プロローグ
朝――薄明。薄暗い街を、冷たい空気と、薄い霧が満たしていた。
未だ朝日は顔を出さず、皆寝静まった静かな街の中を、一人の白いローブを纏った人物が、街の城門を目指して歩いていた。
ローブを目深く被り、顔を隠した、少し怪しい人物。
ローブを纏ったその人物は、誰かに見られないようにと気を配る様な足取りで、街の城門へと向かっていた。
そして、ちょうど、まだ閉じたままの城門の目の前に辿り着いた時だった。
「勇者様、こんな時間に何処へ行くんですか?」
ローブを纏った人物へと、どこからか声がかかった。
声をかけた人物は、直ぐに見つけることができた。城門の直ぐ傍、普段城門が開いている時、警備の衛兵が立っている辺りに、その人物は立っていた。
浅黒い肌に白い髪の若い男性。男性は煙草をふかし、少し眠たそうな目をローブを纏った人物へと向けていた。
「ザックス……やっぱり見つかっちゃった……」
ローブを纏った人物――勇者と呼ばれた人物は、目深く被っていたフードを外し、懐かしげな声で答えを返した。
「やっぱり、行っちまうのか?」
ザックスと呼ばれた男は、寂しげな声で言う。
「まあ、ね。最初から決めてたことだから……悪いな」
「何とか、なんねえのか?」
「前に話しただろ。僕はこの世界の人間じゃない。
この世界はもう僕を必要としていない。なら、僕はもうこの世界から去らないといけない」
「そう言う、問題なのかね。この世界に必要だとか、そうじゃ無いとか、そんな許可みたいなのが必要なのか?」
「そう言う問題だよ。僕は部外者だ。僕がこの世界に関わる事は、この世界の法則、秩序、そのすべてを乱すことに成る。いわば侵略者みたいなものなんだ。
今までは、魔王と言う倒すべき敵が居たから、見逃されていたけど。それはもういない。これ以上ここへ留まる事は、神が許さないよ。
僕はもう、神の敵になりたくはない」
「そう……か。俺、お前の事、本気で友達だって、思ってたんだけどな……」
「僕もだよ」
勇者が答えると、ザックスは小さく笑う。そして、懐から何か飲み物が入った瓶を取り出し、蓋をあけ、呷ると、その瓶を勇者の方に投げて寄越した。勇者はそれを受け取る。
「最後に一杯。やらねえか?」
「ごめん。僕が生まれた世界では、20になるまで、お酒はダメなんだ」
「なんだ、それ。お前、記憶無いんじゃなかったのか?」
「なんでかね。どうでも良い事だけは覚えてるんだ。悪いな」
勇者はそう言うと、石畳の地面に酒瓶を置く。
「くっそ。最後まで可愛くねえ奴だ。どこへでも行っちまいな」
「うん、そうするよ。最後に話せてよかった。ありがとう」
「俺も、別れを言えてよかったよ。新しい世界でも、達者でな」
勇者はゆっくりと歩き出す。進む先には、閉じた城門が有る。それでも、勇者は歩みを止めず、歩き続ける。そして、勇者が城門に触れると、その空間が歪み、城門をくぐるかのように、霧の中に消えるかのように、ローブを纏った勇者の姿は、その場所から消えていった。
「城門から出ていくなんて、相変わらず律儀なやつだ」
勇者を見送り、残されたザックは、最後にそう呟いた。
◇ ◆ ◇
僕は勇者と呼ばれた。元の名前は覚えていない。色んな場所で、いろんな名前で呼ばれ、そして、多くの場所で勇者と呼ばれるようになった。
最初から勇者と呼ばれていたわけでは無い。
最初は善意で人を救い、そこからまたさらに多くの人を救い、そして気が付くと勇者と呼ばれていた。それを何度も繰り返した。
多くの人を救うために、多くの命を殺め、時には神さえも殺した。
最初はただ静かに、穏やかに暮らしたかっただけなのに、気が付くと世界を救う旅に出ていた。その先に、求めていた安息はなかった。賞賛と羨望、そして束縛。旅の先にあったのは、息苦しい生活だけだった。
だから僕は、その世界を離れ、新たな世界へと旅立った。そして、そこでもまた、人を助け、勇者となった。
そしてまた、僕は世界を離れ、安息を求め、世界と世界を渡る旅に出たのだ。
◇ ◆ ◇
上下左右、東西南北、すべての方今感覚が無くなり、ぐるぐると渦巻く感覚が、少しずつ、少しずつ薄れていき、暖かい風が肌を撫でる。
ようやく、新たな世界へたどり着いたのだ。
大きく息を吐き、深呼吸。そして、ゆっくりと目を開く。
木漏れ日がさす穏やかな森の中だった。
ゆっくりと辺りを見回す。たぶん、見た事が無い場所だ。
確認を終え、もう一度息を付く。大きな問題はなかったみたいだ。
「リューク、着いたよ」
コンコンとベルトポーチの様な、腰のあたりに下げた小さな箱を叩く。すると中から、くぐもった声と共に、蓋を開き小さな竜が顔を出す。スードゥドラゴンと呼ばれる、小さな竜だ。
「うげぇ、気持ち悪い。吐きそう……」
リュークが箱から顔を出すと、気持ち悪そうな表情を浮かべ、箱の淵からだらんと首を垂らした。
「中で吐かないでよね。掃除大変だから」
「吐く、吐かないの前に、吐く物が胃の中にない無いよ。うげぇ。昨日、移動するからって、何も食べさせてくれなかったのは、どこの誰だよ」
「それはよかった。まぁ、これでも舐めて、落ち着きな」
リュークが入っているポーチとは別のポーチから、小さな飴玉を取り出し、それをリュークの口の前へと差し出す。リュークは、すぐさまそれを口の中に含み、舐め始める。
「ふぉふぇで、ふぉふぉがわらしいふぇふぁいふぁ?」
「リューク。口の中に物入れたままだと何言ってるか判らないよ」
バリボリとリュークが飴玉を噛み砕き、ごっくんと飲み込み、可愛らしくげっぷをする。
「それで、ここが新しい世界か?」
「そう、ここが僕達の新天地。誰も僕達の事を知らず、誰も僕達の事を気にかけない。僕達の安息の地だ」
見て見ろと言う様に、僕は眼下に広がる、森を切り開いて作られたような、小さな村を指示した。
「そのセリフ、もう何回も聞いたよ。ほんとに静かに暮らす気有るの?」
僕のセリフにリュークは呆れた様な返事を返す。
「耳が痛いな。でも、今回は間違えない。ゆっくり過ごすつもりだから安心しな。大丈夫」
「ほんとかねぇ」
リュークは再び呆れた様な溜め息を付く。僕はそれを笑って受け流し、新たなる地、目の前に広がる村へと歩き出した。
新たな土地で、新たな人生を……今度こそ、穏やかに暮らすために。