第三章
翌日の放課後、アラタはリリの部屋に訪れていた。寝室をノックしてもやはり返事はなく、アラタは黙って扉を開けた。
「――そうだよね。今はどうしようもないよね」
虚ろな目に笑みを浮かべ、ベッドの上のリリはソファに刺さったままの剣に向かって話していた。
「……リリ、何を言っている」
名前を呼ばれて初めて気付いたように、リリはアラタに顔を向けた。
「ああ、お前か。アルベルトと話していたんだ。またね、アルベルト。人が来たから」
再び剣に顔を向け、リリは手を振った。
「アルベルトとは、その剣の名前か」
「そうだよ。彼はとても賢明だし、私の知らない世界の事をたくさん知ってるんだ」
虚ろな目をしたリリを見つめ、アラタは目を細めた。特殊な剣とはいえ、会話などできるはずもない。
「そうか」
アラタは剣の横に腰を下ろした。
「もう私に用はないだろう」
「先生について聞きたい」
「先生? ……ああ、マスターか。私が組織にいた頃はマスターと呼ばせていた。あいつは信用してはいけない類の人間だ」
リリはアラタを見ていない。ずっと剣を見つめている。
「そう思う理由があるのか」
「お前の方こそあるんじゃないのか?」
リリはくすくすと笑う。
「……都合の悪いタイミングでパーソナル迷彩が起動された。起動できるのは先生と連絡役だけだ。二人とも自分ではないと言っていたが」
「お前も自分では起動できないのか。私達もそうだよ。シスターしか起動できない。もっとも、マスターの命令だったそうだが」
「お前達の話は聞いていない」
「マスターの話をしているつもりだよ。あいつは誰も信用していない。連絡役とはあの女か。人間ではなさそうだな」
「彼女は人間だ」
「いいや違うね。人間に似た何かだ」
「なぜそう言い切れる」
何かを探るようにリリはアラタの目をじっと見つめた。
「お前はマスターを作った人間を一人残らず殺した話を聞いたか?」
「……先生を、作った?」
「聞かされていないか。まあそうだろうな」
リリは再び剣に目を向けた。
「私達と同じようにマスターも作られた人間だよ。世界を支配する頭脳の役割を担うはずだった。しかし目覚めたマスターの意思は彼らと同じではなかった。誰が頂点に立ったところで人間は同じ過ちを繰り返すと分かっていたんだよ。だからマスターは計画を変更し、最も邪魔になる組織の上層部をまず殺した」
興味なさげにリリは語り、また剣へと目を向ける。
「シスターも作られた人間なのか?」
「そうではないと聞いたが、どうだろうな。シスターはマスターにとって唯一信用の置ける人間だった。だから人間ではないのかもしれない。だがシスターもまたマスターを裏切った。ここまで言えばマスターが誰も信用しない人間だと分かるだろう?」
「お前の話は信用できない」
「だったらマスターに聞いてみるといい。今のお前がマスターを信用できるとも思えないが、仲間割れして潰し合ってくれた方が私は嬉しい。ね、アルベルト」
虚ろでありながら、剣と話すリリは子供のように楽しそうな笑みを浮かべていた。アラタはそんな彼女を憐れむような目で見遣り、部屋をあとにした。
さくらと連絡を取り、アラタは先生との話し合いを申し出た。場所は例によって黒塗りの車の中だった。
アラタの質問に先生はあっさりと肯定した。
「そうですよ。概ねリリの言う通り、僕は作られた人間です」
運転手は何も言わない。
「だからこそ純粋な利害関係、目的を同じくする同志の選考に時間を掛けたんです。僕はアラタさんにまで裏切られたくはありませんし、不信の目で見られるのも嫌です。殺そうと思えばアラタさんはいつでも僕を殺せる。これを信頼の証と受け取ってもらえれば幸いなのですが」
「いつも助手席に座っているのもそういう理由か」
「それは違います。単に助手席が好きなだけです。助手席って一等席な気がしませんか。追い抜いていく景色も楽しめますし」
「……リリの様子がおかしかった。先生、何かしたのか」
「僕は何も。もともと彼女は危うかったんです。群を抜いた破壊力を持ちながらシスターの意向に従えない訳ですからね。そういう意味ではシヴァ、青いのもそろそろ危ういのではないかと思っていますよ」
眉根をひそめ、アラタは黙り込んだ。
「極端な話、僕を信用できなくても構いません。目指す目的が同じであれば僕としては信用に足ります。もちろん好ましくはありませんが、パーソナル迷彩の件があった今はそれも致し方ありません」
「ヴァンパイアの正体については」
「調査中ですが、シスター側の誰かとしか考えられません。しかしシスターにポストヒューマンを作る技術も資金源もないはずなので、分からないというのが本音です」
「適正な人物がいれば先生なら作れるだろう」
「あまり自分で言いたくはありませんが、基本的に僕は人間を信用していません。アラタさんと同じレベルで思想を共有できる人間などそうはいません。少なくとも今のところ見つかっていませんし、量産したくもないんです。無秩序な殺戮を行う可能性もありますから」
「……信用していいのか?」
「そうしていただけるとありがたいですね。僕としてもあらぬ汚名を雪ぎたいところです」
翌日、アラタは体調不良を理由に学校を休んだ。
セーラからメッセージが来ていたが、初めのやり取りだけを返信してあとは返さず、リビングで垂れ流されるテレビの映像を興味なさげに眺めていた。
時間にして二限が始まった頃、インターフォンが鳴った。家にはアラタ以外誰もいない。カメラを見ると、さくらが笑顔で手を振っていた。
「……学校はどうした」
『早退しました! アラタさんがいないなら学校にいる意味がありません!』
「帰ってくれ。今日は誰とも会いたくない」
『ですが私来ちゃいましたよ?』
「帰れと言っている」
『不慮な事故で玄関が壊れてしまうかもしれませんね?』
