」と「キャンプ」がこじれていた一時期は、ここで二十分も三十分も足止めを食らった。でも近頃はチェックもだいぶ甘くなってきている。ん、いい傾向だ。
五分後。
ゲートは開く。
バスはキャンプを出て、郊外にむかって走り出す。
舗装のないぬかるんだ道をどこまでも走る。
はるか道の先、もう地平線に近いあたりに、シティの白い壁が見えている。壁のむこうはシティの市街。尖ったビルの群れが、朝日をうけてクリスタルみたいに光っている。
ほんとに、ひどくきれい。
だけど、中身はほんとに汚れた場所。
地上で一番腐ったあの場所にも、ああやって朝の光の恩恵が与えられてる。ほんとに不思議なことだ。神様も気前がいいこと。
汚水の流れる水路のほとりでバスを降り、ここから先は歩きだ。いつもの狩り場までは、ここから水路沿いに歩いて十五分。
今朝の狩り場は、いつもよりずっと人が多かった。
ざっと見た感じ、年寄り連中が多い。
まったく。
老人たちはいつもあきれるくらい早起き。どんなに早く出かけて来ても、ぜったいにわたしたちよりも先に着いている。ほんとに嫌なライバル。
わたしたちがいつも縄張りにしている四番目の山も、すでに大きな狩り袋を背負ったジジババであふれていた。わ、もー、ほんとに迷惑。
んー、ほんと目障りねえ。
このジジめっ。あ、コラ、そこのババってば。
仕事のジャマ、ジャマ。もー、ホントに……
だけど追い払うにしても。
これじゃ相手の数が多すぎるし……
どっちかって言うと、私たちも手荒なことは好きじゃない。
「高齢者は大切に」ってね。
シティの奴らが大好きなクソ標語にも確かあったはずだし。
だから今朝の私たちは、いつもの場所からさらに遠いところにある大きな山にねらいをつけた。さすがにそこはまだ人が少ない。
「シウン、あんたはあっちの裏側を探して」
「おう」
「手伝いがいるときは呼んでね。あんたって、いざって言うと力がないからさ。私のたくましい腕をかしたげる」
「そっちこそな。オレの豪腕が必要になったら、いつでも呼んでくれっ」
わたしはさっそく、ゴミ山の表面を掘り始めた。
足もとの地面がザラザラと崩れて、膝まで埋まった。
おっとっと、気をつけなきゃ。
下手すると、腰まで沈んで抜け出せなくなるからね!
あたりには何かビニールが焦げたようなキツい臭いがくすぶっている。でもまあ、その臭いもいつもよりは多少ましだ。何日も続いた雨のおかげかもしれない。シウンはこの臭いが好きだと言ってたっけ。ん、ちょっと頭がいかれてる。わたしはどうしたって好きにならないな。
さびた鍋の蓋の表面に水がたまり、その小さな水面でも朝日が輝いている。こんなゴミの上にだってお天道様の恵みはあるのねー。まったく笑える。って、あんまりよそ見をしてちゃダメだ。ちゃんとグローブはしてるけど、下手するとガラスや金属でグローブごとザックリやってしまうから。油断はできない。
一時間ほど探して。
収穫はまずまずだった。
まずもって、充電式の電池が二つ。
見た感じ、バルシジウム版の旧いヤツだろう。ま、あんまり珍しくもないけど。まあこれでも少しは売れるかも。
次。
ある程度まともなエアハンガー四つ。
てかてか光るス二―フロス鋼のヤツだ。これはまあ、ちゃんと動けば、そこそこ値段がつく。
それからそれから。
女ものの派手なスカーフ一枚。きれいな刺繍入り。
ちょっと湿っているけど、乾かせばまだ普通に使える。こんなものでも欲しがるおバカな中年女が大勢いるし、ま、少しは値段がつくでしょ。
それからもうひとつ。
なんとなんと、腕時計!
わりとレトロな4サイクル表示のヤツだ。表面のガラスに小さなヒビがあるけど。それ以外はまともそう。マーケットの機械屋に持っていけば高値がつくかもしれない。こういうどうでもよさそうな機械でも、妙なマニアっていうのが案外いるもので。ときどきビックリするくらい高値になることがある。これは意外と、いい拾い物かもしれない。
そのほかまだ使えそうな鍋や食器はたくさんあった。だけどそういうのはスープ缶ひとつの値段にもならない。その手のジャンクは最初から狩りの対象から外してる。
「おーいマオ! ちょっと来て!」
向こうから、シウンの声がした。
「なーにー?」
「いいから来て! 急いで!」
「なによー。何かすごい掘り出し物?」
わたしはゴミの谷間を踏みわけて、シウンのほうに走った。
あいつは何を見つけたんだろう?
