第二百九十一話
「ううっ……」
ふと、控え目なノックがやってきた。
既にメイは気にかけられる状態ではない。仕方ないな、と思いつつ俺は返事をした。
ゆっくりと開けられたドアの先にいたのは、ルナリーだ。
「しあわせ、におい、感じた」
トテトテ、と、ルナリーはくまのぬいぐるみになったオルカナを抱きしめながら駆け寄ってくる。
短い言葉だが、心配していたんだなぁ、というのが伝わってきた。思わず顔が綻ぶな。
ぽふっ、と小さい音を立ててルナリーは俺の隣に座る。メイと同じように頭を撫でてあげると、無表情の中にも嬉しそうな気配を見せた。
「あらあら、ふやけてしまうくらい幸せな光景ですねぇ」
がさごそと音を立てながら、声はベッドの下からやってきた。っていうか、え?
意味が分からず硬直していると、足もとからいきなり顔が出てくる。言うまでもなくセリナだ。いや、ちょっと待って。うん、お願いだからちょっと待って?
固まっている間に、セリナは器用にするするとベッドの下から這い出ると、シンプルなパジャマ姿で立ち上がった。
「うふふ。密かに忍び込んで一晩をともにしたのです。念願が叶いましたねぇ」
「……ベッドの下でか?」
「いえ、一度は入り込もうと思ったのですが、あまりにも静かに深くねてらしたので、これは邪魔できませんねぇと判断しまして、ベッドの下に」
どうしよう。なんて言ったら良いかぜんっぜんわかんねぇ。
「あ、あー、そっか」
「確かに私はいつだってグラナダ様の熱いリビドーを受け止める準備は出来ております。けれど、良識もまた弁えているのですねぇ」
「今までの素行を全部見直してから言えって返すな?」
「嫌ですねぇ、過去を蒸し返して良いのは女性だけですのよ?」
反射的にツッコミ入れると、しれっとセリナは返してくる。
「まぁ何にせよ、無事で良かったですねぇ」
「ああ、おかげさまでな」
セリナは髪を整えつつ言う。ようやく真面目モードか?
「じゃあこれで心置きなくリビドーをぶちまけて」
「お前はついさっき言った良識って言葉どこにやった!?」
全然違った! ちくしょう相変わらず何考えてるかまるでわかんねぇ!
「女心は変り目が早いのです」
「真顔でワケわからん理由ではぐらかすな!」
「もう、真面目ですねぇ。そこがグラナダ様の良い所でもあるのですが。仕方ありません。真面目な話に戻りましょう」
「最初っからそうしてくれ……」
頭痛がする。
気が付けばメイが泣き止んでいて、落ち着きを取り戻している。ルナリーも平常心になっていた。もしかしてセリナはそれを狙っていたのか?
っていうかそもそも俺は気絶してたから分からなかったけど、ポチとかは気付いてたはずだよな? 何で教えてくれなかったんだ?
『……くぅーん』
何かで釣られたか!? この駄犬め!
後でお仕置きすることにしておいて、俺はセリナの方を向く。
「まず、今回の任務を達成したことによって、獣人の国は正式に国家として成立しましたねぇ。よって、私たちのお仕事も終わり。王都へ帰れます」
「そうなのか」
「ええ。今回の任務は非常に重要なもので、達成したらかなりの冒険者ポイントが付与されます。叙勲もあるという話ですよ」
「マジか!」
叙勲、という単語に俺は反応した。
褒章だけの可能性もあるが、冒険者への叙勲となれば、多くの場合貴族身分になることを意味する。
「私はアリアスさんは既に爵位を頂戴していますので、恐らく一つ位が上がると思われますねぇ。グラナダ様はまだお持ちでないので、準男爵ではないでしょうか」
「……あれ、それって貴族だっけ?」
自分でも間抜けだと思いつつも訊く。
俺の前世の知識なら、確か準男爵は貴族身分ではなかったはずだ。英国式だったと思うけど。けどここは異世界なので、事情が違うかもしれない。
「半貴族、というところでしょうか。一代貴族にあたりますねぇ」
「ってことは、世襲は出来ないってことか」
セリナはにこやかに頷いた。
「基本的にSRエスレアの方々が叙勲される爵位です。それ以下のレアリティの方々は一定以上の功績を認められれば叙勲される場合があります。貴族年金は出ますし、王都の貴族館に屋敷を持つことが出来ますが、土地は保有できませんし、貴族院の議席もありません」
完全に名誉貴族って感じだな。
分かりやすい説明に頷きつつも、少し落胆した。土地を持てないってことは、まだ田舎村への復興が叶わないからだ。
「ここから上の爵位を頂くには、ただ功績を出すだけではダメですねぇ。貴族として身分を保証する、後見人を見つけなければなりません」
「またメンドくさそーだな……あ、でもアリシアがいるか」
アリシアはフィルニーアの血筋を受け継ぐ純粋な貴族だ。