アラタは大きなため息をついてテレビを消し、髪をざっと整えて玄関に向かった。
「へー。ここがアラタさんのおうちですか。広くてきれいですねー」
リビングのソファに座ったさくらは興味深げに部屋中を見回した。対面に座ったアラタが問う。
「何の用だ。先生の差し金か」
「違いますよ。きっと仮病だろうなーと思って遊びに来たんです。お茶はまだですか?」
「先生に連絡しろ。もう一度精密なメンテが必要だと」
「お断りです! 先生にも黙って来てますからばれたら怒られちゃいます。お茶、勝手に淹れていいですか?」
「やめろ。勝手に家のものを触るな」
立ち上がり、アラタはキッチンでお茶の準備を始めた。目分量で針のような茶葉を入れ、お湯を注いでいく。
「本当にお前じゃないんだろうな」
「何がですか?」
テーブルの真ん中に置かれたお茶菓子を吟味しながら、さくらは尋ね返した。
「パーソナル迷彩の件だ」
「違うって言ってるじゃないですか! 大体、何で私がそんな事するんですか」
「お前の言動は不可解だ。特に理由がなくてもやりそうな気がする」
「心外です! 私だってやっていい事と悪い事の区別ぐらい付いてるんですよ?」
「信用ならないな」
さくらはいじけたように顔を伏せ、ソファの上で膝を抱えた。
「本当に分かってるんです。私、アラタさんに嫌われるような事はしません」
「半ば勝手に家に来ておいて何を言っているんだ」
急須と茶碗を載せた盆を運び、アラタは再びソファに座った。二人分のお茶を入れていく。
「だって、疑われたままじゃ嫌じゃないですか」
「足を下ろせ」
「嫌です」
「下ろせ」
「パンツ見えてるからですか」
「黙って足を下ろせ。熱いお茶をぶっかけられたいのか」
「どうせなら精子をぶっかけてください」
途端、アラタの目が赤く染まった。右腕が銀色に変色し、伸長していく。槍先のように変形した先端をさくらの白い首に当てた。
「……アラタさんに疑われるぐらいなら死んだ方がましです」
「死ぬ? 壊れるの間違いだろう」
「違います。死ぬんです」
「……どちらでもいい、お前がいなくなったら俺が困る」
首から離した槍先を手のかたちに変え、さくらの足を床に下ろしていく。
「本当に、私じゃないんです」
「分かった、もういい」
変形した腕を元に戻し、アラタは熱いお茶を口に含んだ。
「よくないです。アラタさんまだ疑ってるじゃないですか」
「もういいと言っているだろう」
「よくないです」
「……もう俺はお前を疑っていない。これでいいか」
「よくないです。謝ってください。アラタさんに疑われて、私の心はとても傷付いたんです」
「もういい、勝手にしろ」
アラタは気つけのようにお茶を呷り、テレビをつけた。
リモコンを奪い、さくらは黙ってテレビを消した。睨むようにさくらを見つめ、アラタは低い声で言う。
「どういうつもりだ」
「ちゃんと謝ってください」
さくらは頑ななまでに顔を伏せていた。深いため息をつき、アラタは首を振った。
「俺のパーソナル迷彩を起動できるのはお前か先生だけだ。お前じゃないとしたら先生がやった事になるが、それでいいのか」
「そういう問題じゃないんです。そんな話をしにきた訳じゃないんです」
眉根を寄せて目を閉じ、アラタは腕を組んだ。しばしの無言を挟み、目を開いたアラタは尋ねる。
「仮定の話だが、俺と先生どちらかしか救えない状況になった場合、お前はどうする」
「アラタさんを助けます」
「俺の代わりは他にもいるが、先生に代わりはいない。それでもか」
「私にはアラタさんの代わりなんていません」
「……そうか」
アラタは膝に手を付き、頭を下げた。
「さくら、疑ってすまない。俺が悪かった」
さくらはしばらく黙っていたが、やがて困ったように笑った。
「私の方こそごめんなさい。謝ってもらいたくて来た訳じゃなかったのに」
そう言ってさくらは茶碗に口を付け、顔をしかめてちろりと舌を出した。
「……このお茶、苦い」
「苦丁茶という中国茶葉の一種なんだが、口に合わないか」
「アラタさんはこれ好きなんですか?」
「ああ。苦みのあとに甘い余韻がある」
「じゃあ頑張って飲みます」
熱いのか苦いのか、時折に舌を出しながらさくらはお茶をちびちび飲み始めた。
「無理をするな。何か甘いものを用意しよう。何がいい」
立ち上がり、アラタは再びキッチンへと向かう。
「すりおろしリンゴジュースがいいです」
「ジュースの類はない。ティーラテで構わないか」
「ありがとうございます。……精液ってもっと苦いんですかね?」
「俺に聞くな」
透明なティーポットに紅茶葉を入れ、お湯を注いでいく。
「学校の友達は苦いって言ってました」
「俺に言うな。……その話、セーラにもしたのか」
「してませんけど、どうかしたんですか?」
お茶菓子の中からフィナンシェを選び、封を開けながらさくらは尋ね返した。
「口にしたくもないが、セーラは小学校の頃に誘拐された事がある。そのせいか今でも男に恐怖心を抱いているようだ。あまり性的な話はしてほしくない」
「……そうなんですか。分かりました」
「犯人は今だ捕まっていないし男か女かも分からない。俺はそんな奴らがのうのうと生きているのが許せない。そんな世界が許せない。だから先生の計画に賛同している」
アラタのスマホは先生の手により改造されている。中に伝えられていない機能もあり、その一つが盗聴機能だ。
複数ある拠点の一つ、モニタの薄明りの中、アラタとさくらの会話を盗聴していた先生は声を漏らした。
「小学校の頃に誘拐されている? 遊園地にいたあの子が?」
先生は瞬時にキーボードを打ち鳴らし、セーラの情報を呼び出した。経歴とともに映し出されたセーラの画像は優しく微笑んでいる。
「まさかこんな偶然があるとは思えないが……もし、偶然でないとしたら」
薄明りに照らされた先生の顔には珍しく焦燥の色が浮かんでいた。