ちょっとワクワクする。
シウンはゴミ山の中ほどにしゃがみこんでいた。
「何? そこに何があるの?」
「ねえ、これ見て」
小声で、シウンが言った。
「なに? もったいぶらないでよ」
「いいから見て」
「だから何を―」
一瞬、言葉につまった。
ん。
なるほどね。そういうことか。
やれやれ。
これはたしかに、ちょっとややこしいかもね。
白い手。
人間の腕。
ゴミの下から、突き出して――
「シウン、あんたこれ何よ?」
「知らないよ。こっちがききたい」
シウンが大げさに首を振る。
「マジな話、これ、ちょっとやばくない?」
「やばい、ね」
「あんたが埋めたの? あんたが殺した? いったいこのヒトの何か気に入らなかったて言うのよ?」
「なに言ってんだよ。見つけたときからこうだったよ」
「あはは。冗談だってば」
わたしは笑いながら、シウンの髪をぐしゃぐしゃと掻きまわす。
それから。
笑うのを止めて、深呼吸をひとつ。
グローブをはめた自分の指先で。
そっと触れてみる。
「うわ、触った! やめとけマオ、呪われるぞ!」
「黙って」
わたしは。
二本の指で、その小さな手の親指をつまんで。
少し左にひねってみる。
「これたぶん子供ね」
「子供?」
「だって小さいもの、サイズが。それに指も細くてきれい」
「マオおまえさ、平気なの?」
シウンが不思議そうにわたしの顔をのぞきこむ。
「平気って何?」
「何って、ほら、こういうの」
「平気じゃない。気分悪いよ」
「でも、全然悪そうじゃない」
「そう?」
わたしはそこで、ちょっとため息。
「シウン、どうするこれ?」
「さあ?」
「掘ろっか?」
「掘るって?」
「掘り出してみるかってこと」
「やめてくれ、気持ち悪い」
「じゃあ、このまま置いとくってわけ?」
「仕方ないだろ」
「仕方なくない。掘ろうよ」
「マオ、お前なに言ってんだよ!」
「ねえ聞いて、シウン」
わたしは小さな声で言う。
シウンの顔を直接見ないで。
「もし自分がこの子だったらどう思う?」
「どうって? 何それ?」
「自分が死んだあと。そのままゴミの山の中でずっと放っておかれたら? あんたそれでも平気?」
「死んだらもう何にも感じないよ。死んだ魂は、もう何も感じない。タオ爺もそう言ってた」
「誰よ、タオ爺って?」
「オレの育ての親。もうとっくに死んじゃったけど」
シウンは肩をすくめる。
「なあ、もう行こう。誰かに見つかるとヤバい」
シウンはわたしの腕をつかむと、すごい力で引っ張っていく。
私は思わずその手を振り払って。
自分でもびっくりするキツい声を出していた。
「じゃあ、あんたがこの子の親だったら?」
深く息を吸い、
そのあと、少しだけ冷静に戻って言う。
「自分の育てた子が、あんなふうにゴミの中に捨てられてたら? あんたはそれでも平気? タオ爺は、あんたにそういうふうに教えたの?」
「ん、そりゃあ、ま、そう言われたら……」
シウンは自信なさげに下を向く。
「まあ、それはきっと、とても嫌だとは思うけどさ。そりゃもちろん、気分は良くないだろうけどさ」
「せめてちゃんとした場所に埋めて欲しいと思わない? せめてどこかもう少し空気のいい場所に移して欲しいって?」
「ん…… そりゃまあ、ほんとの親だったら、それくらいは思うかもしれない。だけど……」
「だったらそうしてあげようよ、この子にも。それが人情ってもんでしょ? ね?」
「人情? は? おいおいマオ、どうしたんだよ? お前今日ちょっと変だよっ」
だけど。
もうそれ以上は聞かないで。
ひとりでわたしはさっきの場所まで引き返す。
ザクザクザクと、ゴミの間を踏み分けて。
わたしはひとりで「白い手」のまわりを掘った。
体に傷がつかないように、慎重に。すぐに肩が出た。
薄い水色のシャツを着ている。
白い顎も見えてきた。唇も。
気がつくと。
そこにシウンが立っていた。
ほんとにもうしょうがねえなあ、っていうふてくされた顔で。
で、そのあとシウンも掘るのを手伝ってくれた。
ふてくされた顔のまま、無言で。でもけっこう真面目に。
まもなく、体全体が出た。
女の子。
きれいな栗色の髪。
ふたつの目は見開かれたまま。
淡くうつろな瞳がじっと空を見ている。
顔には大きな傷はない。
