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家に着くと、昨夜のうちに用意しておいた着替えが入った紙袋を持ち、制服のまますぐに母さんの入院している病院へ行く。
母さんは私が物心つく前から自殺未遂を繰り返しては入退院を繰り返していた。
体の傷が治り退院するたびにリストカットや睡眠導入剤の過剰摂取で自殺を図るのだ。
「死にたい」
「死なせて」
それが母さんの口癖だった。
記憶の中の母さんはいつだって、錯乱しているか、その綺麗な顔を両手で覆って泣いているのだった。
ナースセンターに顔を出すが、忙しそうな看護師さん達に声をかけることができなかった。
「そっと、荷物だけ取り替えて帰ろう」
そう呟くと母さんの病室へと踵を返す。本当は看護師さんにお願いしたかったのだが仕方ない。
病室からは、ケラケラと楽しそうな母さんの笑い声が漏れていた。
良かった、今日は機嫌が良さそう。
「こんにちは、可南子さん。冬樹さんに頼まれて着替えを持ってきましたよ。持ち帰る物や不足している物は何かありますか?」
そう声をかけて中に入ると、数度挨拶を交わした事のある看護師さんと談笑していた母さんがこちらに笑顔のまま振り返った。
「あら、どなた? 冬樹がごめんなさいね。あの子、今日は来れないのかしら」
「今日は、仕事で遅くなるから来れないって言っていました。伝える事があれば仰ってください」
母さんは私を認識しない。認識させてはいけない。
だから、名乗らない。それなのに。
「どなたって、
私と母さんの関係を言い含められていないのか、看護師さんがあっさりとバラしてしまった。
聞いた途端に、母さんの笑顔が歪む。これでもかというほど、憎々し気に。
「お前! 何でっ!」
一瞬だった。
どこにそんな体力があったのだろうと思うほど急に、飛びかかって私の首を絞めてガクガクと揺さぶる。
誰かの悲鳴が聞こえた。
「何で、お前がっ!」
大勢の看護師や医師が慌ててやってきて、母さんを私から引き離す。
「お前が死ねば良かったんだ! 返して! あの人を返してよぉ!」
母さんを取り押さえる医師が行きなさいと手で示したのと同時に病室を飛び出した私の背に、悲痛な叫び声が突き刺さった。
あの人、というのは父さんの事だ。
父さんは、私が二歳の時に交通事故で死んだらしい。
カメラマンだった父さんは、仕事で行っていた沖縄から帰る途中事故を起こしたという。
それも、私の誕生日に間に合うようにと、相当無理なスケジュールで仕事をして。
周囲が止めるのも聞かずにそのまま帰宅しようとして結局、帰っては来られなかった。
私の誕生日が父さんの命日だ。
故に私は誕生日を祝われた記憶がない。その日に貰うのは呪いの言葉だけ。
私のせいで父さんが死んだと、母さんと兄さんに物心つく前から言われ続けた。
「お前さえいなければ」と、何度言われただろう。
「お前が代わりに死ねば良かったんだ」と、何度責められただろう。
錯乱した母さんに、実際に殺されかけたこともある。
私が宿題をしている時、突然部屋に灯油を撒いて火を点けたのだ。
兄さんがすぐに対処したから大きな火事にはならなかったけれど、私の背中には消えない痕が残っている。
それ以来、私も睡眠導入剤がないと不安で眠れなくなった。
言葉という見えない棘は突き刺さるとなかなか抜けてはくれない。
もし可視化できるなら、きっと今の私は針山のような姿になっていることだろう。
「あ、荷物……」
持ち帰るはずのものも全て置いてきてしまった。
今は、戻れない。戻りたくない。
幸い、家の鍵はスカートのポケットの中だ。
錯乱状態の母さんの元へ行くよりは、兄さんに怒られる方がマシだろう。
トボトボと家路を歩く私を、突然降り出した大粒の雨が濡らしていく。
晴天なのに降り注ぐその雨に、天気にまで私の存在を否定されているような気がして。
もう、限界だった。
私はいつだって耐えてきた。
いつかはきっと応えてくれる、向き合ってくれると、そう願って。
いつかはきっと何もかも大丈夫だと、そう信じて。
居場所が欲しい。愛情が欲しい。
願ったのはただそれだけ。でも、叶う事はなく。
一体、いつまで耐えれば良いのだろう。
気付けば、足が止まっていた。
棒立ちになり雨に濡れるがままの私を、濡れまいと足早に行き交う人々が無遠慮に見ながら過ぎ去っていく。
冷たい雨と視線を浴びながら、それでも、歩き出すことができなかった。
――帰りたくない。
あの家には、私の居場所なんてない。
でも、どこにも行く場所なんてない。
このまま消えてしまいたい……。
そう思った時だった。突然声をかけられたのは。
「お姉さん、大丈夫? 風邪ひいちゃうよ? うちにおいで、すぐそこだから」
大きなくりっとした瞳の男の子が、私の顔を見上げていた。