「むっ」
二人でお茶を飲みながら他愛もない話をしていた時、さくらは急に眉根を寄せ声を上げた。
「先生から着信です。学校サボったのばれちゃったみたいですね」
「ならおとなしく学校に戻れ」
「お断りです。今日はサボると決めたんです。しゃきーん!」
立ち上がり、さくらは腰に手を当て右手をまっすぐ上に伸ばした。
「ジャミング、起動!」
ポーズを取っているが見た目に変化はない。
スマホを取り出したアラタが言う。
「俺のスマホまで圏外になっているが」
「それでいいんです! 私が出ないと分かったら絶対アラタさんに掛けてきますから!」
「どうしてそんなに学校をサボりたいんだ」
「サボりたいんじゃないです。アラタさんと一緒にいたいんです」
困ったような笑みを浮かべ、さくらはアラタの隣に座った。アラタの顔を覗き込みながら尋ねる。
「アラタさんは私と一緒にいるの、嫌ですか?」
「……どちらでもいい。どうせする事もない」
さくらは嬉しそうに笑い、紅茶を手前に引き寄せた。
「先生に怒られるぞ」
「別にいいです。今はアラタさんと一緒にいたいんです」
先生は机をばんと叩いた。
「こんな時にジャミングだと! あいつは一体何を考えているんだ!」
立ち上がり腕を組み、先生は暗く狭い室内をうろうろし始めた。
「しかもアラタさんの家にいるし、ジャミングのせいでアラタさんにも繋げられないし」
指の爪を嚙みながら先生は呟き続ける。
「アラタさんの家に向かうか? いや、きっともう逃げ出す準備をしてるはずだ。さくらならどこへ向かう、いやこの場合アラタさんがどこを選ぶか考えるべきだ」
先生はぴたりと足を止めた。
「リア充の行くところなんて分からない」
呟き、再びうろうろし始める。
「アラタさんの断りなしにセーラと接触すべきではない。決定的にアラタさんの信用を失う事になるし、第一確信がない」
その時、警報音とともに赤いランプが点滅を始めた。
「む。こんな時に襲撃だと」
モニタを見た瞬間、先生は大声を張り上げた。
「しかもここじゃないか!」
モニタには港湾を大挙して押し寄せてくるマナ達と、既に鎌を振り回しているシヴァが映っていた。
鞄を引っ掴み、先生は部屋を飛び出した。警報音の鳴り響く廊下を走りながら先生は叫ぶ。
「さくらめ、絶対許さないからなッ!」
その頃、さくらはアラタの太ももを枕に横になっていた。
「……何をしている」
「今日だけ、今だけですから。何も言わずに甘えさせてください」
目を閉じたさくらの顔を見遣りながら、アラタは尋ねる。
「お前は本当にロボットなのか?」
「人間だったらよかったです」
さくらは目を閉じ、困ったような笑みを浮かべた。
「人間に生まれたかったなぁ」
呟き、さくらはアラタの膝を撫でた。
「アラタさんて、セーラちゃんと付き合ってるんですよね」
「……付き合ってはいない」
「そうなんですか? どうして?」
「理由などない。付き合ってはいない。それだけだ」
ごろんと転がり顔を上に向け、さくらはアラタを見つめた。
「じゃあ私なんてどうですか? 赤ちゃんは産めないですけどずっと若いままですよ」
「それはない」
「ないですか。やっぱりロボットだからですか?」
「そういう問題ではない」
「じゃあやっぱり、セーラちゃんが好きだから?」
アラタは目を逸らした。
「そうだ。……もう離れろ」
「もうちょっと、あとちょっとだけ。アラタさん、私、お役に立ててますか?」
「今以外はな」
「じゃあ日頃の感謝を込めて、頭を撫ででください」
「俺に何のメリットがある」
「そういう問題じゃないんです。さ、早く」
さくらはアラタの方を向いて猫のように丸まった。目を閉じて微笑むさくらの頭をアラタが撫でる。
「もっとです、もっと」
「こんな事をして何が楽しい」
そう言いながらも、アラタはネコをかわいがるようにさくらの頭を撫で続ける。
「愛されている気がします」
「愛してなどいない」
「そんな事言わないでください。今は私がそういう気分になれたらいいんです」
それからしばらく、アラタはさくらの頭を撫で続けた。
午前の住宅街はとても静かだ。まるでこの世に争いなどないかのように、平和な時間が過ぎていく。
「もういいだろう」
「だめです。もうちょっと、あとちょっとだけ」
「もうだめだ。起きろ」
アラタが撫でるのをやめると、さくらはぱちりと目を開け、アラタを見上げた。
「ねえ、アラタさん」
「何だ」
「好きです」
そう言って身体を起こしてアラタの首に手を回し、唇に迫った。
しかしアラタはさくらの頭を手で止め、二人の唇が重なり合う事はなかった。
アラタは黙ったまま、さくらは困ったように笑った。
「この一〇センチにも満たない距離が、私とアラタさんとの距離なんですね」
互いの吐息が掛かる至近でさくらはそう言った。
「埋まる事のない距離だ」
アラタはさくらの肩を掴み、隣に座らせた。
「おかしいなぁ。こうすれば男は誰でも落ちるって友達が言ってたのに」
「本当はそんな友達なんていないんだろう」
「あれ、どうして分かったんですか?」
いたずらに微笑むさくらに、アラタは何も答えなかった。
一方、人工島から本州へ、速度制限を無視して鉄橋を渡る黒塗りの車の中。
「……死ぬかと思った」
先生は肩で息をしていた。
リクライニングを倒して横になり、スマホの画面を見つめる。
「まだジャミングを解除してないのか。一体どういうつもりだ!」
声を上げ、スマホをフロントガラスに投げつけた。
「あんな機能付けるんじゃなかった。ジャミングが解けたらすぐに呼びつけて外そう」
指の爪を噛みながら呟く先生に運転手は尋ねる。
「先生、どこへ向かいますか」
「どこでもいいから安全な拠点へ行け」
「曖昧なご命令は困ります」
「じゃあリリのいるホテルだ! まったくどいつもこいつも融通が利かないな!」