額と右の頬の下に、わずかにすりむいた跡があるだけ。
手足にも傷らしい傷はなかった。靴は履いてなくて、裸足だ。形のいい、きれいな小さい足。爪もきれい。
「や、わりと…… かわいい子、だな」
シウンがぽつりと言う。
そうね、と私が答える。
服もあまり破れてなくて全体的にはきれい。
だけど。
ん。
下腹部。
そこの傷は見れたものじゃない。
うーん、これはひどい。
よくもまあ、これだけ―
「う、おえぇぇぇ」
シウンが、うしろでゲロゲロ吐き始めた。
もう! ほんとに根性なしだなあ、こいつは。
「これ多分、あいつらに飼われていた子よ」
「飼われてた?」
「シティの変態たち。あいつら、キャンプのあっちこっちで女の子をさらっては、何人も自分の家で飼ってるの」
「それってただの噂だろ?」
「本当よ」
わたしは言う。
「きれいな服着せて、とびきりいいもの食べさせて、毎晩ふかふかのベッドに寝かせて。で、夜通し好きなようにもて遊んで。要するにペットなんだよ。そうやって飼っておいて、飽きたら殺す」
「まじ?」
「うん。そのあと捨てる。ちょうどこんなふうにね。それからまた、新しい娘をどっかから拾ってくるの。で、飽きたらまた捨てて」
「でも、でもさ、だけどさ、」
シウンが口ごもった。
「マオはさ、な、何でそんなに詳しいんだよ? それ誰にきいたの?」
誰に聞いたか?
ははっ。
べつに誰かに聞いたわけじゃない。
わたし、知ってるもの。
だって、わたしも、そこにいたから。
そこから、死なずに、逃げてきたから。
今でもしょっちゅう思い出すよ。
忘れようったって、あんなの簡単に忘れられない。
初めてヤツらに捕まった日のこと。
今でもしょっちゅう夢に見る。
水路のほとりで、お腹をすかせて。
ひとりで膝をかかえて泣いていた。
行く場所もないし。戻るのもムリだし。
そこに。
あれはもしかして、何かの夢だったのな?
とにかくそこに。
知らない男の子がとつぜん現れて、わたしにパンをくれるんだ。
綺麗な真っ白の丸パン。
わたしは思わず手を出して。
ホントはすぐに食べたかったんだ。
よだれがあふれて、ほんとに胃がひっくり返るくらいに。
ほんとにすごく、食べたかった。身体ぜんぶが求めてた。
だけどわたしは。
食べずに、その手を払いのけた。
思いきり、その子の腕を打ちつけて。
パンはどこかに飛んでいって。
そのあと男の子は、すごく悲しい顔をする。
彼はすごく悲しそうで。すごく―
そのあとすぐに。
あれが空から降りてきて。
わたしはあそこに連れて行かれた。
あの白い建物に。
そこでわたしは裸にされて。
そこらのモノみたいに、体の全部を、
水とブラシでごしごし洗われて。洗われて。
そのあとはもう、あれだね。
思い出すのも苦痛だけど。
だけど。
だけど今でも、ときどきそれを夢に見る。
ほんとにわたし、あそこで死んでも、ぜんぜん不思議じゃなかった。
よく生きてそこを出てこれたものだって。
今でも自分で感心する。
きっと歌が上手な私に免じて。
歌の神様が、空からちょっと、手を差し伸べてくれたんだ。
そう、思うことにしている。
ん?
あれ? またか。
やれやれ。
あれだな、ちょっと気を抜くと。
すぐに心が昔に飛んでしまう。
いけないいけない。ホントにわたしの悪いクセだ。
わたしは思わず苦笑する。
それから心を、無理やり今に戻して。
「ねえシウン。ここでグダグダ言ってないでさ、これ、運びましょ」
わたしは瓦礫の中で立ち上がる。
ゴミの中から見つけてきた大きな布でその子の体を包み、人気のない水路のそばまで、苦労して運んだ。途中、狩りをしている年寄り連中に何人も出会ったけど。彼らはみんな自分の狩りに夢中。わたしたちが運んでいる荷物には目もくれなかった。
高くそびえるシティの白い壁の下。
そこを一本の水路が流れている。
水は黒く濁り、どれくらい深いのかはわからない。
水路のこちら側は草の茂った空き地になっていて。ずんぐり背の低い木が一本、真ん中にぽつんと立っている。
わたしたちはその木の根元を掘ることにした。
土は思ったより固くて。
掘るのにけっこう苦労した。
いつもは狩りに使う金属棒を、シャベルがわりに使って。
ん、ずいぶん固い土だ。なんでこんな固いの?
