【3時限目】難問フェチ
過去問100年分の開始から10日目―――――
教室内では相変わらず、ペンのカツカツカツ……という無機質な音のみが響いていた。
(何か、おかしい……)
この10日間、僕は注意深く姫の様子を見続けていた。目の前で観察し、どの程度まで基礎学力があるのか、またどういう考え方をして問題に取り組んでいるのかを把握するためだった。しかし………
「……んくっ!……」
(まただ……)
「………ん、んはぁっ♡………」
(やっぱりだ。たまにではあるが、科目ごとに必ず何回か見せる、この尋常ならざる姫の苦しみ方……明らかに普通ではないな……試験中のストレスからくる過呼吸のようなもの、か……?)
先程からの姫の様子に露骨な不自然さを感じていた僕は、その要因が非常に気がかりになっていた。
(ん、完全に動きが止まった……そういえば、今の問題に取りかかってから一層苦しむ感じが強まったような気が……)
「こ、この問題……なんて難しい……の!……き、きくっ!!この問題、効くううっ!!!!!!!」
ここにきて、姫の様子、いや体調が更に悪化したようだ。最早、看過できない状況が姫の身に起こっていることは確定的に思われた。
「ま、まずい!この苦しみ方は『過呼吸』に違いない!姫様、今すぐテストを中止してください!!」
急いで姫の元に駆け寄ると、勢いで眼鏡とマフラーが床に落ち、姫の素顔が顕わになった。
そこには恍惚の表情で眼を潤ませながら、マスクを涎まみれにした姫のあられもない姿があった………
そして、片方の眼は紅く煌々と輝いている。
「ひ、姫様…?そのお姿は……!?」
「み、見ましたわね……私の、絶対の秘密を………!」
激しい羞恥心からか、姫の顔が耳まで真っ赤になる。加えて……恍惚の表情、止まらない涎、明らかに乱れている呼吸……
学生時代から勉強漬けで、異性との接触など講師と生徒以外の場面では全くなかった僕だが、さすがに姫の現状は完全に察してしまった………いや、察したくはなかったのだが。
「姫様……あなた、まさか……」
「おやめなさいっ!!!」
「……それ以上、何もおっしゃらないことです!!でなければ、私……解放してしまいます。999年に及ぶ極限の浪人生活で宿った……天使でありながら、世界を黒く浸潤する力を解き放たなければならなくなりますっ!!」
「この……『ダークマター』を!!」
そう言った姫の周りは、得体の知れない黒く禍々しいオーラで包まれ、やがてそれは空間をも侵食し始めた。
明らかに、やばい雰囲気だ……
もし、ダークマターとやらが解放されたとしたら、少なくともこの部屋くらいは簡単に吹っ飛んでしまうのだろう……と、思った。
「わぁああ、おやめくださいっ!!分かりました、分かりましたから、『ダークマター』はひとまず中止しましょう!!」
「ほ、本当ですわね………約束ですわよ。もし違えたら、絶対に許しませんことよっ!!!」
「わ、分かりました。……ですが、私が講師である以上、姫様の勉強の『妨げ』になる要素は把握しておかなければなりません。ですので、どうか姫様の口から今の状況……説明してくださいませんか!!」
僕の言葉が正しく届いたかは分からないが、少し落ち着きを取り戻した姫は肩を落とし、その場にへたり込んだ。そして、それと共に先程までの禍々しいオーラも綺麗に消え去っていた。
「い、いいでしょう………」
*
*
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暫く間を置き、眼鏡とマフラーをかけて平常時に戻った姫は少しずつ自分のことを話し始めた。
「……なんと申せばよいか……私は、人とは少し変わった場面で、気分が高揚……いえ、興奮を感じてしまう体質なのです……」
「確か、現代魔法の問3に差しかかった時、あなたの筆はぴたりと止まり、悩み始めましたね。そして、そこからのあなたは、どんどん様子がおかしくなっていった……あの症状が、その体質に起因すると……?」
「……その通りです。実は、私は……『難問フェチ』なのです……!」
「な、『難問フェチ』!?」
「元々は、ほんの少しだけ受け身……いえ、いわゆるM的な場面に少々興奮を感じるだけの体質だったのですが……999年にも及ぶ受験生活による枯れ切った青春の末、ついには『試験の問題』までもがMを感じる対象になってしまったのです……」
彼女は気恥ずかしさMAXといった表情で、必死に話しているようだった。
「……うぅ、や、やっぱり嫌ですわ!!こんなはしたない告白を、会って間もないあなたに……」
「姫様、落ち着いてください!もし、あの症状が改善できるのであれば、受験にも必ず良い効能をもたらすはずです……!お辛いでしょうが……どうか、最後までお話しください!!」
「うぅ……分かりましたわ……」
「……私は、難問に相対した時、その難問自身が擬人化して私を責めてくるかのような妄想に囚われてしまうのです。生物ですらない物にさえ、一方的になじられている自分に堪らなく興奮してしまい、遂には試験に全く集中できず不合格、ということの繰り返しで……」
「なるほど……999年もの禁欲生活が、その境地にあなたを至らしめてしまった…そういう事なのですね」
「そう……私は受験だけでなく、この症状とも900年もの間、戦い続けてきたのです……!!」
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……いや、結構早い段階で目覚めてんじゃねぇか!!!!!