「かしこまりました」
運転手は表情一つ動かさない。
「まったく、メンテでは何の異常もなかったのに。少し人間に近付け過ぎたか」
愚痴を吐く先生を乗せ、車はリリのいるホテルへと向かっていく。
港湾施設に偽装していた拠点は十分な回転数をもって放たれたシヴァの一撃により、姿かたちもなく破壊されていた。今やがれきの積もる大きな窪地となっている。
破壊に伴って発生した火災はマナ達が大槌で叩いて消すという原始的な手法が取られ、地下深くにてマナの一人が声を上げた。
「やったーっ! 機械人形の素体だ! 私の勘に狂いはなかった!」
続いて別のマナも焼死体のようなものを両手で持ち上げ歓声を上げる。
「こっちにもあったーっ! やっぱりここは機械人形の量産施設だったんだ!」
機械人形と呼んでいるそれがテディスペシャルの素体である事など、彼女らは知る由もない。
あちこちでマナ達が歓声を上げ、発掘作業を眺めていたシヴァがドレスの裾を掴み、ふわりふわりと一人のマナに近寄る。
「おめでとう。……どうしてここがそうだって分かったの?」
尋ねられたマナは目を閉じて鼻をすんすん鳴らし、パチッと目を開いてウィンクを決めた。
「それはね、女の勘っ!」
「野生の勘の間違いなんじゃ……」
「女の勘なのーっ! まあ、シスターが組織にいた頃から精密機器の生産施設だったらしいからね、可能性は高いと思ってた!」
「でも、マスターいなかったね……」
マナは再び鼻をすんすんと鳴らす。
「いたような気がしたんだけどなー。絶対いつか追い詰めてみせるんだからっ!」
意気込むマナとは違い、シヴァは憂いた顔でため息をついた。
「いつまでこんな事を続けなきゃいけないんだろう……」
「ネガティブ禁止ーっ! こういう地味な活動がマスターの計画を破綻させていくの! シヴァ、今日もパワフルな一撃ありがとう!」
「ううん。それより発掘作業手伝えなくてごめんなさい、ごめんなさい」
「いいってば。こういうのは私の役割だからね! 役割分担大事!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
過剰なまでに謝りながらふわりふわりと後ろ跳びに遠ざかり、シヴァはフェードアウトしていく。
「はい! 私、アラタさんの部屋を見てみたいです!」
「絶対にだめだ」
挙手したさくらの希望をアラタは即座に拒否した。
「ベッドの下にえっちな本があるからですか?」
「いつの時代の話をしている」
「やっぱり今はパソコンの中ですか。アラタさんの性癖が知りたい!」
「黙れ。家から叩き出すぞ」
「幼馴染系がお好きですか」
「黙れと言っている。言っておくが、幼馴染が好きだからといって幼馴染系の性癖があると考えるのは安易に過ぎる。実際に妹がいる男が妹系には興味を持たないのと同じ事だ。更に言えば他人に言える性癖などあくまで表面上のものだ。本当の性癖など他人に話せるはずもない。そうだろう」
同意を求めたがさくらは応えず、ただニヤニヤと笑っていた。
「何を黙っている」
「いえ、珍しくアラタさんが長々と語ったなーと思いまして」
「……お前が知りたいと言ったからだろう」
そう言ってアラタは目を逸らした。
「大丈夫です! 私、アラタさんのそういうところも好きですよ!」
「黙れと言っている!」
「まだ言ってませんよ?」
黙って立ち上がり、アラタはさくらの襟の後ろを掴んだ。そのまま片手で持ち上げる。
「あれ、もしかして押し倒しちゃいますか? 私の精密さを隅々まで調べるんですか?」
「そんな訳ないだろう。このまま家から放り出す」
「ですよねー。でもちょっと待ってください! せめてジャミング解除してからにしてください! 一人で怒られるのは嫌です!」
「知った事か」
アラタは窓を開け、さくらを庭へと放り出した。
ぴしゃりと窓を閉じられ、放り出されたさくらは立ち上がり制服をはたいた。
「あーあ。もっと一緒にいたかったなぁ」
言いつつ、さくらは振り返る事なく門の方へと歩いていった。
苛立った表情のまま先生はリリのいるベッドルームの扉を開けた。リリは虚ろな目で先生を見遣り、すぐにまたソファに刺さった剣へと視線を戻した。
「アルベルト、お客さんが来たよ」
「シスターから何か連絡はあったか」
「シスターから何かあったか聞いてるよ。あった? そう、ないんだね。残念だね」
リリは明らかに剣と話していた。先生は剣に目を向けた。以前に訪れた時から刺さったままだ。
「お前、剣に触れていないのか? だとしたら連絡があっても分からないだろう」
リリに限らず、魔法少女は武器に依存している。武器を携えていなければ魔法少女ではない。魔法少女の力が扱えない。
「だってさ。アルベルトは知ってた? そうなんだ、私は知らなかったよ」
「知らないはずがないだろう。……お前、もうだめだな」
「聞いた? 私もうだめなんだって」
リリは突然大声で笑いだした。
「あははははっ! そんなのとっくの昔に分かってるよね! あの人何言ってるんだろうね!」
狂ったように笑い続けるリリを見て、先生は呟く。
「……もう何の役にも立ちそうにない」
踵を返し、先生は部屋をあとにした。
部屋を出た先生はスマホを操作しながらすぐ隣の部屋に入った。ソファに座り天井を仰ぎ、スマホを耳に当てた。
「さくら、やっとジャミングを解除したな」
『ごめんなさい! どうしてもアラタさんと一緒にいたかったんです!』
「分かった。今回だけは許してやる」
『えっ、それだけですか?』
「いや、絶対にアラタさんと連絡を取らなきゃいけない時のために緊急用の無線を追加したい。構わないか」
『もちろん構いませんけど、じゃあ今回のは緊急じゃなかったって事ですか?』
「テディスペシャルの素体がいくつか破壊された」
ごくりと唾を呑む音が聞こえた。