でもとにかく。
そこで一時間近くかけて。
まあそこそこの深さの穴が掘りあがった。
もういちど、布でしっかり彼女の体をくるんでから。
ゆっくりゆっくり、掘りたての穴の底に静かに下ろした。
「じゃ、土かけるわよ」
「あ、ちょっと待ってくれ」
「どうしたの? あ、ちょっと、どこ行くのよー?」
シウンはいきなり向こうに駆けていった。
「なにやってんのよ? そこ、何してんの? ねえ、はやくしてよ」
「すぐ行くから。ちょっと待って」
そこで何だかグズグズやっていたけど。
ようやくシウンは、何かを両手で抱えて戻ってきた。
「何よそれ?」
「花だよ花。見りゃわかるだろ」
「は? どうすんの、それ?」
「まあ形だけだけどさ。こんなのでも、何もないよりいいだろ?」
そう言って。
シウンは摘んできた雑草の花束を、ドサッと穴の中に投げた。
それは紫の小さな花で。
今の時期ならどこの空き地にでも平気で生えているやつだ。
ん、そうか。なるほど。
そうだね。でもまあ、こういうのも悪くはないか。
それからふたりで。
一緒に土をかけた。
埋めるのは掘るよりずっと楽。
くるんだ布の間から栗色の髪がのぞいていたけど。
それも間もなく土に埋もれた。
すっかり埋めてしまうと、世界がしんと静かになった気がした。
空気が少し薄くなり。
風が吹いて、近くの木の枝をゆすった。
その風は間もなく止んだ。
「なあ、マオ」
「何?」
「なんか辛気臭くってさ。おれ、ちょっとダメだな、こういう雰囲気。おまえさ、歌、歌ってやったら?」
「ここで歌うの?」
「うん。なんかさ、ほら、あんまり寂しくないやつを」
「そだね。何がいいかな?」
「なんでもいいよ。思いつく歌、なんでも」
「んー、じゃ、こんなのはどうだろ?」
わたしは息を吸って。
ひかりふる、その場所に。
降りてきた僕は、キミだけの天使。
キミだけにほら、パンをあげるよ。
これはマナ、これはマナ。
天使のパンで、心のパンさ。
これをおひとつ、キミにあげるよ。
しっかり食べて、しっかり眠って。
明日はきっと、いいことあるさ。
ラ、ラ、ラ
ラ、ラ、ラ
ほらもうキミは、歌だって歌える。
天使のパンが、心におりて。
そこからそこから、
キミを照らすよ。
これはマナ、これはマナ。
天使のパンで、心のパンさ。
これをおひとつ、キミにあげるよ。
しっかり食べて、しっかり眠って。
明日はきっと、いいことあるさ。
ラ、ラ、ラ
ラ、ラ、ラ
ラ、ラ、ラ
ラ、ラ、ラ
「以上。はい、お葬式おわりっ」
小さな声で、わたしは笑った。
ふと、空を見上げる。
白々しい青空の隅には、かすかに雲が出はじめている。この天気は案外長くは続かないかもしれない。
「行きましょ」
わたしは言って、狩り袋を肩にひっかける。
「わたし、今日はなんかやる気なくしちゃった。ねえ、早めに帰って小屋でゆっくりしない?」
「賛成。だけどその前に。おれ、どっかで手を洗いたい。やなモノに触っちまったし」
「別に汚くなかったでしょ、あの子」
「ん、そうだけど。でもやっぱりなんかさ。お前は平気?」
「ぜんぜん。狩り場のゴミよりずっときれいよ」
わたしはそう言って、両手を広げて太陽にかざした。
「マオ、おまえってさあ、」
「なによ?」
「おまえ、ちょっと神経太すぎだよ。女なのに」
「あんたが細すぎるのよ。男なのに」
その夜、夜中に目が覚めると。
すごくのどが渇いていたから、小屋の外に出てバケツの水をすくって。そこでゴクゴク飲んだ。
外は静かだ。
空には月も星もない。
リュウさんの小屋の窓からかすかに明かりが漏れている。
「マオ?」
中からあいつが呼んだ。
わたしは入り口のシートをおろして自分の寝床に戻った。
「ごめん。起こしちゃった?」
「いや。ずっと起きてた」
「眠れないの?」
「うん」
「水、飲む?」
わたしは手をのばして、向かいの寝床にいるあいつの影にコップをすすめる。影はそれをうけとり、顔のところに持っていく。
「あの子のこと?」