「いえ、不可能ですねぇ。確かにグラナダ様はフィルニーア様の苗字を頂戴してらっしゃいますので、その線から後見人をお願いするのは正当な行為なのですが、アリシア様は宮廷貴族の子爵です。宮廷貴族が後見人になれるのは、三親等までの血筋です」
三親等ってことは、確かアリシアはフィルニーアの孫だから、それで二親等。つまりフィルニーアの実子扱いでないとダメってことだ。
そういえば俺って、戸籍上はフィルニーアのなんなんだ? 名目上は息子だけど。
「きゅうていきぞく、ってなに?」
きょとんと首を傾げたのはルナリーだ。というか話題についてこれてたのか。
「土地を持たない王都中枢で行政を担う貴族のことですねぇ」
まさにアリシアはそれだな。
「なるほど、ありがとう」
「どういたしまして、ですねぇ」
ルナリーの俺にセリナは朗らかな笑顔を浮かべた。
「話を戻します。私の記憶が確かであれば、ですが、グラナダ様の場合、フィルニーア様の名前ではありますが、フィルニーア様のひ孫という扱いです。つまり五親等になっていますので、後見人には選べませんねぇ」
「マジか」
「フィルニーア様の実子にしてしまうと、色々弊害が発生してしまうので、それを避けるための処置だったと思われますが、今回に限っては弊害になってしまいましたねぇ」
困った顔を浮かべながらセリナは腕を組んだ。セリナは王族の姫であり、貴族より上の地位にいる。後見人制度は王族内でのみ発動するから不可能だ。となると、他の貴族連中になるのだが……セリナの表情を見るに無理っぽいな。
ってことは、自力で探す必要があるってことか。
即ち思いっきり貴族のドロドロでがんじがらめの汚泥な権力関係に足を踏み入れるってことだ。
辟易して苦い顔を浮かべてしまう。
「後見人になるためには、爵位を持った状態で、その土地を治める貴族からの依頼を完遂して信頼を得ることが重要です。娘さんを娶ったりする必要性も出てくると思います」
うわぁ。
俺は更に眉間にしわを寄せた。いや、分かる。分かるんだ。土地を治めるためには、親族関係である方が良いに決まっている。まして見も知らぬヤツを後見人にさせて少しとはいえ土地を任せるのだ。世間の外聞も考えてそうなるのは分かる。
けど、好きでも無い人と結婚するのは抵抗感がある。
「それ、避ける方法はないの?」
「うーん……」
「不可能じゃないわよ」
唸るセリナに代わって、アリアスが部屋に入りながら答えてくれた。途中から話を聞いていたらしい。
「その土地を治める貴族の後見人やその地位にいる貴族に気に入られて、後見人にするよう命令を出してもらうのよ。そうすれば断られることはないわね」
「回りくどいやり方ではありますが、一番現実味がある方法ですねぇ」
セリナも少し考えてから同意した。
その反応からして、現実味があるとはいえ相当困難だってのは良く分かった。
「グラナダ。あんたが復興させたい田舎村だけど、一度は王都直轄地になったわよね?」
「確かそうだな」
「ですがいつまでもそのままにはしておけませんし、土壌の汚染も終わったことから、今はグレーマリー辺境伯に戻されていますねぇ。そもそも王都直轄地にしたのは緊急措置ですし」
「グレーマリー辺境伯の後見人って誰だっけ……」
「《西の果て》の名を持つ、ヴァイオレット・ハンス大公ですねぇ」
セリナの言葉に、アリアスが顔をひきつらせた。
「三大侯爵家筆頭じゃないの……」
「なんだそりゃ」
「王都中央で三大貴族があるのはご存知ですよねぇ? アリアスさんがその一つですし」
俺は頷く。他にはアーヴァニア家とティアナ家だ。どっちも微妙に関わったから覚えているぞ。
「それとは別に、王都を中心とした辺境地を治める侯爵家にも三大勢力があるのです。そのうちの一つはアリアスさんの家なんですけどねぇ」
マジか。三大貴族の上に三大侯爵家にも数えられるって、相当だろ。
「私の家は一番王族に近いっていうのもあるからね」
「で、その三大侯爵家の中でも筆頭とされるのが、ヴァイオレット・ハンス大公なのです。中央にも影響力を持ちつつ、辺境では最大の影響力を保持している大貴族さんですねぇ。代々辺境地を治めることに注力してらっしゃるので三大貴族には列していませんが、同等なものがあると思っていただいて結構です」
「そんな人にどうやって近づくんだよ……」
俺は深い嘆息で持って問うが、誰も答えられなかった。
「近づく方法ならあるよー」
重い沈黙を打ち消すように爽やかな声が響き、いきなり目の前の空間が捻じ曲がる。これは、時空間転移! っていうか、この声は……!
姿を見せたのは、予想通りハインリッヒだった。