テディスペシャルの量産は計画の要だ。複数の国家でテディスペシャルの実力をもってして革命を宣言する以上、その数はいくらあっても足りない。更にテディスペシャルは通常のテディロイドより格段に精密な仕様だ。量産基地がやられたとなればダメージは大きい。
『……もしかして私、用済みにされちゃうんですかね』
「そんな訳ないだろう。試験タイプとはいえお前だってテディスペシャルなんだ。それに、その、何だ」
先生は言葉を探すように口ごもったが、すぐにまた話し始めた。
「いや、何でもない。緊急無線を追加したらお前のプライベートを侵す事になるが、本当にいいのか?」
『もうわがままでジャミングを使うつもりもないですし、構いませんよ?』
「そうか。すまないな」
『……先生、どうかしたんですか?』
「何でもない。それより、今もアラタさんと一緒か?」
『いえ、今は学校に向かってるところです』
「戻らなくていい。今すぐリリのいるホテルに来てくれ。隣の部屋だ」
『……分かりました。すぐに向かいます』
「ああ、頼んだ」
そう言って先生は通話を切り、倒れるようにソファに横になった。
ため息混じりに先生は呟く。
「……人間とはああも簡単に壊れるものなのか」
呆然としていた。開かれた目は何も見ていないようだった。
「さくらが壊れたら、困るな」
言ってしばらく、先生は首を傾げた。
「困る? それだけの事か? それなら代わりを用意すれば済む。ジャミング機能を外せばアラタさんと連絡が取れないような事態もなくなる」
自問自答し、押し黙った。
部屋はとても静かだ。何の音も聞こえない。何の匂いもしない。思考に耽るにはうってつけの空間だ。
「分からない」
誰に聞かれる事もない言葉はすぐに消え、やがて先生は目を閉じた。
「先生、先生。起きてください。先生」
さくらに肩を揺すられ、先生は目を覚ました。
「ああ、さくらか。……今何時頃だ」
起き上がり、先生は窓に顔を向けた。まだ青い空が広がっている。
「お昼過ぎです。まだ寝ときますか?」
「いや、もう起きる。待たせてしまったな、すまない」
「先生、どうかしたんですか? 何だか先生らしくないです。怒らないし」
さくらは心配そうに尋ねた。
「何だ、怒られたいのか」
「そういう訳じゃないんですけど」
「だったら気にするな。座れよ」
「分かりました」
テーブルを回り込み、さくらは先生の対面に腰掛けた。
一つ息を吐いてから、先生は話を切り出す。
「重要な話がある。アラタさんの幼馴染、セーラさんの事だ」
「セーラちゃんですか? もしかして紹介してほしいとか?」
「そういう話じゃ……いや」
思案するように顎に触れた先生は首を傾げ、また話し始める。
「やっぱりそういう話だ。彼女は小学校の頃に誘拐されていたらしいな。その件について詳しく聞き出してほしい」
「……難しいです。あんまり話したくない事でしょうし、聞いたらアラタさんきっと怒ります。でも、どうしてですか?」
「まだ確かな事じゃないから今は言えない。ではアラタさんに頼んでくれ。きっと僕よりもさくらの方が信用されている」
「分かりました。それとなく聞いてみます。……でも、先生が信用されてない訳じゃないと思いますよ」
「分からない、少なくとも今以上に信用を失う訳にはいかない」
昼休み、セーラはアラタとメッセージを交わしていた。
『お昼だよ~。ごはん食べてる?』
「彼氏にメール? 羨ましいやつだな!」
そのメッセージを盗み見ていた友達が後ろから声を掛けてきた。男っぽいが女友達だ。セーラは照れくさそうに笑い、否定する。
「だから彼氏じゃないってば。幼馴染」
「何で付き合わないの? 早くしないと他の子に取られちゃうよ。私とか」
「アオちゃんは好きな人いるじゃない」
女友達、アオは腕を組んでムッとした表情を浮かべた。
「でも私のは実らぬ恋だからなー。何で私女に生まれちゃったんだろう」
「あっ、ごめんね。メッセ返ってきた」
『食べたよ。簡単なものだけど。さくらはもう戻ってる?』
セーラは早速返信を打ち始める。
「同性だからって実らぬ恋とは限らないんじゃない? 思い切ってデートに誘っちゃいなよ」
「実はもう何回かデートしてて告白もしてる。そんでフラれた」
「そうなんだ……。ごめんね?」
「いいんだ。『性別なんてどうでもよくなるぐらい私を夢中にさせてみて』って言われたから。頑張るよ私は」
「うわぁ、ちかげちゃんかっこいい……! アオちゃんが夢中になるのも分かる気がする。あ、ちょっとごめんね」
セーラは再びメッセージを打ち始める。
『さくらちゃん戻ってないよ。それよりアラタくん、ちゃんと病院行った?』
「セーラみたいなリア充に私の気持ちが分かるのかね!」
「……私もいろいろ大変なんだよ?」
「もしかしてさくらの事? あいつすごいよねー。アラタいないって分かったらすぐ帰ったもんね」
「うん、なかなかあれはできないよね……。あ、メッセ返ってきた」
『仮病なのに行く訳ないじゃないか。さくらを追い帰してからずっと寝てたよ』
「あれ、どうかした?」
セーラの表情が曇ったのをアオは見逃さなかった。セーラは大げさなほどに首を振り、スマホを鞄に入れた。
「ううん。何でもない。それよりアオちゃん、さっきの最後の問題教えてくれない?」
「おう、数学なら任せろ」
翌日の朝早く、さくらはアラタの家に訪れていた。登校準備を済ませ、門から出てきたアラタは尋ねる。
「何の用だ」
「まずはおはようじゃないですか? アラタさんおはようございます! またサボられては困るのでお迎えに上がりました」
「おはよう。本当にそれだけか」
尋ねられ、さくらは人差し指を立てた。
「実はもう一つあります。おうちまで来たら登校時間もご一緒できるという算段です」
「好きにしろ」
二人は並んで駅へと歩いていく。