わたしは静かにたずねた。
影が小さくうなずく。
「あの目が忘れられなくてさ」
「ん、まあ、あんたの言いたいことは、まあちょっとは分かるけど。でも、あれはもう終わったのよ。ちゃんとお葬式もやった。わたしもあんたも、何も悪いことはしなかった」
「そうだけど」
「いいからもう忘れなよ。ねえ、もしあれなら、抱いてやろっか? ん? それとも歌がいい? 何かぐっすり眠れるやつ?」
「バカ。そんな気分じゃないよ」
「ははは。冗談だよ」
そのとき、どこか外から。
ふわりと、
チューニングの悪いラジオの音が流れてくる。
わたしはハッとして耳を澄ます。
バック・カザルスのカンタータ。
副題はたしか、「土の唄」、だったかな。
歌は。
ミミ・スリクノワ。
旧ロシアの歌姫だ。
へえ。あの人、今でも歌ってるんだ。
氷の国で、滅びた国で。
今でも彼女は、歌い続けている。
あのひどい雑音のラジオを通して聞いても。
彼女の声は、少しも衰えていない。
ん、いい声だ。
わたしもいつか、あんな風に歌えるだろうか。
廃墟の中で。ゴミ溜めの中で。
それでも歌を、続けていけるだろうか?
でもやがてラジオの音は止み、あたりはまた静かになる。
そのあとしばらくして雨が降りはじめた。
「バケツ出しといて正解だったね。やっぱり雨だ」
わたしはつぶやいた。
気がつくと。
シウンは泣いている。
声を出さす、涙をこらえて。
でも肩が震えているから、泣いてることは嫌でもわかった。
なんであんたが泣くのよ!
と言いかけて、やめる。
そのかわり。
わたしは立ち上がり、狭い通路をまたいでシウンの隣に座る。
シウンの肩にもたれて。
まとまりの悪い寝ぐせそのままの髪を、そっとなでてやる。
「あんたはまだ世間ってものを知らないのね」
シウンの耳のそばで囁く。
「これからあんた、いろんなことに出会うよ。もっともっと、嫌なものにもね。あんたはまだ、どっちかって言うと幸せな方だよ」
「幸せ? どのあたりが幸せ?」
涙声でシウンが言う。
「どのあたりも、このあたりも。いい? 今日の女の子のことなんて、あんなのまだかわいい方。ごくかすかな小さな不幸を、たまたま、あんたはちょっと目の端っこで眺めただけ。そのくらいのモノだよ、あれは」
シウンはそれには答えずに。
ただ、力なく首を横にふった。
まるっきり子供みたいに、ぽろぽろ泣いている。
まったく甘っちょろいヤツめ。
そう思ったけど。
でもま、今夜はその甘っちょろさが可愛い。
シウンの頭を、片手でそっと抱きよせる。
外では雨が本降りになってきた。
屋根のシートの隙間から、小屋の中にも水滴が落ちてくる。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
やがて。
わたしに抱かれたまま、シウンは静かに寝息をたてはじめた。
もう、ほんっっっとに、さえない寝顔。
ふだんからどこか眠たげでトロい感じのするその横顔。眠るとますますトロそうに見える。わたしったら、なんでこいつを彼氏に選んだんだろう? あーあ。
シウン。
わたしは声に出さずに名前を呼ぶ。
起こさないように。
ゆっくり顔を近づけて。
形のいい子供みたいな唇に、
そっとキスする。
シウンと抱き合ったまま。
わたしも少しのあいだ、眠った。
浅い眠りの中で、わたしはひとつの夢を見る。
その夢の中で。
わたしはあいつとふたりで海辺にいる。
白い砂浜がどこまでも続く南国のビーチ。
そこにはあいつとわたしのふたりだけ。
海はキラキラ輝いている。
波の音がする。潮の匂いがする。
ふたりは手をつないで。
どこまでも浜を歩いていく。
歩きながら、わたしは歌う。
空に向けて、波に向けて。
わたしの歌。
わたしだけの歌を。
わたしは歌う。わたしは歌う。
ラ・ラ・ラ
ラ・ラ・ラ
わたしはどこまでも、歌い続けるんだ。
他の誰にも歌えない、わたしだけの歌を。
ラ・ラ・ラ
どこでも。どこまでも。
ラ・ラ・ラ
いつも、いつでも、いつまでも。