「突然ですが、アラタさんは将来の夢ってありますか?」
「以前は警察官僚を志していたが、今は先生の計画の成功だ」
「もう先生の事疑ってないんですね。私、嬉しいです」
「それとこれとは別問題だ。望む世界が同じだから協力している。それだけだ」
「それでもいいです。お二人が仲悪いのは嫌ですから」
そう言ってさくらは後ろ向きに歩き、再び前を向いた。
「セーラちゃんとは一緒に登校しないんですか?」
「先生と関わるようになってから時間をずらすようにした。重要な案件は同時に抱えられない。それに、俺とセーラは互いに依存し過ぎている。好ましい状態とは言えない」
「恋人同士ってそんなものでしょう?」
「付き合ってはいないと言っているだろう。俺もそうだが、セーラには早く立ち直ってほしい。そのためには自立も必要だ」
「……誘拐の件ですか」
「口にしたくもないが」
さくらは小走りにアラタの前に回り込んだ。
「つらいでしょうけど、私も知っておきたいんです。セーラちゃんの友達として」
黙り、アラタは睨むようにさくらを見た。
「……誰にも口外しないと約束できるか」
「もちろんです。アラタさんがセーラちゃんの自立を望むなら、きっと力になれます」
再び歩き始めたアラタはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「セーラが誘拐された時、彼女の両親はメンツのためにその事実をひた隠しにした。だから警察にも届けられていない。分かるか、両親が実の娘より体裁を選んだんだ」
さくらは黙ったまま、じっとアラタの目を見つめていた。
「小学五年の頃から三年間、セーラは不登校という扱いになっていた。俺が家に行っても誰にも会いたくないと言っていると言われた。幼く愚かだった俺はそれを信じてしまっていた。大人は嘘をつかないものだと思っていた」
アラタの声には後悔が滲んでいる。
「中学二年の夏にセーラが戻ってきた時、俺は大人に失望した。世界に絶望した。セーラは何も覚えていないと言っていたが、俺に会いたくないと言った事など一度もないと言った」
おずおずとさくらは尋ねる。
「あの、ちょっといいですか。それでどうしてアラタさんが誘拐だと知ってるのか分からないんですけど」
アラタは嗚咽を漏らした。目が赤く変色していた。
「……見ていたんだ。小学五年のあの夏、セーラが黒い車に乗せられて連れていかれるのを。だが、誰も信じてはくれなかった。俺の両親も、先生も、あの頃の友人も、誰も信じてはくれなかった」
震えた声でアラタは嘆き、乾いた笑いを漏らした。
「ついには俺自身すら見間違いをした気になっていた。……最低だ。確かにこの目で見ていたのに、自分でさえ信じ続けていられなかった」
「もういいです、アラタさん、もういいです。無理しないでください」
「……すまない」
アラタの顔は青ざめていた。吐き気を抑えるように手で口を覆っていた。深く息を吸い、細く長く吐いた。
その時、アラタのスマホから着信音が鳴った。非通知の表示もなく、通話着信とだけ表示されている。アラタはスマホを耳に当てた。
『僕です。アラタさん、大切なお話があります』
アラタはさくらを見遣った。さくらは悲しそうな顔をしていた。
アラタ達は学校とは逆方面の電車に乗り、人工島にある一つの工場に訪れた。そこはさくらと初めて出会った場所で、アラタがヴァンパイアへと進化させられた場所だ。
階段を上り、狭く薄暗いプレハブ小屋の中、アラタはパイプ椅子に腰掛けた。
「本当に電話では話せないような要件なんだろうな」
「はい。そしていい話ではありません」
パソコンの前に座り、アラタと向かい合う先生は慎重な面持ちで答えた。出入り口に立つさくらもまた深く沈んだ表情をしている。
「前置きはいい。話してくれ」
「今回に限っては必要です。僕の段取りで話させていただけませんか」
「なるほど、いい話ではなさそうだ」
アラタは足を組んだ。
「ありがとうございます。まず、アラタさんのスマホには盗聴機能を付けていました。お伝えしておらず申し訳ありません」
「……まずそれか。前回のパーソナル迷彩の件も自分だったと言い出すんじゃないだろうな」
「違います。僕よりももっと都合の悪い人物です」
「誰だ」
「順を追って話させてください。盗聴機能の事で僕が言いたいのは、決してさくらから伝え聞いた話ではないという事です。また、さくらはすべて僕の指示によって動いています。これらを念頭に置いてください」
「分かった。どういう話であれ、責任は先生にあるという事だな」
「さくらに責任はないという事です。……以前お伝えした通り、僕はかつての上層部によって作られた人間です。シスターも同様だと考えていましたが違いました。彼女は僕と違い、適性を持った人物を更にブーストさせるという方法が取られていたのです」
「俺と同じか」
「厳密にはもっと雑で乱暴なものですが、その通りです」
アラタは口元に手を当てた。
「シスターの正体が分かったように聞こえるが、なぜそれが悪い話なんだ」
「決して衝動的な行動に出ないよう、自制していただけますか」
「……俺の知っている人間という事か?」
「……そうです」
唸り、アラタは振り返った。
「さくら、お前か?」
沈痛な面持ちのまま、さくらは首を横に振った。
「分からないな。一体誰なんだ」
「思い当たる節はありませんか」
「ない。クイズで遊ぶつもりはないんだ。教えてくれ」
「できればアラタさん自ら答えに辿り着いて欲しかったのですが、仕方ありません。パーソナル迷彩の機能は十分に理解されていますね」
「俺を俺と認識できなくする。……それ以外にも隠しているのか?」
「いえ、それだけです。スマホの盗聴機能から過去の記録を遡りました。パーソナル迷彩が起動している以上、アラタさんはアラタさんと認識されるはずがありません。しかしただ一人、残念な事に例外がいました」
しばし黙り、アラタは口を開いた。
「……まさか、そんなはずがない」
「事実です。彼女ならあのタイミングでパーソナル迷彩を起動させる理由がある」
「そんなはずがないと言っている」
赤く目を光らせるアラタに、さくらが悲痛な声を掛ける。
「アラタさん、落ち着いてください」
「俺は冷静だ! どこかで考え方を間違えているだけだ!」
声を上げたアラタは明らかに動揺していた。
「アラタさん。非常に残念ですが事実です。シスターが組織に所属していた期間と失踪していた期間も一致します」
一息置いて、先生は残酷な真実を告げる。
「セーラさんがシスターです。間違いありません」
「そんな訳があるかッ!」
アラタは激昂し、立ち上がった。薄暗く狭い部屋の中、両の目は血のように赤く輝いていた。
「これは何かの間違いだ、お前らはどこかで計算を間違えたんだ。セーラがシスターだと? そんなはずがない、そんなはずないんだ!」
息を荒げるアラタを見上げ、先生は冷静に言う。
「では説明できますか。パーソナル迷彩が起動していたアラタさんを、ただ一人アラタさんだと認識できていたのはなぜなのか。アラタさんは疑われていたんです。あなたがヴァンパイアではないかと」
「ならあの時パーソナル迷彩は起動していなかったんだ! マナ達が間違えていただけだ! これ以上セーラを疑うのは許さん!」
「では直接尋ねてみますか。アラタさんがヴァンパイアだと明かした上で、なぜあの時アラタさんだと認識できたのか」
「やめろッ!」
固く握り締めた拳を震わせ、アラタは叫んだ。
先生が黙ったまま見つめていると、アラタは脱力したように椅子に座り、両手で頭を抱えた。
「やめてくれ、頼む、やめてくれ……」
掠れた声で懇願するアラタを見つめ、さくらは目に涙を浮かべていた。
「先生、お願いです。もうやめてください」
先生は怯えた子供のように背を丸めたアラタを見つめ、申し訳なさげに言う。
「僕もアラタさんを追い詰めたい訳ではありません。これからどうするのか、判断は任せます。今は一度お帰りください。どのような決断に至ろうとも、僕は決して否定しません」
学校へは行かず、アラタはリリのいるホテルへと向かった。
リビングにスマホを置き、寝室へと入る。リリは剣を抱きかかえていた。ソファに座り訳を話すと、リリは一笑に付した。
「いいざまだな」
剣には語らず、リリはアラタを見ていた。冷笑していた。
「俺は、どうしたらいい」
「その首、斬り落としてやろうか」
しばし黙り、俯いたアラタは口を開いた。
「そうしてくれ」
「冗談だよ。私に人は殺せない。お前と同じように」
アラタは何も応えない。
「何よりもシスターが大切なんだろう。だったら答えは簡単だ」
リリは笑う。心底楽しそうに、残酷に笑う。
「好きにしろよ。私はお前の敵だ、親身に相談に乗ってやるような都合のいい人間じゃない。自分の事は自分で決めろ。男の子だろう?」
いちいち熟考しているかのように、アラタの反応は遅い。
「……和解できないだろうか。先生とシスターが和解すれば、何の問題もない」
「甘ったるいな。甘過ぎて反吐が出るよ」
リリは鼻で笑う。
「マスターは絶対に信用してはいけない人間だ。あいつは必ず裏切る。シスターも、お前も」
「だが世界を変えたいという思いは同じなんだろう。どこかに妥協点はあるはずだ」
「あいつの理想を知っているか? 賢者による統一政治だ。言い換えればあいつが頂点に立つ世界だ。妥協点などありはしない」
返す言葉が見当たらないのか、アラタは沈黙した。
追い詰めるようにリリは告げる。
「お前は戦うしかない。あとは誰を敵に回すのか、それだけだ」
家に帰ったアラタは制服のままベッドに伏せた。スマホを見ると、セーラからのメッセージが何通も来ていた。
しばらくは目を閉じてじっとしていたが、やがて目を開き、メッセージを打ち始めた。
『俺はどうしたらいいんだろう』
数分でセーラから返信があった。
『ひきこもりはいけないよ? 何かあったの?』
『何でもない』と一度打ち、削除して目を閉じ、再び打ち始める。
『大切な話がしたい。塾が終わったら連絡して』
返信を待たず、アラタはスマホをオフにした。
風もなく、丸い月が紺色の空に浮かぶ夜更け、アラタとセーラは互いの家からほど近い公園で落ち合った。セーラは一度家に帰ったようで、制服ではなくジーンズを穿いていた。
錆びたベンチに二人は腰掛けた。頼りない外灯だけが二人を照らしている。
滑り台を見ながらセーラは言う。
「懐かしいね。昔ここでよく遊んだよね」
「何もかも懐かしい。昔に戻りたいと思う日が俺にも来るなんて思ってもいなかった」
「老け込むにはまだ早いよ」
微笑みを浮かべたまま、セーラは尋ねる。
「それで、大切な話って何かな。悩みがあるなら相談に乗るよ?」
「その前に何か暖かい飲み物でも買ってこようか」
答えないまま立ち上がろうとしたアラタの腕をセーラは掴み、小さく首を振った。
「ありがとう。でも今はいらない」
再びベンチに腰掛け、しばし黙り、アラタは重い口を開いた。
「いつから俺を疑ってたのかな」
アラタの目をじっと見つめ、セーラは短いため息をついた。
「何だ、そんな話だったんだ」
月を見上げ、セーラは言う。
「ちょっとだけ、本当にちょっとだけど、告白されちゃったりするのかなーって期待してたのにな。残念」
垂れた前髪を耳に掛け、セーラは答える。
「合格発表の日から。覚えてる? あの日、一緒にお祝いする予定だった。でもアラタくんから全然連絡なくて、家に電話したら今日から友達の家に泊まるらしいって、おばさん言ってた」
「……そうか」
「確信したのは昨日。アラタくんはずっと家にいたって言ってたけど、電話しても繋がらなかった。さくらちゃんも繋がらなかった」
遠い昔を振り返るように、セーラは語る。
「私の知ってるアラタくんは約束を破ったりしない。ばれるような嘘をついたりしない。もしそんな事があったら――それは私の知らないアラタくん」
しばし見つめ合い、アラタはセーラの手を握った。
「俺はいつだってセーラの知ってる俺だ」
「分かってる。でも、アラタくんは自分の事を俺なんて言わなかったの」
「そうか……そうだったな」
セーラは再び月を見上げ、アラタもまた見上げた。風のない夜空は時が止まっているかのようだった。
「マスターと和解できないかな。もちろん僕からも説得する、だから――」
「あの人が組織のトップに立つために何人死んだと思う?」
アラタの言葉を遮り、セーラは尋ねた。
「無理だよ。これ以上あの人の思い通りにさせちゃいけない。あの人は平和主義者なんかじゃない。世界の敵なの」
立ち上がったセーラはアラタの前に立ち、手を差し出した。
「アラタくん、お願い。一緒に世界を守って」
じっとセーラの目を見つめ、アラタは差し出された手を握った。
「俺はセーラを守りたい。そのためなら、世界だって守ろう」
立ち上がり、アラタはセーラを抱きしめた。
「……そうですか。それがアラタさんの決断ですか。残念です」
薄暗いプレハブ小屋の中、アラタのスマホから盗聴していた先生は呟いた。
「嫌ですっ! 私、アラタさんと戦いたくなんてありません!」
先生の後ろでさくらは悲痛な叫びを上げた。
「僕はアラタさんがどのような選択をしようと肯定すると約束した。わがままを言うな」
「先生、もう革命なんて諦めましょう? シスターと仲直りして、一緒に平和な世界を目指していけばいいじゃないですか!」
「何を言っている。それじゃあ僕が何のために生まれたか分からないじゃないか。理想のために犠牲になってもらった人達の死も無駄になる。第一、僕が歩み寄ってもシスターは僕を許さない」
「でも、そんなの話し合ってみなきゃ分からないじゃないですか!」
「さくら」
振り返り、先生はさくらを見つめた。
「お前まで僕を裏切るのか?」
その言葉は静かながら重く、揺るぎない。
「先生……」
「もう僕の味方はお前だけだ。頼んだよ」
通話ボタンを押し、アラタはスマホを耳に当てた。
『僕です』
「先生、話はすべて聞いていたな」
「はい。シスターと話をさせていただけますか」
耳から離し、スピーカーモードに切り替える。
「マスター、初めまして。シスター・セーラです」
『初めまして。さっそくですが、今晩決着を付けましょう。構いませんね』
「はい。場所はどこにしましょうか」
『大音高校にしましょう。必要なら迎えを用意させますが』
「結構です。マスターは来られるんですか?」
『そのつもりです。こちらには強力な盾がおりますので』
極めて事務的に進んでいく会話をアラタはじっと見守っていた。
「それでは私も向かいます。私にも頼もしい妹達がいますから」
『はい、大音高校で。ところでアラタさん』
「……何だ」
『こんな結果になってしまって残念です』
そう言って先生は通話を切った。
風のない夜、雲のない空。この夜はとても静かだった。
「アラタくん、私ちょっと着替えてくるから待っててくれる?」
「セーラ。マスターと戦うという事はさくらと戦うという事だが、分かってるよな」
「分かってる。ちゃんと戦って、また仲直りするよ」
セーラは小走りに駆けていった。残されたアラタは再びベンチに腰掛け、頭を抱えた。
「……どうしてこんな事になってしまったんだ」
後悔するにはもう遅い。アラタはもう戻れないところまで来てしまっていた。
先生とセーラのあいだには時間の約束がなかった。
見えないカウントダウンは、もう始まっている。
「時が来たよ、アルベルト」
とある高級ホテルの一室、ベッドの上でリリは呟いた。手にした剣にはリリの顔が映っている。その表情には覚悟が表れていた。
数日に及ぶ軟禁生活、彼女は狂ってなどいなかった。虎視眈々とこの時を待っていた。ついに、ようやくその時が来た。
ベッドから抜け出したリリは重たい扉を開き、リビングに出た。大きな窓から照らす明るい月明りが彼女を照らす。目を瞑り、雑念を払うように彼女は剣を振るった。
赤く燃え盛る熱のない炎がリリの身体から広がっていく。
火焔の庭――データには記載されていない、リリのとっておきの魔法だ。
リリに命じられた任務は何よりも過酷なものだった。殺されるかもしれない状況下で、あえて敵の拠点に潜む。敵の動向を逐一シスターに報告する。
一つ間違えれば死に至る。そんな命令を、正確にはシスターからのお願いを、リリはあえて志願した。
リリが本領を発揮するには距離がいる。
それはあらかじめ決められていたフェイクだ。
火焔の庭は距離を必要としない。リリの一挙手一投足が加速に繋がり、剣の威力に直結する。
しかし、だからこそ危険な任務を引き受けた訳ではない。
剣は奪われる前提だった。手元に戻ってきたのは偶然だ。リリの決意の拠り所は切り札ありきなどという安いものではない。
悪魔が、ヴァンパイアがアラタなら、決して殺される事はない。
シスターの言葉をリリは信じた。疑う余地がない訳ではなかった。シスターでさえあの時は確信がなかったのだ。
それでもリリは信じる事にした。従う事にした。
人を殺す事はおろか傷付ける事すらままならない魔法少女は、誰よりも信頼を置く相棒、アルベルトに尋ねた。
答えはすぐに導き出された。
魔法少女の力は人を殺めるためにあるのではない。
己が正義を貫き通すためにあるのだ。
迷いはなかった。
最も強く、最も優しい魔法少女は再び剣を振るう。
それだけで大きな窓が粉々に砕け散った。
時は来た。
覚悟はとっくに決めている。
長く延びた火焔の路は他の誰のためでもない。
己が正義を貫き通す。それを証明せしめるための路だ。